第14話 7月〜8月 アカネとブログ
大学の前期の試験を終えた僕は意気揚々としていた。しかも、今夜はベース教室だ。ベースを習うのも音楽の扉を一つ一つ開けていくようで楽しいが、それ以上にアカネと一緒に過ごす時間が楽しい。不埒なベーシスト初心者だなと自分のことを思った。
不埒に見えて求道者の正宗を見習わなければいけないのかもしれない。正宗は練習をあまりしなくても天才なのに、毎日深夜までギターを練習で弾き倒し、ボイストレーニングも日々欠かさずに行っているという。練習でギターを手に持ったまま、気付いたら翌日の朝だったということもざらにあるようだ。大学の授業中に机の下で指を動かすトレーニングもよくしている。正宗に「練習熱心だね」と言うと、正宗は「プロを目指す人は皆それくらいやっているんだよ」なんて平然と言ってのけた。
中高と男子校で女性に免疫がなかった僕も、万里との5回のデート以来、屈託なく女性と話せるようになってきていた。アカネ以外の女性と話す機会はそれほどというかほとんどないので、「女性と」というよりも「アカネと」といった方が正確か。アカネとは自然に会話できる。
万里とデートしていた時は、会話で言葉に詰まることがあったのだが、アカネと話していると自然と次に話す言葉が頭の中に浮かんでくる。女性に対して免疫がついてきたという理由だけでなく、アカネとの会話の相性もあるのだろう。アカネが僕に対してどう思っているのかは分からないのだけど。
ベーススクールに4月から通い始め、毎週アカネと共に駅までの短い帰り道を楽しく話しながら歩いている。緊張するが、今日こそアカネからメールアドレスを聞きたいと思っていた。
そして、ベース教室の時間が終わり、アカネと二人で駅まで帰る道で――
「今日の早瀬先生の雑談も面白かったね」と僕が話を投げかける。
「そうですね」アカネはうなずく。
「まさか、メタルバンドのクリーピーデーモンの一作目をフージョンバンドのアルタイルが弾いているとは知らなかったよ」
「アルタイルがわざと下手に弾いていたという話でしたよね」
「評論家たちもまんまと騙されていたと言っていたね」
「私、世間知らずなので、そんなことが普通に行われているなんて今日の話を聞くまで知りませんでした」
テンション高めの僕に、それに遅れまいと着いてきてくれるアカネ。流れるように話は弾み、アカネも口元をほころばせる。今なら――
「ねえ、佐藤さんのメールアドレスを聞いてもいいかな」心拍数がぎゅんと上がる。
「いいですよ」
まさか、即答がもらえるとは思っていなかった。僕は心の中で誇らしげにガッツポーズした。
「でも、仲村さんはラインをやっていないんですか?」
「ああ、僕は友達があまりいないからラインをやる必要もなくて」
そうか今時の子は(自分も今時なはずだが)、みなラインでやり取りしているんだな。メールアドレスを教え合って駅に着いてその日は別れた。
その後、1週間に1、2回、継続的にメールのやり取りは続いた。内容はその日のレッスンの話や観たテレビ番組などのたわいもない話だ。お互いに相手の心の懐に一歩も踏み込もうとしないメールともいえる。たわいもない話でも、メールのやり取りをするのが楽しくてメールは続いた。
僕がメールを送信してからの返信が一日遅れることもあったが、アカネも僕のメールに返信を欠かさなかった。遅れて返信が返ってくる時は、いつ返信が来るのだろうとやきもきしながらスマホを見続けた。僕のことを嫌いになったのかな。心配性の僕は、いてもたってもいられなくなるのだ。
アカネとのメールのやり取り以外にも、7月にやり始めたことが一つある。ブログを立ち上げたのだ。
ブログタイトルは『Universea』とした。Sea(海)とSecret(秘密)を掛け合わせて【Seacret】というバンド名をつけた正宗のネーミングにあやかって、Universe(宇宙)とSea(海)を掛け合わせたブログタイトルにした。「パクリだ」と人に言われても、パクリじゃなくてオマージュなのだと頑として言い張ろう。
ブログを立ち上げた理由の一つには、今回の惑星スカーレット旅行の件がある。もしかしたら、僕は何らかの理由により惑星スカーレットで死んだり、地球に帰って来られなくなるかもしれない。僕がこの地球で生きた痕跡を残しておきたかった。平々凡々としているけれど、音楽が好きで好きでたまらなくて、毎日それなりに頑張って生きている仲村聡吾という人間がいた足跡をネット上に置いておきたかった。ネットに残しても未来永劫には残らないかもしれないけれど、あるいは、もしかしたら惑星スカーレットの人たちに僕が生きた痕跡ごと消されてしまうのかもしれないけれど、何もしないよりはよさそうな気がした。
ブログの内容は、今聴いている音楽や身の回りのことについて。もちろん、惑星スカーレット関連のことは書かない。始めたばかりのブログなこともあって、一日のアクセス数は10に満たないが、それでもよかった。書いて残すということの楽しさや羞恥を改めて知った。
ブログの更新は毎日続き、そして今日は惑星スカーレット見学前日である8月9日。ブログにはこう書いた。
「こんにちは! 明日から旅行に行ってきます。行き先は秘密です。もったいぶらずに教えろって? チッチッチッ、そいつはできない相談だな。9月になってもこのブログの更新が止まっていたら、僕は旅行先で死んだということなのでよろしく。」
我ながら唐突な内容のブログだなと思ったのだが、文章力がないので仕方がない。さて、明日からは惑星スカーレットに行く。不安もあるが、それ以上に未知の世界を見て回れることにわくわくして胸が高鳴る。アカネや家族には明日から友達と旅行で京都に行くとありきたりな嘘をついておいた。
着替えやアメニティグッズもボストンバッグの中に用意して準備は万端。症状が寛解するというので必要はないだろうが、念のため、統合失調症の薬もバッグの中に入れておいた。ベッドに横たわり、明日からの旅行に思いをはせた。
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