2駅目 nostalgie

【nostalgie】


 北国の春は遅い。

 世間が春だなんだと言って暖かい陽気に包まれている中、そこはまだ雪が溶けずに残り、空は重たい雲が青色を隠している。

 そんな中、俺は廃棄された鉄道路線のある場所に訪れていた。

 そこは四方を山林に囲まれていてひっそりとしているが、旅人向けの施設が併設されており、意外にも人の数は多い。

 だが不思議なことに、少し施設から離れると人足はいなくなる。

 こちら側とあちら側には策も仕切りも何もないのに、誰も廃棄路線の方へ立ち入ろうとはしない。

 現に降り積もった雪は新雪ではないにも拘らず、足跡が見当たらなかった。

「読めんな……」

 俺は雪を掻き分けながら、中途半端に溶けたそれが凍り付いた看板から氷を払い、文字を浮かび上がらせる。

『逢巡』と異国の言葉で書かれたそれは、所々掠れてもう殆ど黒ずんだ看板と同化しかけていた。

「逢い巡る……巡り逢うか」

「いい名前ですね」

 ふと背後から声がかかったので視線だけで一瞥すると、弟が看板を覗き込んでいる。

 足音がしなかった所を考えるに、俺の足跡を踏んでこちらへ来たようだ。

 さすがに血を分けた兄弟とあって、中々賢い判断をする。

「我々が考える駅そのものを表していると思います」

「そうだな。だがここで巡り逢う者は、もういまい」

 何故ならそれを作る存在が息を止めているのだから。

「あちらに、当時使われていたと思しき車両がありましたよ」

「そうか」

 弟に案内するように促すと、先に歩いていく。

 その後を、弟と全く同じ歩幅でついていけば、半ば雪に埋もれるようにして青と橙の客車が一台ずつ端座している。

 どちらも長い年月の間に日焼けしたらしく土埃を被っており、殆ど白に近いほどに脱色しくすんでいた。

 その隙間を縫うようにして先に進むと、真っ黒い重厚な車体が背を向けて佇んでいて、その隣に駅舎らしき建物が見えた。

 殆ど固まった雪は溶ける気配も見せずに蔓延っていて、ホームと線路の境目を包み隠している。

「静かな場所だな」

「えぇ。不思議なことに、私たち以外に誰かが足を踏み入れた形跡がありません」

 見回してみても、ここに来た足跡は俺たちのものを除いて何もない。動物のものらしき跡はあるものの、人のようなものは見当たらない。

 すぐ側に旅人用の施設があって人が行き交っているというのに、誰もこちらへ興味を示していないようだ。

「…………」

 見た目よりもずっと深い雪の中を、俺はなるべく固まった場所を選んで歩き、重厚なその車体の側に並んでみる。

「……除雪車か」

 車体の前部から張り出した分厚い装甲板のような物が車輪のすぐ側まで伸びており、頭部に灯台のような大きな三つのライト(真ん中が一番大きい)が取り付けられている。

 恐らく装甲板は走行しながら積もった雪を外へ掻き出すためのもので、大きなライトは舞い上がった雪煙に視界を塞がれないためのものなのだろう。

「随分と古いタイプですね、これ」

 ついてきた弟がそんなことを言う中、俺はに上れそうな場所を見つけてそこに足をかけ、取っ手のように出っ張った部分を掴んで身体を持ち上げた。

「兄上?」

 そっと尋ねてきた弟の声を聞き流し、狭い足場をなるべく大股で進んで車両の中に足を踏み入れる。

 車両前部にはこの重厚なる〝彼〟を動かすための機械が複雑に組み込まれており、掠れた白い文字で開閉や左右といったことが書いてあった。少し横に視線を移せば、配電盤のような物が設置してある。恐らくこれは客車の扉の開閉などを司る機械なのだろうが、スイッチに当たる部分が殆どガスコンロのような取っ手で、冷房なども操作していたのだろうかと覗き込むも、小さな文字は掠れて読み取れなかった。

 窓の向こう側は、雨で中途半端に流れ出した埃がこびり付いていてよく見えない。

 後部に目を向けてみると、小さな部屋がある。窓の下に取り付けられた机と椅子、その上にある小さな白光灯、その隣にあるのは客車にありそうな長椅子だ。上に金網もある。

 なるほど、ここは仮眠室で、後ろは操縦室か。

 あの長椅子はベッド代わりに付けられているもので、交代々に仮眠を取りながら、もしくはあの机でダイヤの確認や日誌の記帳などを行っていたのだろう。

「随分と質素な……いや、俺基準で考えるのは良くないか」

 雪を外へ掻き出して線路を作る、なんて、俺たちの世界ではもはや時代遅れだ。

 雪で線路が埋もれてしまった時、俺たちが使うのは除雪ではなく融雪だ。便宜上除雪車とは呼んでいるが、その実態は熱で線路上とその周囲を溶かし殆ど完璧なコンディションに戻している。

 話が逸れてしまったが、ここにもやはり人が訪れた気配はない。

「…………」

 なのにどういうわけか、不意に鼻腔を不思議な薫りが擽った。

 長い間仕舞われてカビの匂いが移ってしまった衣服のような、けれど陽だまりの中で乾いた衣服のような、懐かしさを感じる薫りが。

 気付かなかっただけで誰かいるのかと思い振り向くも、やはり誰もいない。

「…………気の所為、か?」

 仕方なく元来た通りに足を運んで車両の外に出ると、弟は律儀にもその場で動かずに待っていた。

「何かありました?」

「いや。特に、何も」

「そうですか」

「仕組みを見るに、雪を外に押し出して走ってたんだろう」

「……疲れるでしょうね」

「そうだな。だが、ヒートよりかっこいいんじゃないか?」

「そうですね。強そうです」

 弟は肩を竦めて苦笑する。

「質実剛健というやつですかね」

「そうだな。彼が走っている所を見た事がないから何とも言えんが、そんな気がするな」

 除雪車に一度別れを告げ、俺は今度は駅舎に向かう。

 やや簡素な造りのその建物は、驚いたことにガラス戸だった。

 ほつれた蜘蛛の糸や虫の死骸が縁にこびり付いているが、取っ手の周りはどういうわけか比較的綺麗だ。

 触れてみるが、凍ってしまってくっ付いているのか鍵が掛かっているのか、ガラス戸はぴくりともしない。

「……開けられそうか?」

「ちょっと待ってください」

 俺が一歩横にずれて訊ねると、弟はそっと鍵穴に指先を当てた。それからガラス戸の縁に指を翳すと、すっとなぞるように動かした。

「開きました。どうやら、氷でくっ付いていたようです」

「そうか、すまんな」

「いえ、大したことではないので大丈夫ですよ、兄上。そうだ、寒かったら言ってください、防寒のまじないを施します」

「いや、まだ大丈夫だ」

 弟の気遣いに礼を言いつつ、ガラス戸を横にスライドすると、驚くほどスムーズに開いた。カラカラと音を立てて、部屋の入り口が開かれる。

 どうやらここは待合室のようだ。

 左側の壁際には長椅子があり、その上には時刻表と旅客運賃表が、右側には受付窓口がある。

 正面の窓の上には古いカレンダーと共に旅客運賃と特急料金の書かれた看板が吊り下げられていて、そのどれもが手書きのような白字で記載されていた。

「随分と高いですね。それだけ、景気が変動したということでしょうか」

「一理あるな。当時は、これが妥当な値段だったのかもしれん」

 旅客運賃表を見上げながら言う弟に、そのすぐそばに額縁に入れて飾られていたセピア色の写真を見ながら俺は頷いた。

 三十人ほどの鉄道員の集合写真だ。皆敬礼をしながら、カメラに向かって笑っている。

「…………同じだな」

 皆仕事に誇りを持っていそうな顔だ。

 俺は自然と口元を緩めていた。

 窓口を覗くと、当時使っていた物が丁寧に並べられていて、一番手前には机を挟んで向かい合うようにして制服がかけられている。

 くたびれてはいるが埃を被っていない辺り、ここは誰かの手が入っているようだ。

「駅長と駅務、ですかね」

「いや、助役だろうな。駅長室らしき物は見当たらなかった」

「反対側にも行ってみます?」

「…………」

 弟の声に、俺は少し躊躇した。

 ここは時が止まっている場所だ。

 使用者の消失と共に存在意義を無くし、ただそこにある事しか出来なくなった道具の成れの果て。

 動いていた歯車が止まったままの、生きながらにして呼吸を止めた、永遠の寝床がそこにある。

「…………いや、やめておこう」

 俺たちのような存在が足を踏み入れてしまったりしたら、下手な希望をもたせてしまう。

 もう無用の長物なのだと悟り、抗うことを諦めたに勘違いを与えて目を開かせてはならない。

 熱意とは、そう簡単に冷めるものではないのだから。

 それに……やはりか、外にがいる。

 間違いなどではなかった。

「あそこは、閉ざされた時のままにしておこう。不躾に入るものではないし、無闇に眠っている想いを起こすものでもないからな」

「……そうですね」

「それに、も、それを望んでいるとは思えない」

「えっ?」

 俺が首を巡らせて駅舎の外を見ると、弟はがばりと振り向いた。

「なっ……」

「すまない。俺たちは、ここに馴染みのある者ではないんだ」

 ガラス戸に隠れるようにして(と言ってもガラス戸だから見え見えなのだが、恐らくそれが分からないのだろう)、白い人影がこちらを窺うように立っている。

 それは窓口の向こう側に飾られている鉄道員の制服と同じ物を着ていた。が、一見すると軍服にも見えるのは、腰回りや右腕上腕部に鎧のような装甲を付けているからだろう。

 制帽を目深に被っている所為で顔がよく見えないが、まだ若い青年の姿を取っている。

 俺が言うと、それは慌てたようにガラス戸の向こうでしゃがみ込んだ。

 どうやら気付かれていないと思っていたらしいが、当然そんなことをしても、その位置だと見え見えだ。

「……見えているぞ」

 俺がそう言うと、それは傍目にも分かるくらいにギクッとしてから、恐る恐るといった様子で出てきた。

「兄上、あれは? 【妖霊】ですか?」

「構えなくていい。あれは【妖霊】なんかじゃなく、もっと純粋で珍しいものだ」

 俺が片手を挙げて制すると、弟は言う通りにして俺の後ろに並ぶようにして立った。

 白い青年は、無言でこちらを窺っている。

「おまえ、付喪神だろう?」

「えっ!」

 俺が努めて優しい声で訊ねると、弟は驚いたような声をあげて、はそれと殆ど同じ反応を返した。

「付喪神……って……兄上、ここが使われなくなったのは、日付を見る限りまだ六十年ほど前ですよ。付喪神は……」

「あぁ、だから彼は、まだ少し不安定なんだな」

「どういうことです……?」

 付喪神は読んで字のごとく道具に宿る神だ。

 またの字を九十九神と書くが、これは百年経った道具に魂が宿るからとされたからだ。しかし実際の所、百年経った道具に必ずしも憑くというわけではなく(そもそも百年の年月で道具が化けるなら、俺たちの世界は付喪神だらけだ)、使い続けていた人の想いが強ければ強いほど生まれやすい。

 言うなら人の想いや願いが心となり彼らに実態のない魂を与えるのであって、百年というのは万人に認識できるほどその存在を確立するための年月だと俺は思っている。

「ここは、時代の流れについて行けずにその呼吸を止めた場所だ。まるで現実の時から切り取られたような、懐かしさにも似た物悲しさを感じさせる」

「……確かに兄上の仰る通り、ここはどこか非現実的なものを感じます。ですが、それとこれと、何の関係が……?」

「まぁ待て。説明するより理解した方がいいだろう。お前はここに来て、何を感じた?」

「え……? 少し待ってください」

 弟は突然の質問に戸惑ったようだが、少しの間思案してから答えた。

「暖かみ、ですかね。あの窓口の向こう側にある道具にしろ、あの手書きの文字にしろ、とても丁寧に扱われていた事が窺えて、目を閉じれば当時の雰囲気が浮かぶようです」

「それだよ。それだけここを使っていた人たちの想いは強かったんだ。きっとここが廃棄路線となることを快く思わず、悲しんだだろう優しさや、熱意に満ちた想いがな」

「もしかして、それがあれを生み出した切っ掛けだと……?」

「そうだ」

 俺が指摘するとは驚いたようだが、その後弟の言葉を肯定すると、照れたように後頭部を掻きながら、けれど嬉しそうに笑った。

 まるで子供のようにわかりやすい反応の仕方だ。

「とはいえお前が言ったように、使われなくなってまだ六十年しか経っていない。だからまだ、少し幼いな」

 むしろあれは、まだまだ生まれたてのように思う。

 だからこそ、表情を隠そうともせずに反応が無邪気なのだ。

 それに、話す力もないらしい。

「ですがここに来た時は、何も感じませんでしたよ」

「恐らく俺たちがここに来たことで起こしてしまったんだろう。俺たちはこの世界でではないが、ここにいた者たちのように鉄道を動かす仕事をしているからな」

 そう。この世界とは異なるが、俺たち兄弟は大きな鉄道会社の中枢駅で駅長として働いている。この世界よりもずっと厳しいし複雑な駅も多いが、鉄道に対する想いは変わらない。が現れたのも、それが原因だろう。

 もう使われることのない駅に、鉄道が何たるかの心得が備わった者が足を踏み入れ物色していれば、また使ってもらえるのかと思ってしまうのは当然だ。

「おまえは、何の付喪神だ?」

 俺が訊ねると、は外に出て得意げに黒い除雪車を指差した。「あれだよ!」と言わんばかりの笑みと共に。

 嗚呼、矢張り。

 俺はついさっき、あの車両によじ登って中を覗きに入った。

 あの時に感じた薫りは、気の所為ではなかったのだ。

「そうか。……車両がかっこいいと、付喪神もかっこいいんだな」

『…………!』

 俺が言うと、はパァッと頬を染めた。全身から溢れる喜びは、微笑ましさと同時に哀愁を漂わせる。

 もう動くことのないは、けれど自分をわかってくれる者に出逢えて嬉しいのだろう。

「……おまえは、ここを使ってくれていた人たちが好きだったか?」

 俺が更に訊ねると、こくこくと首を振る。

「そうか。ではおまえは、走ることが好きなんだな」

『!』

「……」

 やはりここは、歯車が止まってしまった場所だ。

 時代に取り残されてしまった、自分たちが存在していた中で最も華やかであったその瞬間を忘れることも出来ずに全ての鼓動が止まってしまった、口利かぬ過去だ。

 線路を駆けて生きることも出来ず、かといって博物館で剥製になることも叶わず、記憶を失うことも許されずに雨風に晒される外にただ静かに佇むだけのは、歩みを止められてしまったが故に、現在を知らない。

 だから自分たちが今の時代には時代遅れで、更に油を差されることもなく手入を施されていない有様では、再び走り出すことなど到底無理なことを知らないで、誇りを希望にまた大好きだった人たちが帰ってくるのを待ち続けている。

 だがこの場所はどういうわけか人が立ち入らないから、息を止めて深い眠りに就いているのだ。

 いつかまた、走り出せると信じて。

 故にそれに対しての心得のある俺たちの存在が気になり乗り込んできた俺に反応して起き出してきたのだろう。

「だが、すまないな。俺たちには、おまえを動かす力がない」

『…………』

「申し訳ない」

 俺の言葉に望みが叶わないことを知ったのか、は少し悲しそうに俯く。

 の純粋さを思えば胸が痛むが、仕方のないことだ。

 この場所はもう現実のものではないのだから。

 だがは、次の瞬間、思い直したように首を横に振る。

 それから顔を上げると、俺と弟を交互に指差しそれから右手で三本指を立てた。

 一緒になってパクパクと口を動かしているから、何かを伝えようとしているのだろうが、残念ながら読唇術の心得のない俺にはよく分からない。

 何とか理解しようとしていると、弟が「なるほど」と呟いたので、俺はそちらを見る。

「わかるのか?」

「えぇ。恐らくですが。兄上と私を合わせて、に話しかけてくれた人が三人目で、それだけでも充分に嬉しいと言いたいようです」

「そうなのか……?」

『……!』

 は弟の言葉に頷いた。伝わったと知るや更に何かを伝えようとする。弟が一歩前に出てきて、俺の代わりに理解しようとしてくれた。

「ですがどうやら、前にきた者は付喪神を視認できる人ではなかったようですね。それでも遺った想いを感じ取れる感性はあったようで、に色々なことを話したそうです。目の前にいるのに気付いてもらえなかったのは悲しかったが、その人から感じられた敬意や慈愛がそれを補って余りあるほどにとても嬉しかった。…………合ってるか?」

 弟の確認に青年は喜色満面で首を振る。意思の疎通ができると知ったは、興奮したように口を動かした。

「…………兄上、どうやら私たちの話が聞きたいそうです。それから、自分の話を聞いてほしいと」

「……まぁ、少しくらいなら構わんだろう。いいぞ」

『……!!』

 せめてもの侘びだと思い、俺は弟に通訳を頼みながらと話をしてやった。

 どうもは聞き上手だったらしく、気付けば日が傾いていて、辺りが薄暗い闇に包まれかけている。

 いい加減、戻らなければならない。

「…………さて、俺たちはそろそろ帰らなければならん。名残惜しいが、この辺でお別れだ」

『…………』

 は少し寂しそうに項垂れたが、ふるふると頭を振ると俺たちが来た方を指差した。

「見送りたそうです」

「ならお願いしようか」

『……!』

 は見送りだと言うのに先導するように前を進んだ。

 当然と言うか案の定というか、彼の進む場所に足跡は付かず、また雪を踏みしめる足音も俺たち兄弟のものだけだ。

 だがさすが除雪車の付喪神というべきか雪の深さを知っているらしく、浅い場所を選んで進んでくれているおかげで歩くのに然程苦労をしなかった。

「なんと言うか、憐れですね」

「そうだな。だがある程度は仕方ないと見切らねば我々は先には進めん。あまりに感情移入してしまえば、歩みを止めるばかりか置き去りにされることに耐えられなくなる」

「そうですね。…………しかし、のような存在が早くから顕現してくれていたのなら、救われていた人がもっといたのかもしれません」

「過ぎた話だ。それにあいつはそこの所はちゃんと理解できていた。ただ割り切る前に、心に打撃を受けてしまっただけだ」

「……残酷ですね」

 微かに憐れむような声になった弟に、俺はかなり躊躇った後に「そうだな」と頷いた。

 時代に求められ、時代と共に時を歩み、時代によって捨てられる。それが人に造られた物の逃れられない宿命だ。

 どれだけが「まだ動ける」「壊れていない」と声高に叫んでも、その声は届かない。

 だからこそ「終わり」を告げてやらねば、歴史の流れに殺されたことすら分からずそこに存在し続ける。

 現に、も言った。

『自分たちを動かす人たちはいなくなってしまったけれど、でもまだ線路も駅舎も残っているし、僕もまだいるからみんな希望を捨ててないよ』、と。

 知らないのだ。もうそこに、の主が戻ってくることがないことを。

 あちらの部屋に入らなくて正解だった。

 止まっている歯車を誤作動させるものではない。

『…………』

 が止まる。

 そこがなのだと知るのに思考は要らない。

「急に訪ねてきてすまなかったな」

「楽しかったよ」

 弟と両脇をすり抜けて言えば、彼はにこっと笑って敬礼し、空いた手を振った。白い手がひらひらと舞う。

 月明かりも星明かりもない暗闇に浮かび上がるその姿は、ひどく物悲しく見えた。

 手を振り返して背を向け別れを告げて暫くした後、弟がポツリと言った。

「確かに、逢巡という名前の駅でしたね」

「……そうだな」

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