第一章 別れとの再会

再会/1

 父が亡くなってから間もなく一年が経とうとした、三月の終わり頃。母が危篤だと連絡を受けたのは、職場が昼休みに入っていた時だった。


 私のスマートフォンは知らぬ間に充電がなくなっており、緊急連絡先の職場に病院から電話が来たのだ。


 電話先の看護師の声は固く重かった。


 元より母は体が弱く、床に伏せがちな人だった。特に呼吸器関係が弱く入退院を繰り返していたのだが、父の死を切欠にしてそれはより悪化した。


 私はすぐに上司へ事情を話し、職場を後にした。タクシーを呼んですぐに病院に向かったものの、到着した時には既に母は目を瞑っており、もうその瞼を開けることはなかった。


 私は細く息を吐き出して、医者へと頭を下げた。


 そしてこれからの葬儀のことや必要な資料の件に関して一通り説明を受けた。


 それらが片付く頃に、私は院外にある喫煙所で腰を落ち着けて、ようやく自分の今の気持ちと向き合うことが出来た。


 不思議と悲しみは沸き上がってこないようだった。それよりもこれからの葬儀のことや会社への忌引休暇、現在の仕事の進行状況が気にかかり、頭が痛くなった。幸いにも仕事に関して今は落ち着いているため、大きな問題はないのだが。


 親の死よりも仕事のことを優先して考えているそんな自分に、親不孝なものだと苦笑して煙を空へと吐き出した。


 その時に見えた空は朱に染まっていた。


「おじさん」


 ふと朗らかな声がした。


 その声の主を探すように首を動かすと、美しい少女がいた。


 車椅子に座っている少女は薄桃色の寝巻きを身に付け、長く艶やかな黒髪を揺らし微笑みを私に向けていた。


「不躾で申し訳ありませんが、私を病室まで戻してくださいませんか?」


 ぽろりと、煙草の灰が落ちる。私は他に誰かいないかと目線を泳がせたものの、私とこの少女以外喫煙所には誰もいなかった。


「おじさんにお願いしています」


 再度私に声をかけた少女は、困ったように眉尻を下げている。


「ご両親はいないのかい?」

「いません」

「それじゃあ、ここに一人で来たのかい?」

「はい」


 とりあえず煙草を灰皿に捨てると、少女と同じ目線になるよう片膝を付いた。


「看護師さんは?」

「一人で来たって言ったでしょう?」


 おかしな人ね、と少女は付け足し口元を隠して笑った。


 少女は一頻り笑うと「いいですか?」とまた私に問いかける。


 正直深く関わりたくはなかったが、送るだけならばと仕方なく首肯する。


「ありがとうございます」


 花が咲いたような笑顔とはこのことを言うのだろう。


 けれどそれは余りにも儚い氷の花のようだった。少し触れてしまえば壊れてしまいそうで、だからといって見つめているだけでは溶けてしまう。そんなような花の笑み。


 もしかしたら病院にいるという状況だからそう思ったのかもしれないが、しかしこの表現が正しく思えた。


「どうかしましたか?」

「あ、いや、何でもないよ。病室は?」

「三〇三です」

「わかった」


 私は少女の背後に回ると手押しハンドルを握り、ゆっくりと押し出した。


 母の見舞いに来たときもこうして押していたなと思い出す。母を亡くしてすぐに思い出すことになるとは思わなかった……というのは、違う。亡くしてすぐだからこそ、こんな風に思い出せたのかもしれない。


「おじさん、泣いてますか?」

「え?」


 私はハンドルから手を離してすぐに自分の目と頬に手を当てた。別に涙を流していた様子はない。


「いや、泣いてないね」

「そうですか」


 平坦な声のまま少女はそう答えるのだが、私の視界から見えるつむじが僅かに左右に揺れた。


「見えないと何もわからないですね」

「そうだね。見えないと何もわからないね」


 エレベーターの前に立ってボタンを押そうとしたのだが、少女は私の手を掴み、それを制止した。


「おじさん、名前は何て言うんですか?」


 黒曜に瞬くその瞳が私をしっかりと捉える。


「……先に言っておくよ、私は二十八だ。まだおじさんじゃあ……」

「私より一回りも上じゃないですか」


 くすくすと笑いながらそんなことを言う。


 一回り、という意味を知っている前提で考えると、この少女……いいや彼女は十六ということだろう。確かに、十六の子から見たら私はさぞや年寄りに見えるかもしれない。


 しかし、この子はもう少し幼く……十三、四くらいに見えていたのだが、私の目も当てにならないものだ。


「今、やらしいこと考えたでしょう? 見ていたからわかりますよ」

「……いいや、微塵も考えてないよ」


 この子は当てずっぽうで適当なことばかり言う。泣いているなんて言ったり、今みたく私が彼女をやらしい目で見ていると言ったり。


 それはきっとこの年頃特有の、年上をからかいたくなるような悪戯心からかもしれない。


 私は内心面倒な子に絡まれたと思いつつ、今度こそエレベーターのボタンを押した。


「おじさん、名前は?」

久城真治くしろしんじだよ」

「くしろさん、ですか。漢字はどう書くのですか?」

「久しい城で、久城だ」


 エレベーターのドアが開く。中には看護師が二人いて、私達を見ると大きく目を見開き「いた!」と声を張り上げていた。


美星みほしちゃん、どうして勝手に抜け出したの!?」


 私のことなど見えないかのように、二人の看護師は彼女に駆け寄った。


「ごめんなさい」


 私から彼女の顔は見えないが、何となく舌をちろりと出して言っている気がした。


「ちょっとお外に出たくて。おじさんにお願いしたの」


 そんな彼女の言葉に、看護師は仇でも見るかのように私を睨み付けた。


「言葉が抜けているよ。外に出たのは君一人で、だ。病室に戻るのを手伝ってほしいと言われたから、私は今君の車椅子を押している。正しく伝えてくれ」

「そうでしたっけ?」


 彼女は私に振り向いて笑顔を向けた。


「そうだよ。では、彼女のことは任せました」


 私はハンドルから手を離すと、看護師らに軽く頭を下げる。そしてエレベーターとは反対にある階段に足を向けたのだが。


「ちょっと待ってください。あなたは美星ちゃんを病院に連れてって」

「はい」


 一人の看護師が私の腕を掴みながら、もう一人の看護師にそう言った。


「ばいばい、久城さん。またね」


 彼女はエレベーターに乗ると私に手を振った。


 エレベーターのドアが完全に閉まると、看護師は私の腕を離したがその目は先程から変わらず険しい。


「あなた、お名前は?」

「まずはあなたからどうぞ? ここの病院から見たら私は客ですよ?」


 高圧的な態度に多少なりとも苛ついてしまい、刺々しく看護師に言葉を返した。


「看護師長の宮前みやまえです」

「久城です」


 少しの間の後。


「あの子……美星ちゃんは何か言ってましたか?」

「私を病室に戻してくれませんか、とは言ってましたよ。一人で喫煙所にいたので、仕方なくここまで押して来たんです」

「そうですか……それと、先程は失礼しました」

「はは。では、私はここで。まだ母の件で話さないといけないこともあるので」


 私は大きくため息をついて、階段へと足を進めた。

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