彼女の青空と、私の雨空

南多 鏡

第零章 その青空と夕暮れと星空は

私は雨の中、彼女と青空の下で会う

 雨の中、私は傘を差して立っていた。


 そこは彼女と出会った病院の屋上で、遠くに見える海は黒く暗い。


 イヤホンマイクのマイク部分を抑えて咳ばらいをしてすぐに。


「もしもし」


 彼女に声をかける。僅かな間の後に、声が返ってきた。


『もしもし?』


 澄んだ朗らかな声。思わず笑みがこぼれてしまった。


『何を笑ってるんですか?』

「ごめんよ。気分を悪くしたかな?」

『いえ、そういうつもりで言ったわけではないです……』


 私は視線の先にある黒い海を見た。風が強いのだろう。波の陰影がはっきりと見えている。


「こっちは雨だ。そっちは?」

『晴天です。とっても綺麗な、雲一つない青い空ですよ』

「そっか。うん、やっぱり私も君も同じものを見ていることになるね」

『雨なのに?』

「そうだよ、雨だから」

『雨ってどんな感じなんですか?』

「……雨にはいくつか種類がある」


 私は傘を捨てて、全身でその雨を浴びる。


「聞こえるかい? この雨の音が」

『よく聞こえます。この雨はどんな種類なのですか?』


 いつも通りの彼女の声に、私は涙を零しそうになったものの、それを堪えた。


「そうだね、これは……別れの雨だ」


 そう。これは別れの雨だ。


 雨は温かくも優しく私の体を打ち、僅かに胸にある後悔らしき思いを流してくれているから。


『そうなんですか……これは別れの雨なんですね』


 彼女は私の言葉に納得し、きっと微笑んだと思う。


 私が何度も、何度も何度も見たことのある、何もかもを諦めたその微笑みを浮かべていたに違いない。


『私……』


 声色に、僅かに緊張が混じる。


『私、ちゃんと考えたの』

「うん」


 なるだけ平静を装ってみたが、上手くいったかどうかは全くわからない。


 あぁでも、彼女はとても聡い子だ。私のこの行動の真意にすら気付いているだろう。


『お願いです、私を殺してください』


 〝殺して〟という言葉を、歳が二十にも達していない少女から発せられる。でも私はそれを受け入れることができた。


 彼女の人生を……これからのことを想うのなら、生きるということこそ地獄になり得るのだから。


「うん。わかった」

『ありがとう、ございます』


 雨が強くなり始めた。


 その別れの雨を全身で受け止めていると、私は目頭が熱くなるのを感じた。


「少し……」


 言葉が上手く出なかった。


『はい?』


 一つ、大きく息を吸い込んだ私は。


「少し、泣いても良いかな?」


 彼女にそう問いかける。


『……はい』


 彼女のその一言に、私は涙を流した。


 これは私のための涙だ。誰かのために流すものではない。


 辛くて泣くわけではない。悲しくて泣くわけではない。哀れんで泣くわけではない。


 たった一人の少女すら救えない、無力な自分を慰めるため……私は涙を流すのだ。


 そして……八月三十一日。日本時間、十五時二十四分十一秒〇七。日本のあらゆるネットワークは、静止した。


――そうです。八月三十一日の十五時二十四分。間違い、有りません。

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