第二章 仕事と私事と悩み事と
滅私奉公/1
天音美星は、車椅子のまま私に近付いてきた。そんな様子に私だけではなく、川嶋や院長である天音氏も驚いていた。
「また会えるなんてびっくりです!」
天音美星はそんなことを言ったが、それはこちらの台詞である。
「……久城さんは美星と面識がおありで?」
にっこりと微笑む天音氏だったが、その目付きは何かを見定めるような険しいものであった。
「えぇ。以前母が亡くなったときにお会いしまして」
何とか言葉を捻り出したものの、それでも天音氏の険しい目付きは変わらない。
「私を連れ出してくれたのよ、久城さんは」
さすがの川嶋も、彼女のこの発言には一度咳払いをして、私を見た。
「違います、連れ出したのではありません。病室に戻したんです。病室から出たのは君一人で、だ。頼むから誤解を招くような言い方はよしてくれ……」
ずきりと頭が傷んだ。
どうしてこの子は、私が病室から連れ出したと言いだかるのだろうか。
「そうだったかしら?」
ふふ、と柔らかく笑う彼女の顔は、やはり悪戯心に満ちていた。私はため息をついて、目頭を押さえる。
「ねぇおじいちゃん、久城さんとお茶したいの。お願い、良いでしょ?」
天音氏は私と川嶋の顔を交互に見て、「良いですか?」と言った。さすがに可愛い孫娘の頼みを無下に断ることはできないのだろう。
「私はかまいませんよ。久城もいいよな?」
「えぇ、よろしくお願いします」
ここで下手に断ってしまっては、天音氏の機嫌を損ねかねない。むしろ茶でも飲みながら、ちゃんと彼女との出会いを話すべきだと思った。
このままでは、クライアントの孫娘に手を出したなどと思われ、私の今後だけではなく会社の今後にも関わってしまう。
「やった! じゃあ早速おばあちゃんに準備してもらうね!」
そして彼女は院長室を後にした。
残された私達だったが、すぐに天音氏が口を開いた。気まずい沈黙が流れなかったのは幸いだ。
「久城さんのお母様は当病院にご入院を?」
「えぇ、まぁ……」
「お亡くりになった、と仰っていましたが……」
「えぇ。肺気腫で」
「そうですか……」
沈黙よりはマシだが、母の話が出た時点でこういった雰囲気になるとはわかっていた。出来ることなら別の話題に移りたかったが、今の私に、話題を探れる程の冷静な思考はできなかった。
「しかし、うちの孫娘がとんだご無礼を。お母様が亡くなったというのに、心情をお察しもできなかったようで」
「いいえ、彼女には関係ないことでしたので」
言って、しまったと思う。
「失礼、少し刺のある言い方でした。他意はありませんので」
「いえいえ、私も込み入ったことをお聞きして申し訳ない」
天音氏はそう言ってくれたが、どこまでが本意なのかはわかりかねる。
こういった権力のある相手は、ある日急に敵意を剥き出しにしてくることもあるので厄介だ。
ちらりと川嶋を見ると、珍しく額に汗を浮かべていた。彼がその汗を拭こうと、ハンカチを取り出すときに私と目が合った。川嶋は眉尻を下げて、肩を僅かに竦めた。
これは後で何だかんだと言われるだろう。
控え目なノックが二度すると、院長室のドアが開いた。
「お邪魔しますね」
洒落た木製のティーワゴンを押して、天音婦人と思われる女性と美星が一緒に部屋に入ってきた。
「お手伝いしますよ」
一番若年者である私が立ち上がり一歩踏み出したが。
「駄目よ、久城さん達はお客様だもの」
美星は頬をぷくりと膨らませながら言って、「ね、おばあちゃん?」と天音婦人に確認するように微笑んだ。
「ごめんなさいね。美星が知ってるお客様なんてあまり来ないから。ご迷惑はおかけしませんので、彼女に任せてやってくれませんか?」
今のこの状況が私にとっては十分迷惑なのだが……とはさすがに口が裂けても言えない。
「はぁ……わかりました」
私はまた座って細く息を吐き出した。
そして川嶋と同じようにハンカチで汗を拭いて、美星と天音婦人を横目で見る。
美星は婦人に見守られる中、楽しそうに紅茶を淹れている。ティーカップにそれが注がれると、ふわりと香りが部屋中に広がった。
粉末のような人工的なものではなく、だからと言って安物のティーバッグとも違う香りだった。
「どうぞ」
美星はまず私にティーカップを渡してくれたのだが、私はそれを川嶋に渡した。
「それは久城さんのです!」
言われて川嶋は短く笑う。
「だってよ。今は先輩後輩とか気にしなくていいぜ?」
そして川嶋は私にまたそのカップを返した。私はそれを受け取ると、美星を見て「ありがとう」と口にする。
「今日のは自信作です」
美星はその後、川嶋、天音氏、そして天音婦人にそれぞれ紅茶を淹れながら私に言った。
私は早速その紅茶を一口いただいたのだが……これがまた、美味かった。味は言わずもがなだが、香りが喉を通るときに体全身に広がり、飲み終えた後にまた違う香りが鼻を通る。普段は紅茶よりもコーヒーをよく飲む私だが、もしも毎日これが飲めるのなら、紅茶党になっても良いと思えるほどだ。
「美味しいですね」
感想は自然と口に出てしまった。
「あぁ、こりゃあ確かに美味い。上等な茶葉か……それとも美星さんの淹れ方が上手いのかな?」
川嶋は感想を述べるだけでなく、ちゃんと相手を褒めるような一言を付け足していた。
「ははは。誉めていただきありがとうございます。茶葉は確かに少し良いものですが、妻も美星も紅茶を淹れるのが上手なものでね。きっとそれが一番の理由でしょう」
照れながら天音氏はそう言うが、その顔には誇らしさが垣間見える。きっと、彼女らが淹れる紅茶のファンなのだろう。
「そうでしょう!? 私、紅茶を淹れるのとっても得意なんですよ!」
両頬に両手を当てるその仕草はあざといのだが、彼女がやるとどうも狙っているとかそういうのではなく、天然でやっているようにも思える。
私は紅茶の香りを愉しむとまた口に含む。
やはり、美味い。
「気に入ってくれましたか?」
美星は私を見て小首を傾げた。
「とても美味しいよ。高価な茶葉でなければ分けていただきたい程だ」
私は彼女に微笑みを返し、カップを上げる。
「久城さんはお仕事で来られたんですか?」
その笑顔のまま、美星は私に問いかけた。私は天音氏に目を向けると、彼は「かまわないよ」とでも言うように肩を竦めた。
「うん。君のおじい様のご依頼でね」
「どんなお仕事なんですか?」
また私は天音氏を見た。さすがに天音氏も困ったように微笑んでおり、さてどうしたものかと彼は川嶋を見た。私も天音氏に釣られて川嶋を見たのだが、彼の表情は全然気にしていないように見えた。
おそらく、話しても問題ないと彼は判断しているのだろう。これには私も同じく思っており、重要な機密事項さえ話さなければ問題ないだろう。
「パソコン関係でね」
「パソコン、ですか。私、機械は全然わからないです……」
彼女ぐらいの年齢ならばそれも当然か。
「勉強すれば誰でも……というのは、私の立場で言うことではないか」
苦笑すると、天音夫妻や川嶋も短く笑った。
「そうだな。お前が言っちゃ元も子もないな」
場が和むと、美星は嬉しそうに質問を何度も繰り返してきた。
学校はどこに通っていたのか、仕事にしようと決めたのは何時からなのか、何故そう決めたのか、それは夢だったのか……。
私は一つずつ考え、確かに答えていく。彼女はそれに頷きながら適度に相槌も打ってくれた。
「久城さんは魔法使いみたいですね」
そして彼女は最後に、儚そうに口にする。私もそれを見逃すほど、子供ではない。
「どうか、したのかい?」
「あ、いいえ。久城さんが本当の魔法使いだったら、かぼちゃの馬車でも作ってもらったのにとか考えたんです」
誤魔化すように笑う彼女に、私も川嶋も首を捻った。
「おや、もうこんな時間だ。美星、病室に戻りなさい」
「はーい」
天音氏が言うと、天音婦人と美星はティーセットを手際よく片付け、院長室を後にした。
「すみません、話好きの孫娘で」
「いえいえ、私達もあんな若い子と話せて楽しかったですよ。な、久城?」
「えぇ。あ、ところで……一応弁明しておきますが、私が彼女を病室から連れ出したということはありませんので……」
「ははは。いやいや、気にしなくて結構。そのようなことはないと思っておりますので。ただ少し、あれが貴方によく懐いていたもので、どうしてかと思っただけですよ」
天音氏はそう言うが、あの目は絶対にそれだけではないはずだ。弁明しておいて正解だった。
「まぁ常識は弁えてる奴なんで、もしものことなんてありませんよ」
川嶋がまた額の汗を拭いながらそう言って、再度机の上に資料を広げた。
「さて、お時間ももうあまりないでしょうし、続きを始めませんか?」
川嶋の目は、鋭い営業の目になっていた。
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