第7話 4月② アカネとの出会い
大学2年目の授業が始まった。授業初日に正宗にも会って一緒にラーメンを食べに行って話したが、先日の期末試験での単位の取りこぼしはなかったようだ。正宗はバンド活動に熱心で、講義も適度にサボり、普段の勉強時間も少ないのだが、地頭が良いのだろう。少しの勉強で単位が取れてしまう。講義は必ず出席し、普段から勉強して単位を取っている僕とは大違いだ。
僕も音楽を始めようと思い、ベースギターの教室に通うことにした。もし気が変わって惑星スカーレットに住むことになった場合に備えて、地球でやり残したことはなくしたかった。最近気付いたのだが、僕は音楽を聴きながら、音楽を演奏することに憧れていたのだ。
正宗も「変な癖がつく前に先生に習うのは良いことだよ」と言ってくれた。その割には、自分のギターは全くの独学らしい。弾き始めてから一週間で、難関とされるFコードへのコードチェンジができるようになった天才肌だ。
なぜ、他の楽器ではなくベースにしたのかというと、初心者にも取っつきやすいと思われたからだ。実は、高校生の時に親からアコースティックギターを買ってもらったことがあるが、コードチェンジなどが難しく感じられ、二週間で放り出してしまった。ドラムやキーボードも僕にとって難関の楽器に想えた。ベースは単音を押さえるだけで、僕でもできるように思ったのだ。
「ベースなら簡単だから楽器初心者でもできるでしょ?」正宗と話していた時に聞いてみた。
「まあ、確かに取りかかりやすい楽器ではあるけれど、上達してくると一番難しい楽器もベースなんだよ」
「どこらへんが?」ベースという楽器をなめきっている僕が問う。
「バンドの中でリズムやグルーヴといったものに一番習熟していなければいけないんだ。俺のバンドの場合、フロントマンの役割は俺がやっているけれど、バンドのグルーヴの責任者でもあるバンマス(バンドマスター)にはベーシストが就いているよ。色々な音程を出せる楽器でもあるからコードや楽典の知識もないといけない。それにメロディ楽器でもリズム楽器でもあるから、ウワモノとボトムの接着剤の働きもしなければいけない重要な役割の楽器なんだよ」
正宗が優しく言い聞かせるように教えてくれた。そう聞いて初心者にも取っつきやすいということだけでなく、ベースという楽器への奥深さにも興味がわいてきた僕はベースを練習し始めることにしたのだ。
通える圏内にベース教室はいくつかあるので、順番に見学して回る予定だ。今日は大手の会社「ハマヤ」の経営する音楽教室の見学日だ。池袋駅から徒歩10分の距離にある。同じ「ハマヤ」の音楽教室で、個人レッスンでも申し込めたが、料金が割安のため、グループレッスンを申し込んでいた。
水曜の夜9時、見学予定のベースレッスンの教室に行くと、すでに他に2人の見学者がいた。どちらも若い女性だった。
50代くらいの男性の先生がやってきて、レッスンが始まった。僕はベースに触れるのも初めてなので、ベースの持ち方から弦の押さえ方まで先生に手取り足取り教えてもらう。雑談で先生と話したところ、先生はプロのバンド「スペースシェイカー」のベーシストなのだとか。後でネット検索したところ、日本製ハードロック・メタルの世界で80年代に一時代を築いた有名なバンドのようだ。
見学の時間が終わると、一人の見学者がそそくさと席を立った。もう一人の見学者に勇気を出して「一緒に駅まで帰りませんか?」と聞いたところ、「いいですよ」と笑って答えてくれた。一人で帰るのが寂しくもあったし、穏やかで優しそうな瞳をしたその女の子のことが少し気になるためでもあった。
帰り道で名前を聞くと、その子の名前は佐藤アカネといった。
「見学の時、佐藤さんの出す音を聴いていたんだけど、上手いですよね。どこかでやっていたんですか?」話の取っ掛かりを探すために聞いてみた。
「高校生の時は軽音部で、大学の一年目も軽音サークルでベースをやっていたんです。軽音サークルは周りと肌が合わなくて辞めちゃって」
「え? ということは君も僕と同学年? 僕は大学二年生だよ」
「そうなんですか? 私もです」
「どんなバンドが好きなの?」ベーススクールに通っているということは、共通の話題といったら音楽の話題だろうと思って聞いてみた。
「アラレガーデンとかチャットランチとか好きですよ」
「チャットランチ、いいよね。僕はソクラテスの悲鳴やミカンズが好きだよ」
「ミカンズは知っていますけど、ソクラテスの悲鳴というバンドは初めて知りました」
「うーん。マイナーなバンドだからね」
「実は私、バンドはあまり知らなくて、女子アイドルの方が好きなんですよ」
女子アイドルにも女性ファンが相当数いることは聞いていたが、佐藤さんも女子アイドル好きなのか。僕はアイドルは皆目分からない。
夜10時過ぎを池袋駅に向かって歩きながら、その後も自己紹介がてらの話は続いた。共通して好きな話題がなくても、会話は楽しく続いた。駅で別れ、とてもいい子だなと思った。
万里のような華やかなタイプと違い、悪く言えば地味だが、ほんわかとしていて素直な子だ。服装も黒とベージュの組み合わせのシックな格好で地味目だ。髪型はナナと同じく、黒のロングヘアーだった。
万里から「何を考えているのか分からない」と言われたことを思い出していた。もっと自分を出していこう。僕は変わるんだ。
その後、ベース教室の見学を3件ほどした。1時間五千円で高額だが、ハマヤのベース教室の先生よりも教え方が上手いと感じる先生もいた。有名バンドであるサッドウィンプスやツーオクロックのベーシストもこの先生に習っていたらしい。激しいバンドサウンドであるツーオクロックは聴かないが、ミクスチャーのソフトロックを奏でるサッドウィンプスのベースサウンドは僕好みなので、ベースの音を注意してよく聴いていた。ハマヤとそのベース教室のどちらに通うか僕は悩んでいた。
佐藤さんの顔が浮かぶ。やはり、どうしても佐藤さんのことが気になる。ベース教室に通いたいと思ったきっかけは、純粋にベース演奏を上達させたい思いからだったが、今はあの子のことが気になるのだ。不純な動機と言われても仕方がないが、僕はハマヤに通うことにした。
ハマヤへの入会手続きを済ませ、見学も含めて二回目のレッスンに臨んだ。そのレッスンの場には、佐藤さんもいた。一時間、二人で先生からベースの手ほどきを受けた。先生は時折ジョークを飛ばし、愉快なレッスンだった。
レッスンが終わり、佐藤さんに「一緒に駅まで行かない?」とまた勇気を出して聞いてみた。佐藤さんは「いいですよ」と答えてくれた。
「普段はどんなことして遊んでいるの?」佐藤さんの歩調に合わせながら、僕は聞いてみた。
「遊ぶ時間がなかなか取れなくて。バイトばかりしていますよ」佐藤さんが俯き加減に言う。
「そうなんだ。僕はバイトは試験監督の日雇いのバイトや、舞台の搬出搬入などの単発のバイトしかしたことがなくて」
「私も試験監督のバイトもしていますよ。試験監督のバイトは割がいいんですよね。普段はスーパーのレジ打ちです」
その後の話によると、佐藤さんの学費は奨学金を借りて払っているようだった。奨学金を返済するために、去年はバイトで百万円以上稼いだのだとか。百万円!? 時給千円だとしても、千時間働かなくてはいけない。僕は驚いた。佐藤さんのことだから誇張して言っているようにも聞こえない。頑張り屋なんだな。
しかし、佐藤さんと話しているのは楽しい。自分の内面を他の人とよりも表に出せる気がする。心の中の距離だけでも縮めたいから、佐藤さんのことは心の内ではアカネと呼ぼう。勝手にアカネと呼ぶのは他人からしたら奇妙なことに思われるかもしれないが、心の中のことまでは他人に分からない。アカネと一緒の時間を過ごすためにも、このままハマヤに通い続けようと思った。
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