第18話 箱舟と気まぐれな神様

 試しに思い切り腕をつねってみる。それこそ思い切り。皮膚を割いて血が出てもいいから、俺は正真正銘の現実を生きている確証が欲しかった。実感が欲しかった。


 自分の存在が希薄になっていくのを感じる。今まで辛うじて保たれていた理性が、ガラガラと崩れていく……。正直、ここにきてこれは辛い。ルーティン作業にイレギュラーが混ざったら誰だって戸惑うだろう?


「いったい……ここはなんなんだ?」喉が焼け付くようだ。ごくりと唾を飲み込む。「わけがわからないな、こりゃ」


 ひとまず見慣れた部屋を出て、見慣れた廊下に立つ。結論を言うと、ここは先程までいたBの扉の先と全く同じフロアだ。


 わかりやすく十字を書いて例えるなら、金属製の扉を上にして十字を書いたとき、先程までいたBの扉の先のフロアは十字の下に位置していたはずだ。そして例のブザーが鳴って、金属製の扉がある部屋に移動して今度は十字の左の扉が開いた。その先には、見慣れた寝室があるフロア。


 答えは一つだ……俺は心の中でつぶやく。


「これが……トリックなのか?」


 それに伴って、様々な疑問が溢れてきていつしか思考が猛スピードで頭を駆け巡る。そうしていると希薄だった自分の存在が、明確な輪郭を取り戻してゆく。


「ふっふふ、やっべ……たのし」


 あはは。何故俺は書斎からカードリーダーがある書斎によく似た部屋に来たかだって? 簡単だよそんなの、手錠で拘束されていたから。身動きが取れなかったからこそ、俺は部屋に閉じ込められた。つまり……ブザーが鳴った後も部屋の中に留まればいい。


 危険かもしれないと却下された意見だが、それが正しかったのだ。


「みんなに……ふたりにつたえないとな」


 もうちょっとだぞってな。


 もう少しで出れるぞってな。


 文也君、どんな顔するか見ものだな。


 美輪ちゃんの驚いた声がどれだけハイトーンか楽しみだな。


「俺のこと、おぼえているよなあ?」


 こんな状況で会ったんだから、忘れる訳ない。なあ、そうだよな?


 どうしてこんなにさみしいんだ? どうしてだれもいないんだ?


 でも大丈夫。きっと大丈夫。この部屋が、俺たちを導いてくれる。


 そう、この部屋は箱舟だったんだ。俺たちを『希望』という日常に運んでくれる、唯一無二の神からの贈り物。今はただ、出口に鍵がかかっている。神は本当に気まぐれだ……。俺が望むものは、何気ない日常だ。そんな日常を、返してくれよ?


『これは試練です』

「は?」

『貴方は本当に日常に戻りたいと思いますか?』

「そんなの、そんなこと……あたりまえだろ」

『本当に……心からそう思うのでしたら、残る鍵を探すのです……』

「ふふふ……ふっふふ、ほんとうに、あなたは気まぐれだ」


『そう。気まぐれです』ブーーーーーーーーブーーーーーーーーブーーーーーーーー。


『貴方が生きる現実は、本当に気まぐれです。だから、気を付けて』


 ブザーが鳴って扉が閉まる。さあ、箱舟よ。俺をみんなのもとに連れて行ってくれ。


『いつ、貴方に牙を向くかわかりません。それでも、ホントウニ』


 みんなで帰るんだ! 『希望』に満ちた世界に!


アナタハイキテイタイトオモイマスカあなたはいきていたいとおもいますか?』

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