5駅目 夢の底 『入駅』
その日彼女は、ひどく荒んでいた。
仕事のミスが原因だった。
打ちのめされた彼女は胸の内のあらゆる所がささくれ立ち、補修もままならない程に気力を押し流されてしまっていた。
だから仕事の「し」の字も見たくなくなった彼女は、その日、考える事をやめて外に飛び出した。
目指す先は、オーシャンズ・シンフォニア海浜水中庭園。俗に言う、水族館である。
晴天の空の下、太陽は目が痛くなるほどの輝きを水面に注ぎ、展示されている生物はその色彩をより鮮やかに浮かび上がらせていた。
優雅な鰭を蝶のように舞わせるハナダイやシードラゴン、気泡や海藻で遊び回るイルカやアシカ、そんな事は些事だと言わんばかりに悠然と進む大海蛇や大型板皮魚類。
ガラスの向こう側の景色は、射し込むコントラストが明暗の境目を際立たせ、いっそ絵画のような完成度を創り出す。
生命の営み、食物連鎖、生きる術……それらが代わる代わる繰り広げられていく。
眺める先で次々と移り変わって行く景色に、海の生き物が何より好きな彼女は、時間を忘れて見入っていた。
じっくり。そして、ゆっくりと。
敷地内を上って下りて、行ったり来たりして、イベントに参加して、目の前のことにのめり込んでいった。
しかし時間とは、そのような時に限って瞬く間に過ぎ去って行くものである。
気が付けば閉館時間が近付いていた。
彼女は館内のカフェで魚の形をしたワッフルの乗ったパフェを食べながら、暮れ始めた夕日を見つめてため息をつく。
「……帰りたくないなぁ」
せっかく現実から解放されたと言うのに、また向き合わねばならない。それも、苦行だと目に見えて分かりきっているものに。
「……はぁ」
博物館の外のミュージアムショップに行くと、更に気持ちが落ち込んだ。残酷にも時間が進んでいく。その内館内に閉館アナウンスが流れ、彼女は仕方なく建物を出た。
橙色の光が視界を照らしていた。赤と黒のコントラストが至る所に散りばめられ、遠くに見える物体はシルエットになって佇み、その輪郭は蠢いている。
そして、伸びゆくそれを引きずりながら彼女が駅前まで来た時、彼らはいた。
「特別券をお持ちの方はお急ぎ下さーい」
はじめ、それは客引きのように見えた。
だがよく見ると、そうではない。
「特別乗車券をお持ちの方はおられませんかー」
「特別列車にお乗りの方、お急ぎ下さいませ」
駅改札のすぐ側で、そんな風に声を発していたのは、見慣れた格好の者たちだ。袖口に黄色のラインの入ったグレーのスーツに、赤か青か緑のネクタイ、革靴かブーツの足元。
よく見る。
よく目にする。
ウィエール鉄道の駅員の制服だ。
彼らは口元に手を添えながら、行き交う人々に声をかけている。
「今日、そんなイベントがあったのか」と思った彼女は、列車が離発着するホームを見上げた。するとなるほど、見慣れない形の車両が停まっている。
(でも、私には関係ない話ね)
彼女は胸の内で溜息を吐いた。
何故なら、彼らの言う特別列車の乗車券など、持ち合わせていないからだ。
本音を言えばまだ帰路につきたくないが、だからと言って目の前にある現実逃避の手段に手を伸ばすには、条件を満たせていない。
大人しく帰るしかないのだ。
「あ、お姉さん!!」
そう考えて歩き出そうとした彼女は、そんな風に呼び止められて、一瞬歩みを止めそうになった。
(って、私な訳ないか)
そもそも何故私を呼び止める必要があるんだか。
ないない、と減速した足を動かそうとした時だ。
「待って下さい、待って下さい。貴女ですよ、お姉さん!」
「え?」
ぐるりと進行方向、目の前に回り込まれてそう言われた彼女は、目を丸くする。
「わ、私……ですか?」
「そうです、そうです! 貴女です!」
半信半疑で自身を指差してみると、彼女の前に立ち塞がった駅員はにこっと笑って頷いた。
背丈は彼女と大体同じくらい。やや色素の薄い灰青色の短い髪は所々跳ね、そう言う種族の血が入っているのか肌はとても白い。こちらを見つめるくすんだ緑の瞳はパッチリと大きく、人懐っこそうな印象を与えてくる。
全体的に活発そうな青年だが、童顔っぽい顔立ちのせいか、少年と表しても問題なかろう、そんな駅員だった。
「お姉さん、【
駅員は、人好きのする笑顔を浮かべて言う。
胸元に取り付けられた黒地の名札には白字で「営業係員 ジロイドゥキーシュ」と書かれているので、それがたぶん名前なのだろう。
「え。でも、私、切符が……」
「大丈夫ですよ! 僕は今、それを承知でお声がけしました」
「どういうこと?」
「ここに……じゃん! あるんですよ、乗車券!」
ジロイはどこか興奮した口振りで言うと、制服のポケットから一枚の切符を取り出した。普通の乗車券にしては一回り大きい、高速列車や特急列車に乗る際に使うタイプの、俗にマルス券と呼ばれる乗車券だ。
「実はですね。今回の特別列車、あんまり人が集まらなくて、当日券の販売が認められたのです。そこで今、特別列車に元々乗る人が乗り遅れないようにする傍ら、乗りたそうな人とか、退屈を持て余してそうな人とか、刺激を求めてそうな人にお声がけをしてたんです。……どうですか、お姉さん。僕の見立てだと、まだまだ今日の終わりを先送りにしたいように見えるのですけど」
「それは……」
彼女は言い淀んだ。何故なら図星であったからだ。
仕事のミスで荒んでいた心は、まだ帰ることを良しとしない。明日また再び始まる仕事から少しでも逃げられるように、帰路につくと言う現実から離れたい。
だから普段と異なる––––––非日常に足を踏み入れられる機会は、とても魅力的だ。
彼女が迷っていると、揺らぐ心を見透かしたようにジロイが言う。
「お姉さん。では、こうしましょう。乗る時にお題は要りません。満足したらお支払い頂ければ、それで構わないです。だからほら、あと少しの今日の残りを、日常を飛び出して過ごして見ませんか?」
自信と確信を含んだ語調は、同時に甘く強い誘惑を伴っていた。
欲求と好奇心を擽られた彼女は、やがて首を縦に振った。
それを認めたジロイは嬉しそうに笑うと、持っていた乗車券を差し出す。
「さぁさぁ、そうと決まりましたら、善は急げです! 間も無く発車いたしますから、どうぞ、改札をお通り頂きまして、特別急行にご乗車下さいませ」
彼女はどこか大仰な口調でそう言うジロイからそれを受け取ると、十数歩先にある改札口へと向かう。
改札機があってホームへの昇降口がある。そんなよく見知った景色なのに、乗車券を手にした瞬間から不思議と特別なものに見えた。日常から逃れられる期待にバイアスが掛かっているのだろう。
そんな風に考えつつ、けれど鼓動を加速させながら、乗車券を改札機に投入する。
彼女を歓迎するように、機械の排出口から穴の空いた乗車券が出てくる––––––
ピンポーン!
––––––はずだったのだが。
改札機は彼女の通行を妨げるように扉を閉ざし、また同時に乗車券を真っさらの状態で吐き出してきた。
戸惑う彼女を傍に、改札機は出直せと言わんばかりにアラームを鳴らし続ける。
「あれっ! あれあれ、どうしたんでしょう」
その音にジロイがすっ飛んできて、改札機から乗車券をひったくった。
それから改札機のカバーを開けると、何やら機械を操作する。
「あれ、読取異常だ。––––––お姉さん、申し訳ないですが、もう一度通して見て頂けますか?」
「あ、はい」
「すみません、機械が上手く読み取らなかったみたいで……変だな」
首を傾げたジロイが言う。
読取異常とは、読んで字の如く機械での情報読み取りが上手く行われなかったことを指す。これが発生すると、発駅の一致する切符や金額的利用範囲的に正しい乗車券でも改札機が閉じてしまい、通過できなくなる。
そのような時はもう一度通すか、別の改札機で試すかをすれば大抵はきちんと読取が行われて通過できる。
はずなのだが……。
ピンポーン!
ジロイが改札機から抜き取った乗車券を受け取った彼女が、もう一度同じ機械にそれを通すと、またしてもアラームと共に扉が閉じてしまう。
「え、あれ? おかしいな……乗車券の利用期間は……合ってるし、当然未使用だし……うーん……。隣の改札機に通して見ますので、お待ち頂けますか?」
「え、えぇ……」
ジロイは困惑した様子で乗車券を凝視し、見た目には異常が無いと分かると首を傾げた。それから申し訳なさそうに柳眉を下げると、彼女を改札機前に待たせて隣の改札機に乗車券を通す。
しかし改札機は、音を立ててそれを拒んだ。
ならばとその隣で試しても、更にその隣でも、頑として彼女の乗車券を読み取る改札機は現れなかった。
その度にアラームの音が夕陽に鳴り響き、その音が影に反響する。
まるで彼女の乗車を阻み拒絶するかのようだった。
「えー? 本当に、読取異常? 磁気異常の間違いじゃあないの?」
最後の改札機でも拒まれたジロイが、改札機カバーを開けて不満げに言う。
「うーん……でも、時々、こう言うこともある、のかぁ……」
見えない角度で機械を触って何かを調べていたジロイは暫くぶつぶつと小声で呟いていたが、やがて渋々といった形で改札機から引き下がると、彼女に向き直って言った。
「ごめんなさい、お姉さん。どうも、うまくいかないみたいです。なので、これをお持ちいただいたまま、ここをお通り下さい。間も無く発車時間になります」
「……分かりました」
彼女は一つ二つと引っ掛かりを覚えたような感覚に陥ったが、特に深く考えることはしなかった。電車の発車時間が迫っていると言われた事もあるが、何より、特別急行の響きに好奇心が既に引っ張られていたからである。
さて、因みにこの時彼女の受け取った乗車券がジロイの言うように磁気異常であった場合、こちらは券自体に異常があるため読み取り自体が不可能であり、係員に対応してもらう他にない。
最も、ジロイの発言では、今回はそうではないようだが。
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