滅私奉公/2
認識を変えるということは一旦置いておき、私は現行システムについて聞こうとした。しかし猪狩は「その前に」と一枚の誓約書を私に渡してきた。
「書類関係は入場前に記入したはずですが……」
それを受け取ったものの、私は怪訝にその書類を見やる。
「一つ足りないものがありまして、すみません」
その内容は見慣れたものだった。簡単に纏めるのなら、〝ここで見聞きした情報は口外しない〟というものだ。
「やはり見慣れたものだと思うのですが……」
「はい。大事なのはここに書かれていることでして」
彼が指差したのは、〝患者との交流について〟と書かれている項目だ。
確かに、これには見覚えがない。
「入場前に書いていただいたのは一般的なもので、今回はうちの病院用のものです」
「あぁなるほど。サインとしゃちはただけでよろしいですか?」
「あ、はい」
項目も多くはないので、ざっと目を通してみる。
他の現場でもこういったものは確かにあったが、天音病院の書類は他のでは見たことのないものだった。
多くの病院では、〝患者のプライバシー〟について言及するものが多かったが、ここは〝患者との付き合い方〟について重点が置かれているように思える(勿論、プライバシーに関するものも記載されているが)。
特に目を引いたのが、〝患者に声をかけられた場合、無視をしないこと〟であった。
「無視をしない、ですか」
「えぇーっと、これは、その、あの……うちの院長がこだわっておりまして」
珍しいですよね、などと付け加えながら猪狩は頬を掻いた。
人の良さそうな院長だからかもしれないが、これを誓約書に記載するのはどうかと思う。
「まぁ、良いのですが……」
署名欄に名前としゃちはたを押し、それを猪狩に渡す。
「ありがとうございます。それとこれを」
誓約書の代わりとでも言うように、猪狩は名札と赤い腕章を私に渡す。
名札はよくあるものだが、腕章には〝非医療従事者〟と白字で大きく書かれている。
「勘違いされてしまう方もいらっしゃるもので。院内にいるときは外さないようにお願いします」
「わかりました」
その腕章を付け、さてパソコンをと思ったのだが、今度は「院内をご案内します」などと猪狩は言った。
「……お願いします」
母が入院していたので多少のことは知っていたのだが、好意は受けとることにした。
十数分、私と猪狩は院内を見て回り、また三階のナースステーションに戻ってきた。
もう始業から一時間以上も経過しているため、ナースステーションの看護師の数はまばらになっている。
「では、システムについて説明をしま……」
ようやくかと内心嘆息し、椅子に座ったその矢先の出来事だった。
「あ、ホントに久城さんがいる!」
聞き覚えのある朗らかな声が、私の名を呼んだ。
「ねぇねぇ猪狩さん、久城さんと何してるの?」
彼女……天音美星は、誰に確認を取るでもなくナースステーションの戸を開け侵入してきた。
「やぁ美星ちゃん。これからお仕事の話をするところなんだよ」
猪狩はにっこりと笑みを浮かべながら言って、彼女の前で片膝をついて視線を合わせた。
「私も聞いていい?」
「あー……それはちょっと。他の人の話もたくさんすることになるからね」
「プライバシーの保護、でしたっけ?」
「そうそれ」
いくら院長の孫娘とはいえ、ナースステーションに入るということを咎めないのか。
「久城さんは何をするの?」
私は細く息を吐いて、目頭をぎゅっと押さえる。
「久城さん?」
再度呼び掛けられ、私は椅子に座ったまま彼女に向き直る。
「何をする、というと説明しづらいけど、まぁパソコンでの調べ物だね」
「パソコン? そう言えば前もそう言ってましたね。やっぱり頭が良いんですね、久城さんは」
この情報化社会で、この子は何を言っているんだろう。今やパソコンなんて誰でも触るだろうに。
「凄くないよ、全然。少し他の人よりも詳しいだけさ……あぁいや、これも前に話したっけ?」
「それでも凄いですよ!」
誓約書に〝患者に声をかけられた場合、無視をしないこと〟と書かれていたのは、もしかしたらこの子のためなのではと邪推してしまう。
「さ、美星ちゃん。病室に戻ろうか?」
猪狩が見かねて言ってくれた。
「はーい……」
ぶすりと不機嫌そうに彼女は言うと、口を尖らせて去って行った。
「すみません。美星ちゃんは院内を散歩するのが趣味でして……これからもまた何度か話しかけられと思いますが」
「えぇ。誓約書にもサインしましたし、無視をするつもりはありませんよ」
「良かった」
心底安堵したような表情を猪狩は浮かべた。
それが、私にはとても違和感があった。しかし、その違和感の正体をすぐには掴むことは出来なかったため、一旦無視することにした。
スクリーンセイバーが表示されているパソコンのマウスを適当に動かして、ログイン画面を表示させる。
「まずはログインパスワードを教えてもらっても?」
「はい」
猪狩は私の隣にある丸椅子に座り、キーボードを叩いた。
「AMANE0304.創立された年か何かですか?」
「あぁいえ。美星ちゃんの誕生日ですよ」
院長の天音氏は相当あの孫娘に甘いようだ。仕事道具にまで彼女の存在を強調してくるとは。
「それで、使われているシステムは……」
「これになります」
デスクトップに置いてあるエクセルファイルを実行すると、昔懐かしいオフィスが起動した。
「いやはや、本当に懐かしいですね。2003は久しぶりに拝見しました」
「そうかもしれませんね。今はえっと……?」
「確か最新は2016ですよ。これは中々調べるのに時間がかかりそうです」
表示されたエクセルの中身を確認する。
「勤務表に……似ていますが?」
「はい。というより日報ですね」
猪狩はそのシステム……と呼べなくもないエクセルの説明をしてくれた。
これは主に各階にいる看護師たちの日報として機能しており、表示されているボタンを押すことで、各階で入力された日報がこの階のプリンタから印刷されるようだ(あくまでも予想である)。
各階のパソコンは同じワークグループに属しており、この三階のパソコンに保存されているデータを一階、二階、そして四階のパソコンが見に来ているようだ。
また、この日報システム(私としてはシステムと呼称したくないが)とは別のファイルに看護師の出勤データが記載されており、この日報システムがそのデータを見に行っている。
「日報は……あぁ、別シートに記載するのですか」
シートにはこの日報システムに始まり、各看護師の名前がずらりと記入されていた。日報システムのすぐ隣には、看護師長である宮前の名前があり、その三つ隣に猪狩の名前があった。
「見てもよろしいですか?」
「はい。ただ私のにしてください」
「えぇ。他の人のを見て恨み言を言われてはたまったものではないですから。特に宮前さんのはね」
互いに短く笑う。どうやら猪狩は冗談はわかるようで、少し安心した。
猪狩の日報を見てみると、それはどこにでもある日報だった。今日誰々が危篤になったやら、患者の健康管理に関わる重要事項等が赤字になっていたりやら……わざわざこんな古いエクセルでやるべきものなのかと感じてしまう。
「これを入力して一番目のシートに書いている印刷ボタンを押すと、プリンタから印刷されるんです」
なるほど、やはり予想通りか。
「そうなんですか。試しに印刷しても?」
「あ、いえ、それはやめてください」
「はい?」
「そのボタンを押すと全員分ここのプリンタから印刷されてしまうんです。ですから、当直の看護師が零時頃にまとめて印刷するというのがルールみたくなっていまして」
なんと回りくどい上に無駄なのだろうか。
「わかりました。他には何かルールのようなものはありますか?」
「えっと……あぁ、十七時ぐらいに日勤の人が書き始めるので、そのシートの順通りに優先されます」
なるほど。これは優先順位でもあったわけか。そしてあの宮前とかいう看護師長が最優先される、と。
「他のパソコンは何に使われているのですか?」
大体の使い方はわかったので、あとはソースを読み取るだけだ。そのため、私は兼ねてからの疑問を彼に投げかける。
このナースステーションには、看護師の数よりは少ないがノートパソコンがセキュリティワイヤーに繋げられている。母が入院しているときに画面をちらりとは見たことがあるが、確かWindows 10だったはず。
「そっちのパソコンは電子カルテを見たり、調べ物だったり発注品だったりを見たり……まぁ色々するやつですね」
「……そっちのパソコンでこれは動くのでは?」
「私もそれを言ったんですが……院長が余計なものをパソコンに入れたくないとのことで却下されたんです」
いや、余計ではないだろう。
「でもさすがにこいつは古いし、それに最近はセキュリティに関してもよくニュースで見るとのことで、決断されたみたいです」
その決断はもっと……具体的に言うならWindows 7が出たあたりでしておくべきだったろうに。このような化石を使っているから余計な金がかかるというのに。
「わかりました。とにかく今日一日はこれがどう動くのかを調べます。その後、皆さんがどう使っているかや、マイナールールと言いますか、そういうのも聞かせていただきますね」
「はい」
「お忙しい中ありがとうございました」
私が彼に一礼すると、「いえこちらこそ」と礼を返した。
「今日は私がここにいますので、何かあったら声をかけてください」
そしてパソコンが置かれている自席に戻ると、彼は慣れた手つきでそのパソコンを起動して何かし始めた。
その様子を見て、何故ここの病院はこのシステムにこだわっているのかが、余計にわからなくなった。
まぁしかし。こういった所があるから私達は食い扶持を繋げる訳でもあるので。
「さて、スパゲティでも眺めることにしますか」
小声で呟くと、私は早速このVBAのソースコードを開く。
「食堂のスパゲティですか? もう食べに行きます?」
そんな呟きは、猪狩には聞こえてしまったらしい。
「あぁいえ、業界の隠語ですよ」
「それは失礼しました」
客先は本当に面倒だと、私は猪狩にばれないようにこっそりとため息をついた。
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