黎明(れいめい)
――一か月前に東方の国からこの国に参りました、ゼノンと申します。
当時まだ九歳の幼いプシュケの目線に合わせるように、跪いて微笑む端整な顔立ちの青年。歳は八つ上だと言う。このゼノンと名乗る青年が一か月前まで住んでいた国は、プシュケが住む国の
――今日まで一度もお目にかかったことはありませんが、
突然ゼノンは口を噤んだ。瞬刻躊躇いを見せてから、言い改める。
――僕は、血筋としては姫様の従兄になります。
一人称をわざわざ幼いプシュケに合わせて言い換えた。身分に合わせるか、年齢に合わせるかで迷ったのだろう。この時、ゼノンが何故身分ではなく、年齢に合わせたのか理由がよく分からなかった。今から思えば、今後プシュケと接触する機会が多くなることを見越してのことだろう。実際この出会いの後、彼はプシュケの教育係として毎日顔を合わせることになる。
――父も母も兄もあの国で死にました。一緒に逃げていた弟も、手引きをしてくれた乳母も、この国に着くまでの道中で殺されました。国まではあと少しだったので、なんとかたどり着けしたが、あの時死んでいてもおかしくなかったですね……。あそこで死んでやる気は、さらさらなかったとはいえ、我が身を守ることで手いっぱいで、弟も乳母も助けることはできず……。
その時の状況を思い出したのか、彼は青ざめた顔で俯いた。少しした後、再び顔を上げた彼の顔は、笑っているのに、泣きそうに眉が下がっていた。
――我が身を犠牲にしてでも守ることができれば、こんな気分にはならなかったでしょうね。
彼はここにたどり着くまでに、我が身以外の大事なものを沢山失ったようだ。
――今となっては没落王家の人間で、貴女のお父上の温情で匿って頂いて生きながらえている身……。王女であり、
プシュケはこの国の王の娘であり、第三王女。先にゼノンが「従兄」と述べていたことからも分かる通り、彼はプシュケの父の姉の息子なのだ。
――今の僕は、王族でも、貴女の従兄でもなく、しがない
彼はこの国の
プシュケは何を言えばいいのか分からないながらも、彼の両親に対する弔いの言葉を述べた。ゼノンはプシュケの発言に少し困った顔をした後、フッと笑い、首をゆっくり横に振った。
――姫様。国民のために血を流すことが、僕の両親の仕事だったんですよ。必ずではありませんが、王家の者が死ねば、国民の命は奪われずに済みますから。
ああそうか……。
いつか私も
「姫様」
男性の声がする。おかしい。私を起こしに来るのは、カニーディアという女性のはずだ。私はまだ夢の中にいるに違いない。
プシュケは寝返りをうって、掛け布団を鼻の下まで引っ張り上げた。声の主は溜め息を吐く。
「姫様。そろそろ起きませんと、礼拝に間に合いませんよ?」
しつこい。夢の中くらい、ゆっくり寝かしてほしい。
また溜め息。声の主が移動する足音。プシュケの近くで足音が止まる。衣擦れの音が一瞬聞こえた。
「ひーめーさーまっ」
思っていたよりも声が近くて驚いた。目を開けると、身を屈めたゼノンが呆れた顔でプシュケを見ていた。
「……何? 朝?」
何故ゼノンが起こしに来ているのか、まだ夢なのか、寝起きの頭では現状を把握しきれなかった。ゼノンはプシュケの目覚めに、朝の空気のような爽やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます、姫様」
プシュケの今の年齢は十八歳。ゼノンは教育係ではなくなり、今は王の
「どうしてゼノンが起こしにきているの? カニーディアは?」
プシュケは上半身を起こした。起きて間もないため、頭がクラクラする。ゼノンも屈めていた身を起こす。
「カニーディアはお
まただ。
こういったことは一度や二度のことではない。確かに、初めの数日は女性の奴隷か、カニーディアのような使用人がプシュケを起こしに来るのだが、数日をすぎると何故か突然に王宮を出ていき、代りにゼノンが起こしに来るのだ。今までは、女性の奴隷に起こしにこさせていたため、今度は良家の女性をプシュケの目覚ましのためだけに使用人という形で雇ったのだが、また同じ結果だ。
頭のふらつきが収まらず、プシュケは額に手を当てた。
「それなら、他の女性を呼んできて」
「卑賤な者に、姫様のような尊い方の無防備な寝顔をお見せするわけにはいきませんから」
「カニーディアは奴隷ではないわ。奴隷以外にも、うちには女性の使用人が何人かいるでしょう?」
「朝は皆、自分の仕事でとても忙しいのですよ。僕は他の使用人と違い侍従です。上手く調整さえできれば時間の融通が効くので、こうした急な事態の時に動きやすいのです」
まだ若いのにこの九年間で王の信頼を勝ち得て王の侍従とは、毎度毎度思うが大した奴だ。
「一般的に、嫁入り前の女性の部屋に、男性がやすやす入っていいのかしら」
「駄目ですね。しかし、僕の場合は周囲も黙認しております。僕はそれだけ信頼されている男なんですよ。信頼して下さらないのは、この王宮では姫様ぐらいです」
そんなものなのだろうか……。
もやもやした不快感に眉をひそめた。時々、この男と話していると吐き気がする。起き上がった時の頭のふらつきはマシになっている。このどうしようもない吐き気の正体だけが見えない。額から手を離した。
「姫様も本当は、僕は何もしないと、ちゃんと分かっているのでしょう?」
ゼノンの問いに、プシュケは笑顔を見せた。笑おうと思って笑ったわけではない。自動的に微笑んでいた。顔面の筋肉が意識とは関係なく反応した。別の意思に動かされているような感覚だ。そんなプシュケに、ゼノンは満足げに笑い返す。プシュケはゼノンに媚びたいわけではない。尻尾を振っているつもりもない。
また吐き気だ。
プシュケの吐き気に気付いたのか、ゼノンの顔は、しまったと狼狽の色を見せた。
「あ……姫様」
「もういいわ。着替えをする。出て行って」
プシュケはゼノンから顔を背けた。ゼノンは哀しげに俯く。
「……承知しました。では、着替えの者を呼んでまいります」
ゼノンが退室してしばらくすると、着替えと化粧道具を持った女性の奴隷たちが部屋に入ってきた。家の中ではわざわざ着替えたりせず、トゥニカで過ごすのが一般的ではあるが、プシュケは王族でここは王宮であるため、それなりの格好を求められる(※王族であっても王宮内を正装で過ごしていたのかは不明。トゥニカはワンピースのような形状の服)。
「おはようございます、姫様」
一人一人、プシュケに朝の挨拶をする。プシュケはベッドから降り、
「おはよう。今日もお願いね」
プシュケは笑って挨拶をするが、奴隷たちは笑い返さない。それはプシュケを嫌悪しているわけではない。奴隷たちは笑ったプシュケに「女神様」と言うと、まるで神々しいものを見たかのように祈り手を組んで、うやうやしく片膝をついてしまった。
そんなことをして欲しいわけではない。
いつだっただろう。そうだ。あれは五歳の頃だ。
あらゆる人の態度が変わった。それまでのプシュケは、少なくとも人間として扱われていた。母親からは愛情を一心に受けていた。だが、突然に母の態度が反転した。反転したと言った方がしっくりくる。まるで、それまでの愛情がすべて憎悪になったかのように、プシュケを憎み始めた。母以外の者たちも、父親や姉を含めて、プシュケに対する態度の中に「温かいもの」がなくなった。溺愛してくれていた父は冷淡になり、優しかった姉たちは嫉妬の感情を向けるようになった。姫様、姫様と笑顔を向けてくれていた国民はプシュケを畏怖するようになり、いつの間にか女神だの、生き神だのと呼ぶようになった。
崇められたいわけじゃない。それをいくら言っても、人々は崇めることをやめない。街では、神として像まで作られてた。気味が悪いほどに自分に似た像が店に沢山並んでいた。初めて見てから、ずっとその映像が頭から離れない。異常なことが起きているのに、誰もが気付かない。その最たる姿が、そこにあった気がした。
あの日からまるで、私は突然人間ではなくなったかのようだ。
「失礼します」
髪を触る前、肌に触る前、服を着せる前に、必ず言われる。その後はずっと無言だ。裕福な家では、この時間に奴隷と女主人は女性同士の話に花を咲かせるものなのだが、プシュケの場合はそうではない。たちまち勝手に厳かな空気が漂いだして、会話を憚らせる。
黙々と髪を整えられ、絹でできた菫色のストラを着せられ、
最後に鏡を持った奴隷が、プシュケを映す。
「とても綺麗にしてくれているわ。ありがとう」
顔を笑顔にしかけたが、やめた。下手に笑うと、また崇まれかねない。代りに口調だけは明るくして言った。奴隷たちは「とんでもございません。失礼します」と言って、そそくさと部屋を出て行った。
脳裏にまた、大量に自分にそっくりな像が並べられている光景が浮かんだ。いつも、ふとした時に浮かんでくる。異常なのに、人々はやめない。人間であるプシュケを神と呼び、崇拝する。神であることを求める。拝もうが、崇めようが、なんのご利益もないというのに、何の願いを私にぶつけているのだろうか。
深呼吸をした。肺が大きく膨らみ、萎んでいく。
大丈夫だ。私は人間だ。
椅子から立ち上がり、部屋から出た。ドアを開けると、そこにゼノンが立って待っていた。
ゼノンは決して暇ではない。プシュケが支度している間に、礼拝の準備や他の指示を出してきて、頃合を見計らって戻ってきたのだろう。彼はそこまで無理をしてプシュケとの時間を作ってくれる。どうして彼が、ここまでしてくれるのか、プシュケには分からない。
「本日もお美しい」
ゼノンは崇めるわけでもなく、うっとりとした様子で言った。そういえば、この王宮でプシュケを女神として接していないのは、王と妃を除いてゼノンぐらいだ。
明るい場所で改めてゼノンを見ると、実に優雅にトガをきこなしている。トガは片手を半分覆ってしまうので、ゼノンの左手も半分覆われてしまっているが、他の男たちのように重々しさや、又は煩わしさを感じさせず、実に自然な出で立ちであり、トガの美しい襞の流れが高貴さを感じさせる。元王族という生まれが華冑な者なだけあり、染み付いた品位が立ち振る舞いの中に現れている。その洗練された所作と眉目秀麗なのもあり、王宮内外問わず異性に人気があるのだが……。
何故、私はこの男に惚れないのだろう?
「どうされました?」
訝しげにゼノンを見つめるプシュケに、ゼノンは首を傾げて訊ねた。
「片手が不自由になる服なんて、やっぱり変だと思って見ていたのよ」
「左様でございますか」
ゼノンはフフッと笑い、「参りましょう」とプシュケに右手を差し出したが、プシュケは「結構よ」と歩き始めた。
ゼノンと共に
「いいお天気ですね」
ゼノンは顔に当たる陽光に目を細めた。プシュケは毎朝礼拝の時間が憂鬱だった。
「気分も清々しい朝になるといいわね……」
それだけを呟いて、足を進めた。
王宮内を進んでいき、神棚のある間に到着した。この王宮では、王族揃って礼拝をするのが日課だ。この王宮に住まう王族は、プシュケの他は王と妃。プシュケには姉が二人いるが、二人とも他の国へと嫁いでここにはいない。今朝は、プシュケが最後の到着だったようだ。
「お待たせいたしました」
ゼノンとプシュケはほぼ同時に声を揃えて言った。妃は不機嫌な様子だが、国王はプシュケが到着したと同時に淡々と礼拝を開始した。
居心地が悪い。礼拝の時間は、いつも居心地が悪い時間だ。
ゼノンの指示で用意させていた、供物となる果物や魚の乗った皿とワインの入った盃を、奴隷が王に手渡す。受け取った王は、祈りの言葉を唱えながら、神棚に供物と盃を乗せ、香を焚いた。プシュケの目の前にある神棚に祀られているのは、ゼウスの小像であった(※高さ19cm程度のサイズの小像を想定しております。神棚にゼウスの像を飾っている家庭があったのかは不明。本作でのプシュケの家系の設定上、ゼウスを祀らせました)。香の煙が昇るに合わせて、王と妃とプシュケとゼノンはゼウスの小像に祈り手を組んだ。王の祈りの言葉が終わると同時に、各自祈り手を解き、解散の空気が漂いだした。ゼノンはともかく、プシュケは礼拝の時間以外は、王と接触する機会があまりない。
「お父様。国民の人口についてお話が……」
プシュケが慌てて王を呼び止めると、王はプシュケを一瞥する。
「今日は忙しい」
何の感情もない目だった。声も平坦で、機械的だった。プシュケは何も言えなくなり、口を一文字に結んだ。
「姫様。
王の前であるため、いつもの「僕」ではなく「
「何? まさか、女の癖して進言するつもりなの? まるで
娼婦は奴隷階級だ。奴隷階級でありながら、特定の主人を持たない彼女たちは、その身一つで生きていかねばならない。そのため、娼婦の中には男性と対等に立ち回る者も少なくない。
プシュケ個人としては、立派な職業だと認識しているのだが、妃はそうではないようだ。そもそも、家督の継ぐことのできない女性が男性に口出しするなど、一般的に見ても異様であり、妃の認識はむしろ正常である。女の身でありながら、王位を継ごうとしているプシュケは、稀に見ることができるか、できないかぐらいの稀少な例外である。
第一王女でも第二王女でもなく、何故第三王女のプシュケが継ぐのか。その答えは、プシュケでなければ王位が継げないからだ。王女が女王になれないこともないが、実際に女王になった王女はまだいない。なったとしても、国民からの支持が得られないからだ。
民と王は一つ。民なくして王は成り立たない。この国の行く道を指し示しているのは王であっても、この国を形作っているのは民なのだ。王は恐怖を振りかざし、強制的に社会を変容させることはできるだろうが、その歪みはいつしか国を滅ぼす。善き王になるには、民の心を掴む逸材でなければならない。家督も継げないはずの女性が国を継ぐことは、国民から見ても奇異なことで、大多数の国民に反感を抱かせてしまう。王は男性である方が望ましい。
しかし、プシュケの国に王子はいない。優秀な臣下を養子にし、王女と婚姻を結ばせることもできるが、王家の人間でもない者が王族になることに反感を抱かれることも少なくない。他国の王子を迎えるとしても、国同士の関係によっては、相手の国に支配されかねない危険性がある。
だが、王女として生まれなから、国民からの圧倒的な支持を得る娘が現れた。それがプシュケだった。むしろ、国民にとっては王を超える女神。プシュケが王位を継いでも、国民は誰も文句を言わないだろうと確信できるほどの信仰を、プシュケは得てしまった。王が確信してしまう程に国民から信仰が厚くなったのは、プシュケが八歳の頃だ。
それから、プシュケは将来王妃になるための教育の他、君主になるための教育を受けることになった。最初の一年は、女神様に教鞭を振るうなどできないだの、女性への指導経験がない身で国の宝である姫様を教えるなんて、おこがましいなどという理由で特定の教育係がなかなか決まらなかったが、ゼノンが来てからは、ゼノンが専属の教育係になった。
しかし、いくら国民からの支持は得られても、母親である妃からの支持は得られずにいる。プシュケと同じく、人間の王女でありながら、アフロディーテよりも美しいとされたミュラーという姫君がいたのだが、愛情が反転してからの妃は、プシュケがミュラーと同じように実父である王を誘惑するという妄想にとり憑かれるようになった。そんな事実はどこにもなければ、プシュケも王のことをそんな目で見たこともない。だが、妃にとってはその妄想が事実だった。周囲の者も、妃は気が触れたのだと思い、外交の時も含めて、あまり妃を表に出さないようにしているのだが、それも妃はプシュケの嫌がらせだと思っているようだ。
プシュケが何を言っても、妃の耳には入らない。言えば言うほどに被害的に受け取られるだけだった。
「国民が女神と崇める姫様を、
プシュケが押し黙っていると、ゼノンが皮肉めいた口調で言った。
「余計な教育をしたのは貴方でしょう!? 女が男に意見をしようなんて、はしたない!」
「
「崇められているから何? 今は若いからでしょうけど、年老いたらどうせ崇拝する国民もいなくなるわ。若さしかなく、男を立てることもろくにできないなんて、女として生きる価値もない」
「驚いた! 貴女は
言い終えると、今度はプシュケの方へ向き直るゼノン。
「そして姫様。国王様も国にために忙しく働いておられます。このようなことは国王様に直接ではなく、まずは侍従である
「わかったわ……」
ぐぅっと唸る妃を尻目に、面倒事を起こしてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、プシュケは弱々しく頷いた。
どうして私はこうも不穏を呼び寄せてしまうのだろう……。
いつだってそうだ。自分がいるせいで、母は気が触れてしまい、夫婦仲は悪くなった。それを改善させることができるならばいいが、もうずっと二人が一緒に笑っている姿を見ていない。改善させようと奮闘したこともあるが、すべて裏目に出た。プシュケがやることなすこと、何もかもを、妃は被害的にしか受け取らない。もう、下手に何かしようとするのはやめようと思った。改善する術を持たない己を殺してやりたくて仕方がない。
十三年前のある日、きっと私は何かを起こしてしまったのだ。それが一体何なのかが分からない……。
「では、お部屋にお戻り下さい。後で伺います。――そこの者。姫様を部屋までお連れしろ」
ゼノンは近くにいた女性の奴隷を呼んだ。奴隷が来ると、奴隷に何か耳打ちをし、奴隷も頷いた。
「失礼します、姫様。また後ほど」
ゼノンは王と共に王宮の奥へと向かっていった。礼拝の後は、いつもああやって二人で今日一日の予定の確認や、他の僚属の動きの調整などを行っている。
朝食は、かつては家族揃ってとっていたが、妃がああなってからは、プシュケだけ別室で朝食をとっている。今日は自室で食べるようだ。だが、これまで一人で食べたことはない。ゼノンがいつも一緒に食べてくれるのだ。
ありがたい……と思えばいいのだろうか。
ゼノンは融通が効くのだと言っていたが、毎度これほど頻繁にゼノンがプシュケの元に来る理由も目的もハッキリしない。
部屋に着き、プシュケは奴隷に「ありがとう」と礼を言った。奴隷は「滅相もございません」と首を横に振り、朝食を持ってくる旨を述べてから退室した。
上流階級は豪華な
贅沢だわ。
プシュケは内心独りごちた。おそらく残飯は奴隷が食すのだろうが、だからと毎回食べられもしない量を出されるのは、なんとも胸にもやつきを抱かせる。
「姫様、朝食をお持ちしましたよ」
爽やかな笑みを浮かべたゼノンが、食事を持った奴隷たちを引き連れてやって来た。独りで考え込み、自分の世界に入り込んでいたプシュケは現実に引き戻された。
「ご苦労様。とても助かるわ。運んでくれたみんなもありがとう」
テーブルに食材が並べられ、ゼノンもプシュケの向かいの椅子に座る。
「さあ、姫様。本日は姫様の大好きな蜂蜜をご用意いたしました」
テーブルの上に並んだ食材を眺める。小麦で作られたパン。オリーブ。無花果。林檎。チーズ。壺の中には甘く透き通る黄色をした蜂蜜。サイドテーブルには、ワインの入った水差しが置かれた。(※ワインは水で薄めたものを飲みます。)
蜂蜜は朝食で頻繁に出てくるわけではないが、今朝から散々だったプシュケを気遣ってゼノンが出させたのだろう。早速プシュケはハニーディッパーで蜂蜜を掬い、パンに垂らして食べた。蜂蜜らしい少し酸味のある甘味が口内でじんわり蕩ける。
うん。美味しい。
プシュケは内心満足気に二口目も頬張った。
「喜んでいただけたようで」
あまり表情に出しているつもりはなかったのだが、無表情にしていると思っていても顔が僅かに変化していたのだろう、ゼノンはプシュケの内心を読み取ったかのように微笑んだ。
やっぱり整った顔してる。だからって惚れるわけでもないのだけど。
プシュケはゼノンの微笑を見ながら、蜂蜜を染み出すパンを頬張った口を、もぐもぐ動かし続けた。
「……それで? 国民の人口がどうされたのです?」
ゼノンはワインにパンを浸して食べた。プシュケは蜂蜜の甘味を味わってから、口の中のパンを飲み込んだ。
「我が国では、有能な知識人の異民族は積極的に受け入れてきたわけだけど、統制が上手くとれていないせいで、人口の増加が最近極端に右肩上がりになってきているわ。お蔭で住宅不足からくる家賃の高騰が目立つようになってきている。それに比例して違法建築も増えてきた。今はまだ問題が起きてはいないけど、このまま放置していると、昨今隣国で起きているような治安の悪化や、人口密度の濃さからくる往来の激しさと、道路や路地の喧騒・混乱が起きたり、街の汚れに頭を抱えることになるわ」
「それは僕も同じことを思っていました」
「人口が増えすぎて、住む場所がない。だから、規定を超えた高さの
「こんな目に見えているようなことを、国王様はご理解して下さらない」
淡々と無花果の皮を剥くゼノン。
「アレは国民の増加によって、国の財が増えることしか見ていない。忠告に耳を貸さず、むしろもっと国民を増やそうとしている。……これが異民族の受け入れに統制がとれていない最大の理由ですよ。呆れたものです」
ゼノンはこの先に待っているであろう案件の数々を想像している様子で、剥いた無花果を大儀そうに齧った。そんな気怠げな動作もゼノンがすれば様になる。
「お父様には何か深いお考えがあるのかしら?」
「ないでしょう」
プシュケが言い終えた直後に、プシュケの推察をゼノンはキッパリと切り捨てた。
「目先の利益しか見れない愚昧ですから」
ゼノンは手に持っている齧った残りの無花果を、特に表情も変えずに一口で食べた。
「定例会議ではもう取り上げたの?」
「去年、一度取り上げました。結果は先程述べた通りです。でも、去年よりも状況は悪化してきているので、もう一度取り上げてみましょう」
「お願いね」
「……姫様も定例会議ご出席しましょうか」
ゼノンの口調は、内容に反してどこか寂しげだった。まるで絵空事を語ってしまったかのように彼は苦笑を浮かべる。
定例会議は元老院が開く会議であり、年に二回しか行われない。そこに出席するということは、今既に王位を継ぐ準備に入っているということだ(※元老院が年に二回定例会議を開催していたのは本当だが、そこに王族も出席していたのかは不明。出席するからって王位云々も私の作話です)。
「いいの?」
話の内容にそぐわないゼノンの様子に、プシュケは訝しんだ。苦笑を浮かべたまま、物思いに浸っていたゼノンはハッと我に返った。
「ええ、勿論。そろそろ出席してもいい頃だと国王様も仰っておりました」
いつものように優雅なゼノンに戻った。ゼノンが嘘をついている感じはしない。だが、出席する日が来るのは永遠にないかのように思えた。胸騒ぎがする。
「なんだか、実感が湧かないわ。もしかしたら、やっぱりお前は女王に相応しくないって言われて、姉様たちと同じように、よその国へ嫁がされるんじゃないかって思っていたもの」
「僕はこうなることを、ずっと確信しておりましたよ」
「ずっとって、いつから?」
「姫様に初めてお目にかかった時から」
「そんな時から? 何か片鱗でもあったの?」
「……」
プシュケの質問に答えず、ゼノンは奴隷が持っているフィンガーボールで手を濯ぐ。
「……姫様が女王となるならば、王配はどなただとお思いで?」
「うちの
王配候補の中に新貴族があがったことに、ゼノンは鼻で笑った。
「
嘲りながらワインを飲むゼノン。しかし、その姿さえも優美さを醸し出しており、彼の気位の高さが覗える。
「僕もそろそろ華燭を灯そうかと思っております」
「そうなの。おめでたいわ」
「……」
ゼノンはプシュケの反応をじっと見つめた後、やれやれと首を横に振った。
「姫様。午後からのご予定は?」
「カニーディアの所へ行くわ」
予想外の答えだったのか、ゼノンは目を丸くする。
「何故です?」
「カニーディアはもう、王宮に戻ってこないのよね」
「そうなりますね」
「生まれも育ちも良い
「今までの者にそのようなことは、されていなかったじゃないですか」
「それは彼女たちが奴隷で、出て行った後の行き先が分からなかったり、既によその家に雇われていて会えなかったからよ」
「……」
ゼノンはしばらく考え込む。
「――分かりました。女王になられると、簡単に王宮の外には出られなくなりますからね。外への未練は少ない方がいい」
「ありがとう」
「食事は?」
「もういいわ」
「おさげしろ」
奴隷が食器を片付け始めた。が、突然。
ガシャン!
陶器の類が割れる鋭い音がした。見ると、カップが床の上で割れていた。
「も、申し訳ありません!」
カップを落としたであろう奴隷が謝りながら破片を集める。
「大丈夫? 怪我は――」
プシュケが椅子から立ち、カップを落とした奴隷に駆け寄って手を伸ばすと、その手をゼノンが掴んで止めた。
「姫様から奴隷に触れるようなことがあってはなりません」
ゼノンはプシュケの手を掴んだままテーブルまで戻り、プシュケを椅子に座らせた。
「あ……あの……申し訳ありません。カップを……。どうか平にご容赦を……」
奴隷は萎縮しきった様子で繰り返し謝る。プシュケはカップが割れたことよりも、奴隷が怪我をしていないかの方が気がかりだった。
「構わないわ。怪我はないの?」
「ありません」
「ならよかった」
プシュケが安心したように言うと、ようやく緊迫しきった空気が和らぎ、他の奴隷も床の掃除を手伝い始めた。しかし、ゼノンはあからさまに表情には出していないものの、確かな怒りの空気をまといながらプシュケを見下ろしていた。
「姫様は国民のことを誰よりも思う善き女王になりえましょう。しかし、奴隷は物を言う道具でございます」
「同じ人間よ」
だが、奴隷とプシュケは同じ食卓に並んで食べることはない。社会が同じ人間だとは認めていない。
「女神である姫様は、それこそ神様と同じ視点で見て、奴隷も同じ人間だと思われるのでしょう。ですが、姫様はゼウス様と、ゼウス様に見初められた人間の姫君ダナエとの間に生まれた半神、ペルセウスを祖とする後裔でございます(※オリジナルの設定です)。つまり、最高神ゼウス様の血を引いている姫様は、アフロディーテを母とするアイネイアスや、テティスを母とするアキレウス、ハルモニアを母とするセメレ、ポセイドンを父とするオリオンといった他の半神の裔たちとはわけが違います。半神の裔の中でも尊い血筋なのです」
「それはアナタも同じでしょう」
「そうですよ。身分は落ちても、この血の気高さまでは落ちておりません。このゼノンの名も、我等の祖ペルセウスの父であるゼウス様の名から頂きました。亡命者でありながら、平民や奴隷にまで身を落とさずに生かして頂けているのも、こうして王宮に置いて頂けているのも、ゼウス様の血が流れているからです。血とは、それほど重いものなのです。その重い血を僕の両親と兄が流したからこそ、かつての僕の国の民たちは悪いようにはされなかったのです。姫様は血も身分も国民からの評価も申し分ない、女王に相応しい器の持ち主ということなのですよ」
亡命後の待遇は国によって違うものだが、プシュケの国では普通、亡命者は王族や貴族であっても亡命後平民の扱いになる。それなのに、ゼノンは王族ではなくなったにしても、貴族の扱いを受けている。それが何故なのか、ようやく理解した。
「その姫様を
ゼノンは憤りを露にし、憎々しそうに顔を歪めた。
「お母様を悪く言うのはやめて」
妃を庇うプシュケにゼノンは冷笑を浮かべる。
「はっ! やめろと? 姫様は甘い。つけあがらせて得する相手でもないのに?」
「でも、私の母親なの」
「姫様のような王女様を産んだことは評価してさしあげましょう。が、娘を娼婦などと罵る女など母親ではありませんね。たいした血筋でもない癖に……。ああいう尾篭な女は、僕にとって厭悪の対象です。それと正直、国王様も気に入っておりません。人の話を聞かず、自分の思い通りに他者が動いて当たり前だと思っている馬鹿は救いようがないですからね。姫様の人生を振り回すのもいい加減にして頂きたい。頭の固い
「意外だわ。国王のことをそんな風に思っていたのね」
「拾って頂いた恩義があるから黙っていただけです。半神の裔の中でも、アレは名折れです」
「でも、私はその国王と妃の娘よ。それに、私に神のような特別な力はないわ。王族に生まれただけのただの人間よ」
「国王様と王妃様の娘だからって、貴女は国王様でも王妃様でもないでしょう? それと、その身に僅かでも神の血が流れていることが重要なのです。現に姫様は女神様ではございませんか」
ゼノンは椅子に座りながら言った。
「私は人間だわ。アナタだって、私を女神とは思っていないでしょう?」
「ええ、女神である以前に貴女は僕の妻となる
「え……?」
プシュケはゼノンを見つめたまま固まった。
「この国には世継ぎとなる男児が産まれなかった。姫様を身ごもった頃には既に王妃様もお年を召されていたので、第三子が女児であれば、僕か弟がこの国の王配になるように、貴女の父上である国王様と僕の両親の間で取り決めていたのです。亡命するなら、もっと条件のいい国があった中、他のどの国でもなくこの国に亡命したのは、王配候補である僕と弟に死なれては困る国王様が、僕の国が敗れたと知り、亡命の手助けをしてくださったからです」
王の侍従であるはずのゼノンがまるでプシュケの侍従も兼任しているかのように動いていたのは、ゼノンが王配候補だったからなのだろう。若くして侍従になったのも、王配候補であるが故の特権だったのかもしれない。朝、プシュケを起こしに行くことを誰も止めなかったもの、きっとこれが理由だ。
「私……アナタと結婚するの?」
「そうですよ。不満ですか?」
「突然で分からないわ。気持ちが追い付いていない」
「いいですよ。待ちます」
「余裕ね」
「この結婚に、貴女に拒否権はありませんから」
言ってから、「僕にもありませんが」とゼノンは呟いた。プシュケは戸惑いを隠せず、太腿辺りのパルラの生地をギュッと握った。
ゼノンが王配候補だと知らなかったのは、私だけ?
あの王のことだ。わざわざ本人に伝える必要もないと思ったのだろう。どうして私はこうも蚊帳の外へ追いやられるのだ。私の知らぬ間に、私のことが決められていく。王女とはそういうものなのだろうが、これはいくらなんでも……。
「普通の恋愛をしたかった?」
ゼノンが心配そうにプシュケの顔を覗き込む。プシュケはパルラから手を離した。
「最初から、普通の恋愛ができるとは思ってなかったわ」
顔を上げるプシュケに合わせて、ゼノンも顔を上げる。
「異性として、僕はどうなんです?」
「少なくとも、アナタに恋したことはないわ」
「他に好いた男でも?」
プシュケは首を振った。
「恋を知らないだけでは?」
「恋をする必要がないだけよ」
「いつも姫様のお傍にいたのは、僕に傾いて頂くためでもあったのですが……。そうですか。確かに、政略結婚ばかりの王族に恋など必要ないですね」
「貴族も王族も、家や国のために親が決めた相手と結婚することが義務ですから。アナタはどうなの? 私をどう思っているの?」
「お慕いしておりますよ」
「恋慕しているわけではなさそうね」
慕っていると、さらっと言ってのけたゼノンの様子から、恋慕ではないと思ってプシュケはそのまま言ったのだが、ゼノンはムッとした顔をする。
「姫様と僕は恋や愛などという言葉で形容できる関係では御座いません」
「どういうこと? 婚約者ってこと? 従兄妹? 主従?」
「そうではありません。僕は貴女の――」
ゼノンは難しい顔をして押し黙った。口元を押さえた後、苦しそうに顔を顰めた。
「……でないと、僕らは生きてはいけないのです。貴女が欠けても、僕が欠けても……。でも、おそらくそれも……」
「よく、分からないわ」
どこか不安にさせられる言葉に、プシュケは眉を落とした。ゼノンはそんなプシュケを見つめながら、
「……口付けでもしましょうか?」
ぽつり、と言った。プシュケが目を見開く。
「やめて。どうしてそうなるの」
「すみません。疲れていますね」
ゼノンは、ふうっと息を吐いた。
「さっきのどういう意味?」
「分かって欲しいとは思っていません。ただ、姫様が僕と生きることを選んで下されば、僕は満足です」
「私に話しても理解できないだろうって思ってるの?」
「違います。姫様は聡明です。ただ、僕が言いたくないだけです」
ゼノンは「すみません」と、また謝った。
「初めてだわ。いつも超然なアナタがそんな……寂しげなのは……」
今のゼノンは寂しげにも見えるが、憂いのようなものも感じる。今日は何かが違う。いつもと世界が……違う。
落ち着かず、プシュケがそわそわしていると、ゼノンはいたずらっぽく笑った。
「惚れました?」
「惚れてないわ」
「それは残念」
ゼノンと話している間に、床の掃除も食事の片付けも終わったようだ。ゼノンは椅子から腰を上げる。
「出掛ける手配を致します」
ゼノンは部屋を出ていき、『馬を用意しろ』というゼノンが廊下から聞こえてくる。特に意識せずに聞き流していると、気になる言葉が耳に入った。
『神託の準備はどうなっている』
神託? そうか。結婚する前に、未来を予言する太陽神アポロンの神託を得るのが、我が国の王族の風習だ(※オリジナル設定)。そうすることで、夫婦の未来に不都合がないか確認するのだ。
やはり私は彼と結婚するのか。
プシュケの中で結婚というものが現実味を帯びてきたが、彼女の中の結婚イメージは、巷の乙女が想像するようなロマンティクなものとは大きく違った。
愛する男性。新しい家族。甘い生活。
そんなものはプシュケの想像の中にある新婚生活には無かった。
ゼノンは魅力的な男性だ。なんだかんだ個人的に思うことはあるが、彼が私のことを大事に思ってくれていることは分かる。だが、何か腑に落ちない。
ゼノンは世が世なら王子様だ。プシュケも姫様だ。王子と姫という組み合わせの時点で、乙女たちは黄色い声をあげて、ああだこうだと恋愛賛美な空想を巡らせることだろう。
それが私にはない。
ゼノンが相手だから、それほど暗いものを想像するわけではないが、相手が誰か分からなかった間は、結婚というものに禍々しい黒い物を感じていた。その中でプシュケは形を失い、歯車で動く人形のようになって、夫となる男性と生活している己の姿を思い浮かべるのだ。古くなっても、壊れても動き続ける。苦しいと思うことも、自分の意思で止まることも許されず、壊れきって僅かでさえ体が動かなくなった時にようやく止まることができる。そんな結婚生活だ。
部品が壊れようが動きを止めてはならない。ネジが取れても、仕事が遅ければ罰を与えられ、壊れて、壊されて、どんどん原型がなくなっていく。そんな私の姿を、夫は愉快そうに見るのだ。私の躰には心配にも値しない大怪我が増えていく。夫は私が死んだ瞬間にようやく困るのだろう。私の躰に心配や労りは無縁だ。ゼンマイを切れそうなほどキツく巻かれて、あちこち壊れた体でガタガタ音を立てながらぎこちなく動き、その姿に腹を立てた誰かにボコボコにされる。
結婚に夢を抱く乙女とは、想像しているものが明らかに違った。
そう思うと、ゼノンが相手でまだよかった。ゼノンとなら、歯車で動く人形になる予感はない。その辺は安心だ。ただ、硝子ケースに飾られる人形の姿が浮かんでくる。埃をかぶることもなく、鑑賞されるだけの人形だ。この人形はとても楽だろう。でも、それは私なのだろうか?
頭の中で、店に沢山並んだ自分にそっくりな像の映像が映し出された。
どうしてこんなに私がいるの?
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