アマドコロのせい


 ~ 六月八日(金)

     ワンダーフォーゲル愛好会 ~


   アマドコロの花言葉 小さな思い出



 ぽたり。ぽたり。

 体から、絞り出されるように汗が湧く。

 

 顎先はおろか、鼻の頭はおろか。

 前髪から、瞼から粒が滴るほどに。


 ぎしり。ぎしり。

 背で、肩で、ザックが喘ぐ声がする。


 俺の歩みに合わせように息を突き。

 振り落とされないよう、必死にしがみつく。



 いくつの峠を越え。

 いくつの谷を渡り。


 たまのなだらかな道に。

 ようやく背を伸ばすと。


 汗がこめかみから。

 耳たぶへと伝うのを感じた。




 ――登山とは、なにか。




 重い荷物を背負って。

 ひたすら坂を登る行為。


 そこに勝者や敗者は無く。

 ならば求める物は。

 達成感なのか。

 誰も知らない景色なのか。


 答えが見つからない。

 見つからないうちに。

 再び視界が、急こう配に埋め尽くされる。


 絶望的なのに、なぜだろう。

 足は自然と段差にかかる。


 登山とはなにか。

 その意味など分からないのに。

 足は自然と体を持ち上げる。



 腿を上げ。

 力をこめ。


 ……あるいは答えを見つけるために。

 俺は繰り返すのか。



 喉が笛のように鳴るみっともなさも顧みず。

 体中を伝う汗を拭う気力も湧かぬのに。


 なぜ、意味無き歩みを。

 俺は繰り返すのか。



 人生は、よく登山に例えられるが。

 こんなにも険しく、果てしない道に。

 俺はまだ。

 足を踏み入れる覚悟が出来ていない。


 すぐ目の前で。

 始発で帰り、数時間の仮眠を取って再び戦いに行く人を。

 本当にすぐ目の前で見て過ごしてきたというのに。


 もうすぐ、自分の番が始まる。

 果たして俺は戦うことが出来るのだろうか。

 ……それ以前に。

 そんな荒波に飛び込む覚悟が、あと二年の間にできるのだろうか。



 登山とは、なにか。

 ひょっとしたら、人生を開始する、その覚悟を持つために。

 神様が準備してくれた、教科書なのかもしれない。


 でも、そんな教科書を開いたところで。

 覚悟どころか。

 不安しか感じることが出来ない。



 だって、ひとたび舟をこぎ出せば。

 旅の終わりは。

 人生の最果てが意味するものは。


 ……こんなに苦労して。

 果たして、そこにたどり着くことが。

 本当に幸せなのだろうか。


 逡巡する心とは裏腹に、足は進む。


 ぽたり。ぽたり。

 汗を流し。

 

 ぎしり。ぎしり。

 背を鳴らし。


 まるで神様がそう作ったかのように。

 俺の足は。

 勝手にそこへ向けて、登り続けるのだった。



 ……

 …………

 ………………



 今まで三回。

 折り返しの証拠としてノックし続けていた扉が、開け放たれていたので。

 そこがゴールと知って、肺の中の空気が自然と全部出尽くしました。


 一時間半。

 登って降りて。

 登って降りて。

 登って降りて。

 そして登って。


 永遠に続くと思われたトレーニングは。

 意外にも、スタート地点の備品倉庫では無い場所で幕を閉じ。


「登頂、おめでとう!」


 そんな祝福と。

 盛大な拍手に迎えられたのです。



 ……おめでとう、ですか。

 はい、確かにめでたいのかもしれません。


 でもそれは。

 頂にたどり着いたおめでとうではなく。


 この苦悩が終わる。

 果て無き歩みが、今終わる。


 ただ、そのことをめでたいと思うのです。



 ……ならば。

 はなから登る意味などないではないのではないでしょうか。



 『登山とは、なにか』



 答えも結局見つからず。

 ただ、無言でザックのベルトを外し。


 重荷から解放された体を。

 学校の屋上へ、大の字に横たえました。



「……ふう。達成感ありますね……」

「ぜへっ! ぜへっ! ……た、たっせ……感、ない……。でも、夕焼けは綺麗……」


 俺の後ろを歩いていた二人も。

 今、ようやくゴールイン。


 爽やかな笑顔で汗をぬぐう。

 大人しそうな見た目に反して持久力がある方は、雛罌粟ひなげし葉月はづきちゃん。


 俺同様、屋上へ大の字になった。

 底なし元気印な見た目に反して持久力が無い方は、六本木ろっぽんぎ瑞希みずきちゃん。


 そして意外にも、俺より先にゴールインした挙句。

 トレーニング用の重しが入ったザックを下ろしもせずに。

 屋上の柵へ手をかけて、夕焼け空を見つめるのは、藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪を、あご紐付きの登山帽へ押し込んで。

 まるで帽子の装飾のように。

 白いベルのようなお花が順番に並んで下がるアマドコロをひと房、横に挿しています。


 そんな穂咲が見つめる先。

 寝ころんだ視界を斜めに倒すと。


 夕焼け空に、深い紫色をした長い長い雲がいくつも並んで。

 幻想的な赤い海を行く海竜のようなのです。



「おーい、体験入会のみんな! 紅茶が沸いたぞー!」



 俺たちを呼ぶ声が聞こえてから。

 たっぷり三十秒かけて皆さんの元にようやくたどり着くと。


 暖かい紅茶とビスケットを手渡され。

 どうしてでしょう。心の底からの『ありがとう』を口にしました。


 俺たちよりも重い荷物を背負って歩いたというのに。

 お茶の支度やらザックの手入れやら、きびきびと動き回っていて。

 身も心も鍛えられた皆さんは、ほんとにかっこいいのです。


「では改めて。登頂おめでとう! 乾杯!」


 無口な会長さんの代わりに。

 俺たちの面倒をずっと見て下さった副部長さんが音頭をとると。

 一同揃って、マグカップを掲げます。


 カップをお互いに打ち鳴らすことなく。

 高々と掲げるだけの乾杯。


「……これ、小さな頃やった覚えがあるの」

「乾杯を? こんなの、どこでだってやるでしょうに」


 どういうわけか、ザックをずーっと背負ったまんまの穂咲が隣に座って。

 首をふるふると左右に振ります。


「リュックをしょって、山に登って、夕焼けを見てたらね?」

「うん」

「……パパが、銀ピカのマグカップに紅茶を淹れて渡してくれたの」


 昔の記憶を探りながら、ぽろりと涙をこぼす穂咲。

 そんな姿を見て、みなさん驚くものだと思ったら。



 揃いも揃って、優しい笑顔を浮かべていらっしゃるのです。



「……山は、十字路。……未来と過去が、交差する場所」


 そして、無口な会長さんがぽつりとつぶやいた言葉を。

 皆さんは胸に留めて、目をつむって。

 その言葉の意味を、自分自身にてらして噛み締めているようなのです。


 だから、俺も真似をして。

 目をつむって、考えてみます。



 ――山の稜線を往くと。


 ふっと過去へ転がり落ちたくなったり。

 ふわりと未来へ飛び立ちたくなったり。


 そんな気分になるのでしょうか。


 でも、そんな気持ちに襲われたとしても。

 俺は皆さんと違ってヘロヘロでしょうし。


 疲れて、余計な体力を使いたくないから。

 どっちにも踏み出さずに、確実に現在を歩き続けると思います。



 ……そう。

 一歩一歩。


 今を歩くと思います。



 ……

 …………

 ………………



「登山って、どんなものか分かったかい?」


 一体どれくらい考え込んでいたのでしょう。

 気付けば俺たちの正面に。

 笑顔の優しい副部長さんが腰を下ろしていていました。


 そんな彼が投げかけてきた質問に。

 真面目な葉月ちゃんは。


「は、はい。スポーツだなって思いました」


 そして感受性豊かな瑞希ちゃんは。


「あたしは、観光なのかなって。誰も見たことのないものが見れるとか、ロマンですよね!」


 二人は、そう答えました。



 重い荷物を背負って坂を登る間はスポーツ。

 そして見事な景色を楽しむ間は観光。

 二人の言いたいことは分かる。


 でも、そのいずれでもないと。

 俺は思います。


 スポーツだったら、もっとスマートで楽しい競技はごまんとあるし。

 観光だったら、乗り物で行けるところで充分に綺麗な所があるし、なんだったら写真で十分なのです。



 ――登山とは、なにか。



「じゃあ、君の答えは?」


 副部長さんが。

 俺の目を見ながら問いかけます。



 ……誰かと競う訳でもないのに。

 こんなに苦しい思いをして。

 へろへろになって。


 そうして手に入れた景色も。

 今、頭上に広がる絶景と、きっと大差など無いのだろうし。



「……俺には、分かりましたよ」



 副部長さんに向けて一つ頷くと。

 にっこり笑って先を促されたので。

 俺なりの答えを言いました。


「苦労してバカみたい。時間の無駄遣いです」


 これを聞いて、皆さんの前でなんてことを言うのかと目を丸くする一年生二人。

 でも、そんな彼女たちを尻目に。



「……俺も、そう思う」



 無口な会長さんがそう言うと。

 愛好会の皆さんは、心から楽しそうに笑ったのでした。



 ……登山。

 これは。



 やめられそうにないものを見つけてしまったかもなのです。


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