第2章 現在

 * 1 * 冷羅


 ――温かい血はもう流れていない。

 赤い液体ではなく《ボク》の身体の中には青い血が流れていた。いつからそうなったのかはわからない。人間の血に鉄が含まれているように《ボク》の血液には銅が含まれているらしい。だから青い血。サソリなどと同じ血液の色を持っている。

 しかも今はさらに違う。温かみはなくてとても冷たい。なんでそうなんだろう。

 《ボク》は特別。他とは違う。――そう思い込まないと存在なんてできない。

 人間じゃないんだ。

 他のみんなと違うんだ。

 人間のふりをしている人形なんだ。


 ……まだ、終われないのか?


 目を開けて飛び込んでくるのは真っ白い天井。なんの変哲もない白い光はボクを見下しているかのようだった。

 ボクはたいして動かない身体を引きずって上体を起こし、ベッドから下りようと試みる。身体が重く感じるのは自由が利かない所為だろうか。

 シーツを抜けた足がリノリウムの床に触れる。

 ――冷たい。

 まだそんな感覚がボクの身体に残っていたなんて思いもしなかった。必要のないものなのにいつまでも記憶している。無駄だから早く削除してしまいたい。――でも、それって何故かかなわないことなんだよね?

 その辺にある凹凸に指をかけてずるずると歩き出す。足を擦るように歩くボクにとってバリアフリーの床は好都合だった。もし少しでも段差があればたちまち動けなくなってしまうだろう。引き戸のドアを抜けてしまえばボクの勝ちだ。あと一メートルの目と鼻の先の距離が大きな壁だった。

 今は閉まっているドアの向こう側に出られれば、ボクは自由になれる。こんな狭い器ともおさらばだ。

 あと一歩、そう思ったときドアが開いた。視線をあげると白衣を着た男が一人立っているのが目に入った。

 男はさして驚いた様子もなく、ボクの情けない姿を見るとすたすたと近づいた。

 振り出しに戻ってしまうようだ。ここまでのボクの苦労は泡となって消えた。

「だめだよ、冷羅(レイラ)君。無理をしては」

 軽くボクを抱きかかえると男は耳元で囁いた。

「ほっといてよ。こんな生活、いやなんだ」

「冷羅、いい子にしていなくてはダメだ。ここを出たいのだろう?」

 眼鏡越しに見えるまつげは長く、ボクの憧れ。さらさらの絹糸のような長い髪はボクにとって大好きな宝物の一つ。――ボクはそれらを望んでも手にはいることはない。それは《ボク》ではないのだ。

「ヴァイス、いい加減にして。あたし、ここから二度と出られないんでしょう? 知ってるの」

 ベッドの上に戻されるとボクは男に向かって怒鳴った。つかみかかりたいところだが、もう身体は動かない。

「証拠がない」

 男は眼鏡を直して答える。彼が嘘をつくときの癖。

「なら、あたしの身体が治る方法はないわ」

「口だけは達者だね。身体が言うことをきかずとも、口だけは動くのか」

 淡々とした口調。彼の感情的な声を未だかつて聴いたことがない。どうせこの男にとってのボクは貴重な《サンプル》に他ならない。いい実験体だろうよ、ボクの身体は。

「ヴァイス、あたし、もうこんなところにいたくない。帰りたい、あるべき場所、あるべき形に」

「冷羅君、これが君のあるべき形だ。いるべき場所だ。どこに不満がある?」

 ベッドの隣の椅子に腰を下ろして男は問う。

 ボクは信じない、そう言いたかった。

 身体が動かない、それに不満はない。こうなってしまった以上は何も望めない。絶望というか、まぁ希望がない状態なのだからそうだろう。そんな気持ちに支配されて正常な精神を保つことができるわけがない。――こんな器はいらない。早く自由になりたい。

「……ある」

 眠気が襲ってくる。さっきも眠っていたではないか。どうして眠くなるのだろう。そんな必要があるのか?

「リセットなどない。生物が生きていることにリセットなどないのだよ、冷羅君。生まれ変わるなんて幻想は持たない方がいい」

 意識が遠のいていくのが感じられる。まだ言いたいことはある。完全に《ボク》が消えてしまう前に言わなくては……。

「ヴァイス、それはあなたにも言えるよ、残念だけど……」

 消え入りそうな声の末尾はボクの耳には入らなかった。ただ意識して聞き取れなかっただけかもしれないが。



 * 2 * 姶良


 何故あたしは生きているのだろう。こんな身体、もう用はないのに。

 自分の意志でろくに動けないくせに、生意気じゃない。

 どうして、あたしは……。


 目をゆっくりと開けると真っ白な天井。もう見飽きた登場の仕方にうんざりする。

 窓はない。以前あたしがそこから飛び降りたから、窓のない部屋に移されたに違いない。

 ――本当の理由を知るまで、あたしはそう思い込んでいた。

 ろくに動きもしない身体をよいせと重心を移動させることでずらし、ベッドからの脱出を試みる。そろりそろりと慎重にあたしの身体は移動を始める。

 あたしの身体に対してベッドは広い。ベッドの右手には得体の知れない機械がずらりと並んでいて、一体何に使っているのかわからない。それらはすべて動いているらしかった。

 やっとの思いでベッドの端に辿り着くと、そっと床に足を伸ばした。ベッドは高い位置にある。あたしの足は、腰を少しずらすことでやっとついた。

 ひんやりと足の裏を伝わる冷気。震えるのがわかった。それでもあたしは身体を動かせる範囲で前進させようとした。一歩、一歩、前へ、前へ。振り向いてはいけない。前進あるのみ。ただまっすぐ、まっすぐ、赤ん坊が初めて歩くような格好で、掴まる場所を求めて手を宙に動かし、バランスを取りながら進んでいく。

 そんなに遠い距離ではないとベッドの上では思えたのに、実際は違っていたようだ。唯一の出入口が遠くに霞んで見える。霞んで見えていたのは事実だった。視界がぼんやりとしている。

 ただでさえおぼつかない足がよろめく。あたしはそのまま前のめりに倒れた。顔面を打つことは避けられたが、全身を床に叩きつけたのは間違いない。ばちんという大きな音が耳に入った。もう立ち上がる気力もない。

 そこでドアが開いた。

 なんとか顔を上げてその先を見つめると、白いものが目に入った。

「大丈夫かい? 姶良(アイラ)君。無理をしてはいけないよ」

 あたしの側に近寄ると、抱き上げて言った。

 そのときあたしは、どうしてこの男はあたしを軽々と持ち上げてしまえるのだろうなんて真剣に考えていた。

「君の身体は君だけのものではないんだ。大事にしなくちゃ」

 あたしが三十分をかけてきた距離をたった三十秒ほどで戻ってしまう。非常にあっさりとしていた。一体あたしの三十分はなんだったのだろう。

「そんなの知らない」

 やっとの思いで絞り出した声に力は残っていない。あとはまた永い眠りの中に消えるだけ。

「姶良、君は君だよ。それは誰もがわかっている」

 彼はあたしをベッドの中に戻すと、眼鏡を直した。正確にはそのような仕草に見えただけだけど。

「知らない」

 あたしはただ、同じ言葉を繰り返すだけ。

「そうじゃない。君は「わからない」と思い込んでいるんだ。だから知ることができない」

 違う、そうインプットしてくれなかっただけじゃないか。あたしは心の中で叫んだ。

 ……あたしに心なんてものが存在したのだろうか?

 長い銀髪が視界の端で躍っている。この髪が欲しい。何度思ったのだろう?

 意識はそこで途絶えた。



 * 3 * 冷羅


 何度同じ夢を見ればいいのだろう。

 切り刻まれるボクの身体、心。

 繰り返される苦痛。

 増えていく針の痕。

 ……眠りたくない。どうしてボクたちには眠ることが必要なのだろう。


 逃げるように現実に戻る。息が荒い。

 部屋の電気はすでに消され、暗闇の中ぽつんと残されていた。宇宙に放り出されたらこんな感じだろうか。まだ重力を感じるだけましか。

 上半身をゆっくりと起こし、片手で額を拭う。ひどい汗だ。全身は水をかぶった後のように濡れて気持ちが悪い。

 ぎこちない動きのまま、暗闇を手探りする。ブザーが枕元にあったはずだ。取り敢えず誰かをここに呼びたかった。

 金属質で冷たい物体にあたると、スイッチを探して押す。なんの音もしないから不安になるが、何者かがボクの異常を確認しに訪れるだろう。

 待っている時間が長く思えた。真っ暗な世界に置き去りにされている、その状況から来る心理的なものだろう。誰も気が付いてくれなかったら、ボクはここから逃げるだけだ。でもその必要はなかった。

 ドアがすっと開く。眩しい四角な光が部屋を襲う。ドアに向けていた目がしばらく言うことをきかない。――なんて外は明るいんだ。

「冷羅君かい? こんな時間に呼んだのは」

「あたし以外に誰が呼ぶの? この部屋にいるのはあたしだけでしょう?」

 声はヴァイスのものだった。部屋の明かりを点けるとドアを閉める。そのころにはボクの目も明るさになれていた。

 ヴァイスはボクが知っている白衣を纏っていた。眼鏡も見慣れた楕円形のもの。腰まで伸びる長い銀髪はいつもと違って三つ編みになっていた。

「……そうだね」

 彼は苦笑した。裏がありそうな、含みを持った言い方だった。

「怖い夢でも見た?」

 すたすたとこちらに歩み寄ると、ボクの顔をのぞき込んだ。

「いつもと同じ。……あのね、汗をかいてべたべたするの。着替えたいんだけど、手伝ってくれない?」

 ボクは自分の着ているひらひらのパジャマを軽く握って見せた。この服の趣味はたぶんヴァイスの仕業だ。

「私が手伝ってもいいのかい?」

 彼は少し驚いたようだ。ボクの額を軽く撫でて状態を見ていたがその手が止まった。

「他に誰かいるの?」

 少し膨れてみる。ヴァイスはたぶん断らないだろう。ボクの意識がある中では、ここで他のスタッフを見たことがない。ひょっとしたら、彼以外いないのかもしれなかった。

 だから「君は女の子だったね。同性に頼むべきじゃないか?」という彼の台詞には驚いたし、困った顔をしているこの男の顔を初めて見たからさらにどきりとした。

「構うもんですか。いつだって見ているでしょう? 早くして。もう時間がない」

 身体が言うことをきいてくれる時間は限られている。喋ることができる体力も本当はそんなにない。

 冷静になってボクは余計なことに気を取られていたことを、現状での最優先すべきことに置き換える。他でエネルギーを浪費している場合ではないと言い聞かせるが、でも心のどこかで引っかかっていた。

「仕方がない」

 事務的な口調。渋々と彼はベッドの下から洋服を取り出した。白いドレスで、フリルがたっぷりとついている。――正直、悪趣味だと思う。

「センス無いよ」

 溜息混じりに言ってやる。もっと着やすい服にすればいいのに、そう感じる。

「君の方が服のセンスがあるとでも?」

 彼は手際よく、いかにも慣れた手つきで上着を脱がせる。

 濡れた背中にボクの長い髪がくっついた。気持ちが悪いがボクにはどうにもできない。

「他にはないかなって、それだけのはなし」

「身体を拭くか?」

 ごそごそとベッドの下をいじっている。ここにボクの服などが収まっていた。

「あなたが?」

「他に誰がいる?」

「あなたしかいないわ」

「そりゃどうも」

 ハンドタオルを引っぱり出すと彼は立ち上がってボクを見た。

「じゃあ拭いてくださる?」

 おどけて言うと、彼は何も言わずに作業に取りかかった。

 ボクの頬を優しく拭い、首の回り、背中、胸、腹と順に拭いてゆく。とても気持ちが良かった。

「何故、あなたはあたしのわがままをきいてくれるの?」

「担当だからかな」

 全身を拭き終えると新しいドレスを着せる。人形のようだ。

「他はないの? どうしてあたしの担当なの?」

 ボクの身体を横にさせて、シーツを胸の辺りまでかぶせる。シーツなのに、どうしてこうも重いのだろう。

「君が私の処女作に相違ないから、そう信じたい」

「自殺志願のロボットでも?」

「冷羅君、君は人間だ」

「違う」

「少なくとも生物だ。金属の固まりじゃない」

「違う」

「違わない」

 彼は眼鏡を直さなかった。言っている内容は本当のことだ。

「じゃあ、生物の定義って何? 有機物でできていること?」

「それは私が一番知りたいことだ」

 彼はボクの額をそっと撫でた。その手はとても冷たかった。さっきまで全く気が付かなかった。

「……うん、そうだね」

 彼の研究がなんなのか知っている。それがもとでボクができてしまったこともわかっている。

 ――だけどボクがそれを知っていることを、彼は知らない。

「ねぇ。あたし、あなたのその髪が欲しい。あたしにくださらない?」

「君には似合わないよ」

 自分の三つ編みに触れて言う。ここでも眼鏡に触れなかった。

「それでもいいの」

「君は以前、翼が欲しいといったね。でも、翼があっても動かなければ意味がない。君の身体と同じだ。違うかい?」

「すべてのものに意味があるとは限らないわ。意味というのはこじつけ、思いこみに過ぎないの」

「なら、今ここで私が自分の髪を切って君に渡したとして、何かにならずともそれで君は満足するのかね」

 ポケットから取り出したのはナイフだった。彼はいつもそんなものを持ち歩いているのだろうか。

「ううん。その髪はヴァイスが持っていなくちゃならないわ。あたし、あなたのその髪が好きなの」

「私は嫌いだ。何故両親のものと違うのか、それがわからない。遺伝上の両親も、だ」

 彼の瞳が怒りに燃えているのをボクは見た。感情的な台詞でもあった。

 ――ここにいる彼は誰だろう?

「世の中にはわからないこともある。だから科学が発展したんでしょう?」

「今はわからなくとも、遠いか近いかしれない未来でわかる。でも、それを発見するのが私でなくてはならない」

 彼は刃を自分の髪に当てたが何もせずにポケットの中にしまった。

 ボクは少しひやっとした。本当に切ってしまうんじゃないかと思ったのだ。あんな顔のヴァイスを、全然知らなかったから。

「……あなた、あたしに何をしたの?」

 出生の秘密、それはヴァイスしか知らないことだと思う。どんな経緯でボクが生まれたのかは知っていても、その方法はわからない。

「……今日は覚醒している時間が長いようだね。珍しいこともあるものだ」

 しばしの沈黙の後、彼は呟くように言った。隣の小さな椅子に腰を下ろしている。

「今日はあたし、暴れていないもの。ベッドからも出なかったから、その分だけ元気なのかもしれないわ」

 それ以外の理由をボクは思いついたがあえて言葉にしなかった。

「それは言えているね。まだ眠くならない?」

「ううん。大分疲れたからそろそろ眠っちゃうと思う」

 欠伸を一つしてみせる。いっぱいおしゃべりをして気持ちが満たされた。たまには別の夢を見られるかもしれない。

「そうか。じゃあ私はこれで失礼するよ」

 立ち上がり、ボクの額にキスをするとドアを開け、部屋の電気を消して去っていった。

 彼がそんなことをしたのは初めてで、しばらくボクはどきどきして眠れなかった。



 * 4 * 姶良


 その日の夜は長かった。

 あたしは暗闇の中で目が覚めた。いつもの白い天井も深い黒の中に沈んでいる。

 もう一度眠ろうと目を閉じたがなかなか寝付けない。逆に冴えてしまう始末。羊の数はどんどん増えたが、まだまだ眠れない。あたしが数えた今までで最大の数をいとも簡単に超えていった。

 飽きるまでそうしてずっと数えていた。

 千を越えてしばらくすると、別のことを考えることにした。寝返りも上手にできない身体を、神経を集中させて右に傾ける。

 この方向にはいろいろな計器があった。暗闇の中で星の光のようにランプが幾つか光っている。こんな時間でも休まずに動いているようだ。ご苦労なことである。あたしはそのままランプを見ていた。

 音もこれといってしない。うなりの低い音がときたまする。機械がうなっている音だ。外の音はこの部屋に入ってこないようだ。

 とても退屈だったが、誰かを呼ぶ気にはなれなかった。動くのも面倒だったから。じっと横たわっていれば、いつか電源が落ちて再び訳の分からない《夢》と呼ばれる世界に引きずられていくのだろう。

 ――そうだ、夢のことでも考えよう。

 夢の中のあたしはいつも同じだった。この部屋の様子も一緒、着ているこのひらひらの服も一緒。――あと、なにがあったっけ……。

 覚えているはずなのに言葉で表すことができない。

 ――本当は覚えていないのか? 覚えていると錯覚しているだけなのか?

 ふと、《昨日の自分》というものが存在していたのかと考える。あれもまた夢だったのだろうか? では、今ここにいる自分は《現実》にいるものなのか、はたまた《夢》の中のものなのか。

 夢の中にいればそこが現実であるかのように考える。

 現実の定義とは一体何なのだろうか。

 存在するという定義は?


 ――あたしは一体何者なのだろう。あたしはどうして存在しているのだろう。



 * 5 * ヴァイス


 鏡が割れた。

 否、彼が割ったのだ。鏡が独りでに割れるはずがない。何か原因がある。

 彼は自分の顔が映ったのを気味が悪く思ったのだ。――これは《私》ではない。

「もうやめませんか」

 どこかから響く声。自分の口から出る自分ではない声。

「リツ……私はもう貴様と口をききたくない」

 水浸しの床に赤い液体がにじむ。その後に青い液体が混ざってゆく。

「そう言ってばかりはいられないでしょう? 彼女たちは気付き始めている」

「貴様が昨晩したこと、私は許さない。私の作品にあれほど触れるなと言ったはずだ。だのに」

 彼の身を包む汚れ一つなかった白衣が自らの血の色に染められていく。

「彼女たちがいけないんですよ。僕を捜すから」

「言い訳などするな!」

 鏡をもう一度右の拳で殴る。欠けた鏡が床に飛び散った。ガラスの破片には青い血が付いている。

「自傷行為はやめて下さい。この身体はあなただけのものではないんですから」

 左手が右手を押さえ込もうとする。

「知るかっ! 貴様らさえいなければ、私の研究は終わっていたんだ!」

 もがく右手を必死で止める左手。暴れ回った末に彼は足下を取られて倒れた。水が撥ね、鈍い衝撃音が室内にこだまする。右手からは青い血が、左手からは赤い血が流れている。

「無理をするな。その身を滅ぼすぞ」

「うるさいうるさいうるさい」

 男の瞳から涙が溢れていた。床の水が鏡となって自身の姿を映す。それを壊したくてそのまま起き上がることなく暴れる。波が立ち、像が歪む。

「やめろと言うのが分からないのか!」

 自分から発せられたとは思えない声に、彼は自分を取り戻す。上体を起こし、部屋の様子を冷静に観察する。

 白の部屋は水が流れ、あちらこちらに赤と青の血が飛び散っている。白い壁紙もすべて同じ様子。鏡は粉々になって周辺に散らばっていた。リツが鏡を持ってこなければこんなことにはならなかったのにと彼は苦々しく思う。この部屋を片付けるのは当然自分しかいない。長い銀髪が床の水と戯れている。面白い色が髪に付いてしまった。

「くっ、くくくくく……」

 何がおかしいのかわからないが、無性に笑いたい気分になった。彼女たちもいずれ気が付く。そのときが待ち遠しい。

 その日がきっと、私の命日だ。



 * 6 * 冷羅


 これは夢。

 だってボクの身体が自由に動くから。どこへでも行けるんだ。

 ボクは嬉しくって、部屋をぐるりと一周した。窓のない、飾り気のない部屋はすぐにまわれた。なんでこれだけの距離を動くのに時間が掛かったのだろう。信じられないことだった。

 ベッドの右にあった計器はいじらずにそっとして置いて、この部屋を抜け出そうと思った。行きたい場所がある。――ボクが作られた場所だ。

 ドアの隣にスイッチがある。背伸びしてやっと手が届く。ぽちっと押して、ドアが開くのを待つ。開くと強い光がボクの目を眩ませる。光になれると同時にボクは廊下に出た。

 廊下は右に青い絨毯がひかれ、左には赤い絨毯がひかれていた。どちらも十メートルほど先で曲がっている。ボクは青い絨毯の方向に歩くことにした。その色ががボクの血の色と同じだったから。

 突き当たりまで来ると左に折れた。反対側が壁だったからだ。青い絨毯はどこまでも広がっている。両脇には窓も扉もなく、真っ白な壁が床の色を映して少し青っぽい。なんの装飾もされていないシンプルな、悪くいえば殺風景な景色がどこまでも広がっているのだった。

 歩き始めたときは気が付かなかったが、地面は少し傾斜がついているようで、下に向かっているらしかった。突き当たりの廊下は必ず左に続きがあった。ぐるぐると同じ方向に回って下降していく。

 ――どこに繋がっているのだろう。

 突き当たりを左へ、左へと進むと、ついに終わりがやってきた。

 青の色も濃く、いつの間にか壁も青に塗られていた。目の前に現れたのは一枚の鏡。そこには自分の姿が映っている。腰まで伸びる長い金髪。青く光る瞳。フリルのいっぱいついた重そうなドレスを着ていて、足は素足のまま。ボクがボクだと思っている人物がそこに立っていた。

「……ようこそ、冷羅」

 声は自分のものらしかったが、自分の口から発せられたものではない。

 ボクは仰天して辺りを見回す。スピーカーなどはない。

「こっちよ、冷羅」

 ボクはそれでやっと鏡を見直した。鏡に映る像の口が動いている。ボクの動きと全く同じ動きをしているのに、口だけは別なのだ。

 彼女の瞳が赤く燃えた。

「ボクの名前は姶良」

 彼女は笑顔を作る。どこか含みを持った表情。

「でも、違うのは名前だけなのよ。ねぇ、ボクと一つにならない?」

「どうして?」

 ボクは首を傾げた。相手の提案がわからなかったわけではない。ただ、その台詞の裏には何かあるのではないかという直感がボクにそう言わせた。

「ボクがボクに、君が君になるためだよ。それでやっと《自分》を取り戻せるんだ」

 彼女は熱っぽく語る。ボクが同意することに必死なようだ。

 ボクは少し考えた。

「そんなのどうでもいいわ。あたし、ただこの世界から消えていなくなりたいだけだもの。ロボットじゃなくて、他の生物じゃなくて、人間として死んでいきたい。それさえ叶えばいい」

 嘘をついても仕方がないので、思っていることを素直に口にする。

 彼女は不満げに眉を顰めた。

「そんなの幸せじゃないよ」

「あたしは人間ならそれで良いの」

 ボクはありのままに言う。そこに偽りはない。こうして声に出して宣言するとその気持ちが本当なのかどうかが実感できる。

「うそだ。ボクはそんなの信じない」

 彼女はボクの答えにうろたえた。

「信じる信じないの問題じゃないでしょう?」

 彼女の反応がボクには理解できない。

「違う」

 取り乱す彼女。

 ボクは決定的な何かが彼女とは違うことを感じ取った。

「価値観が違うの。わからない?」

 なにをもって同じだというのか?

「そんなことない」

 同じであることと、似ていることは全く違うことなのだ。

「言い切れないわ。あたしとあなたは違う」

 彼女はふらふらとしながら後ろに下がる。

「……ボクは君を認めない!」

 焦点が定まっていなかった彼女の目がボクを捉えた。鏡は鏡でなくなった。

 ボクはとっさに後ろに飛び退いた。こんな機敏な動きを、久しく忘れていた気がする。

 姶良の手が鏡に向かい、表面に波紋が浮かぶと腕がそこから伸びてきた。

「なんでボクを受け入れてくれないの?」

 その腕はボクを求めて彷徨う。腕の後には頭が、胸が、腰が、終いには足がこちらに抜けて出た。幽霊が壁抜けをするというのはきっとこんな感じだろうと思わず感心してしまう。

「あたしはあたしだから。あなたを必要としていないの」

 じっと対峙したまま睨み付ける。逃げようとは思わなかった。

「冷羅、ボクは君が必要なんだ。君を手に入れることができれば完璧になれる」

 鏡から完全に出てきた彼女はボクの方に手を伸ばしたまま言う。

「生まれ変わるなんて幻想は持たない方がいい。それはまやかしだもの」

 ヴァイスの言葉を思い出す。ボクは生まれ変わりたくて自殺しようとしたんじゃない。ただこの世界にうんざりしていただけ。生きている意味を感じられなかったから、せめて人間らしい死に方を、他の動物ではあまりないであろう自分の強い意志のもとで自殺という方法を選んだのだ。

「うそだ! ボクは騙されない! ボクはボクであるという存在にかけて君と一つにならなきゃいけない!」

 彼女が動き出す。ボクの方に向かって勢いよく突っ込んでくる。

「リセットなどないわ。生物が生きていることにリセットなどないのよ」

 ボクは瞳を閉じた。避けようとは思わなかった。彼女は武器を持っていなかったから。

「うぁぁぁぁぁ!」



 翼があれば空を飛べるのにと願う者に問う。

 何故そなたは地を駆けないのですか、と。

 結局、ないものをねだってみて、憧れて、

 自分に足りないものを補おうとするけれど……

 自分が持っているほかにはないものの存在を

 しっかりと受け止めないと、

 その身を滅ぼしてしまう。

 夢だけでは存在し得ない。

 現実のあるがままを受け入れなくては。



「愚かだよ、そんなの」


 涙が世界を歪めて見せた。

 彼女の身体はボクの身体をすり抜けてしまった。

 ボクは彼女を振り返って見つめた。とても可哀想に見えた。そして、彼女の狂気はボクの中にも存在することを悟った。

「違う……違う……」

 身体が震えている。彼女は頭を抱えて視線を避けた。混乱はまだ彼女の中で収まることを知らないようだ。

「なんでそんなものが欲しいのよ。完全なものはこの世界に存在しない。あるとすれば理論の上や数式の上だけだよ。人間が考えたものの中にしか完全はあり得ない。外に出されたとたんに不完全になる。そういうものなんだよ」

 言って、ボクはその台詞の中にボク自身を見た。――ボクとは一体何なのだろう。

 ボクは、生物をどんな定義で表せられるかを示すために作られた人工生命体。ヴァイスが、自分を核として創った作品。ボクが人間なのかどうか、それを示す唯一の証拠は、ヴァイスが人間なのかどうか、その一点のみだ。人間の定義は、生物学的にはホモサピエンス・サピエンスの遺伝子情報を持っているかどうかだと思うんだけど……。

 そこまで思考して、彼女の異変に気が付いた。

「……人間であることに、なんの意味があるって言うの?」

 勝利を確信したような声。身体の震えが止まると彼女は笑い出した。

「え?」

 ボクは自分が考えていたことをなぞったような問いに当惑した。

「ボクたちは人間じゃない、それで良いじゃないか。なんで人間である必要がある? この世界に人間はいないじゃないか! ボクたちがいるこの世界に人間は一人だっていないじゃないか!」

 きっぱりと彼女は言いきって叫んだ。

 ボクは一瞬迷った。

「いるわ! ヴァイスは人間よ!」

 血の気が引いていくのがわかった。ボクはやっぱり彼を疑っている。その事実がショックだった。

「あの男は、あれはアンドロイドだよ。人間の血で動く、不気味なロボットなんだ!」

 言い返せないことが、ボク自身の不信感を肯定していた。ボクは呆然と立ちつくした。

 彼を信じている、そう思っていた。でも本当は、ボクはずっと疑っていたのだ。言われて初めて気付くなんて。

「やだ……そんなの冗談」

 両腕でしっかりと自身の両肩を抱いてうずくまる。形勢が逆転した。

「もう人間にこだわることはないんだ、冷羅」

 慰めながらゆっくりと近づいてくる。しっかりとした足取りで。

「ボクと一つになって、完璧なものになろうではないか。ひょっとしたら神にだってなれるかもしれないよ」

 その台詞にボクは反応した。

 ――神、だって?

「神っていうのは、人間が生み出した幻想よ。他の生物に宗教はないの。人間固有のものなのよ」

 ボクは立ち直った。ボクが人間であることにこだわる理由を彼女はわかっていない。立ち上がると強い意志を秘めた瞳で彼女を見据える。

「あなたは幻。あたしはここにいる。もういい加減に夢から覚めないと。戯れている場合じゃない」

 彼女の頭にボクは細い腕を伸ばす。恐怖の表情で、懇願するかのような目で、ボクを見つめる。パクパクと口を動かしているが、声にならないようだ。

 とても哀れに見えた。

「姶良、あなたはもう少し眠っていて」

 ボクがそのあとどうしたのか、全く記憶にない。



 * 7 * 姶良


 ここは現実。

 身体が動かない方が夢なのよ。

 あたしはベッドを抜け出した。ドアの前に出るとスイッチを背伸びして押し、左に向かった。青い絨毯の方には用はない。

 あたしは彼に見つからないようにと願いながら突き当たりを右へ右へと進んだ。赤い絨毯の色を気味悪く思う。

 どうして人間の血の色をしているのかしら。

 あたしは最上階に向かった。赤の絨毯で敷き詰められた廊下はわずかであるが上がり勾配なのだ。

 わき目もふらず、ただ一心に駆け上がった。濃い赤へと壁はグラデーションをしていく。最上階の突き当たりに辿り着いたときには息が上がっていた。こんなひらひらの服で走ろうというのが間違っている。

 あたしは落ち着くと鏡を見た。赤い瞳の少女が映っている。これはあたしじゃない。冷羅だ。

「……ようこそ、冷羅」

 あぁ、やっと会えたのね。待ちどおしかった、この日が。なんて素敵な日なんでしょう。

 彼女は驚いた顔をして辺りを探っている。そんなところにあたしはいないよ、と心の中で笑った。

「こっちよ、冷羅」

 あたしの存在に気が付いて、やっと鏡を向いてくれたらしかった。

「ボクの名前は姶良。でも、違うのは名前だけなのよ。ねぇ、ボクと一つにならない?」

 これでちぐはぐしていた肉体の自分と精神の自分が一致する。

 ――《あたし》は生まれ変わる。

「どうして?」

 彼女は首を傾げた。彼女も賢い。

 あたしは知恵比べをする気にはなれなかったので、強引に押し通して同意してもらおうと思った。

「ボクがボクに、君が君になるためだよ。それでやっと《自分》を取り戻せるんだ」

 どんなにそれが良いことなのかわかってもらいたかった。利害が一致すればそれ以上によいことはなかったが、今はゆっくりと話し合う余裕はない。

「そんなのどうでもいいわ。あたし、ただこの世界から消えていなくなりたいだけだもの。ロボットじゃなくて、他の生物じゃなくて、人間として死んでいきたい。それさえ叶えばいい」

 さも当たり前のように彼女は答える。

 どうして完全さを彼女は求めないのだろう。完全なものでありたい、たとえ人間でなかったとしても、いや、人間でないのなら。人間になりたいわけじゃない。完璧な生物になりたい。

「そんなの幸せじゃないよ」

 納得がいかないから。

「あたしは人間ならそれで良いの」

 なんでそんな嬉しそうな優しい言い方ができるの?

「うそだ。ボクはそんなの信じない」

 あたしの意見をどうして受け入れない?

「信じる信じないの問題じゃないでしょう?」

 ――何故?

「違う」

 ――何故?

「価値観が違うの。わからない?」

 ――何故同じじゃない?

「そんなことない」

 ――同じ姿をしているのに?

「言い切れないわ。あたしとあなたは違う」

 ――どこが違うの?

「……ボクは君を認めない!」

 あたしの感情は暴走をはじめてしまった。理性で制御しきれない。


 《あたし》が消えた。


 あたしの手は鏡に吸い寄せられた。表面に触れると、それは水のように波紋を広げ、あたしを飲み込んでいく。

 彼女はとっさに後ろに飛び退いたらしかった。鏡のすぐ前に彼女はいない。

「なんでボクを受け入れてくれないの?」

 自動的にあたしの腕は彼女を求める。そのまま引きずられて、腕の後には頭が、胸が、腰が、最後に足が向こう側に抜け出てしまった。

「あたしはあたしだから。あなたを必要としていないの」

 彼女はじっと対峙して睨み付ける。逃げる気はないらしい。

「冷羅、ボクは君が必要なんだ。君を手に入れることができれば完璧になれる」

 鏡から完全に出てきたあたしは彼女の方に手を伸ばしたまま言う。

「生まれ変わるなんて幻想は持たない方がいい。それはまやかしだもの」

 ――何でそんな目であたしを見るの?

「うそだ! ボクは騙されない! ボクはボクであるという存在にかけて君と一つにならなきゃいけない!」

 あたしは動き出す。彼女の方に向かって勢いよく、何の考えもなしに突っ込む。

「リセットなどないわ。生物が生きていることにリセットなどないのよ」

 言って彼女は瞳を閉じた。

「うぁぁぁぁぁ!」

 あたしは叫ぶ。動き出したこの感情を、どう処理すればよいのかわからない。彼女が憎い。自分でありながら、自分のものではない存在が。自分の思うようにならない存在が……憎い。

 彼女の瞳には涙がうっすらとにじんでいた。

 あたしの身体は彼女の身体をすり抜けてしまった。はじめは彼女が透けたのだと思ったが、透けたのが自分の身体だと後に理解した。それでやっと理性を取り戻したのだ。

「愚かだよ、そんなの」

 冷羅はあたしを振り返って見た。蔑む目をしていた。

「違う……違う……」

 身体が震える。頭を抱えて彼女を見ないよう努めた。

 ――こんなの嘘だ。あたしが存在していないだなんて。存在していなかったのがあたしだったなんて。こっちが現実だって思っていたのに。こっちは夢じゃないの? どうしたら証明できる?

「なんでそんなものが欲しいのよ。完全なものはこの世界に存在しない。あるとすれば理論の上や数式の上だけだよ。人間が考えたものの中にしか完全はあり得ない。外に出されたとたんに不完全になる。そういうものなんだよ」

 不意に彼女の思考が流れ込んできた。

 自分が人間なのか、ヴァイスは人間であるのか。

 ひょっとすると、あたしは彼女を取り込むのに部分的ではあるが成功したらしかった。

「……人間であることに、なんの意味があるって言うの?」

 あたしは勝利を確信した。身体の震えが止まると笑いがこみ上げてきた。

「え?」

 彼女の困惑する顔が目に浮かぶ。

「ボクたちは人間じゃない、それで良いじゃないか。なんで人間である必要がある? この世界に人間はいないじゃないか! ボクたちがいるこの世界に人間は一人だっていないじゃないか!」

 勝てる、彼女に勝つことができる。これであたしのものよ、この世界は。

「いるわ! ヴァイスは人間よ!」

 冷羅の顔が青ざめた。薄々気が付いていたようだ。彼が何者なのかを。

「あの男は、あれはアンドロイドだよ。人間の血で動く、不気味なロボットなんだ!」

 強張った表情のまま、彼女は呆然と立ちつくしていた。誰かに言われるまでは信じていよう、そう思っていたらしかった。彼女は認めたくなかったのだ。

「やだ……そんなの冗談」

 両腕でしっかりと自分の両肩を抱いてうずくまる。形勢が逆転した。

「もう人間にこだわることはないんだ、冷羅」

 慰めながらゆっくりと近づく。これであたしの目的は達せられる。

「ボクと一つになって、完璧なものになろうではないか。ひょっとしたら神にだってなれるかもしれないよ」

 彼女の肩がぴくりと動いた。

「神っていうのは、人間が生み出した幻想よ。他の生物に宗教はないの。人間固有のものなのよ」

 しまった、と思った。

 彼女は立ち上がると強い意志を秘めた瞳であたしを見据える。

「あなたは幻。あたしはここにいる。もういい加減に夢から覚めないと。戯れている場合じゃない」

 あたしの頭に彼女の細い腕が伸ばされる。

 ――あたし、これで終わりなの? 死んじゃうの?

 恐怖で声が出ない。パクパクと口を動かすだけで、何も言えない。

「姶良、あなたはもう少し眠っていて」

 記憶はここで途切れている。



 * 8 * 冷羅


 目をそっと開けてみる。真っ白な天井がボクを睨んでいる。いつもと同じ登場の仕方に飽き飽きするところだが、今日は安心した。相変わらず身体はろくに動かない。

「はぁ」

 大きな溜息をつく。

 毎日見ていた夢とは全く違う夢を見ていた。身体が自由に動くとは、ああいうことなのだろうか。

 ボクは物心が付いたときからベッド中心の生活をしていて、まともに動いた記憶はない。

「大きな溜息だったね。気分はどう?」

 頭の上から降ってきた声にボクは非常に驚いた。視線を移動させると、そこには肩口で緩やかに髪を束ねたヴァイスの姿があった。

 全身白い姿から、ボクは彼をヴァイスと呼んでいる。今思えばボクは彼の本名を聞いたことがなかった。

「悪くはないよ。変な夢を見ただけ」

「珍しくうなされてなかったようだけど」

「うん。身体が動く夢を見た」

 具体的に話そうかと思ったが、やめておくことにした。細かく話したら、彼が人間なのかどうかに触れることになりそうだったから。

 ――ボクはまだそのことについて訊く勇気はない。

「身体が動く感想は?」

「自由が利くって良いよね。どこへでも歩いていけるのは最高。自分の世界が広がるって感じかな」

 こんな笑顔を作っておしゃべりをしたのは初めてだった。今はとっても楽しい。

「それは良かったね」

 彼はボクの頭を撫でた。

 そのときボクはヴァイスが手に包帯をしているのが目に入った。かなりしっかりと全体を覆っている。

「ヴァイス、怪我したの?」

 彼ははっとその手を引っ込め、背を向けた。よく見ると、右手だけでなく左手も包帯をしているようだった。

「ちょっとした事故だよ。不注意で怪我をしてしまったんだ」

 背を向けたまま彼は気まずそうに答える。眼鏡に手を触れ、慎重に下ろした。自分の癖に気が付いたようだ。

「髪、短くなってる。切っちゃったの?」

 わずかではあるが少し切ったような感じがした。憧れて毎日毎回見てきた彼の髪だ、少しの変化も見逃しはしない。

「その事故で、毛先を焦がしてしまったんだ。長いからね、私の髪は」

「眼鏡も変えたでしょう?」

「……よく見ているね、君は」

 ヴァイスの身に何があったのだろうと心配になった。嘘をついているからだ。

「あたし、そのくらいしか考えたりすることないもの。他に見ているものもないし」

「そうか……確かに言えているな。この眼鏡も事故で……」

「嘘つき」

 ボクがきっぱりと言い放つと彼はこちらを向いた。

「ヴァイスは嘘をつくの下手だよ。あたし、心配だよ。ヴァイスがあたしの前から消えたら、本当に死んじゃうよ。誰も見つけてくれないでしょうもの、消えたあたしを」

 上半身をゆっくりと起こし、彼を見つめる。

「あたしを捜してくれるのはいつもあなたよ。あなたしか、あたしを捕まえられない」

「……冷羅……」

 彼はボクを両腕でしっかりと抱きしめた。彼の体温は冷たかった。たんにボクの身体が温かかったならいいのだが。

「くすぐったいよ、ヴァイス」

 全身の感覚も正常に動いている。今日は調子がいい。

「……ダメだ、姶良……」

 ――え?

 ボクの心は静止した。――今、なんて? 姶良は、夢の中の人物じゃなくて、現実に存在するの?

「……ヴァイ……ス……?」

 ボクの身体を押し倒してベッドに押しつける。何をされるのかわからず、ただ吃驚して声も出せずに彼を下から見つめた。

 ヴァイスの瞳が金色に光ったように見えた。新しい眼鏡のせいかもしれない。

 彼はボクを押しつけた後、すぐに我に返って隣の椅子に腰を下ろした。

「悪い。今日の私はどうかしている。怪我はないか?」

 息が上がっている。ボクの鼓動はとても早かった。

「う……うん。平気。吃驚したけど」

「よかった……」

「すごい汗だよ。白昼夢?」

「だったらひどい夢だ」

 彼は汗を袖で拭った。眼鏡を外し、天井を見つめる。

「……君は冷羅だよね?」

「他に誰がいるというの?」

「……そうだね」

 彼はふっと笑った。ここのところ、彼の感情表現が豊かになったような気がする。ボクの知っているヴァイスが消えているような気さえする。

 最近名前を確認することが多くなった。

 あの起伏を持たない生活はどこへ行ったのだろう。不可逆な日々。戻らないのか?

 どこか加速しているような気がする。覚醒している時間も長く、そして身体が幾分か動くようになっている気がする。脱走生活がリハビリになったのだろうか?

「ねぇ、ヴァイス、最近ちゃんと休養をとっている? 無理してない?」

「大丈夫。その心配はいらない」

 彼は立ち上がった。

「帰るの? あたしが寝るのを待たずに」

「あぁ、もうしばらく起きていそうだからね。暇だというなら、本をあげようか?」

 眼鏡を掛け直しこちらの様子を窺う。ボクは首を横に振った。

「いらない」

「そうか。じゃあおとなしくこの部屋にいなさい」

 ボクの頭をいつものように撫でてドアの方へ向かう。その足はふらついていて、今にも倒れそうだった。

「ヴァイス、ここで寝ていけば?」

 思わず声を掛ける。

 彼はスイッチを押して扉を開けると返事もせず、振り向かないまま出ていってしまった。

 広い真っ白な空間に、ボクは置き去りにされたのだ。



 * 9 * ヴァイス


 包帯で全体を覆われた手のひらにカラフルなタブレットを載せる。全部で五つ。ここに来てから減らしてきたが、五つでは足りない。精神が不安定になり、他の人格が表面に出やすくなっている。彼はその事実を目の当たりにして不安に駆られた。ここにはカウンセラーはいない。薬も冷羅に与える分しかない。もう、逃げることはできないのだろうか。

 コップに水をなみなみと注ぐ。彼は水がひどく苦手であったが、薬を飲むには必要である。目を閉じて一息で薬と水を飲み込む。残った水はすぐに流しに捨てた。

「くっ……」

 どんっと壁を叩く。利き手の右手から青い血がにじむ。

「自暴自棄になってはいけませんよ」

「リツ、貴様私に嘘をついたな」

 同じ口から別の声がする。一つの身体に何人の人間が同居しているのだろうか。彼はすべての人格を把握していない。おそらくすべての人格をまとめているのはリツだ。

「どんな嘘を僕がついたというのです?」

「私の身体はもう私のものにはならない。無理やり冷羅をここに連れてきたが、貴様が姶良も連れていたとは全く気付かなかったよ。彼女は、彼女たちは渡さない。貴様の思うようにはさせない」

「もうファーストコンタクトは済みましたよ。彼女も僕たちと同類ですからね」

「違う。彼女に同じ思いはさせない」

 身体が震える。寒いからではない。怖いからだ。

「でも酷いじゃないですか。姶良を置いていこうとするなんて。ドナーを置き去りにして、どうして冷羅を救えるんです?」

「もう手術は終わった。レシピエントは回復する」

 声が震える。リツの声は安定していたので、端から聞くとさも二人の人物がそこにいるように感じるに違いない。

「手術が終われば、ドナーは必要ないのですか。僕を捨てたように、彼女にも同じことをしたのですか」

 呆れたと言わんばかりに感情を込める。

 彼は目を見開いた。

「……おや、否定しないんですね。認めているんですか? 自身の間違いを」

 リツは笑いながら言う。

「……私は……」

「……ん?」

「……知っていたらこんなことをしなかった」

 消え入りそうな声。泣いているようにも聞こえる。

「許しを請おうとしても無駄ですよ。もう僕の本体はない。あなたの中にある臓器しか残っていないんですから。大事にして下さいよね、それ」

「死ぬつもりはないよ。冷羅を残して逃げるなんて。私にはできない……」

 ずるずると壁に手をつけたまましゃがむ。右手の包帯がずれた。傷口が開いてしまったのか、血が包帯をどんどん青く染めていく。

「今の言葉、忘れるな」

 リツが意識の底に帰っていくのを、彼は感じた。薬が効いてきたようだった。

「あぁ……」

 左手で額を押さえる。汗が噴き出している。彼はそれを拭うとベッドに向かった。

 すべてが白い世界。この部屋も冷羅と同じ景色だった。

 殺風景な世界。これが彼の望む秩序の姿なのだ。

 彼はベッドに着くや否や、シーツもかぶらずに眠りに落ちた。



 * 10 * 冷羅


 あれから何回夢を見ただろう。そんなに日も経たないうちに、見知った人物がやってきた。



 眠りが浅かったのか、ボクは扉が開く音で目を覚ました。ドアの方に身体を向ける。この頃にはもう幾分か動けるようになっていた。

「冷羅ちゃん、お見舞いに来たよ」

 大きな花束で顔が見えない。しかしこの声はボクが知った声だった。

「遥香(ハルカ)さん?」

「当たり」

 ひょこっと青い花束を脇にして出した顔は男とも女ともつかない中性的で端正なものだった。何度か会ったことがある人物で、ヴァイスの知り合いらしかった。

 彼の髪もヴァイスと同じ銀髪で、でもショートカットにしていてさっぱりした感じがした。左耳に赤い石のピアスをつけている。彼もまた白衣を身に纏っていた。これが彼の普段着らしい。前に会ったときも同じものを着ていた気がする。

「こんな辺鄙なところへようこそ、遥香さん。シャトル、借りられたの?」

 上半身を起こして彼を招く。彼はベッドの横に花束を置くと、側の椅子に腰を下ろした。

「君、ここが何処なのかわかっているの?」

 驚いた表情を一瞬見せたがすぐに隠す。明るいトーンで笑いながら問う。彼が会話をするときは始終笑顔を絶やさない。故に深刻な話も、いつも軽く感じられる。ボクの手術について説明してくれたときもそうだった。

「地球じゃないわ。少なくとも」

「ほぅ。なんでそう思うの?」

「窓がないわ」

「それだけ?」

「重力加速度が違う。ベッドから落ちても、そんなに痛くないの。それにね、動きやすくなった」

「回復しているからじゃなくて?」

 ボクは首を横に振った。

 遥香さんは「へぇ」と感心するように頷いた。

「どうしてここに飛ばされたのか、知ってる?」

「ヴァイスが、あたしの身体にしたことが原因。彼の研究がもとで、地上から追放された……違うかしら?」

「当てずっぽうで言っているの? 面白い推理だね、冷羅ちゃん」

 彼は声を立てて笑った。本当に面白がっているようだった。だからなんか急に恥ずかしくなってボクはシーツをかぶった。

「……当てずっぽうでものを言えるほど想像力はないよ、あたし。知識からでしか、ものを言えない。そう作られているもの」

「君は人間だよ。少なくとも、俺とは違う。俺は普通に生まれていないからね。君にはちゃんと両親がいる。母親と父親。人間の子宮で育ち、産道を通って生まれた。ビデオを見せただろう?」

 遥香さんは人間だが、人間とは別の生まれ方をしている。遥香さんは遺伝上の親を複数もつ。遺伝病の両親を元に、欠損を補うための別の人間の遺伝子を添加して作られた。キメラではないが、遺伝子実験の末に誕生してきたようなものだ。ボクと同じ《サンプル》としての生を受けている。そして、母親の胎内からではなく機械に囲まれた部屋で彼は作られ産声を上げた。人工的な生物なのだ。

「あんなの証拠になりません。いくらでも偽造できるわ。それに両親はもうこの世にいない」

 ボクの記憶のほとんどは白い部屋の中で起きた出来事である。両親の顔もろくに覚えていない。だから自分が何者なのかを知りたくて、一度遥香さんに訊いたことがあった。その答えがビデオである。そのときは納得をしたふりをしたが、あんなものいくらでも誤魔化しがきくではないか。答えや証拠にすべきものではない。

「……偶然だよ」

 彼はふぅと溜息をつき、ボクの頭を撫でた。彼の手は温かかった。

 そう言えば最近感覚がとぎすまされているような気がする。鈍感になっていた感触というものを取り戻したらしかった。

「何一つ、あたしを証明できるものなんてない」

「君は生きている。君は人間だ。自分の意志で動いている。感情がある。食事もするし、排泄もする。夜は眠り、朝は起きる。――まだいろいろあるけど、それじゃ足りない?」

「生物とは、栄養代謝・運動・生長・増殖などの現象を行うもののことだそうです。人間は、脳が発達し、手を巧みに使い、道具を作り、それで用をなし得るものだそうです。でも、それって非常に曖昧だと思います。そんな定義では片付けられない現象が、人間の手によって生み出されている。発見じゃないんです。開発なんです。そんなのあたし、納得できない」

「考えすぎだよ、冷羅ちゃん」

「どうして疑問に思わないのかも理解できない。何故不思議に思わないの?」

 声が裏返る。こんなに感情的になってしまう理由がボクにはわからなかった。

「もういい、わかったから」

 彼はシーツの上から優しく抱きしめた。温かくて、とても落ち着く場所のように思えた。

「遥香さん……」

 涙が自然と溢れてきた。ひっくひっくと声が漏れる。

「思いっきり泣いて良いぞ。俺がこうしておいてやるから」

 よしよしと撫でてくれる手がとても心地よかった。



 * 11 * ヴァイス


 ドアを勢い良く開ける。自動ドアの存在を無視した乱暴な開け方に、ヴァイスは驚いた。

「おい、バカ息子! 冷羅を追いつめるとは大した身分だな」

 左耳の青いピアスが銀の髪の間からのぞく。ヴァイスはベッドから上体を起こし、声の主を確かめた。

「今は遥香さんの方じゃないようだね。彼方(カナタ)さん、ですか」

 眼鏡をかけて相手の様子を窺う。入ってきた人物はつかつかとヴァイスの前にやってきた。

「リツを出せ。あいつに用がある」

 胸ぐらをがっしと掴んで怒鳴る。ヴァイスはこんな至近距離でそんな声を出さなくても聞こえているよと心の中でぼやく。

「用が済んだら遥香さんを出して下さいね。私は彼をここに呼んだんですから」

 溜息をついた後、ヴァイスは両目を閉じた。次に開いたときは、その瞳の色は金だった。

「乱暴なことはしないで下さいね、彼方君」

 軽く手をはじいて彼方を後退させると、ベッドから出る。大きく伸びをして、その後欠伸。いかにも寝起きの様子で、彼方がいることは関係なさそうだった。

「リツ、姶良をどうしてこっちに連れてきたんだ?」

 掴みかかりそうな剣幕で言う。苛立っているのがよく分かる。遥香と違って、彼方は攻撃的で短気だった。

「青い血のサンプルを持ち出したことを怒っているんですか? 彼女はもう冷羅の中だ。――べつにいいじゃない? 僕たちの目的は赤い血との融合なんだから。もう自己増殖することができないんですよ。子孫を残すためには器を借りるしかない」

 冷蔵庫から水を取り出しグラスに注ぐ。ごくりと一息でグラスの水を飲み干すと、彼は食器洗い機の中にそれを片付けた。

「正常な検体を、死を待たずにドナーとするなんて君のやり方は間違っている。姶良はまだ生殖可能だったかもしれないというのに」

「冷羅を殺してでも、姶良を取り戻すつもりで? 一応姶良も生きてはいますからね。冷羅と姶良の中身を入れ替えたに過ぎないですから」

 悪びれた素振りもなく、さもそれが当然の行為だったように答える。

「僕の研究とあなたの研究はかくも違うのに、どうして同じサンプルを求めてしまったんでしょうね。僕が考えるに、君が人工的な融合体だからだと思っているんですがね」

 バカにするように笑う。彼方は理性で自分を抑えるのがやっとだった。

「好きなだけ言えばいい。オレはどう言われようとも平気だからな」

「どうだか」

 肩をすくめて答える。

「とにかく、君たちに彼女らを任せるつもりはない。だいたい追放を喰らって勝手に雲隠れしたのはあんたらだ。彼女は被害者だ。オレが連れて帰る」

「僕は別に構いませんよ。でもヴァイス君がなんというかなぁ。彼、彼女にのめり込んでいますから。あんなガキの何処に魅力があるんだか。自分で手術をしたから、いい気になっているのでしょう。困りものです」

「今日は一段と饒舌だな、リツ」

「長い間ヴァイスとしか喋っていませんでしたからね。他の人格は僕が食いつぶしてやりましたから。余計なメモリーは不要なもので」

「……政府も何を間違えたんだか」

 彼方は呟いた。

 未来は変えられる可能性があるが、過去を変えることはできない。過去で変えられるのは解釈だけだ。

「もういい。また頃合いを見て話すとしよう。オレは失礼するよ。遥香と代わるが、手荒なことはしないでくれよ」

 彼は左手を額に当てる。手を離したとき、ピアスの石は赤に変わっていた。

「……両手、怪我をしているようだ。どうした?」

 遥香は開口一番に尋ねる。意識を交代してすぐにリツの両手にきつく包帯が巻かれていることに気が付いたのだ。

「ヴァイスが暴れるんですよ」

 リツはベッドに腰をかけた。片手でつまらなそうに髪をいじっている。

「薬は俺が言ったものをちゃんと服用しているのかい?」

「いーや。充分な量をもらえなかったから。それにあいつは水が苦手で、うまく薬も飲めないんだ」

 全く視線を合わせようとしない。好戦的なリツは理論派で笑顔を絶やさない遥香が何を考えているのかはかりかねて苦手だった。

「自分の姿が映るものを拒否してしまう所為だね。リツ、君が揺すったんだろう? ダメだよ、仲良くしなきゃ」

 特有の笑顔で諭すように言う。押しつけるような言い方を彼はしない。受け止め、適切な対処の仕方を説明する。

「個人の問題だ。あんたが立ち入るような話じゃない」

「ヴァイスだって共生を嫌がっているわけじゃないんだよ。ただリツがきつい物言いしかできないから滅入っているんだ。相手を思いやることも必要だよ。君の身体は君のものでもあり、ヴァイスのものでもあるんだから」

 リツは視線を全く合わせようとせず、話の間ずっと自分の髪を見つめていた。

 遥香はそれに対しずっとリツの顔を見ていた。微妙な表情の変化を見逃すまい、と。

「……僕に話すことはそれだけか? 僕はあんたに話すことはない」

 ぼそぼそと話す。早くこの場を去りたかった。

「一度顔を見せてくれないかな。そしたら引っ込んで良いよ」

 リツは言われて遥香を睨んだ。すぐに両目を閉じてヴァイスを呼び出す。

 次に瞼を開けたとき、彼の瞳は銀色だった。

「やぁ。ヴァイス。お久しぶり。荒れているようだね。幽閉生活も楽じゃないだろう?」

 遥香はにこやかに近づくと、ヴァイスの隣に腰を下ろした。

「全くだね。私はこんな生活には絶対に慣れないと思っているよ」

「同感。君が俺にメールを飛ばしてきたときは一体何が起こったのかと思ったよ。死体の一つや二つ、転がっていても驚かない覚悟で来たんだけど」

 おどけて答える。リラックスした雰囲気作りに努める。ヴァイスの精神は危険な状態だとリツの様子から彼は判断していた。

「探せば見つかるよ。姶良が最上階で、リツが最下層に眠っている。コントロールルームの連中も死んだようだ。あれらは機械だが、作りが古い。ここの設備自体の老朽化も甚だしい。重力制御も怪しい。私を殺すつもりらしいな。研究も全て闇に葬るつもり、か」

 ヴァイスは大きな溜息をつき、ぱたんと横になった。眼鏡を外し、遥香に背を向ける。

「さぁな」

「それにしても、よくここへ来られたものだな。面会はできないことになっていただろう?」

 背を向けたままヴァイスは尋ねる。遥香は天井に視線を移す。

「まぁ裏でいろいろやってね。カウンセリングの名目で、俺の名前で申請して、別の衛星に行くところを、彼方君に軽くパイロットをツブしてもらってシャトルを奪い、この衛星をハッキングしてセキュリティシステムを破壊、そんなこんなで侵入した。ちょろいもんだよ。慣れているから。だいたい、俺と彼方を双子だと思ってくれているからやりやすいんだよね」

「それは私とて同じことさ。君と違って私もリツも同じ方面を専門としているからあまり勘違いが起きないけど。それに後天的だからね、リツと同居することになったきっかけは」

「彼方が……強引にね。悪かったね、君にリツを押しつけて。完全に同調が済んでいなかったのにくっつけてしまっただろう。それで君たちはバラバラのままだ」

 両手で頭を抱える。今思い出しても気分が悪くなる。あれは地獄絵だと思った。

 遥香は頭を振って思い出そうとしたことを追い払った。

「過ぎたことだ」

 責めるわけでもなく、短くヴァイスは答える。

「冷羅の経過はどうなんだ? 先に花束を持っていったら元気そうにしていたが」

「冷羅は姶良を知らない。姶良は冷羅に気が付いている。時間の問題だ。人格が分裂するのも。ひょっとしたら互いに気付いているのかもしれないな。あれは賢い子だ」

「そうか……」

 遥香は立ち上がる。ヴァイスも起き上がった。

「ヴァイス、俺はしばらくここに残ることにするよ。君にはカウンセリングが必要だ。薬も持ってきた。しばらく様子を見させてくれ。いいな?」

 ヴァイスの方に向き直り訊く。ヴァイスはこくりと小さく頷く。

「部屋は適当に使ってくれて良いから。冷羅の部屋と姶良の部屋、ここ以外の部屋は空いている」

「姶良の部屋があるのか?」

 遥香は耳を疑った。そんなことがあり得るのか、と。

「名前だけさ。行っても何もないよ」

 視線を合わせようとしない。リツの癖がヴァイスにも移っているのを確認する。

「わかった。じゃあ自由にさせてもらうよ」

 ドアに近づき、スイッチを押す。ゆっくりと音を立てずに開く。廊下は強い光で満たされていた。

「何かが起こりそうだったら呼んでくれ。そのために俺は来たんだからな」

 廊下に出る前に一度振り向いて言う。

 ヴァイスはもう眠っていた。

「君って奴は……」

 仕方がないと笑って遥香は部屋を去った。



 * 12 * 遥香


 遥香はヴァイスの部屋を出て、右に行くか左に行くか悩んだ。

 ここの床は絨毯の色が青である。冷羅の部屋を右に折れて進んだ先にあるこの部屋は、彼女の部屋よりも幾分か低い位置にある。

 このまま最下層に行ってリツの本体に挨拶しておこうかなどと考える。それとも、姶良の部屋を探す、か。

 彼はしばらく悩んでいたが、自然と足は来た道を戻るように左に曲がった。

 絨毯は冷羅の部屋の前で赤と青の境目を作っていた。全く目にきつい派手な色である。交感神経を過剰に刺激しないか、彼は心配した。

 ただでさえ狭い閉ざされた空間だというのに、精神を安定させる造りになっていない。この衛星を設計した人物や、色彩を担当した人物のセンスを疑う。黄色と緑なら、まだ落ち着く。せめてパステルカラーではないか、そんなことを遥香はずっと考えながら歩いていた。

 彼はそのまま部屋の前を通過し、赤い絨毯の上を進む。最初の突き当たりの角は右に折れており、そのすぐの場所にドアがあった。冷羅の部屋と建物の中心を通る平面を基準とした線対称になっているらしく、ちょうどヴァイスの部屋を折り返して移した位置にそのドアは存在した。冷羅の部屋からこちらは上り坂だから、正確には線対称とならず、上下では若干高めの位置にあたる。この部屋だろうか、彼はそう思いドアを開けた。

 中は真っ暗だった。入り口の側にあるだろう照明の電源を探す。スイッチらしきものを見つけると押してみた。とたんに眩しい光が部屋を飲み込む。目が慣れると彼は驚いた。

「これは一体……」

 部屋は鏡で埋もれていた。

 入り口以外の三面の壁はきれいに磨かれた鏡となっており、天井もまた鏡。床には多数の小さな鏡が転がっているのだった。中にはひび割れてしまっているものもある。

 彼は脈が急激に早まるのを感じ、部屋に背を向けた。胸をぐっと掴み、荒い息を整える。彼自身も鏡が、自分の姿を映すものが苦手だった。目を合わすことは絶対にできない。自分の中の二重性から起こるものと彼自身は納得していた。

「……ったく、あいつは何を考えているんだか」

 呟いてみて、自分が遥香ではなく彼方になっていることに気付く。それである結論に達した。――もしかすると大きな勘違いをしているのではないか、と。ここで行われていることは、ここにいる人物だけの意志によるものではなく、生き物ではない第三者の意志によって操られているのではないか、と。

 彼は振り向かずに部屋の電気を消し、廊下に出た。ドアは静かに閉まる。彼方は額に手を当てて遥香を呼び戻した。

 遥香が言う。

「彼方、これは厄介なことになりそうだ」

 その呟きに彼方が答える。

「強行突破ということも、あり得る……か。正常じゃないぞ、あいつら」

 短い溜息。

「兎に角、これは命令。重要な任務だということを忘れないようにしないとね。公私混同は良くない。たとえ同類の馴染みであっても」

 ポケットの中から手帳ほどのコンピュータを取り出す。

「皮肉なものだ。自分で生み出しておきながら」

「後始末……そういうつもりはないんだけどね」

 送られてきた情報を一瞥すると元に戻す。彼はもうその先には行かず、自分が決めた部屋に戻ることにした。今は様子を見るしかない、そう思いながら。



 * 13 * 冷羅


 遥香さんがここに来てから数日が経った。とても穏やかな日々だった。

 部屋の重力は相変わらずおかしな数値をとったままで、地上より幾分かふわふわとした生活を送っていた。

 数週間前までは重力を強くしていたようで、身体もどこか重く、薄いシーツさえ鉛のように感じられたが、今はヘリウムの入った風船みたいに何もかも軽い。それは少し大袈裟な表現だったかなとボクは思い直す。気持ちはまさにその表現で正しかった。

 睡眠と覚醒の間隔が長くなり、まとまった時間を遥香さんやヴァイスとともに過ごすことが多くなった。

 彼等が来ないときは静かにコンピュータをいじって情報収集を楽しんでいた。身体の自由が利くようになると、何故か外に行きたいという気持ちは薄らいで、いつでも行けるから今はこうしてベッドの上にいようと思った。

 この気持ちの変化にはとても驚かされた。あんなに外に行きたいと願っていたのが何故なのかと考える。今のボクにはわかり得ないことだった。

 食事をまともに摂れるようになって楽しみが増えた。寝ている時間が多かったボクはだいたいの栄養を点滴から得ていた。これでは生きている心地がしない。数年ぶりに摂る口からの食事に初めは戸惑ったが、慣れれば大したことはなかった。さしてバリエーションのないメニューだったが、それはそれで満足だった。

 ――この生活はいつまで続くのだろう。

 それまで悲観的に考えていたその思いは、今は別の気持ちから生まれてくる。こんな平穏な日々はいつまで続いてくれるのだろう。できるだけ長く続けばいいと思った。



 一日に二回の食事も済んで、ベッドの上に作られた小さなテーブルの上を片付けていた頃だ。外が急に騒がしくなった。普段はうんともすんとも言わないドアの向こうの音が聞こえるなんて今までの経験からはあり得ないことだった。

 ボクは不思議に思ってベッドからそっと出た。ドアの側のスイッチを背伸びして押す。ドアが開くと見慣れた強い光。その中で動くものがある。目が慣れてボクはそれがなんなのかを把握した。

「……君……誰……?」

 ボクはそれに声を掛けたが、返事はない。返事がなかったのではなく、自分の意識がそこで飛んでしまったがために聞き逃したらしかった。



 * 14 * ヴァイス


 夕食を片付けた後だ。

 ヴァイスは止めることのできない何者かが自分の中に発生したのを自覚した。慌てて部屋にあるブザーを押した。遥香に体調の異変を知らせるためだ。

 彼は薬を飲もうとグラスに水を注ぎタブレットを取り出したが、全身が震えてしまって口まで運ぶことができない。握力をコントロールできず、グラスを片手で握りつぶしてしまう。

 破片が手に刺さり、青い血が噴き出す。動脈を切ってしまったようだ。冷静な彼の部分はそれを見て溜息をついた。

 まだ震えが止まらない。遥香はまだ来てくれないのだろうか。

 その場にがくんと膝をつき、震える身体を押さえるべく両肩を抱いた。しかしなんの役にも立たない。左肩に当てた手のひらから青い血が溢れ、白衣を青く染めていく。

 サイレンが響きだした。建物の中で異常が起きたことを知らせている。ヴァイスは脂汗が出ているのに気付いた。このままでは自分が飲み込まれてしまう、そう確信した。

「……リツ……助けて……」

 この感覚はリツのものではない。別の誰かだ。ヴァイスは自分の人格を殺されないようにするためにリツに助けを求めた。あの強い意志を持つ彼なら抑えられるかもしれない。一抹の希望だった。

「無理だ……」

「うぐっ」

 何かが身体の中から上がってきて、彼はその場に吐き出す。赤くどろりとした液体が外に出てきた。血の固まりに見える。

「ヴァイス!」

 ドアはもう手動だった。血相を変えて飛んできた彼方がそこにいる。

「遥香さんは……?」

 視線を入り口に向ける。口からは赤い液体が流れている。

「どういう訳かいないんだよ。オレの呼びかけに出てきてくれない。――お前、大丈夫なのか?」

 すぐに彼に駆け寄る。ヴァイスの周辺にはガラスの破片と数種類のタブレットが散乱し、赤と青で染まっている。

「このサイレンは?」

「知らない。何故鳴り出したんだか」

「……さっきまで、何処にいた?」

「それは……」

 彼方は答える前に大きく後ろに飛び退いた。ヴァイスの瞳が赤く光ったからだ。

 ヴァイスだったそれは急に立ち上がって彼方を睨んだ。

「あの部屋にいたんだな?」

 左手で口元を拭い、彼は言う。

「……ようやくお出ましですか」

 彼方の身につけているピアスの石が赤に変わった。

 遥香が出てこないと言ったのは嘘だ。この日が来るのを、このチャンスのために彼方に頼んでいたのだ。

「これでまともな話ができそうですね、レイラさん」

 にこやかに遥香は言ったが、彼はもう理性などなくしていた。

「消えろ!」

 ガラスの破片を握って彼は遥香に向かって突進する。

「せっかくお会いできたというのに」

 やれやれと頭を掻いて、彼の動きを観察する。すんでの所でうまく遥香はかわす。切り返してきた腕も難なく遥香は避けた。力業は彼方の方が得意だが、避けるといった動作は遥香の得意な運動だった。

「芸がありませんね」

 彼の背後に回り込み、手刀で首を狙う。気絶させるためだ。

「甘く見るな!」

 手は空になった白衣を薙いだにすぎなかった。

 遥香は状況を飲み込むのに遅れをとった。先天的な付加価値としてついているスピードが、後天的に仕込んだスピードに追いつけないと言うことがあるのだろうかと考えてしまったためである。ましてや自分で作ったものの許容量を熟知していると過信していたのが間違いだった。

 判断の遅れは、この計画において致命的であった。

「待て! レイラ!」

 開け放してあったドアを出ていく影。遥香はすぐに追おうとしたが、ドアは閉まり閉じこめられた。

「しまった」

 彼方を呼び出し、力ずくでドアを蹴破ったが、彼の姿は見当たらなかった。



 * 15 * 姶良


 あたしの身体はいつからあたしの物ではなくなっていたのだろう。


 飛躍する意識。

 跳躍する記憶。


 それぞれが不規則で、ぎこちなくて、バラバラで。

 それぞれが不安定で、はかなくて、あやふやで。


 いつからあたしはここにいたのだろう?


 夢の始まりがぼやけているのと同じで、

 あたしは確かに生まれてきたはずなのに、

 その始まりがわからない。


 どうしてそんな肝心なことを置いてきてしまったのだろう。

 何処に忘れてきてしまったのだろう。

 何処に落としてきてしまったのだろう。


 あたしの身体の所有権を放棄して、

 それなのにその出生は明らかではない。


 本当に存在しているの?

 あたしはここにいるの?


 あたしが死んでも、この世界は存在し続けるのでしょう?

 あたしが死んでも、歴史はどんどん刻まれていくのでしょう?


 あたしって一体何なの?

 誰からも愛されない。

 誰からも必要とされない。


 必要なのはあたしじゃない。

 あたしの身体だ。


 あたしの精神とこの世界とを繋ぐ媒体がみんなが欲しがる物。

 あたしという個人はいらないんでしょう?


 だったら早く『あたし』という人格を消してくれればいいじゃない。

 おとなしく人形に戻ってあげるから。

 生命活動を続ける器になってあげるから。


 あたしは生きたかったけど、

 もっともっと自由になりたかったけど、

 でも許さないんでしょう?


 黙って眠っていてあげるから、

 もう起きないように永遠に眠ってあげるから、

 だからあたしを傷つけないで。


 そっとして置いて。

 起こさないで。

 お願いだから。


 ……その願いも、あなたは聞き入れてはくれないのですか?



 * 16 * 冷羅


 これは夢だろうか。

 ボクはその記事を見たときに意識のどこかで、何者かが叫ぶのを聴いた。

 それは偶然だった。このネットワークが閉じられているのに気付いたボクは、コンピュータの機能を書き換えて外部の、つまり地上に流れている情報にリンクすることに成功した。(後々に知ったことだが、元々この衛星には外部と連絡できる設備はなかったが、ヴァイスの体調不良からリツが通信機器をこさえたらしい。本来はデータの送信のみの働きしかなかったのだが、どういう訳か受信も可能になっていた)それで、今のボクがどんな状況下に置かれているのかを知ることになる。


『人口増加を抑制する研究に捜査の手』


 大きな見出しは、ボクが地上にいたときに知っていた範囲では大手の雑誌記事の物だった。

 その記事は研究の一部を非常にわかりやすく読み解いていた。それをさらに要約すると、次のようになる。


『人口増加に歯止めをかけるために、二人の人間を一つにする技術開発』


 確かに、今の技術では可能なことだ。人間の記憶をデータベースにして犯罪捜査に役立てたり、ロールプレイングをしたりするのに使われる技術を発展させた物なのだから。コンピュータ上に作られた仮想現実、それは昔の誰かが見た物であるが、それの中で出来事を追体験できるシステムは既に実用化されている。誰かが作った世界の中で遊ぶことはボクが生まれる前からレジャーで行われている。その延長で、コンピュータを介せず、脳の中で動かすことができたら。

 一つの人間のパーソナリティをデジタル化して人格とし、それをもう一人の別の人間に移植する。デジタルデータになった人間の身体は不要になる。二人の人間が事実上一つの身体に収まるから、食糧問題はカバーできる。食べ物は一人分でよいのだ。


 でも、そんなことが許されるのだろうか?

 それは一人の人間なのか?

 それとも二人の人間なのか?


 強制的に作られた多重人格。人間の機能外の産物。

 ボクはその研究を知っていた。その研究所を知っていた。その施設を知っていた。


 ――だってそこは、ボクがいた場所だったのだから。

 そして、その研究の成果を知っている。それの研究者を知っている。


 画面をスクロールした先に映った写真は、長い銀髪の少年と、短い銀髪の青年。

 画像が小さくてわかりにくい。その二人に思い当たるところがあって、ボクは拡大した。

 長い銀髪の少年は金色の瞳を持ち、髪は三つ編みにしている。短い銀髪の青年は左耳に青いピアスをしている。

 ――リツ、カナタ――

 左の少年はリツ、右の青年は彼方という人物らしい。二人ともここで見かける白衣を着ていた。白衣と言っても、それぞれ微妙にデザインが違うのだ。この白衣は遥香さんやヴァイスが好んできている物と全く同じだ。彼らも同じ研究所の職員だったのだから、同じものを着ていても不思議なことはない。

 でもボクは確信していた。

 研究の成果で生まれたのがヴァイスで、彼を創り出したのは遥香、否、遥香の身体を借りた彼方だということを。

 そしてボクは、ヴァイスに追実験をさせて出来た副産物……。

 姶良はボクを恨んでいる。姶良はついにボクの身体を手に入れることは出来なかったのだ。彼女は、ボクの中で死んでしまったのだ。自由な身体を手に入れることを夢に見ながら。

 長い悪夢だと信じたい。ボク、冷羅が本当は死んでいて、ボクが本当は夢の中の空想の人物で、姶良がボクの夢を見ているのだと。

 そうであればどんなに幸せなことか。ボクはもう……充分に生きたよ、きっと。



 * 17 * レイラ


 目が覚めたとき、天井が白く見慣れた壁だと安心する。なのに今、瞼をそっと開けて見えた世界は地獄だった。

 何でこんな物がここにあるのだろう。誰が何の目的で運び入れたのだ?

 鏡に支配された部屋の中央には棺が置かれている。――棺桶だ。

 天井にはその中に収まった誰かの姿が映っている。あたしは目を開けているのに、彼は目を閉じたままだ。

 瞼を開けるという動作をしたはずなのに、あたしは眠っている。一瞬混乱が生じたが、すぐに理解した。――夢の中だ。じゃなければ、今死んで、幽体離脱という現象のまっただ中にいるか。

 何故こんな棺に横たわっているのだろう。自分で入ったのではないとすれば、誰かが入れてくれたのだ。

 ――一体誰が?

 遥香さんたちがやってくれたのだろうか?

 それなら別に構わないか。もう人間の歴史に泥を塗ることはない。静かにここで眠っていればいい。そのうち生命維持装置も果てて、あたしはミイラにでもなるのだろう。それでいつか、地球の引力に引っ張られて、大気圏との摩擦で灰になるのだ。何という自然な宇宙葬なんだろう。それもまたいいものだ。


 あたしの研究はどうなるのだろう?

 持ち出したデータは?

 サンプルは?


 ……そんな物はどうでも良い。冷羅と姶良が無事ならば。

 そうだ、彼女たちはどうしたのだろう? あたしが死んでしまったら、彼女たちはどうなる? 彼方さんが運び出してくれただろうか? 連れて帰ると言っていたんだ。きっと地上に連れて帰ってくれるだろう。人間の好奇な目に晒されて、きっと精神がいかれてしまうだろうけど、辛いだろうけど、こんなところで果てていくより良いかもしれない。彼女たちが、自分で決めてくれればなお良いのだが。

 生きていくのは大変だ。どこから生きることが始まっているのか知れない。死ぬのは恐怖だ。何処へ行くのか全く知れない。

 知らないことが恐怖そのものだ。未知であることが恐怖であり、そして希望だ。知れないから幸福であり、知ることが絶望だ。

 人間は空想する。恐怖を和らげるために。

 人間は予想する。希望を膨らませるために。

 今日までが失望の日々でも、明日からは希望を持てるかもしれない。過去が消してしまいたくなるほど憎いものでも、その上に今の自分は乗っかっている。過去がなくては現在はないし、未来には繋がらない。

 全てが、周りを包み、自分が、その一部となる。単独では存在し得ない。それぞれが依存し、分け与えている。

 だから……無から有は生じ得ない。原因があって結果が生じる。何も無駄なことなどない。それぞれがどこかに繋がっている。

 自分という存在は見えるところでは何にも影響を与えていないかも知れない。でも、自分が思っている以上に、どこかに影響を与えている可能性は捨ててはいけない。自分で自分を必要と思わなければ、一体誰が支えるの? 自分を支えられる人に、まずは近付かなくては。

 あぁ、今さら何を考えているのだ。生きている間はあんなに死にたいと思っていたのに、死んでからこんなにも生きていたかったと思うなんて。

 どうしてこんな欲が生まれてくるのだろう。欲なんてなければ良かったのに。最期まで残るのは《欲》なのかな。


 ――ねぇ、リツ? あたしはただ……。



 * 18 * 遥香


 彼方はまず冷羅の部屋に向かった。しかし、すでに中は空だった。ベッドが起きたままの状態になっている。

 触れたシーツはまだ温かい。いなくなってからそんなに時間は経っていない。サイレンが鳴り出す前に出て行ったわけではなさそうだ。

 すぐにそこまで判断すると次の場所に向かった。ここを出るつもりならシャトルに向かうはずだ。リツと姶良を連れて行くにしても、シャトルに向かえば追いつくだろう。彼方は急いで中央のリフトに乗り換えた。

 リフトが停止し、外に出る。シャトルは一機、彼方自身が動かしてきた物のみが停泊していた。音声認識で作動する物だから、容易に発進できないだろう。

 まだサイレンは止まない。一体何が原因なのか、そこまで考える余裕は彼方にはなかった。

「他に出口があるのか?」

 彼方は辺りを見回して呟く。遥香が表面に出てきた。

「俺の知る限りではないはずだ。この衛星は設計図通りで、改装の痕跡はない。だいたい、材料もないんだから改良の余地もないだろう? それに、ここにいる間はずっとこの建物を隅から隅まで探っていたんだ。俺に見つけられないなんてあるか?」

 彼方に切り替わると、彼はふぅと短い溜息をついた。

「その自信過剰ぶりが計画に支障を来すんだ。さっきのが良い例だろう?」

「……」

 シャトルに乗り込む。そのときも音声認識が働く。動作はスムーズだ。

 中は五人乗りの造りで、コックピットには誰もいない。倉庫も覗いたが気になる物はなかった。来たときと何も変わっていない。

 彼方はほっとした。ヴァイスをずっと監視してきたつもりだが、もしかしたら抜けがあって細工をされたのではと思っていたからだ。この様子ではその心配は杞憂だったようだ。

 それが分かると余裕が生まれた。シャトルを起動させ、レーダーを動かす。誰か、ヴァイスか冷羅がやって来たらすぐにわかるように。

 カメラは二つある出入口にセットする。一つは中央のリフトからのもの、もう一つは緊急用のものだ。

 この衛星には万が一リフトが停止してしまっても脱出できるように階段が設置されていた。しかし、脱出と言っても避難用救命ポッドがあるわけではなく、ここにいる人間も予定ではヴァイスだけだったし、ここの生命維持装置が停止するような事態のときは一緒に心中するように設定されていた。だからこの空間はヴァイスのために用意された場所なのだ。

 緊急用の階段はここを建設しているときに、作っている人間だけのために付けられた物だろう、彼方はそう解釈して座席に腰を下ろした。

 まずはこの状況をきちんと把握する必要がある。冷静に考えてみよう。彼方は順を追って整理することにした。遥香もそれには賛成のようだ。

 小型のコンピュータを取り出し、今得た情報を書き込んでいく。その作業は遥香が行った。

 突然鳴り出したサイレン。それはヴァイスが緊急のブザーを鳴らし、駆けつけている途中で響いてきた。

 ヴァイスは部屋の中でうずくまっていた。ブザーは彼の部屋から発信された物だ。彼が何処かにいて、それで鳴らし呼び出したわけではないだろう。サイレンについて、ヴァイスは心当たりがないようだった。

 では、冷羅はどうだろう。

 彼は彼方がいた場所に心当たりがあるようだった。あの時間、彼方がいた場所。

 サイレンは部屋を出たあとに鳴り出した。道は一方通行。他に抜け道はない。部屋同士の連絡もない。

 冷羅の部屋の前を通ったとき、まだ異変はなかったはずだ。絨毯の色が変わってからだ。

 あのとき、冷羅の部屋に彼女はいたのか? ドアは閉まっていた。さっき見に行ったときは開け放たれていた。

 彼女はいつからいない? 彼方が通ったときはおそらくいたのだろう。まだベッドには温もりが残っていたのだ。

 彼女とはすれ違っていない。ということは、ここに来るか最上階に行くか。それ以外に選択肢があるか?

 鏡の間にでもいるのか? あの不気味な部屋に。

 あそこに何があるんだ?

 あんな仕掛けをしてまでヴァイスを近づけまいとした意図は?

 彼方たちさえ寄せ付けないあの部屋。確か姶良はあの仕掛けに免疫がある。彼女しか利用できない。

 ……だから姶良の部屋なのか。

 最下層にはリツが眠っている。それは確認済みだ。最上階の冷羅も確認した。あれが姶良ではなく冷羅だと気付いたのはついさっき、ブザーが鳴る前にそこを見たからだ。冷羅を確認し、鏡の間を覗いた。

 その直後、発作が起こる前に呼び出された。走ってヴァイスの部屋に駆けつけた。そんなに時間は掛かっていない。それでヴァイスの部屋で少しやりあった。部屋を逃げられ、閉じこめられて脱出するまで数分もない。走って冷羅の部屋に向かい行方を確認した。彼女自身はそんなに足は速くない。それにあの格好だ。うまく走れようがない。行くとすれば何処へ? 何の目的で?

 条件を変えてみよう。

 何かに触れた、事故が起こったからサイレンが鳴り出したのではないとすれば。偶発的ではなく、計画的に行われたことだとすれば。サイレンが端からあのタイミングで鳴るようにセットされたものだったら。

 ――誰が何の目的で?

 そうだ、一体何人がここにいるのだ? どこまで予想されていたのだ? 想定外のことが多すぎる。

「俺たちが来ることまで、計算されていたのか? ヴァイスが調子を崩して俺を呼ぶことを想定していたのか?」

 遥香は手を止めた。それとほぼ同時にサイレンが止んだ。

 事態は次のステップに進む。



 * 19 * ヴァイス


 サイレンが止んだとき、ヴァイスは意識を取り戻した。室内は薄暗い。身体は何処か狭い空間、ちょうど棺桶に入っているような状態で横たわっていた。

 ゆっくりと上体を起こす。右手に痛みが走り、その手のひらに視線を移す。手はきちんと止血され、包帯が巻いてあった。白衣の袖が自分の血で青く染まっているのがこの明るさの中で確認できる色だ。その全体がぼやけていたので、自分が眼鏡を掛けていないことがわかる。

 部屋を見回す。室内の暗さと、視力の低さでよく分からないが、少なくとも自分の部屋ではないと彼は判断した。そして、ここは滅多に使われない部屋であると感じた。

 意識がリツに切り替わる。

 リツも状況がのみこめないらしく、ぼんやりと辺りを見回し、自分が眠っていた棺桶を指でなぞる。下にひかれていたふとんは柔らかく、自分の体温でわずかに温もりが感じられた。他に何もなさそうだ。棺自体はそんなに厚みはなく、お世辞にも丈夫そうには思えない。これに人間を入れて運ぶのは無理だと、何故かそんなことを冷静に感じていた。

 何となく二人とも自らの死を予感していた。ここで死んでいくのかも知れない、そう考えていた。

 右手の包帯をリツはじっと眺める。これを行ったのは誰だろう。殺意がある人間なら、わざわざこんな面倒なことはしないだろう。処置は非常に丁寧だった。

 どのくらい気を失っていたのかは全く不明だ。まず、時計はなかったし、人工照明のみの内部照明は時刻を知る手がかりにはなり得ない。時計の機能など随分と前に壊れてしまっていた。体内時計も完全に狂っている。時間などこの生活には無縁だった。

 ――何が起こったのか。

 身体に倦怠感が残っている。立ち上がろうとして軽いめまいを覚えた。

 人の気配はない。見える範囲にも影はない。

 なのに、声がした。

「ねぇ、どっちが先だったの?」

 幼い子どもの声。

 リツは背筋が凍るのを自覚した。

「この計画を言い出したのはどっちだったの?」

 少女は冷ややかな、それ以外の感情を含まない声で言い直す。

 リツは動かない。ごくりと唾を飲み込む。恐怖が身体と心の主導権を握っている。

「あの日、何があったの?」

 ガラスを踏む音が彼に近付いている。ゆっくりと、ゆっくりと。

「あたしは、いや、ボクが姶良なんでしょう? この青い瞳は冷羅のものじゃない。姶良でしょう? 本当は手術なんかしていなかった。その前に捜査員がやってきて、ボクたちは保護された。薬漬けにされて、ろくに意識を持たない状況下のボクたちを、彼らは何も知らずに『保護』という名の下で隔離したのね。青い血のボク、赤い血の冷羅。外見はほとんど同じなのに、血の色が全く違う。だから肌の色が違うはずなんだけど、そんなの化粧をすればなんて事はないわ」

少女は彼の前に立つとにこりと微笑んで見せた。とても不気味な笑み。

 リツはどこが不自然なのかわからなかった。ただ、彼女の白いドレスが青く染まっているのが、そこから発せられる匂いが、生理的に拒絶してしまう物だった。

「ヴァイス、冷羅を知らない? ボクだけ起きているのは可哀想。ヴァイスはどうしてボクを冷羅にしたの? 冷羅を起こせば良かったんじゃないの? 何でボクだけが起きているの? 冷羅の中にボクを入れたんじゃなくて、ボクの中に冷羅を入れようとしたのは何故? 麻酔をかける前、遥香さんは説明してくれた。ボクの身体を実験の試料にしたいから、冷羅と同居してくれって。ボクは構わないって言ったけど、あの子はなんて答えたの? ……少しは表情を変えたりしなさいよ。あんたは人間じゃないんでしょ? あんたは機械なんでしょう? なんとか言ったらどう?」

 彼は動かない。何も言わない。視線さえ動かない。止まったまま、壊れている。

 少女は彼の襟を掴んだ。上半身しか起き上がっていない彼の身体は少女によって激しく揺さぶられた。

「本体はどこにやった? それくらいは答えなさいよ。いつからあんたたちが入れ替わっていたのかは知らないけどね、それくらいは聞く権利があるでしょう?」

 それに対し、彼は口元をわずかに上げて笑みの形を作った。力はないが、確かに笑っている。

 少女の手に冷たい液体が落ちた。

「君たちも、いつから入れ替わっていたんだい? 何で密告なんか……」

 彼の左手が素早く動く。ポケットから出した物はそれが何であるのか判断できぬスピードで少女の胸を貫いた。

 少女の手が襟から離れ、後じさりする。胸からは青い血が溢れてくる。少女は右手を傷口に強く当てて押さえる。

 彼の手には青い液体を滴らすナイフがあった。

「ゴメンね。姶良。僕はヴァイスを止められなかったんだ。僕も君の後を追うことにするよ。その前に、一つ教えて上げるよ。リツが僕の本名で、実在する人間なんだ。ヴァイスは僕が作ったプログラムの名前で、人間じゃなかったんだ。あれはファントムなんだよ。でも、僕は機械じゃない。人間だ。それで……もうこれ以上は言えない。死後の世界があるのなら、そこで教えて上げるよ、姶良」

 両の手にきちんと巻かれた包帯が、姶良の青い血で濡れていく。ナイフは自身の喉に向けられていた。

「リツ……逃げるの……?」

 薄れいく意識の中で、少女は叫んだ。

「運命を受け入れるだけ」

 彼はそのまま棺の中に倒れ込んだ。

 少女は視界の端にそれを見送り、深い青の絨毯の海にゆっくりと倒れ込んだ。

 最下層にある棺の安置室で生命として動いていた物が静止した。ここで何が起こったのか、おそらく誰も知らぬまま消えてしまうのだろう。だから、今、この事実を語る者は、推測のみで述べているのだ。

 そこに現象はあっても、それを解釈するのは所詮人間だと言うことだ。



 * 20 * 姶良


 長い長い夢を見ているような気がした。

 ヒトは、自分が死ぬ夢を見たりする。ぼんやりと、あぁ自分は死んだのだと自覚する。何となく、その事態を受け入れてしまう。それが夢の面白いところだ。何故かすんなりと、後で冷静に考えるとおかしな出来事をそのまま受け入れてしまう。

 だからきっと、あたしはそう思ったんだろう。

 あたしの腕の中にはあたしがいた。何でこんな事になったのか、今でもわからない。何であたしの意識が、あたしがあたしだと思っていた身体の外にあるのかわからない。

 彼女は人形のように冷たかった。あたしの身体も冷たかった。あたしは本当に人形だったから。

 右手から流れる青い液体が彼女の服に染み込んでいく。

 深紅の装飾は照明の光が白であっても全体を赤っぽく染める。彼女の頬は透き通るように白かったはずだが、そのおかげで赤みがさしている。まるで生きているようだ。

「何であたしはここにいるの……? ここに意識があるのに、どうしてあたしの身体は目の前にあるの? どうして身体と心がバラバラなの?」

 壁を左手で殴る。ごすっと言う鈍い音が壁を伝う。

 左手に感じる懐かしい痛み。右手に感じる久しい感触。それは幻で、本当は感じてさえいない。頭脳に組み込まれたコンピュータが、経験から呼び出したデータ。それが痛みという信号を作っている。

 一体その機構は生物といえるのか? 生きているとはどういうことをさすのだ?

「ねぇ、ひどいよ……誰がこんな事を考えたの? こんなの生き物じゃないよ。許されることなの? こんな生き方したくなかったよぅ。ちゃんと死にたかったよぉ……」

 涙はもう流れない。必要がないのだ。流したくても、それを作るメカニズムがこの身体には備わっていない。

 必要最小限しか動かない義体。脳もすでにほとんどが機械化されている。人間を元にして作られたレプリカ。

 ――どこまでが人間なのだろう。

 ――どこまでが生物なのだろう。

 ――どこからが機械なのだろう。

 長い金髪が赤い絨毯の上に広がっている。昔あたしのものだった金色の髪。

「まさか……」

 ふいに少女を床に横たえて後に引き返す。白衣は走りにくかった。

 赤い絨毯はその色を薄くしていく。壁紙も色を徐々に和らげていく。

 壁の切れ目に手を掛けてドアを手動で開けると、廊下の明かりで中が見渡せた。全面鏡の部屋に自分の姿が映し出される。全身の姿が。

 ずっと憧れていた銀色の長い髪はあたしのものになったけど、でもそれは本当に望んでいたモノなのか?

 あたしが本当に欲しがっていたのは一体何だったのだろう?

 自由に動く身体だろうか?

 自分の存在証明だろうか?

 ……存在証明?

「なんで……違う、違うよ、ヴァイス。あたしは確かにあなたが欲しかったけど、あなたが欲しかったわけじゃないんだ。わかっていたくせに、どうしてこんな事を……。あたしのことが嫌いだったの? 自分自身のことをそんなに憎んでいたの? 自分の正体を知っていたから? 気付いていたから? ……あたしはあなたがくれる愛情が欲しかっただけなんだ。たとえそれが誰かが作りだしたプログラムだったとしても、それであたしは充分だった。人間だって経験して、それに言葉を与えて表現しているに過ぎないんだよ。始めから全てが備わっているわけじゃないんだよ。入力と出力の関係式を頭で覚えていって反応できるようになるんだよ。それがスムーズに出来るから自然と感情が振る舞われるようになるんだよ。こんな形で一つになったってしょうがないじゃないか。これからどうしたらいいの? あなたなしでどうやって生きていけばいいのよ!」


 ――心配シナイデ。モウ君ハ生キテナドイナイカラ――


 不意に頭の奥で声がした。


 あたしの記憶の最期の画像には異物が映っていた。鏡にもう一つの小さな影があったのだ。でも、完全に静止したあたしには確かめようがない。環境は完全に保存されないから。



 * 21 * 遥香


 サイレンが止んで数分もしないうちにレーダーに反応があった。遥香は思考を中断し、モニターを見る。

 映っていたのは冷羅だった。赤い瞳がこちらを捉え、すぐに微笑む。黒いドレスは着替えてきたのか見慣れないシンプルなものだった。

「全て、終わりましたよ、遥香さん」

「冷羅ちゃん、本当に良いの?」

 遥香はマイクに向かって言う。

 冷羅は立ち止まり、じっとこちらを窺っている。微笑みを固定したままで。

「後始末があたしの仕事なんです。彼も望んでいた。いいんじゃないですか? お互いのメリットとデメリットが一致したんですから」

「そうかな? 君はこんな事、望んでないんじゃなかったの?」

 一度間を置く。冷羅の表情が少し乱れたのを遥香は逃さない。

「俺は君がしたことに口出す義理はないけど、実はずっと気になっていたんだ。君は本当は誰なんだい?」

 冷羅はそれを聞くとすぐに笑い出した。お腹を抱えて笑うが、それは子どもの仕草ではなく、大人の女性がするようなしなやかさを伴っていた。

「何がおかしい?」

 決して感情的にならず、遥香はたんたんと問う。

「遥香さんは、本当は別件でここにやってきたんでしょう? ヴァイスが呼んだからここに来たんじゃない。あたしを回収しに来たんじゃないの? 上からの命令で。半信半疑だったけど、あたしがここにいたから吃驚した?」

 その瞳の色は金色だった。

「回収に来た訳じゃないよ。調査に来たんだ。そろそろ精神が持たなくなる頃だろうから。俺の仕事の都合でね。あまりきれいな仕事じゃないよね、全く」

 溜息混じりの声がスピーカーから漏れる。遥香はまだ何かがあるのではないかと警戒していた。溜息は自然に出たものだが、他の感情は全て演技である。言っていることは嘘ではないが、本当でもなかった。

「なぁんだ。みんなあたしのことなんか忘れちゃったのね。それとも死んでしまったとでも思っているのかな? 興味なかったのね、作っておきながら、さ。遥香さんもあたしに興味はないの?」

「あいにく」

「女としてみなくていいよ。《サンプル》や《症例》で良いんだけど、それでもあなたにとって価値はないかしら?」

 八の字を描くようにゆっくりと歩きまわる。黒のロングスカートには膝までスリットが入っていて、歩くたびにひらひらと翻る。身のこなしに無駄な動きがない。滑らかに、きれいに歩いている。どこで身につけたものなのか。

「全くもって面白い発言だね。誘惑しているの?」

「どうかしら」

 彼女はくすくすと笑う。

「遥香さん、あなたこれからどうするの? この施設は廃棄するって調査書には書くことになるわよね? あたしはどうしたらいい? このまま衛星と心中すべきかしら? 地上に戻っても、帰る場所はないでしょうし」

 さばさばと言う彼女の台詞には悲愴さが全く感じられない。

 冷羅にも姶良にもみられなかった仕草だ、と遥香は観察しながら思った。それと同時に、彼女がどこで作られたものなのか記憶を頼りに照合していく。できるだけ話をしなくてはとどこか焦っていた。

「君はどうしたいの? 俺に連れ帰って欲しい?」

「あたしに決定権はないの。そんなの贅沢よ。ヴァイスも姶良も自分勝手よ。あたしの意思なんて尊重できないんですもの。自分が思っていることが絶対だって思い込んでいる。あたし、望んでなどなかったのに……、でも、こうして元通り。元の鞘に戻ったって訳で」

 冷羅は立ち止まって、冷たい瞳でカメラを睨む。小型化されたカメラは外からでは判別ができないものなのに、それでも彼女はしっかりと捉えている。

「そろそろこんなくだらない話は止めません? 遥香さん、あたしを調べてもどうしようもないことですよ。あたしはオリジナルであり、レプリカである。それ以上でもそれ以下でもないの。出生の謎、そりゃぁあたしだって知りたかったから何度も調べたわ。でもここのデータにもなかったし、向こうのデータは焼き払われているし、直接ヴァイスやリツや、たぶん手がかりはないだろうと思いつつ姶良の脳にまで働きかけて、データの読み込みもしたけど、それでも何もなかった。一体あたし、どこから来たの? あたしって生き物なの? 機械が夢を見ているだけじゃないの?」

 必死の目だ。感情らしい感情。

 どうして熱い、温かいが感情とされるのだろう。冷たいも充分に感情だ。人間に体温があるからだろうか。冷えてしまうとそれは物体なのか。

 遥香は連想をそこでやめた。

「ヴァーチャルリアリティはあくまでも現実ではない、そういう話かい? これが夢か現実か。誰かが作ったものなのか、はたまたそうではないのか。ある宗教では神様が全部作ってしまっていてどうにもならないと言うのを運命として片付けているね。あんなのはこんなに科学が発達してややこしくなる前から存在している。その考えは、誰かが作ったものの中に自分が存在し、そのプログラムに従って存在するというものだ。君はそれを信じているの? 人と神は同等、そう錯覚する世界。神に逆らうな、なんて昔は良く言ったものだけどね。都合が良い想像の産物だと俺は思うよ。俺自身は無宗教だし。俺が信じられるのは俺だけかな。俺以外のものは定義しても仕方がない。俺自身は俺が唯一定義できる。俺は存在する、それでいいと思っている。でも、例外がある」

 遥香は自分が饒舌になっていることに気付いた。喋りすぎのような気がする。小さく深呼吸をした。

 冷羅はただじっとこちらを見つめている。続きを待っていた。

「――名前、それが例外かな。俺は俺であって、そして遥香である。遥香という名前は俺が付けた訳じゃない。誰かが俺を《遥香》という名前で定義したんだ。それが社会に繋がっていく。名前を付けることで《個》を定義できる。それとそれは別のものなのだ、と。違うものだと認識するために、イメージにラベルを振っていく。だから、君も君自身を定義して、名前を付けてやれば良いんじゃないか?」

 モニターには冷羅の姿はなかった。

「……俺の勝ち、かな?」

 生命反応は周辺にない。衛星に直接繋いで中の様子を探る。生命反応はない。

 大きな溜息をつく。髪に軽く触れる。

 彼方が表面に出てきた。

「面倒な仕事だな。もうやめないか?」

「まだあと九〇〇件はあるだろう? このあとどうするんだ? 後継者いないのに。だいたい彼方がまいた種だろう? 出てきた芽は摘んで、なった実は収穫しろよ」

 小さく溜息。

「どうする? 回収した方がいいのか? リツも冷羅もそのままだろう?」

「放置」

 キーボードをリズミカルに叩く。モニターに様々な数字が表示され浮かんでは消え浮かんでは消えていく。衛星のシステムを初期化していた。

「あの鏡の間、結局よく分からなかったな」

 彼方の呟きに、遥香は手を止めた。

「どうしようか。その問題はあとでつつかれるよなぁ」

 疲れた様子で遥香は答える。うんざりしているようだ。

 しばらく沈黙。身体の主導権は遥香だ。

「見なかったことにする。どこまでがヴァーチャルだったのかもよく分からなかった」

 キーボードをかたし、携帯端末を開く。カチカチと数行入力するとそれもかたす。

「取り敢えず、ここをいったん出よう。後は処理班がすればいいことだ」

「こういう事務作業、お前苦手だなぁ」

 身体の主導権が彼方に移る。機体が浮上した。前方のハッチが開いていく。

 シャトルは静かに宇宙空間に抜けていった。

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