8.朝
ほんの僅かのまどろみだった。
スマートフォンのアラームを止めると、簡単な身支度を調える。着の身着のまま寝てしまったから、顔を洗って髪を後ろでひとつに括っただけだ。近頃は皺にならない素材やら増えて、無精モノにはいい世の中だ。
眠い目を擦りながら店の方へ向かう。
店へと続くドアを開けた途端、コーヒーの香りが鼻腔を擽った。
「おはようございます。勝手にお店のものお借りしてます……食べ物、あんまり置いてないんですね」
適当に朝ご飯を調達していたらしい。酒の肴程度の食べモノしか冷蔵庫には入っていなかったし、普段はそれで問題はない。カウンター席に腰掛けている英美の前にはコーヒーと、パックで買ってあったカットフルーツがちゃんと皿に盛られた状態で並んでいた。
それをぱくつきながら英美は案外とあっさりした表情で笑っていた。
「悪いな。俺が食べモノ喰えないんだ。客用で用意してるけど、ほら、こないだ買い出しの時にすぐ引き返しちまったから、ホントに何もない」
肩を竦めて笑みを返すと、思い出したように頷いた。
「私からは……マスターたちについて何も口にしない方が……いいの?」
英美は俺の分もコーヒーを淹れながら首を傾げた。
「そうだな。まず、会ってみてから判断するか。どんな人物かも気になるし、組織とやらも気にはなるしな。あんたにゃ悪いが、もし都合が悪い相手なら何か対策を講じる必要も出て来るだろうから、とりあえず、何も知らずに見つかったから連れ戻されたってコトにしとくといい」
コーヒーを受け取って口へと運び、ふと思い出して尋ねた。
「そういや、免許、持ってる? 車の」
めんどくさいコトは嫌いだが、たまには何か目新しいコトでもないと退屈なのも本音である。
そして近年は特に、過渡期の兆しが感じられていた。
異種族が、普通の人間にはない能力を持った存在が、日常にひっそり紛れ込んでいるという話が、噂ではなく現実なんじゃないかという不安。不安がいつパニックを引き起こすか、なにか起こるんじゃないかという、次の不安。
昔の妖怪騒ぎ程度では、収まらないただろう。
時代が、世の中が違いすぎる。
情報の伝播、拡散は手に負えない早さだ。
ただ、それで何がどう変わっていくのか、興味はあった。
隣の事務所に顔を出す頃には完全に日が昇っていた。
堅くない雰囲気のスーツに着替えて出直してくると、不思議そうに英美が訊いてきた。
「そういえば……昼間だけど、大丈夫なの?」
ふっふ~ん、と、いわゆるドヤ顔で返す。
古くから伝わる吸血鬼の弱点はいろいろあるが、いつまでも弱点を克服出来ないでいると思うなよ、て、単に同じ吸血鬼という種の中にも属性があるようだ。
その上、俺は吸血鬼以外の血も混じっている。
だからか、お日様も宗教由来の十字架も平気だけども、逆に吸血鬼独特の能力でも出来ないコトや苦手なコトもあるのだ。
おかげで人間に混じって暮らしていてもバレにくくて助かっている。
「車の鍵と、ゆうべ言ってた名刺、貰いに来たぜ」
まだ眠そうに欠伸を噛み殺しながら、雅巳がそれらを持って来た。
『 J&M事務所 アドバイザー
名刺には、便利屋の事務所名と連絡先、そこに俺の名前が入っている。
「運転大丈夫か~? 最近ペーパーになってるって言ってなかったっけか?」
心配する雅巳に、俺は親指立てて、くいっと英美に向けた。
それを見て安心したような顔をした意味はなんだ、と問い詰めてみたくなったが今日のところは後回し。鍵を英美に渡して、ビルの裏手にある駐車場へと向かった。
ワゴンタイプの黒い軽自動車に乗り込むと、俺たちは英美の運転で組織の施設とやらを目指す。
もちろん、帰りの運転が俺だと気付いたのは、しばらく走ってからのコトだった。
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