終着駅の向こう側短編シリーズ

鮫と名の付く鱏

1駅目 逢魔時


 昼間は焼け付くように照り付けていた太陽は、今や地平線の彼方に沈もうとしていた。

 つい先ほどまで真上にあったかのような気がするのに、いつの間にか時間が経っていたようだ。

『1番線、最終列車です』

 波間を縫うように響くアナウンスが、一日の終わりを明確に告げる。

 照り付けるような陽射しが消えて、あんなに眩しかった太陽が優しい光に変わるこの時間が、私は好きだ。

『発車します』

 一言短い声が響いて、それまでそこにいた銀色の車体が、少量の乗客を乗せて波の狭間に滑り出していく。

 小さな飛沫をあげながら橙色の光に染まっていく車両がいなくなると、プラットホーム全てが夕陽に暴き出される。

 最終列車のいなくなったこの駅は、職員たちを残して空っぽだ。その職員たちも、何を言うでもなく必要最低限の確認や挨拶だけを交わして静かに駅の点検や整備を行うから、時折響いてくる機械音や金属音を除けば木霊し続けるのは打ち寄せる波の音だけ。

 街中の駅であればお喋りな駅員たちだが、ここに来ると皆静かになる。

 恐らくはここが唯一、比喩表現ではなく海の真上に存在する駅だからで、白波の弾ける心地良い音に皆聞き入っているからだろう。

 そして何より、夕陽が綺麗だ。

 赤々と照って青い水面を紅色に染め変えるこの時間の夕陽は、美しさを持ちながらも、どこか終末的な物悲しさを孕んでいるように思う。

 現に、揺れる海面とその周囲は観ていて飽きない程に美麗なのだが、ふと視線を背後に向ければ真っ黒な影が至る所に蔓延り、出逢ってはならない存在に接触してしまうのではないかという不気味さを醸し出している。

「トワイライト」

 ふと背後から声がしたので振り向くと、兄上が銀色の瞳を染めて紅く光る天体を映していた。

「夕暮れは、太陽神が眠りに就く支度をするために、その獰猛なまでの熱と輝きを失うと言うな。逆に言えば、昼と夜の境目の証であり、夜に生きる魔物たちが活動的になり始める時間だ。極東の言葉では、魔物に遭遇しやすいという意味で、『逢魔が時』と言うらしい。黄昏時というのは、相手が誰なのかを確認するための『誰そ彼は』から転じた言葉のようだ。確かに言われてみれば、塗り付けたような影に染められて、遠くの相手は顔がよく分からんな」

 私よりもずっと饒舌な兄上は、そんな事を言ってにやりと笑った。

 そしてまた続ける。

「所で北の大地の民族たちは、日が沈むことを太陽が死ぬことと捉えていたらしい。そうして翌朝になると蘇り、新しい太陽として生まれ変わるのだと。故に不死身の象徴なんだそうだ。生まれ変わるのはともかくとして、死ぬというのは理解できんこともないな。今の太陽は、燃え尽きる寸前に見えなくもない」

 生死を繰り返す、か。

 なるほど、それは言い得て妙かもしれない。

 煌々と照るのではなく、どちらかと言えば粛々とした光を放つ光玉は、海に呑み込まれるのを怖れて悲鳴をあげているようにも見える。

 そう考えると、なるほど、あの星も生きているのかもしれないと思えた。

 私が感じる物悲しさは、これだったか。

「もうすぐ、水平線に触れそうだな」

 水面の真上に差し掛かった太陽は、引き込まれるように暮れる速度をあげる。昇りきって傾くまでとてもゆっくりとしているのにここに来てその速さを増すのは、生命力が削がれて瀕死になりつつあるからだと思うと、少し兄上のような気分になる。

 視線を逸らして脇に滑らせれば、濃い黒の影がその背丈を伸ばしてきて、照明灯などの光を避けながらその勢力を広げていた。

「あぁ、ほら、間も無く陽が消える」

「…………」

 私は珍しく弾んでいる兄上の声を耳に流しながら、兄に気付かれないようにその横顔を盗み見る。

 弱くなってきた橙色の陽光がくすんだ翳りを浮かび上がらせて、こんなに至近距離だと言うのに暗い。

「夜になるな」

 いつになく上機嫌の兄上の声には現実味がない。

 波の音の所為だろうか。

 まるでこの場所だけ世界から切り取られたようだ。

 この異世界に入り込んだような感覚も、私がこの時間帯が好きな理由の一つだが。

「助役ー」

 その時、遠くから誰かが呼ぶ声がした。その瞬間だけ、水滴が弾けるように世界が彩られる。

「では、また後でな」

 その声に返事を返した兄上は、するりと身を翻して去って行った。

 夜の帳は確実にその裾野を広げていき、今や照らし出されているのは半分ほど海面に沈み込んだ太陽のほんの周囲だけ。

 逢魔が時。一日の中で最も魔物に遭遇しやすいという時間は、間も無く赤色の消失と共におわりを告げるのだろう。

 そんな事を考えていたら、太陽は世界の裏側に消えて行った。抗うような一筋の光の柱が溶けるように消えて、水面は水飛沫すらも濃紺に変わる。

「夜になったな。帰るぞ、連中の報告を聞いてやらんといかん」

 いつからにいたのか、どこかへ行ったはずの兄上が私の肩を叩いて言った。

 銀色の瞳は私を映している。穏やかに凪いだそれは、夜空に散らばる星の光を彷彿とさせる。

「行くぞ」

「はい、兄上」

 兄上の後ろについて行きながら、『兄上は夜の住人なのかもしれない』などという無粋なことを、ふと考えた。

「そう言えば、夕暮れ時の陽が沈むまでの間に出会す魔物が一番危険で質が悪いんだそうだ。なんと言ったかな……極東の言葉なんだが、魔物に逢うと書いて……」

「逢魔が時ですか」

「そうだ。なんだ、詳しいじゃないか」

「客人が話していたのを、聞いただけです」

 私は兄上の言葉にそう嘯くと、話の続きを促した。

「その時に出会す魔物には、口を利かん方が賢明だそうだ」

「口を利くとどうなるのです?」

「付け入られるそうだ。一日の終わりが間近とあって気が抜けているから、心に隙ができるのだろうな」

 私たち以外に誰もいなくなったプラットホームに、兄上の声が波の音を躱して響く。

「海の魔物はえげつないのが多いからな、関わらんに越したことはない」

 夜は夜の生き物の活動時間帯だ。元々人の手の入っていなかったこの場所は、特にそういう傾向が強い。

 だから他の駅に比べるとずっと早い、日暮れ頃でダイヤが終わる。次の日の朝が来るまでの駅の様子なんて誰も知らないし、知ろうとも思わなければ知って得するものでもない。

 私と兄上であれば、よっぽど質の悪い強力な力を持ったものでない限りは打ち倒せるので、別段恐れる必要はないのだが。

 とは言えそれを進んでやるつもりはないし、やる意味もないので暗黙の秩序に従っている。

「そうそう、逢魔が時の魔物は、身内とか近しい人の姿で出てくることが多いらしいぞ」

 昇降口の入口に足を踏み入れた兄上が、思い出したようにこちらを仰ぎ見た。

「身内の姿で、ですか」

「あぁ。その方が油断する、というのを知ってるんだろうな。とはいえ、何故俺たちの身内を知っているのか、少し気味が悪い」

 私が聞き返すと、兄上は何でもないことのようにさらりとそう言って、けれど呆れたように笑った。

「私は、兄上のことを間違えたりしませんよ」

「そうだな、俺とお前には、意味のない話だな。消灯、頼んだぞ。助役連中を待たせているんだ」

 得意げに私が言うと、兄上は肩を揺すって笑いながら、夜をまだ避けている光源を指差した。

「駅長、まだですか? 主任が……」

「悪い、今行く」

 それから兄上を呼びに来た駅務係に返事を返すと、「それじゃ、頼んだ。後で飯でも食いに行こう」と言い置き、背を向けて階段を降りていく。

「…………さて」

 私は一つ息を吸ってから、「Quenching」と唱えた。途端に、プラットホームの灯りが抜き取られ、全て掌に集まる。瞬く間に、闇が辺りを埋め尽くした。

 光球を手にする私の周りだけが明るい。

「橙色なら、良かったかな」

 そんな冗談を呟くと、視界の隅で何かが蠢いていた。ちらりと視線だけで一瞥すると、真っ黒い闇の中に濃い影が立っている。

 よくよく見れば、光がなくなったことでプラットホームの至る所に何かが上がり込んでいる気配が感じられた。

「残念だ」

 私は最も近くにいる影に向かってそう一言だけ煽り文句を投げつけると、兄上の言葉を思い出す。

 さて、私に話し掛けてきたあの兄上は、

 その答えを示すように、私の周りに徐々に何かがにじり寄ってくる。

 私は光球で足元を照らし階段に足を踏み出しながら、独り言ちた。

「無言の兄上か……見てみたい気も、しなくはないな」

 あの口振りから察するに、兄上の所にもが現れたのだろう。

 でも兄上は聡明な人だから、きっと無言でいる以外のことをしたに違いない。

 私の無駄な思考を断ち切るかのように、一際大きな波が砕ける音がした。

「……本日の運行は終了しました。………………またのお越しを」

 私は光球を光の粒子にして霧散させてから、兄上の後を追って階段を下る。

 夜の闇が下りきって私を捉える前に、私は段差から飛び出した。

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