5駅目 夢の底 『乗降』

 改札口を抜け階段を登る。

 と、真っ黒な闇色の車両が、奇妙な存在感を持って彼女を出迎えた。

 黒色と言われればそう見えるし、濃紺が混ざっているようにも、紫が混ざっているようにも見える。まるで、日が沈んだ後の、日中の残滓が散らばる夜空のようだ。そんな色のせいか、照明の灯ったホームで、その車体は妙に浮き上がって見えた。

 窓はスモークガラスのようで中の様子は伺えないが、車両の扉は解放されており、冷房か暖房かはたまたエンジン音か、微かに何かが振動するような音が漏れ出ている。

「えーと、4号車の、二等車D個室13番……」

 七両編成の真ん中の車両だ。

 昇降口すぐの場所に位置するそこに、彼女は券面の通りに移動する。

 そして近付いて見て、その列車の異様さに気が付いた。

 いつも使っている通勤電車よりも、今回乗ってきた電車よりも、扉が––––––と言うか、壁が分厚い。乗降口から見えるドアの側面は鉄扉と表現しても過言でないほどに重厚で、工事現場で散見するような大きなボルトが隠す努力さえ感じさせずに嵌め込まれているそれは、まるで装甲車のような印象を受ける。

 古い車両なのかな、と彼女は思った。そう言えば、古いからこそ人気がある電車があると聞いた事がある、とも。

 故に必然的に、だから古いんだろうな、と言う考えに至った。

 さて彼女がそんな風に、至極有り触れた感想を抱きながら車内に足を踏み入れると、外見のやや無骨な印象とは裏腹に、オレンジ色の柔らかな光が照らす空間が広がっていた。

 車内通路は等間隔に燭台を模したランプが取り付けられており、床はカーペットのような布製素材が敷かれている。ただやはり古い車両なのか、幾分狭い印象を受けた。

 通路を挟んで向かい合う形でコンパートメントが並んでおり、一つの車両に片側二つずつ、計四つの個室が並ぶ。

 この車両のコンパートメントは四人がけずつらしく、部屋の扉横、丁度彼女の目線の高さに合わせた位置にA〜Dのアルファベットと、番号が四つずつ振られていた。

 与えられた乗車券に書かれている番号は、進行方向から見て右側のコンパートメントのものだ。

 そこへ向かう最中に目に付いたが、数字は所々横に文字が浮かび上がっている物があり、D室へ向かう最中にそれが確認できたのは、2・3・7・11の番号で、そこに灯っていたのは「済」「未」「在」の三つだった。

 推測だが、部屋の滞在者がいるかどうかを表しているのかも知れない。だとするならば、なるほど、確かにジロイが言うように、あまり人が集まらなかったようだ。

 彼女はDコンパートメントの部屋を開けた。二人掛けの長椅子タイプの座席が向かい合っており、その上に荷物置きと思しき台が固定されている。窓辺には折り畳み式のテーブルが備え付けられ、車内サービスや案内図のまとめられた冊子が立て掛けられていた。また、扉を開けてすぐ横にあるスペースには、簡易タイプのシューズケースとスリッパが備え付けられている。

 車内は全体としてゴシックとレトロが混ざり合ったような内装で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。車内灯の色調はやや暗い気もするが、傾きたての太陽のような光の色は、年季の入った時の流れを感じさせる。

(悪くない、かな)

 言ってみれば、ちょっとしたホテルのような内装だ。現実を忘れるには、御誂おあつらえ向きと言えた。個室に彼女以外の利用客がおらず、殆ど貸切状態になりそうなことも、そこに拍車をかけた。

 彼女は棚に荷物を置くと、窓辺の冊子を取って案内文を見た。

 特別急行、『海百合ウミユリ』。それがこの列車の名前らしい。

 運転台のある動力車を除いた七両編成で、一両目は一等車、二両目は一等車と化粧室、三両目は売店、四・五両目が二等車両、六両目は乗務員専用車、残る七両目が三等車のようだ。売店がある為か車内販売のワゴンは無く、何か欲しくなったなら、直接足を運ばねば物品の購入はできないと書かれている。

 その他冊子には乗車時の注意事項や売店での販売物品の内容などが続けて書かれていたが、そこに至る前に、重量感のある物音が彼女の集中を逸らした。

 僅かに車内が震え、ガチャンと金属質の仕掛けを作動させたような音がする。

 と同時に、頭上からアナウンスが降ってきた。

『……本日は、特別急行列車『海百合』へのご乗車を頂き、誠にありがとうございます。『海百合』ご利用の皆様へお知らせ致します。当列車は、時刻となりました為、只今乗降扉を閉じました。先程の小さな揺れは、これに依るものとなります。この放送が終わり次第、列車は出発致しますが、前進開始時には車両全体が揺れ動きます為、コンパートメントでの待機をお勧め致します。また、これより係りの者がお客様の乗車券の確認に参りますので、係員が申し出た際には、お手持ちの乗車券の提示をお願い申し上げます。––––––それでは、短い間ではありますが、『海百合』での旅をお楽しみ下さい。以上、六両目、乗務員専用車両から……』

 しかしながら放送は、最後の方は殆ど彼女の耳には届いていなかった。

 いよいよ出発する。

 まだ今日という日を先延ばしにし、嫌な事から遠避かれる。

 その興奮が聴覚に膜を張った。

 だから彼女はうっかり発車時の揺れへの備えを怠り、窓に額を打ち付けた。

 スモークガラスでなければ、恥ずかしい思いをしていたかも知れない。



 乗車人数は、本当に相当少ないらしい。

 彼女が予想しているよりも遥かに早く、係員は彼女のコンパートメントに訪れた。

 コン、コン、コン。と規則正しいリズムで部屋の扉がノックされると、扉右上の燭台を模したランプが緑の光を二回灯した。

 続けて、「お客様、失礼致します。係りの者です。入らせて頂きますよ」とよく通る男の声がした。

 彼女がどうぞと促すと、静かに扉を開けて現れたのは、背の高く肩幅の広い男だった。

 しかし、制帽のサイズが合っていないのだろうか。影になってしまったそこから覗く鋭い瞳が、背丈も相まって––––––おまけに、よくよく見れば左目の際に赤い刺青があるものだから––––––、お陰で彼女は驚きのあまり、蛇に睨まれた蛙の如く硬直してしまった。

「乗車券の確認に参りました。ご提示願います」

 男は乗客のそんな様子など気にも留めていないように平然と低く凪いだ声でそう言うと、黒手袋の嵌った右手を差し出してくる。

 ここでやっと硬直の解けた彼女は大人しくジロイから受け取っていた乗車券を手渡したが、すると男はそれに視線を落とすや微かに視線を細めて怪訝そうな顔になった。

「……お客様、この券は、どちらで?」

「え、と……」

 淡々とした声に彼女が若干たじろぎながら、しどろもどろに回答かつ説明を行うと、男は黙って聴きながらも眉間に込める力を若干強めたように見えた。

「……ふむ。成程? だから時刻の印字もパンチ穴も無い、と」

「そ、そうです」

「…………そうですか。分かりました、では、こちらにその処理もさせて頂きます」

 彼女の肯定に対し、男は数秒ほど思案する素振りを見せていたが、やがて合点がいったように、ふ、と口元を緩めて言った。それから手慣れた手付きで上着のポケットから何らかの機械を取り出すと、テキパキと複数の操作を行った上で彼女に乗車券を返却する。

「どうぞ」

「あ、どうも……ありがとうございます」

「所で。一つお尋ねするが」

「はい」

「過去に『海百合』にご乗車頂いたことは?」

「今日が初めてです」

「だろうな」

 彼女の返答に、男はやや食い気味に頷いた。

 まるで知っていて敢えて聞いた結果、案の定想定していた答えであったと言わんばかりの語調に、彼女は困惑する。

 しかしそれを言葉にする前に、男に遮られてしまった。

「では、少しご説明を」

 低い声と共に、男はカードのようなものを取り出した。

 それは何ですかと聞きたかったが、彼女はそれを声にできなかった。男の有無を言わせないような雰囲気が、少し怖かったのだ。

「『海百合』ご乗車という事で、簡単な案内板をお渡ししておきます。一応、ざっと簡単に説明致しますが」

 男がカードをトンと軽く叩くと、映像ホログラムが宙に浮かび上がる。どうやらそれは極薄のタブレット型端末のようだ。半透明の映像の壁越しに、男が続けて口を開く。

「運転士、車掌、チーフパーサー、車内警護員はこの一覧の通り。何か用事がございましたら、何方にでもお気軽にお申し付けを。あぁ、ただし、エドワードだけは無反応でもご容赦を。業務に集中しております故、その時は別の者にお声掛け下さい」

 恐らく、何方にでもお気軽にの所までが真面目な話で、エドワードのくだりが冗談なのだろうが、これ程までに「貴方が既に『お気軽に』と言える容貌ではないのですが」と思わずにはいられないタイミングもないだろうと思った。

「さて、続けて車内の案内ですが」

 彼女の反応を待たず、男が言う。己の冗談の手応えを気に掛けた様子など微塵もない。あくまでも業務中に言うべき台詞だったので言いましたと、そんな様子だ。

「……停車駅は表記の通り。到着予定時間も同時に記してございます。後でご覧になられる事をお勧めいたします。……売店等の営業時間に関わりますので」

 逡巡したような間を置いて付け加えられた一言に、彼女はほんの僅かに疑問を覚えた。列車の売店に営業時間があるものなのか、と。日を跨いで走行する寝台列車には、職員のためにもそのような時間が設けられていると聞いた事があるが、この列車は日を跨がないはずだ。

 否、そう言えばまだ、それは確認できていない。

「あの、売店の営業時間が決まってるんですか」

「当たり前だろう。貴女方が気を向けるべきは、中ではなく外ですよ」

 思い切って尋ねてみれば、どこか呆れたような声ですぐ様そう返ってきた。

「……」

 何だろう。この係員とは馬が合わない気がする。

 彼女は強くそう思いつつも、そうなんですねと答えて余計な事を口走ってしまわないように努めた。

 それから黙って先を促すと、

「その日の終わりというものは、分かりやすいようでいて、意外と分かりにくいものだ。移り変わりには、目を向けておく事を勧める」

 男は小声で呟くようにそんな事を言いながらタブレット端末を触り、画面を切り替える。その言葉の持つ、得も言われぬ好奇心への刺激に彼女は早速努力を破られようとしたが、それを実行に移す間も無く、乗務員の男は続けて即座に彼女に目を合わせた。

 削られた黒曜石のような真っ黒の瞳に見据えられ、ぞくりと走った刺激で知らず背筋が伸びる。

「さて、お客様。本来ならば、私が全てご案内差し上げたい所なのですが、逐一説明申し上げますのは時間を食い、かつ他にも乗車券確認のお客様がおられ、客室に待機して下さっております手前、誠に勝手ながら、以降はお客様ご自身にお任せ致します。なお、先程もお伝え申し上げました通り、ご不明点があれば、乗務員名簿にございます、エドワードを除いたどの係員でも構いませんので、お気軽にご質問下さいませ。––––––以上、ご説明は私、海堂瞬東が担当致しました」

 一切視線を外される事なく男は告げた。

 それから、至極自然な流れでタブレット端末を彼女に差し出した。

 引き留めることも新たに質問を投げかけることも許されないような雰囲気を感じた彼女は、大人しくそれを受け取らざるを得ない。タブレット端末が手から手へ渡る。

 それを認めた男は、恭しく一礼してから客室を戸を開く。

 入室時と同じように燭台を模したランプが緑に二回点滅し、男は部屋を後にした。

「……ミ、ドウ、シュントウ」

 受け取ったタブレット端末の画面を見た彼女は、知らずの内に切り替わっていた画面に表示されている文字を読む。

「助役 ミドウ・シュントウ」

 そこには、切れ長の目でひたと正面を見据える成人男性が表示されている。

 間違いなく、先程まで彼女と話していた係員だ。

 黒い瞳と見つめ合っているような錯覚を覚えた彼女は、ふぅと一つ息を吐いてから画面を閉じた。

「……怖い人だったなぁ」

この人には、声をかけないでおこう。

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