第6話 4月① 空中散歩

 4月9日。明日から授業が始まる。大学一年生になった妹も初めての授業が明日にある。妹は「友達百人出来るかな」のメロディを陽気に口笛で吹いていた。


 僕はまだ立ち直れずにいた。暗闇の中をクロールもできずに溺れていた。明日から授業だし、自室のCDコンポで音楽を聴きながら、なんとか心を落ち着かせようとしていた。


 自分の大好きな一曲がクライマックスの大サビに差し掛かった時、自室の窓際にナナがいつもの格好で忽然と現れた。窓から入ってきた訳でもないし、空間跳躍を使ったのだろう。


「相当、参っているみたいね」ナナはいつもよりも小さな声で聞いてきた。他の家族が家にいるからだろう。


「君はいつも突然現れるな」そう言いつつも、登場の仕方には驚かなかった。この子なら何でもありだと思ったからだ。


「そんなに辛いなら惑星スカーレットに帰る?」ナナは優しく諭すように聞いてきた。その優しさに救われるような気もしたが、いかん、いかん。


「3月中は死ぬほど辛かったよ。今も辛いけれど、全てを捨てて君の星に行くつもりはないかな」僕は今の気持ちを言った。


「そう。惑星スカーレットでは統合失調症も寛解するのにね」


 そう言うとナナは僕の部屋の窓を開けて手招きした。CDコンポからは次の曲のイントロが鳴っている。


「今日は晴れているし、惑星スカーレットの技術でしかできないことをしてあげるわ。私の手を握って」


 何をするのか怖いけれど、好奇心もあった。言われるままに手を握った。綺麗な女の子の手を握るのはドキドキした。


 するとどうだろう。ナナと僕の身体がふわっと宙に浮いた。そのままベランダを出て夜空に飛び出していった。


 夜空を宙に浮かびながらゆっくりと進んでいく。いつも使っている最寄り駅も見えてきた。見下ろす景色には、ぽつぽつと家に灯りが点っている。風が気持ちいい。高い所にいる怖さは不思議とない。



「空中散歩よ」手を繋いでいるナナが風に全身を吹かれながら言う。


「さすがにこれは驚いたよ。とっても気持ちいいよ。惑星スカーレットでは普通の技術なのかい?」


「そうよ。それから、今は地上から私たちが鳥に見えるようにカモフラージュしているわ」


「惑星スカーレットの技術はまるで魔法みたいだね」そんなこともできるのか、と僕は更なる驚きに包まれていた。


「今、私が着ている服も日々自動的に繊維が新しくなるのよ。気温調整も簡単にできるから夏でも冬でも着れるわ」


「だから、君はいつも同じ服を着ているんだね」


「うん。惑星スカーレットでは、服をあなた達みたいに頻繁に変えるのはよっぽどの好き者ね」


 街路樹のケヤキを上空から見下ろし、風を全身に受けながら空中を歩いていく。吹き抜ける快適な風と共に、憂鬱だった僕の気持ちが薄れていく。惑星スカーレットには、これほど凄い技術があるのか。僕の中で惑星スカーレットへの好奇心が溢れるようにわいてきた。


「惑星スカーレットに帰るかは分からないけれど、それを決める前に試しに見に行くことはできないのかい?」僕は好奇心を抑えきれずに聞いてみた。


「あなた、意外に心が強くて好奇心があるのね。私は今まで5人の惑星スカーレットへの帰還事業を担当したけれど、2人は統合失調症がきついのですぐにでも惑星スカーレットに行きたいと言って、他の3人はそんな見ず知らずの所は怖いから行きたくないという反応だったわ。あなたのように見学したいという人は初めてよ」


「そうなのか」


「見学はOKよ。ただし、将来、惑星スカーレットに帰らなかった場合は例のごとく、あなたの記憶を消すけれどね。まあ、惑星スカーレットに帰らない場合は、私と惑星スカーレットに関する記憶を全て消去してしまうから変わらないのだけど」


 惑星スカーレットで生活することはおそらくないが、この空中散歩の記憶もなくしてしまうのは惜しい気がした。こんなファンタジックな体験をしたことも、こんなふうに爽快な気持ちになったことも、これまでない。


「惑星スカーレットに見学に行くのは怖くないの? もしかして、私たちの星についた途端に聡吾を拉致することもあり得るかもしれないのに」


「ナナを信頼しているよ。だって、君たちほどの技術力があれば、最初の出会いで僕を拉致することもできたはずだからね」


「ありがとう。惑星スカーレットは、地球みたいに野蛮な星ではなくて、人権をもっと重視しているのよ。だから、個人の選択を尊重しているわ。聡吾に帰らないのかこうやって何度も聞くのも、個人の選択を尊重しているためよ。見学は惑星スカーレットの情報提供ということで受け付けているの。他の帰還任務従事者の場合でも、見学の申込みは2~3%の割合であったわ」


 たとえ記憶をなくすとしても、惑星スカーレットの世界を見て回れるのは楽しみすぎる。どのような世界なのだろう? どのような景色なのだろう? 音楽を演奏したり鑑賞したりする文化もあるのだろうか? それに、ナナの話では、惑星スカーレットは僕の魂のふるさとなのだ。


「僕もナナの星をぜひとも見て回りたいよ」


「分かった。ただ、見学の申請の事務手続きが必要だから、見学できるまでしばらくかかるわ。見学できるのは、地球の暦で8月くらいになるかな」


「おっ、それは僕も夏休み中だし、ちょうどいいよ。ありがとう」僕は心躍りながら言った。


「空中散歩を始めてからだいぶ経ったし、そろそろあなたの家に戻りましょうか。楽しかったかしら?」ナナが風に髪をなびかせながら聞く。


「うん、楽しかったよ」月夜の空中散歩はこれまでのどんな散歩よりも風情があった。


「透視デバイスであなたの家の中を見ていたけれど、家族の誰もあなたの不在に気付いてないわ。そっとベランダから部屋に入りましょう」



 僕たちは来た道を戻り始めた。しばらくすると、最寄駅がまた見え、駅から家に帰る人たちも小さく見える。酔っぱらったスーツ姿のサラリーマンが千鳥足で歩いていた。相当ひどい酔い方だ。自宅近くでは、同じマンションに住むおばさんが買い物袋を持ってスーパーから家に帰る姿が見える。楽しかった空中散歩も終わり、僕たちは僕の自室のベランダに戻ってきた。


 夢幻の空中の景色から一気に現実に引き戻された心地がして、「またいつか空中散歩したいな」と僕は言った。


「いつかね」とナナは言って目配せした。


「あなた、痩せ我慢していない? 統合失調症が辛かったら、いつでも惑星スカーレットに帰っていいのよ」自室でナナが家族に気付かれないように小さな声で言った。小さいけれど、温かみのこもった声だった。


「大丈夫だよ。今回の失恋はかなり堪えたけれど、今はだいぶ良くなったし。惑星スカーレットを見に行くという楽しみもできたしね」僕は空中散歩の高揚感が抜けきれずに言った。


「じゃあ、また」


 僕が「うん」と短く言葉を返すと、ナナはまた一瞬で視界から消えた。

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