【1】人身御供(ひとみごくう)

月影(つきかげ)

 夜のアフロディーテの宮殿。不規則にゆらめく燭台の灯り。アモールの背にある矢筒の矢が、燭台の灯りに照らされ、柔らかく光を返しながら輝いている。しかし、この矢は優しいものでも、綺麗なものでもない。この矢の力は、そんな善いものではない。

 恋は呪いだ。四六時中、想い人のことばかりを考えてしまう。ふとした時にも、想い人が脳内に現れ、空想する。想いが上手く届かず、苛立ち、時には憎らしく思う。しかし、何気無い言動ですっかり赦し、そうして夢心地のまま、恋に世界が蝕まれていくのだ。

 アモールはそんな恋を提供しておきながら、実体験をしたことはなく、目の前で起こる恋の物語を眺めるだけだ。依頼された通りに矢を放つ。矢を放った後のことは、どうでもよかった。

 アモールは、恋という名の呪いをかける力を持っている。恋することを表とするなら、その裏側の呪いもかけることができる。

 射貫かれて最初に見た者に恋に落ちる金の矢。

 射貫かれて最初に見た者を疎ましく思わせる鉛の矢。

 神々すら、アモールの矢の力からは逃れられない。射貫かれたら最後、刺さった矢の呪いは生涯解けることはない。太陽神アポロンがいつまでも月桂樹の冠を被り続けているのも、アモールの矢の呪いのせいだ。

 アポロンは以前にアモールの矢の力を馬鹿にしたことがあった。結果、アポロンはアモールの金の矢に撃たれ、矢の力でアポロンに一目惚れされた精霊ニンフのダフネは、鉛の矢に撃たれた。

 アポロンは最も美しいとされる三柱の内の一柱である。アポロンにアプローチされて嫌がる乙女など本来存在し得ないのだが、鉛の矢に射貫かれたダフネは、アポロンが非常に厭わしくて、アポロンから逃げ回った。そんなことは露知らず、アポロンは恋の熱情に導かれるまま、ダフネを執拗に追い掛け回した。ダフネにとっては、美の極みである男神アポロンも気色の悪いストーカーにしか映らず、あまりのしつこさから純潔の危機を感じ、自らを月桂樹に変身させてまでアポロンを拒んだ。しかしアポロンは、その月桂樹を抱き締め、口付ける始末だ。

 以来、アポロンは月桂樹を自分の木と定め、栄冠の象徴とし、月桂樹の冠をずっと頭に乗せている。彼のその姿は正に恋の呪いがもたらした狂気。周囲の神々は、アモールの矢に畏れを抱いた。

 このアポロンとダフネの件があってから、災厄を招きかねない力として、神々は無闇にアモールの力を借りようとしなくなった。今、アモールの矢を平気で借り続けているのは、母親である美と愛の女神アフロディーテぐらいである。最高神ゼウスからもしばしば依頼が来ることはあるが、神々の女王ヘラの逆鱗に触れると面倒であるため、毎度丁重に断っている。

 アモールにとって唯一といっていい依頼者のアフロディーテには、アモール以外にも三柱の子供がいる。三柱とも、アフロディーテの夫であり炎と鍛冶の神でもあるヘパイトスとの間にできた子ではなく、アフロディーテの愛人で戦神であるアレスとの子だ。父と同じく戦の中で力を発揮する恐怖の神ポボスとデイモス。戦という不協和に対し、調和の女神として生まれたハルモニア。アフロディーテは、アレスに似て野蛮なポボスとデイモスのことを気に入っていない。ハルモニアも神でありながらカドモスという名の人間と結婚して疎遠になった。

 対してアモールはアフロディーテに滅法気に入られている。恋愛という恋愛を渡り歩くアフロディーテにとって、アモールの矢は人生の最高のスパイスなのだ。そのため、その矢が如何に危険であったとしても、使うことをやめられない。まるで依存症だ。だが、それだけ彼女には愛や恋というものが必要なのだ。

 父親が明確であるポボス、デイモス、ハルモニアに対して、アモールの父親は誰なのか不明だ。表向きはアレスの子とされているが、アレスの子にしては、内面も容姿も神としての能力も、アレスとの繋がりがないのだ。アフロディーテ自身もアモールの父親は把握していない。実際、アモールの父親候補を全てあげるとキリがない程にアフロディーテは恋多き女神だ。有力候補だけをあげると、ヘパイトス、アレス、ゼウスの三柱。ポボスもデイモスもハルモニアも不義の子と言われているが、父親すらハッキリしない自分は一体何なのだろうか。

 ただ一つだけ言えることは、アモールは母親の都合のいい道具だということだ。

「アモール! アモール!!」

 興奮したアフロディーテの声が、宮殿内で反響し、けたたましさを倍増させながらアモールの耳に入ってきた。声がする方向からして、場所は中庭の方だろう。アモールは中庭に向かって足を進めた。中庭に到着し、中央にある池を見下ろしながら、険しい表情をしているアフロディーテを確認すると、近付くことなくアフロディーテの視界に入る位置に立った。

「ここにいます」

 感情的になっている時のアフロディーテは危険だ。近くにいると彼女自身では処理できない感情を吐き出すために、八つ当たりをされかねない。

「この女の人生を滅茶苦茶にして!」

 池の水面に映る何かを睨み付けたるアフロディーテ。アモールの目には、そんな母親が酷く幼い子供のように見えた。発言そのものも、幼子のそれと同じだ。

 アモールの中の何かがブクブク沈んでいく感覚がした。そして次の瞬間には、凍てついた冬の湖のような静寂がアモールの心を占領した。アフロディーテを宥めるように、いつもよくする愛想の好い笑みを浮かべるアモール。

「大丈夫ですよ、母さん。貴女の息子の矢は、神も人間もすべからく射貫くことができます。その女性も、僕の力に抗えるわけが御座いません」

 アフロディーテの宮殿にあるこの池は、アフロディーテの見たい景色を映し出す。彼女はよくこの池を使って、人間たちの様子を見ており、時折自分よりも美しく育ちそうな人間の女性を見つけては、自らの力で罰を与えたり、アモールの力を借りて不幸な恋愛に陥れている。

 アモールはアフロディーテが立つ反対側から池に近付き、その水面を覗き込んだ。――目を見張った。息が止まった。美しい女性は神も人間も散々見てきたが、アフロディーテよりも美しいと思ったのは初めてだ。しかしこの女性、以前にも……。

「どうしたの? まさかアンタも――」

 この女のほうがアタシよりも美しいって言うんじゃないでしょうね? と続くであろうアフロディーテの台詞を遮るように、ついでに湧き上がってきた何かに目を逸らすように、アモールは慌てて口を開く。

「そうじゃない。彼女は確か、彼女が五歳になる頃に母さん自ら罰を与えた女性ではないですか?」

 アモールの問いに、アフロディーテはようやく顔を上げてアモールの方を向き、腰に手を当てた。

「そうよ。プシュケとかいう乳臭い餓鬼の癖して綺麗な顔をしている女がいたから、このアタシが直々に誰からも愛されなくなる呪いをかけてやったのよ。なのにこの女、いつの間にか人間の分際で美の女神だのと崇められていたのよ! 確かに『愛されて』はいない。でも、美しすぎる女っていう人々の認識までは覆らなかったようね」

 悔しそうに爪を噛むアフロディーテ。

「だから、今度はこの反吐が出るくらい不快な女をこの上なく不幸にしそうな男に惚れさせて、クソ女に相応しいクソみたいな人生をプレゼントしてあげて」

 艶やかで美しい唇から、クソだのなんだの下品な言葉が発せられていることに、この女アフロディーテの美に対する執念の汚さを感じた。

 懲りない女だ。

 かつて、とある国にミュラーという王女がいた。彼女は人間でありながら神にも劣らぬ美貌から、今のプシュケと同じようにアフロディーテの怒りをかった。アフロディーテからの命を受けたアモールの働きによって、ミュラーは実の父親であるキニュラースに対して禁じられた恋心を抱くようになった(※アフロディーテの呪いでそうなったのですが、この作品では恋する呪いはアモールの専売特許でなければならないので、アモールの矢でそうなったこととします)。アフロディーテの思惑通りにミュラーは禁断の恋に苦しみ続けるのだが、後にアフロディーテはミュラーとキニュラースの間に生まれた美少年アドニスに惚れ込んでしまう。アドニスはアフロディーテにたいそう可愛がられたが、ある日、嫉妬したアレスが猪に化けてアドニスを刺し殺したのだ。アドニスが亡くなった後にアネモネの花が咲いたのだが、アフロディーテはアネモネの花を見る度、涙を流してしまう程に、アドニスの死は彼女の心に深い傷を作った。

 恋は呪いだ。そして、呪いは災いとなって返ってくる。いつか、アモール自身も災厄に巻き込まれかねない。それでも、アモールはこの矢を背負い続けなければならない。それが、神として与えられた力だから。これがアモールの神様としての仕事だった。

「母さんから見て、候補の男はいますか?」

「今回はないわ。あの女を不幸にできるなら、誰でもいい。アナタに任せる。私はもう寝るわ」

 アフロディーテは荒っぽく頭を掻きながら、大股に去っていった。アモールは池の水面に視線を戻す。綺麗な女性だ。ふと笑うと、蕩けるような顔をする。アフロディーテのような蠱惑的な艶めかしさはないが、楚々とした風情と、佳麗な容姿が魅力的だ。

 人間なんて、すぐに老いて死ぬ。美しい時期など、神からすればほんのひと時。しかし、アフロディーテはそのほんのひと時でさえ赦さない。

 水面に映るプシュケが床に就いた。頭まで掛け布団を被り、中で眠そうにもぞもぞ動いたあと、ぴょっこり顔を出す。寝心地がいいのか、やっと眠れることが嬉しいのか分からないが、随分満足げな笑みを浮かべて眠り始めた。その様子がなんだか愛らしくて、アモールはくすりと笑ってしまった。

 楽しい、と思った。彼女を見るのが楽しかった。彼女は寝ているだけなのに、いつまでも見ておきたいとさえ思った。アフロディーテよりも美しいというだけで、興味を惹いた。こんなに綺麗な女性は初めてだ。この世にこんな人間が存在するのか。アフロディーテの頼みとは関係なく、純粋に彼女に会いたくなった。

「早く会いたいな」

 神や人間という概念がもう頭になかった。生身の人間が、神と直接対面することは重罪にあたるのに、そんな当たり前のことすら頭から消え去っていた。

 彼女が目を覚ましたら、どんなことを喋るのだろうか。どんなものを食べて、どんな一日を過ごすのだろうか。怒った時、哀しい時、楽しい時、どんな表情をするだろうか。空想ばかりが膨らんでいく。

 彼女を見ているだけで、時間の感覚がなくなっていた。どのくらい眺めていたのか分からないが、いつの間にか夜も随分深まっていた。ただの寝顔を、それだけ夢中で見つめていたのだ。そこでようやく気付いた。

 今、胸の中で首をもたげている「何か」は、決して芽吹いてはいけないものだ。

 現実に意識が戻ってきた。さっきまで、ずっと夢の中にいた気分だ。血の気が引いていった。彼女との間に、ガラスの壁ができてしまった。違う。今頃になって壁に気付いただけだった。

 こうして彼女を見ることはできても、会えない。触れられない。

 水面に手を伸ばした。指先が濡れるだけだった。彼女の感触はどこにもない。涙腺が熱くなる。

 彼女を不幸にしなきゃいけないのか。

 それが仕事だ。神と人間は同じ時間を過ごせない。未練なんて抱かないはずだ。

 自分に言い聞かせながら、水面に伸ばした手を引っ込めた。

 彼女の寝顔を照らしている、この月明かりになれたら、彼女の寝顔に触れられるのに……。

 濡れた指先を拭くこともせず、胸元で大事に握った。

 アモールがプシュケに何もしなかったとしても、アフロディーテは別の方法で彼女が不幸になるように仕向けるだろう。それならばまだ、恋という名の夢の中で不幸に蝕まれていく方がいいだろう。

「悪いね」

 無意識に唇から紡いだ言葉が水面を滑った。音を発しただけの、謝罪とはとても言い難いこの響きは、アモールの周囲の空気をざわめかせた。

 この女性も、所詮は人間だ。その美貌も、彼女自身も短い命だ。時が経てば、この「何か」も、彼女と共に消えてなくなる。「何か」が大きくなってしまう前に、すべてを終わらせよう。それが一番いい。

「悪いね」

 もう一度言い直した。今度は意識的にはっきりと。アモールの中の湖は、彼の周囲の空気と同様、粛然とした。

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