第1章 過去

 * 1 * 冷羅


 目が覚めたとき、一番始めに見える物がいつもの白い天井だと安心する。何で安心するのだろう。見慣れたものだからだろうか。それとも、昨日眠った場所と同じだからだろうか。

 間違いなく自分がここにいると確認できると安心する。ここに身体があって、息をして、温かければなお良い。適度に空腹感があるのも良い。あぁ、自分は生きているんだなぁと実感できるから。

 ちゃんと起きることができて良かったなぁなんて思う。そして、今日また眠りにつくまで楽しければいいと思う。充実していれば幸せだ。このまま続くなら幸せだ。

 それはあたしの価値観。あたしの幸福の定義。

 だから今、それが手に入らないとすると、それは絶望に似て、生きる気力もなくて……。

 何のために生まれてくるのだろう? 生んでくれた人たちを幸せにするためかな?

 本当は自分の幸せなんて二の次なんじゃないかな、なんて最近は思う。周りが幸せなら自分も幸せなんじゃないかなと思う。

 それは錯覚かな?

 幻なのかな?

 長い長い夢は不連続に続き、脈絡もなく接続される。でも、何処かから始まった連想ゲームで、その決定権はあたし自身にある。

 この夢はあたしの自由意志。眠っているときぐらい、好きなようにさせて欲しい。動かない身体を自由に動けるようにしたっていいじゃないか。大人になれないことがわかっているんだから、せめて夢の中ぐらい大人っぽくしたって良いじゃないか。

 でも、人は殺したくないし、殺されたくもないよ。死にたいけど死にたくないよ。

 それは本当に長い夢。でも悪夢じゃない。

 まさか正夢なんかにならないよね? 逆夢でも嫌だよ。

 この穏やかな感じがあたしは好きなんだ。広い空間に抱かれて、現実を忘れて……。

 機械だって夢を見る。夢の定義によっては可能じゃない? 誰だって夢を見る。覚えていないだけだよ。

 ほら、朝だ。さぁ、起きて。



 鳥の鳴き声と、朝の柔らかい日差し。心地よい温もり。目覚まし時計は止まった後で、あたしはそれを確認すると上体を起こす。腕を大きく伸ばし、軽くストレッチ。大丈夫、身体は起きている。

 さわやかな緑の息吹を感じる。窓から風が吹いているのだ。なんて気持ちがいいんだ。

「冷羅君、起きていたのかい?」

 ドアがすっと開く。

 白衣、銀髪、銀色の瞳。白衣の下も白っぽい色の服ばかり着ている。だからあたしは彼のことをヴァイスと呼んだ。わざわざドイツ語にしたのはその響きが彼に似合っていると思ったから。本当の名前はリツと言うんだけど、何となく、彼を自分だけのものにしたくて愛称を付けたのだった。

「ヴァイス、おはよう」

 優しく微笑んだつもり。今朝はご機嫌だ。

「気分が良さそうだね。よく眠れた?」

 彼はベッドの隣に椅子を持ってきて座ると、手元のファイルを開く。リツはあたしの担当医だ。

 あたしは不治の病に冒されている。それで身体も思うように動かない。もっと小さかった頃はちゃんと走ったりすることもできたらしい。今は寝返り程度しか動けない。上半身、特に腕はまだ変わらずに動くけど、でもじきにかたくなるのだそうだ。

「うん。最近は夢を見ないの。怖い夢を見なくて済むから、すっきりするんだ」

「そう。せめて楽しい夢を見られたら良いんだけどね。そういう技術はこの施設にはないんでね、ごめんな」

 あたしは首を横に振った。

「ヴァイスが謝る事じゃないよ。あたしはここにいられるだけで充分だよ。両親のいないあたしを引き取ってくれたんだ。それだけでありがたいと思ってる。不治の病だって言われたけど平気。すぐに死んでしまうわけじゃないんでしょう? 誰だっていつかは死んじゃうんだ。仕方がないよね」

 後半の台詞はもう力がなかった。口では言えても、頭や心は納得してくれない。

 そっと温かな手があたしの頭を撫でた。リツの手だ。大きくて、その手に触れられると安心する。いつか感じたことのある感触。

「……生き物はみんな死んでしまう。でも、だからこそその短い一生に何ができるのか選び取っていくんじゃないかな。何かを後生に繋げられたら素敵だね。そんなに欲張らなくても、僕は君が存在したことをずっと覚えていくよ。ずっとずっと忘れない。君がここにいることは、他の誰かが否定したとしても、僕は肯定し続けるよ。だから、心配しないで。君はここにいる」

 上体を引き寄せられて、リツの胸にあたしは顔を埋めた。温かくて、どくんどくんという音が聞こえた。生きている音だ。この音があたしを支える。心地よい調べ……。

「ありがとう、ヴァイス。あたしはあなたに見つけてもらえて良かった。感謝しているよ。寂しくないもの。この温かさを知ることができて嬉しい。ヴァイス……」

「できるだけ君の傍にいるから、安心して。きっと君を治してみせるから、希望を持つんだよ」

 頭を撫でると、彼は離れた。恨めしそうにあたしは彼を見つめる。

「また来るからね。無理しちゃダメだよ」

「はい」

 くしゃっともう一度頭を撫でて、リツは立ち上がる。彼はそのまま振り向かずに部屋を出ていった。



 * 2 * 姶良


 誰かの視線を感じる。

 身体のあちらこちらから信号が送られてくる。感覚を取り戻しつつあるのだ。

 痛い、冷たい、苦しい……。

 ふわふわ、ぶくぶく、こぽこぽ……。

 素肌に直接取り付けられたセンサーの感触に嫌気がさす。君はボクの何を知りたいの?


 身体を自由に動かすことはできない。それでも何とか主導権を取り戻したまぶたをそっと開けてみる。視線を送ってくる相手を知りたかった。

 青い視界。その向こうに人間が立っているのがわかる。

 ――あれは……。

 いつも見かける白い影ではなかった。その小さな背丈の人物はボクが入れられているカプセルに手を置いていた。

 ――ボク……?

 まさかそんなことはないだろう。彼はボクに同居して欲しい相手がいると告げていたけれど、だからといってこんなにそっくりな人間を連れてくるはずがない。ボクはその想像に思わず笑う。

 少女はボクの反応に驚いたらしい。目を丸くして、数歩下がるとそのまま後ろにひっくり返った。

 ――大丈夫かな?

 心配にはなったけど、残念ながら差し伸べる手をボクは持たない。誰かを呼ぶ声を持たない。このカプセルからじゃなにもできない。

 ――大丈夫かな?

 彼女は起き上がろうとしなかった。それがとても心配だった。頭の打ちどころが悪くって、死んじゃったんじゃないかなんて不吉な想像をした。

 やがていつも見かける白い影が彼女を回収した。慌てているように見えたけど、たぶん気のせいだ。彼にそんな感情があるとも思えない。

 ――あぁ、いつまでこうしていればいいのかな。自由になりたい……。



 * 3 * 冷羅


 夢だと思った。

 次に気付いたときにはひどい頭痛で、包帯が巻かれていた。後頭部が痛くて、渋々動かない身体を横に向けた。感覚がないはずの足は妙な冷たさが残り、全身は気怠い。激しい運動をした後のような感じだった。

 自分の身に何が起きたのか、全く理解ができない。あの場所はどこだったのだろう。どうやって自分はあそこに行ったのか、そして戻ってきたのか。

 暗い室内に浮かび上がる青いカプセル。様々な計器が辺りを埋めつくす人気のない部屋。人工物ばかりの異質な場所。

 彼女は笑っていた。微かだったが、口元を上げて。

 その表情がどれだけ怖かったことか。恐ろしく思ったことか。

 あれはあたしだったのか?

 全身が大きく震えた。思い出しただけでこんなにも恐怖する。一体あれは何だったのか。

 ――あたしのクローン?

 まさか。そんなものを作って何になるのだ?

 あたしをあの器に乗り換えるのか?

 そこまでする必要はないだろう。そんなことを考える奴もいないだろう。馬鹿な想像だ。そこまであたしは生き長らえたいのか。

 自分自身に幻滅する。

 見間違いだ。あれはあたしであるはずがない。相当気が滅入っていたらしい、見間違うなんて。

 きっとあれは同じ年くらいの女の子が治療されている最中だったのだ。そこを偶然通りかかって見とれていたのだ。そうだ、きっとそうだ。

 同じ様な毎日を送っていた所為で、あたしは気がおかしくなっているに違いない。

 あたしは自分を嘲笑した。なんという愚かな存在なのだろう、と。一体何があたしがあたしとしているのか。そこまで生に執着してどうするのか。

 口では言えるけど、まだ理解できていない。生き物は必ず死ぬのだ。それは避けることのできない絶対的なものなのだ。死ぬという現象があることを知っている。だから精一杯生きる。



 * 4 * 姶良


 今日は声が聞こえた。

 知っている声とは違う。聞きなれない少女の声。

「君は誰?」

 水の流れる音の合間に聞こえる問いかけ。

 ――他に誰もいないのかな。

「君は、誰?」

 繰り返される問いはさっきよりもゆっくりで、はっきりと聞き取れた。

 ――君は……誰……?

 ボクはその質問を繰り返す。

 ――ボクは……誰?

「君は誰?」

 ――ボクは……。

 そっとまぶたを上げる。青い液体の向こうに少女の姿が見えた。気分が悪そうに思えるのはこの液体の所為だろうか。

 ――ボクは……君自身かもしれないね。

 顔の筋肉しかいうことをきかないので、しかたなく笑った。

 あぁ、怖がってる。ごめんね、おどかすつもりはないんだけど。ボクにはこれくらいしかできないからさ。

 それとも。

 これがボクの見ている幻だとしたら。

 ――もう、始まっているのかもしれないな。

 辺りには彼女以外にいないように見えた。徐々にプロジェクトは進行しているのかもしれない。

 ――彼女は、どうするつもりなんだろう。

 ボクの意識はそこでどこかに流された。



 * 5 * 冷羅


 幻が消えると、いつもあたしはベッドの上にいる。見慣れた天井があたしを迎える。それだけで、どこか安心する。例え全く身体が言うことをきかなくなったとしても、この天井があたしを迎えてくれさえすれば幸せだ。あたしが唯一、この世界にいることを認識できるもの、あたしとこの世界を繋ぐたった一つの窓口、それがこの天井なのかも知れない。

 窓から吹き込む風に、汗でぐっしょりと濡れている身体が反応する。着替えを頼むために枕元のスイッチを押す。

 ひどい汗だ。額には金色の細い髪がへばりついている。まるで、今まで水の中にいたみたいだ。

 カプセルのことを思わず連想する。心音が跳ね上がる。

 何に恐怖を感じるのだろう。彼女が生きていることに対してか? だとすればどうして?

 カーテンがばさばさと激しい音を立てる。部屋に向かって強い風が吹き込んでいるらしい。

 あたしは上半身を起こしてそちらを見た。

「?」

 奇妙な影がそこに浮かんでいる。あまりにも現実離れをしていたために、あたしは認識が遅れた。

 そこにいたのは一人の少女。長い金髪を風になびかせた裸の少女が、文字通り宙に浮かんでいるのだ。ここは病棟の三階だというのに。向こう側には何にもないというのに。

 もっと驚いたのは、彼女の青の瞳だ。

「君……」

 口をパクパクとさせていて出てきた言葉はその二音。一体彼女は何者なんだ?

 あのカプセルの中にいた女の子と同じ、目の前に浮かぶ少女。彼女とあたしは二人きり。

 少女がにっこりと微笑んだ。

「君もこちらに来ない? 大丈夫、怖くなどないから」

 少女の声は、あたしと全く同じ。自分で言ったのかと思った。

「おいでよ、ほら。こっちへ」

 少女は繰り返す。

「残念だけど、あたしの足は、動かない」

 継ぎ接ぎを当てたような台詞。片言に放たれた言葉は、震えがはっきりと分かる。

「大丈夫、こっちへおいで」

 彼女は繰り返す。

「行けない」

 あたしは首を僅かに横に振る。

「こちらへおいで」

 彼女は繰り返す。

「行けない」

 あたしの声は震えている。

「……違う」

 彼女の声に悲しみがにじんだ。否、哀れみか。

「行けないんだ!」

 あたしの最後の叫び。

「行かないだけだ!」

 彼女の怒鳴る声。

 あたしの震えが消し飛んだ。そのくらい迫力があった。

「何かの所為にしないで! 君自身が決めたことなんでしょう? そう言えばいいじゃないか! 行けないのではなく、行かないのだと言えばいいじゃないか! こちらに来るつもりがあるのだったら、おいでよ。大丈夫、怖がることはないよ」

 あたしの身体は自然と動き出す。二本の足で地面を掴み、前へ、窓の方へと前進する。どこにこんなプログラムが残っていたのだろう。どこにそんな力が残されていたというのだ?

 意思とは関係なしに窓に吸い寄せられるかのごとくあたしの身体は滑らかに動く。何故あたしは彼女の方に向かっているのだ? 自然な疑問に不自然な行動。一体何があたしを支配しているのだ?

「冷羅君!」

 突然の自分以外の声に、あたしは正気を取り戻す。いや、正確には身体の主導権を取り返したという方が正しい。

 その場で急停止したあたしの身体は、糸を失ったマリオネットのように力無く崩れた。

「やっ……」

 慌てて室内に入ってきたリツがあたしを抱き起こしてくれる。

「どうしたっていうんだい? 冷羅君。君、ここまで歩いたの?」

 彼の質問に、あたしは小さく首を横に振る。そっと盗み見るかのように視線を向けた窓の外にはあの影はない。

「いや、歩いたんだ」

 リツの嬉しそうな台詞。あたしは否定する気にもなれず、彼に抱きかかえて貰ってもそれについては何も語らなかった。

「ねぇ……、あたしは一人だよね?」

 ぼんやりとした気分のまま呟いた問いに彼は答えたのだろうか。あたしはそのまま気を失ってしまったので聞いていなかった。



 * 6 * 姶良


 いよいよ同調は始まったらしい。

 二人の身体を一つにするためのチューニング作業。

 ボクの意識はどんどん彼女の中にまぎれていく。ボクをボクだと定義できるものは何もなくて、唯一の器も形を失って。

 彼女はそれに気付いているのだろうか。紛れつつあるボクの意識の存在に気付いているのだろうか。果たして彼女はそれに納得しているのだろうか。

 ボクは彼女を奪ってまで自分が生き長らえるべきではないと思っている。彼らはボクの身体を必要としているだけのようだったから、どうしてボクの意識を彼女の中に流し込んでいるのかよくわからない。

 こうなる前にきちんと説明を受けておくべきだったなと反省する。どうしたら彼女とコンタクトできるだろう。伝えておかなくちゃいけないことがある。彼女が知っておかなければならないことがある。どうしたら、どうすれば……。



 * 7 * 冷羅


 動かないはずの身体はその夢を見るたびに動いた。でもあたしは嬉しい気持ちにはならなかった。リツはあたしがベッドから転げ落ちていたり這っていたりするのを見ては喜んでくれたけど、身体の機能が回復しているから動けるようになったとは感じられないぎこちなさがあたしにはあって、素直に喜べなかった。むしろ、自分が自分でなくなっていくような気がして気持ちが悪いくらいだった。

 しかし、別に身体が動かないほうがいいと思っているわけではない。できるものなら自分の意志で自由に動いていたいのだ。体力の問題で車椅子さえ使わせてもらえなかったのだけど、それでも使えるならこの部屋の外に行って見たいと思っていた。

 窓からかすかに見える小さな庭はいつも緑を絶やすことなく世界を光り輝いて見せ、青い空に浮かぶ雲はいつだって同じ形をしていなかった。窓から届く日差しの温かさ、風の冷たさ、土の匂い、花の香り……。あたしはあの世界を自由に歩いていたことがあるのだろうか。あったとしても遠い過去のことで、今のあたしのところまで繋がっているのかどうかも疑わしく思えた。だけどこの足は『立つ』ことを覚えているし、『歩く』ことも忘れてはいない。ひょっとしたら『走る』ことさえどこかに記憶しているのかもしれなかった。そんなことを想像すればするほどあたしはあたしの身体をどこか遠いものに感じていた。

 何度ベッドから落ちたのか、そんなことを数えるのはやめてしまった。意味のないことだと思うようになっていたからだ。それが回復の兆しだと受け止めることのできないあたしにとって、それは自分を失うカウントダウンのように思えた。

 夢だと思っているそれはどんどんとその存在を濃くしてゆく。あたしの生活にすっかり取り込まれてしまっているようにも思える。覚醒するたびにベッドの外にいることも多くなった。

 しかしそれと同時にあのカプセルを見ることもなくなっていった。青い液体に浮かぶ少女は窓の外に浮かぶ少女となっていた。

 青い空を背景に浮かぶ幼い女の子。それはあたし自身のようで全く違うような存在。あれはあたしなのだろうか。それともドッペルゲンガーのようなものなのだろうか。あたしの脳が作り出すファントムだろうか。彼女の微笑を思い出すたびに背筋に冷たいものが走った。



 診察に訪れたリツにあたしはくだらない質問をすることにした。

「ねぇ、ヴァイス?」

「なんだい?」

 聴診器をしまって帰る支度をしていたリツは、あたしが問いかけるとその手を止めてこちらを見てくれた。

「どうして人は飛べないのかしら」

「飛ぶ必要がないからじゃないかな」

 彼はあたしの質問を馬鹿にする様子は微塵も感じさせずに答えた。穏やかな微笑を浮かべてこっちを見つめている。

「飛べる人間っていると思う?」

 どんな顔をして訊ねたのだろう。あたしはあの夢の少女の姿を思い浮かべながら訊ねる。まだあの夢の話を彼にしてはいなかった。

「さぁね。少なくとも僕は飛べる人間を見たことはない」

「そうよね」

 ちょっとだけ安心する。空を飛べる人間なんているわけがない。

 でもリツはこう続けた。

「だけど飛びたいとい思っている人間はいくらでもいる」

「なんで?」

 思わずあたしは問う。ひょっとしたら身を乗り出していたかもしれない。

「人は飛ぶことができないから」

「?」

 あたしは意味がわからなくて首を傾げる。

「本当に飛ぶことができないのか、それを確認したいのだろうね。できないことを証明するのは非常に難しい」

「憧れではなく?」

 できないことを証明するのが難しいことはよくわかる。

 あたしの身体がじきに動かなくなるといっても、そのときが来るまでは本当にそうなるのかなんてわからない。兆候が見られる、かつての症例と比較して、などの今まで数々起こってきただろう出来事と並べてみてどうかといった判断でしかない。そういうことに似ているのだろう。

 あたしの問いにリツはにっこりと微笑んだ。

「君は空を飛びたいの?」

 すぐに首を横に振る。

「僕は飛んでみたいと思ったことはあるよ」

「え?」

 とても意外な台詞。あたしはきっと目を丸くしていたに違いない。

「人は地を駆けることができるし、水の中を泳いだり潜ったりすることができる。程度には多少個人差があるけどね。でも、空を飛ぶことはできない。鳥は飛ぶことができるのに、どうしてだろう」

「人は地面にもぐることもできないわ」

 あたしはふとした思い付きを言ってみる。リツはこれに対し小さく笑った。馬鹿にするような笑いではなかったことに少しだけ安堵する。

「確かにその通りだ。空を飛びたいと言う人は多いけど、地面をもぐってみたいと言う人は少数派かもしれないね」

「でしょう? 証明するのが目的なら、地面ももぐってみるべきだわ」

「じゃあ、その違いはわかるかい?」

 まさかここでそんな質問をされるとは思っていなかった。あたしは言葉に窮する。

「――空には自由が残されているからさ」

 リツは開け放たれた窓の外、ずっと遠くを見つめて呟くように彼が用意した答えを言った。

「ヴァイスは……自由になりたかったの?」

 彼がどこか遠くに行ってしまいそうな、そんな気配があった。あたしを置いてどこかに消えてしまいそうな。

「さぁね。どうだろう。少なくとも今の僕はとても自由だ。なに不自由なく生活している。好きな研究をしていられるし、こうして君のそばにいることもできる。これ以上に望むことなんてないよ」

「あたしのそばにいられることは、あなたのシアワセになりうるの?」

 その言葉は嬉しい。だけどその言葉通り受け止めるのが怖い。

「充分すぎるくらいだよ、冷羅」

 言って、彼はあたしの頭をなでた。子ども扱いされているようでとても複雑な気分になる。対等に扱ってほしいのとはちょっと違うけど、だからといってなでてくれなくなるのも寂しいけど、他にどうしてほしいということもないのでされるがまま。リツはあたしのこの気持ちをどう解釈しているのだろう。

「君は何かほしいものがある? 僕にできることなら叶えてあげるよ」

「え?」

 急にそんなことを言われても戸惑うだけだ。それに、たった今リツのことを考えていたから何も答えられない。口を開いたら変なものをねだってしまいそうで、あたしは視線を外して口を閉ざす。

 彼はそれを誤解したらしかった。

「……そっか、そうだよね。悪かった」

 あたしの沈黙を、彼はあたし自身の身体のことを考えているものととったようだ。確かにその願いは主治医である彼に言うのは気まずい。以前よりもいくらか動くようになったとは客観的にも言えるが、だからといって身体の自由が完全に戻ったわけではない。かろうじて動くようになったとしても、それが死ぬまで動き続けるという保障もなかった。

「か……身体のことは別にいいの。気にしてないから」

 とっさにあたしはそう答えるが妙に上ずってしまって、彼の考えを肯定しているようにしか聞こえなかっただろう。

「そ、そう。あたし、外に出てみたいの。最近調子も良いでしょう? ちょっとなら外に出るのも平気だと思うんだけど、やっぱり駄目かしら?」

 あたしはリツに視線を移す。彼はあたしを悲しげな目で見つめていた。

「……無理そう?」

 作っていた笑顔が崩れていく。声からも明るさが消えていく。どうしよう、聞いてはいけないことを聞いてしまったんだわ、あたし。

「うーん……。叶えられない希望ではあるんだが……」

「そんなにあたし、症状が進行しているの?」

 恐る恐る自分の病状について訊ねる。

 夢のことばかりを気にしていて、自分の身体に少々無頓着になっていた。病気であることを忘れたことはなかったが、その状態がどうなっているのかなんて考えていなかった。覚醒時間も長かったし、気持ちもどちらかといえば躁状態にあったし、なにより不本意とはいえベッドからも出られるようになっていたから、てっきり快方に向かっているものとばかり思って気にしていなかったのだけど。でも違うの?

 リツはあたしの問いにはっとした表情を浮かべ、慌てて笑顔を作った。

「いや、違うんだ」

「違うって?」

「ほら、体調が安定しているだろう? だからここらで一度手術に踏み切るかどうか考えていて……」

 手術。

 その言葉にあたしは身を固くする。

「まだ決まったわけじゃないんだ。だから言わなかったんだけど……」

「その手術をすれば、あたしの身体は動くようになるのでしょうか?」

 声はとても落ち着いていた。それどころかどこか冷気を含んでいて、あたしの声ではないみたいだった。

「可能性はある」

 確実性はないということの婉曲的な言い方。希望をもたせる言い回しをあたしはかつて何度も耳にしている。

「……そうですか」

 期待しないようにしよう。それがあたしにできる精一杯のことだ。リツを信じ、これ以上悪化しないことだけを祈る。それで充分だ。

「気を落とさないでくれよ、冷羅君」

 いつものあたしの反応に、リツはやれやれといった様子で慰めてくれる。

 リツがあたしに手術の話をしたがらないのは、あたしがいつもこうした反応をするかららしかった。彼なりにあたしをがっかりさせないようにしているようだが、あたしはその気遣いすらつらいものだった。

「大丈夫です。あたしはただ、成功することを祈るだけですから」

「そのときは全力を尽くすよ」

 リツはそう答えると立ち上がる。ずいぶんと長い間引き止めてしまったなとあたしは反省する。

「ごめんなさい。忙しいでしょうに」

「いや。気にしないでくれ。僕には断る自由だってあったんだ。それをしなかったってことは……賢い君ならわかってくれるよね?」

 にこっと笑んであたしを見る。

「また、来てね」

 手術のことで気分が少し沈んでいたけども、あたしは去り行くリツに声をかけることができた。

「気になることがあったらいつでも呼んでいいからね」

「はい」

 彼は荷物を抱えると部屋を出て行ってしまった。

 真っ白な部屋にあたしは一人きり。またあの孤独と戦わなくてはならないのかと思うと、彼を恨めしく思った。



 * 8 * 姶良


 久しぶりにあのカプセルから病室に戻ってきた。鼻と口で呼吸するのも忘れてしまったんじゃないかと思えるぐらい久々だった。

「ねぇ、ヴァイス?」

 彼がボクに出会ったとき、自分でそのように自己紹介をしたのでそれ以来ずっとボクはその名で呼んでいる。彼の本名を聞いたことはなかった。まぁ、知ろうと思えば簡単に調べることはできたんだけど、なんとなく野暮な気がしてそのままほうっておくことにしたんだけど。

「なんだい?」

 彼は部屋に置いてある様々な計器をセッティングしながらボクの問いかけに返事をする。

「翼があれば、ボクでも空を飛ぶことはできる?」

 この問いに、彼は手を止めてボクを見つめた。意外そうな表情。なんだ、感情あるんじゃないか。

「翼が欲しいの?」

「ちょっとした憧れだよ」

 ボクは肩をすくめる。

 夢の中でボクはいつだって彼女を空から見つめていた。足が不自由らしい彼女の生活は決まって同じで、見ていて退屈で。でも完全に不自由というわけではなく、彼女自身がそう思い込んでいるために動けないらしかった。だから何度も声を掛けて外に出てくるように促してみた。彼女が外に憧れているようだったから。自分の足で立ってみるのもいいんじゃないかと思ったんだ。ただ、彼女はボクを見るたびに怯えていたけどね。

「翼があっても飛べるとは限らない。ペンギンにも翼はあるが、それは空を飛ぶためのものじゃない」

「だよね」

 あまりにも彼がきっぱり答えるので、ボクはそれもそうだなと納得する。

「足があっても歩けるとは限らない」

 もっともなことを彼は付け足す。おそらくボクのレシピエントにあたる人物について言っているのだろうと推測する。

「じゃあ、翼がなくても飛べる可能性はある?」

「人間に限定して言うなら、飛んだと思い込んでいる人間はいるけどそれを証明した人間はいない。道具を使って空中に放り出されたり、飛行機から飛び降りたりするのを除けばね」

「んじゃ、窓から飛び降りるのも話が別だね」

 ボクは自分の部屋に窓がないのを確認する。

「証明のために自殺をするつもりかい?」

 彼は苦笑する。あらかじめ用意されていたらしいその表情にボクはちょっとだけがっかりする。

「さぁね。こんな生活が続くなら、死んでもいいかなって思うことはあるよ」

「もう少しの辛抱だよ」

「その台詞、聞き飽きたよ」

 ボクはベッドに横になる。どうでもよくなってきた。

「そう」

 話すことがなくなったボクの様子を見ると、彼は自分の作業に戻る。非接触型センサーがこの部屋のあちこちからボクを見つめている。何のためにデータを取っているのだろうか。

 彼の作業を見ていてもつまらないのでそのまままぶたを閉じる。すぐに眠気が襲ってきた。またあの夢を見ることができるだろうか。



 * 9 * 冷羅


 本当に訊きたいことは今でも置き去りにしたままだ。

 宙に浮かぶ少女の話をしていなかったし、身体の異変についても伝えていなかった。


 ――そしてその日は訪れた。


 手術をすることになって、その説明に彼がやってきた。

 初めて見る顔に、あたしはリツの顔とその男の顔を交互に見つめた。

 リツと同じ銀色の髪を持つ中性的な顔立ちの青年。男だと思ったのは胸のふくらみがなかったからという単純な理由である。髪がかかる左耳に青い石のついたピアスが見えた。

「こちら、今回の手術を手伝ってくれる彼方さん」

「初めまして、冷羅ちゃん。彼方です」

 白衣を着ていることから、この施設の関係者だろうとは思った。男性にしては高めである声は落ち着いていて、優しそうな印象を与える。リツと近い雰囲気があった。

「初めまして。冷羅です。よろしくお願いします」

 上半身だけ起こした状態だったあたしは小さく頭を下げる。

 今までこうしてこの施設の職員を紹介されたことがなかったあたしはきょとんとしてしまう。何の説明もなかったから余計だ。

「今回の手術はこれまでの方法とは違うんで、協力を依頼したんだ。僕の先輩にあたる人で、今回の手術の方法を考え出した人でもある。期待してくれていいよ」

「ふぅん……」

 失礼とは思いながらも、やってきた珍しい人物をまじまじと見つめてしまう。でも不審に思っているのではない。ただの好奇心だ。この部屋に出入りする人間はリツと見知った看護師の若い女性だけで、他に来る人間なんていなかったから興味があるのだ。

 あたし自身、家族はいないし、知り合いもいなかったから見舞いに来る客など全くいない。窓の外から見える庭にも人がいることはなかったから珍しくて仕方がないのだった。

 彼方と名乗ったその青年はあたしのその不躾な視線を笑顔で受け止めた。患者からの視線には慣れているのかもしれない。

「そんなに珍しいかな?」

「あたしの記憶に滅多に人の顔って出てこないものですから」

「同年代の友達はいないのかい?」

 その問いに、あたしは一瞬だけあの少女の顔を思い出していた。背筋がぞくっとする。

「あいにく……この部屋での生活が長いもので」

 声がわずかに震えていたが、初対面の人間に対して緊張しているのだとも取れなくもない。彼方さんはあたしの様子は気にしないようで、「そう」と頷くとベッドの横にある椅子に腰を下ろした。

「どんな手術をするんでしょう?」

 不安げにあたしは問う。リツはいつもの席に腰を下ろすことはせず、彼方さんの後ろに立ってこちらを見ていた。

「共生ってわかるかな?」

「クマノミとイソギンチャクみたいなものですか?」

 いきなり何の話だろうかと首を傾げる。

「その通り。よく知っているね」

「調べごとは好きですから」

 にっこりと笑んで答える。

 本来ならこの部屋には外部に繋がっているネットワークはないはずなのだが、リツに頼んでこっそり引いてもらっていた。それまでは様々な本をリツから借りていたのだけど、それだけでは足りなくなり、面倒だといってリツがあたしに与えてくれたのだった。こんなわがままをまさか叶えてくれるとは思っていなかったのだけど、頼んでみてよかったと思っていることの一つだ。

「で、正確には共生とは違うんだけど……冷羅ちゃんに頼みたいことがある」

「?」

 それとこれとどう関係があるのだろう。全く繋がりが見えてこない。

「同じ症状を抱える同じ年の女の子がいるんだ。君と同じ遺伝的な病気でね」

「同じ病気?」

 まさかこんな症状を起こしている女の子が他にもいたなんて。

 別にあたしは難病に侵された悲劇のヒロインは一人でいいと思っていたわけではない。症例がある以上、他にも同じ病気にかかっている人間はいるはずなのだ。ただ、この同じ時期に近い年の女の子が同じ病気を抱えているなんて偶然があるのだろうか、そう思っただけだった。

「それで、君の中にある臓器と彼女の中にある臓器を入れ替えてほしいんだ」

「!」

 臓器を入れ替える? それは五臓六腑をすっかり入れ替えるという事だろうか? いや、それ以外にも身体はいくつものパーツに分けることが可能だ。どこを入れ替えるのだ?

「大きな手術になる。だが、成功すれば回復する可能性は非常に高い。成功率は今のところ九十パーセントを越えている」

「失敗例はどんなものなんですか?」

 成功率が百ではないということに対しての疑問。彼方さんは微苦笑を浮かべた。

「痛いところをついてくるね」

「正直に成功率を言うからです。――で、何が原因なんですか?」

「レシピエントの体調不良」

 クランケという言い方をしなかったのが気になった。

「あぁ」

 あたしは素直に頷いてみせる。以前リツが気にしていたのを思い出したのもあって、自然に演技できた。

「ということは、あたしの体調しだいってことですね」

「そうなるね。今の調子はどうかな?」

「えぇ。とても安定しています。生活も規則正しくしていますし、精神状態も悪くありません」

 しれっと嘘をつく。なぜなら手術には期待していない。失敗して死んでしまってもいいと思っていた。

「気になることや異変……そうだな、妙な夢を見たりしていないかな?」

「!」

 あたしの表情はこわばったことだろう。あの少女の不気味な笑顔が目の前にはっきりと浮かんだ。

「見ているのか?」

 彼方さんは急に真面目な表情を作ってあたしの顔を覗き込んだ。

 まずい、見抜かれる。

「ちょっと今朝……怖い夢を」

 咄嗟にあたしはごまかす。あの宙に浮かぶ少女の幻影が離れない。

「どんな夢だったのかな?」

 導くような彼方さんの声に、あたしの心は揺らぐ。そっとその顔を見る。どういうわけか、ピアスの色が赤く見えた。光の加減の所為にしてはその色ははっきりしている。

「目が覚めるとベッドの外にいて……だのに身体が全く言うことをきかない夢です」

 必死にごまかす。あの少女の顔が怖い。あたしと同じあの顔が怖い。

「それが……君の言うところの怖い夢?」

「はい」

 ごまかせ、ごまかせ、ごまかせ、ごまかせ……。

「リツ、君は知っていたのか?」

 彼方さんはあたしから視線を外して後ろに立っているリツに話を振る。リツは首を横に振った。当然だ。彼にそんな話をした記憶はない。

「すみません。まったく調べていませんでした」

「次からは問診時に必ず聞いておくように」

「はい」

 夢が手術にどう関係するのかさっぱりわからない。脳のランダム処理がどうして関係してくるのだろう。夢の話はしたくない。リツを前にしてどう嘘をついていくか。彼に黙っていることと、彼に嘘をつくこととは話が別だ。

 こんな注文をした彼方さんをあたしは恨んだ。

「冷羅ちゃん」

 名を呼ばれてあたしは彼方さんを見つめなおす。

「手術の詳しい日取りや内容についてはまたの機会にするよ。今日は疲れただろう? ゆっくり休むといい」

「え、あ、はい」

 立ち上がる彼方さんの動作を最初から最後まで見ていた。視線だけでなく、自然と頭まで動いてしまうから不思議だ。

「リツ、あとで話が」

 低めて呟く彼方さんの声が耳に響く。リツはわずかに首を縦に振った。

「冷羅君、また後で来るからちょっと横になっているといい。すぐに戻る」

 リツはあたしにそう告げると、彼方さんと一緒に部屋を出て行った。

 残されたあたしはベッド横になって窓の外を見つめた。青い空には筋状の雲が広がっている。風が心地よい。いつの間にかあたしの思考はまどろみの中に溶け込んでいく……。



 * 10 * 姶良


 もしもそれが夢でないのなら。

 ボクは夢でも現実でも構わない。

 ただ、彼女に伝えなくては。

 ボク達の身にこれから起こることを。


 彼女はボクの気配を感じたらしい。ベッドの隣、ちょうど枕の位置に合わせて立っていたボクに視線を向ける。

「!」

 反射的に彼女は飛び起きた。珍しい機敏な動作。

 ――なんだ。結構元気そうじゃないか。

 予想外の素早い動きにボクはほっとする。

 金色のウエーブのかかった髪はとても長い。幼い顔立ちの中でも真っ赤な瞳が目を引く。生地の薄い部屋着を着ている少女。人形のような少女。

「怯えることはないよ。ボクは君に危害を加えるつもりはないから」

 ボクはそう言ってにっこりと微笑んだ。

「君は誰なの?」

 彼女は警戒しながらボクに問う。そういえば自己紹介をしていなかったっけ。ボクには果たして名前があっただろうか。あぁ、めんどうくさい。わずらわしい。

「ボクは君の中にある」

 意味のある台詞とも思えないが、これは真実だろう。ボクはいずれ彼女の中に消える。今は思考のみ共有しているらしかったが。

「どういう意味?」

 彼女は首を傾げる。無理もない。まだ彼らは彼女に充分な説明をしていないのだろう。

「彼はああ言っていたけど、手術はとうに終わっている。だから、ボクはもうすでに君の中にある」

 それはまだ準備段階ではあったけども、でもこの準備が終わってしまえばほとんど終わったも同然だ。だから、その前に……。

「そんな、まさか」

 彼女は視線を自分の身体に向け、左手を額にそっと当てる。うっすらと汗をかいているのが見えた。

「信じられないならそれでいい。だけど君が考えているあのカプセルの少女はもうこの世にはいない」

 もう君に二度と会うこともないだろうから。

「……どうして?」

 彼女は視線を再びボクに向ける。不思議そうな表情。彼は一体彼女になんと言ったのだろうか。

「ボクはドナーだから。ボクは君の提供者だから」

 こう説明するのが一番だろうか。自分では認めたくなかったけど、結構あっさりと告げられるものだな。

「そんな……」

 困惑しているのが見て取れた。かわいそうなことを言ったかも、とボクは思う。

「悲しむことはないよ。これについてはボク自身納得している。ボクは死にたかったのだから」

「だけど……」

「こういう言い方もできる」

 小さく深呼吸。彼女にその呼吸を知られていませんように。

「君の中にボクは生きていると」

「!」

 彼女は視線を自分の腹部に向ける。両手で抱きしめるようにその温もりを確かめる。

 ――その身体がボクの物になる日は来るのだろうか?

 そんなことが頭を過ぎるが、それはまた別の話だ。ボクは意識して話題を切り替える。

「……しかし、それでは困るんだ」

 どんな表情でボクはその台詞を言っただろう。ボクの中にある選択肢はとても少ない。

「ボクはどうしても死ななくてはいけない」

「どういうこと?」

「いてはならない存在だから」

 青い血は絶やさねばならない。本能が告げている。

「すべてを消し去らなくてはいけない。もしくは……」

「もしくは?」

 絶やすことができないのなら。

「その存在を認めさせるしか……」

「認めさせる? 誰に?」

 彼女はボクの台詞に希望を見出したかったようだ。あんなに避けていたはずのボクに対し、身を乗り出して訊ねてくる。これには正直、戸惑った。

「……政府に」

 しばしの沈黙。

 その沈黙を破ったのはボク。

「どうして君がボクを受け入れることに成功したのかはわからない。拒絶反応が起きてもおかしくないはずなんだ。いや、起きるべきなんだ。君はボクを受け入れるべきじゃなかった」

 ヴァイスはこの時点で駄目だったって聞いている。同調するのは難しい。始めは彼女だってボクを拒否していたはずなんだ。それなのに今、こうして対面できるってことは……。

「ま……待って。言っている意味が……状況がよくわからないわ」

 彼女が混乱しているのはよくわかった。汗で湿った前髪を後ろに流し、焦点をどこに合わせたらいいのかわからないらしく、瞳だけせわしく動かしている。

「……君は一体何なの?」

 うん。とてもよい質問だ。それを知らなきゃ、どうしてボクが消えなきゃいけないかわからないもんね。でも、ボクも……。

「ボクもそれを知りたい。……ボクが今わかっていることといえば、ボクの血は赤い色をしていないと言うことだけだ」

 言葉は濁しておこう。彼女の身体にどこまでボクが混じっているのかわからないから。

「人工的に生み出されたサンプルだ。彼らはそれを隠そうとしている」

「彼らって誰のこと?」

 名前を隠しておこうかなんてちょっと思ったんだけど、思考よりも先に声が出ていた。

「彼方とリツ」

 彼女は目を見開いた。

 裏切られた気持ちにでもなっただろうか。でも、ボクも君も《スペア》であることには変わりがないんだ。たまたま今回はボクが《ドナー》になって、君が《レシピエント》に選ばれただけ。

「……ボクはそういう意味なら騙されたことになる。死は受け入れていた。当然のことだと思っていたから。そして君も死ぬとばかり思っていた。だから納得していたのに。どうして君は……」

 失敗してしまえばよかったのに。

「あたしは……」

 すべての気持ちを吐露したボクを彼女はどう処理したのだろうか。ふとうつむいて彼女は黙り込んでしまった。

 ――しまったな。

「あ」

 そう思った頃には声を出していたし、彼女のあごを持ち上げて顔を上げさせていた。

「違う。ボクは君を責める為にここに来たわけじゃない」

 視線が重なる。真っ赤な瞳をしっかりと見つめる。ボクにはない、燃えるような赤い色。

「調べてほしいことがある。そのためにここに来たんだ。頼めるかな? 確かここにはネットワークが引いてあったはずだ」

 肝心なことを忘れるところだった。

 何度か同調していて気付いたのだが、ここにはないはずの外部に繋がるネットワークがあるらしい。一体誰が許可したんだろうか。

「なにを調べるの?」

 彼女がそう問うので、ボクは彼女のあごを支えていた手をどけて一歩下がる。もう大丈夫だろう。

「彼方の研究についてだ。君なら調べることができる」

「どうしてそんなことを知りたいの?」

 情報端末は枕元からあっさり出てきた。まさか本当にあるとは。

「君のためだよ」

「あたしのため?」

 彼女はカバーを外す手を止めて、改めてボクの顔をまじまじと見た。たぶん、今のボクはにらむような目つきをしていただろう。

「君には知る権利がある。どうしてこんな病気にならなくてはならなかったのか、あの手術が一体なにを意味するものだったのか。そして……ボクが一体何者なのか」

 この端末ならおそらくそれらを知ることができる。道具は使い方次第で武器にも防具にもなる。

「そんなことを知ってどうするの?」

「それは君が決めることだ。ボクはもうここにはいない」

「無責任ね」

 彼女が非難するでもなく冗談めかしてそう言うものだから、ついボクは苦笑した。

「知ることは悪いことじゃないよ。あとは解釈しだい」

「それには同意するわ」

 彼女は端末を起動させると回線を開く。端末に必要事項を入力していく。

 ――彼女はそれを知ったらどうするだろう。

 そこにもうボクの実体はなかった。いや、彼女が感知できるものはなくなっていた。ボクの思考だけがそこにたゆたっている。

「!」

 彼女の手がぴたりと止まる。

「君」

 顔を上げたときに彼女にはもうボクの姿は映っていないだろう。窓は開かれたままで、ドアもそのままで。

 彼女は辺りをぐるりと見回す。探しているようだ。

「やはり、夢?」

 彼女の独り言。しかしその次には、彼女は実に機敏な動作で情報端末の画面に視線を向けていた。その画面の右隅には日付と時刻が表示されている。

「……」

 彼女が青ざめたのがわかった。いきなり端末をドアに向かって放り投げる。それは放物線を描かずに直線的に壁に向かい、衝突音を部屋に響かせて床に落ち、数回小さくバウンドしておとなしくなった。

「夢か? 夢なのか?」

 狂ってしまったかのような表情。

「これが真実なら……」

 もう、ボクは見ないほうがいいかもしれない。

 ベッドのそばに転がってきていた情報端末はディスプレイを天井に向けて光を放っていた。彼女にとってありえない日付を右隅に表示したままで……。



 * 11 * 冷羅


 夢か現実かなどどうでもいいことなのかもしれなかった。あたしは始めから存在していなかったし、この世界にあたしがいなくても何の問題もなく時間は流れることだろう。そんなことを気にするのは人間くらいのものだ。動物も、植物も、ありのままにそこにあり、やがてその姿を変え、消えてゆく。それが自然の摂理。変わることは恐れることではない。存在することには意味などない。意味を与えるのは人間で、それを解釈するのもまた人間。そういう意味では人間は人間のために世界を構築し、解釈し続けている生き物なのかもしれない。


 再び眠気が襲ってきて、次に目が覚めたとき窓は閉められていた。カーテンが引いてあって、夜が来たことがわかる。ずいぶんと眠っていたようだ。部屋の明かりも煌々としたものではなく、物が何とか認識できる程度の控えめなものになっていた。

「うーん……」

 あたしは上体を起こす。足は動かない。重い肉の塊がそこにあった。温もりを持っていることを喜ぶべきか悲しむべきか。

 咄嗟に情報端末のことが思い浮かんで、枕元を探すとそれは出てきた。カバーを外して手に取る。

 あれはやっぱり夢?

 しかし感触がいつもと違う。暗くてよくわからないのだが、触った感じでは表面に亀裂が入っているようだった。今まで感じたことのない凹凸が背面を横切るように走っている。表面を触っていると、その角が欠けていることにも気がついた。

 誤認しているだけか?

 夢の情報とリンクさせて、勝手にそうだと処理しているのではないか。そんな不安に駆られる。今まで感じたことのない焦りにも似た感情に戸惑いを隠せない。

「そうだ」

 あたしは電源を入れて回線を開く。画面には見慣れた映像が流れる。表示するための明かりが部屋を仄白く浮かび上がらせる。

 画面が切り替わる。次々に記事が表示される。施設内に散らばっている多大なデータ、そして外部で出回っているニュースや噂……。

 あたしは誰よりも自分自身を信じていた。自分の身体は信用ならないと思っていたけれど、自分を自分だと定義している何者かの存在は信じるにあたうと思っていた。それがもし、人の脳ではなくコンピュータだとしても、その性能を誇らしく感じていた。誰よりも頭がいいと自惚れていたわけではない。純粋に、自分で思考できることが嬉しかっただけだ。自分の意見を言えることが嬉しかっただけ。それ以上でもそれ以下でもない。あたしにとって他人とは存在しないものだったから。――なのに。

 なにを信じるのが正解なのか。あたしはやはりおかしくなりつつあるのかもしれない。

「夢、でしょう?」

 あたしの声に応える声はない。

「夢なんでしょう?」

 さっきよりもはっきりとした声で問う。虚空に向けての問いに誰も答えるわけがない。

「くくく……」

 何が可笑しいのかもわからない。だけど笑わずにはいられなかった。

「くくくくくく」

 笑え、笑え。笑えばいい。

「くくくくくく……」

 あたしはそのままパタンと仰向けに倒れると、端末をベッドの外に落とす。右腕で自分の視界を覆う。

「くくくくくく……」

 涙が袖を濡らす。

「くくく……」

 声は次第に嗚咽に変わる。

「く……」

 何故、あたしが泣かなくてはならないのか。

「……」

 歯を食いしばる。それ以上泣かなくていいように。

 ベッドの外に追い出された画面には、夢だと思っていたあの世界で調べていたことが表示されていた。

「……ばか」

 知らなければ良かったのに。

 あたしは前回表示画面を呼び出したことを後悔した。



 * 12 * 姶良


 彼女の精神が不安定になっていた所為かもしれない。やってみるものだとも思うが、これはちょっと厄介だなと思った。

 暗闇の中で目を覚ます。いつもは壁が見えているはずの場所にカーテンが引かれていた。それでここが彼女のいる部屋なのだと理解する。

 上半身をいつもやっているように起こしてみる。よし、うまくいった。

 右手の袖口が濡れている。彼女は泣いていたのだろうか。ま、今のボクには関係ないことだけど。

 枕元に置いてあるだろう情報端末を探るがない。まさか昼間投げてそのままだったりするのだろうか。そう考えてベッドの下を覗くと、思ったとおり情報端末が転がっていた。まだ画面が光っている。

 ――妙だな。

 何か仕組まれているんじゃないかと不審に思う。そこからじっと画面に何が表示されているのか見る。

 ――彼方のブラックユーモア、か。

 何も心配することはない。そこに表示されていたのは彼方が進めている研究『レイラ・プロジェクト』に関した資料と、外部に大々的に発表されたそれらの記事だった。

 ――二人の人間を一つに。……そんなばかげたことは物語の中だけにしておいてくれよ。

 ボクは伸ばしかけていた手を止めて苦笑する。この研究、青い血の人間を実験台にするために、一時的に赤い血の人間に間借りしようという研究が発端だ。始めにリツを使って実験し、そこそこの精度が確認されたので次はボクってわけ。彼女には言わない方が良いだろうな。

 ベッドから下りないと端末に手が届かなかったのでそろりそろりと地面に足を伸ばす。ひんやりとしたリノリウムの床。ケーブルが少ないのは扱いがボクと違うからだろう。目的のものを拾い上げる。

 ――独自のインターフェース……。ボクに扱えるかな?

 共有しているはずの記憶を遡る。情報端末に関したものを拾い集めていくと意外なことが判明した。

 ――そっか。受信専用で発信は想定外……。

 よくよく考えてみればそうである。閲覧専用だからこそここにこんなものが存在できるのだとどうして想像しなかったのだろうか。

 ――しょうがない。ならば構築するか。設定をいじれば何とかなるだろう。ならなければヴァイスを襲うしかないだろう。彼ならきっとどうにかしてくれるはず。

 あれこれ考えていたが、思ったよりあっさりとボクがしたかったことは叶ってしまった。まるでそれを望んでいたかのようなあっけなさにボクは拍子抜けしたのだけども。

 ――望んでいた?

 ボクは誰も寝ていない抜け殻のベッドに目をやる。彼女は密告をしないはずだ。たとえ一瞬でも裏切られたと感じようが、最後の手段は選ばないだろう。ううん。真実を知っているのはボクだけだ。だから助けを求めるのはボクがしなくてはいけないこと。彼女は……綺麗なままでいて欲しい。切り刻まれるのはボクだけで良い。

 文書を作成してある場所に送信する。ボタンを押すだけ。なんて簡単なんだろう。

 画面を初期化して端末の電源を落とし、ボクは彼女が最初いたようにベッドにもぐりこむ。眠ってしまえばきっと何もわからない。

 さぁ、おやすみ。もう二度と君の前に現れなくて良いように。



 * 13 * 冷羅


 あの夜の出来事がこの朝に直接繋がっていると理解するのには苦労しなかった。

「泣いていたのかい?」

 朝の様子を伺いにきたリツがあたしの腫れた目を見て訊ねる。

「そのようね」

 あたしは苦笑するだけにした。

「怖い夢でも見たのかな?」

 訊かれると思っていたその問いを、予想していた通りにリツは口にした。

「寂しく思っただけ。だってあのあと、ヴァイス、あたしのところに来てくれなかったから」

 わざとそう答える。確認したいことがあった。

「行ったよ。でも君は眠っていたからそのままにしたんだ。起こすべきだったかな?」

 あたしは首を横に振る。

「そうだ。じゃあ、これを片してくれたのもヴァイス?」

 情報端末が入れてあるカバーを見せて問う。周りにはおもちゃだと言ってあるので没収されることはないだろうとリツが言っていたそれ。さすがに起動させたまま放置してあるのを見たら、これがちゃんと機能することに気付くだろう。

「あぁ、そうだ」

 彼はすぐに肯定した。

 ちなみに今朝も情報端末はベッドの外に転がっていたのだが、それを拾ったのはリツであり、それまでには画面はオフに切り替わっていた。省エネモードは設定しておくものである。

「ごめんなさい。本当はすぐにあなたを呼びたかったんだけど、彼方さんとお話中だからすぐには来られないだろうと思って。そうしているうちに眠くなってしまったのね。放置してしまったなんて失態だわ。本当にごめんなさい」

 リツはあたしの足が動かないことを知っている。主治医であるのだから当然だろう。だから物を落として拾えなくなってしまったときに何度も彼を呼んでいた。他のスタッフが来てくれても変ではないはずなのに、コールボタンを押すと必ず彼がやってきた。

 いつもと同じようにあたしは頭を下げる。

「やはり、動けないのかい?」

 だからこの問いは奇妙なものに感じた。ベッドから転げ落ちることが多くなってからも何度か彼を呼んでいるはずなのだが、今日の彼はその問いを冷ややかな視線を持ってした。

「!」

 あたしは反射的に警戒する。身体がこわばる。しかし警戒したところで、あたしに逃げる手段はないのだが。

 あたしは黙ってリツの視線をそのまま受け止め、見つめ返すにとどまった。

「そうか。なら仕方ないね」

 彼は自分自身の視線にこもった冷たいものを意識していないようだった。ふっと残念そうに笑んだことで、そのひんやりとしたものは消え去る。

「どうも精神が落ち着かないようだね。手術はもう少し先になりそうだ」

 あたしが警戒していることを悟ったのか、彼はいつものようにあたしの頭をなでようとしたらしいその右手を途中で引っ込めてしまった。

「そう。わかった」

 視線はそのままであたしは頷く。

「じゃあ、また来るね。何かあったら呼ぶように」

 立ち上がり、去ろうとするリツのその背に、あたしは思わず言った。

「あたしは実験動物でも構わない」

 振り向いたリツの表情が凍り付いているのがはっきりとわかった。瞳がかすかに震えている。とりわけ目が良いわけでもないのにそんなところまで見えたのは脳内補正の所為だと思う。

「急にどうしたんだい?」

 リツはこちらを向いたが近付く気配はない。

「その言葉の通りよ」

「実験動物だなんて……誰かがそう言ったの?」

 あたしははっきりと首を横に振った。彼もそう答えると思っていたのだろう。何故なら、この部屋に来る人間は限られているのだから。

「僕はそんなことちっとも思っていないよ」

「じゃあ、玩具かしら?」

 にっこりと笑う自分をイメージする。しかしその内には暗くてどろどろしたものがあるのだけども。

「なんでそんなことを!」

 凍りついた表情が怒りに変わるのがわかった。彼はつかつかとあたしの前にやってくるとその肩を両手でがしっと掴んだ。

「痛い……」

 大人の男性の力は強くて、あたしは自由な両手を動かすが太刀打ちできない。

「どうしてそんなことを言うんだ? 僕がそう思っていると言いたいのか?」

 上半身を揺らされる。気分が悪い。

「えぇ。そうよ!」

 返す言葉に力がこもる。

「僕は純粋に君を治したいと思っているだけだ。その気持ちが君には迷惑だったか?」

「あたしはあなたのその気持ちが信じられないのよ!」

 がんっという音が頭の中をこだまする。固いものにぶつけたわけではない。ベッドの上に転がっていた情報端末に頭を打ちつけただけ。急にリツがその手を離したから、その反動でベッドに叩きつけられただけだ。

「痛……」

 変な音が耳でうなっている。打ちどころが悪かっただろうか。

「……何故?」

 視線だけをリツに向けると、彼は呆然としていた。魂が抜けてしまったような、そんな顔をしている。焦点が定まっていなくて、生気が感じられない。

「ヴァイス……?」

 痛みで涙目になっているらしい。リツであるその像がぼやけて見える。

「あなた……あたしがなにを調べて、なにを知ってしまったのかわかっているんでしょう?」

「そのデータなら消したはずだ」

 問いの答えは自動的。依然焦点は定まっておらず、顔の向きから窓の外を見ているようにも見えなくもない。

「夢に干渉しているのは誰?」

 あたしは上体をゆっくりと起こす。頭痛がひどい。ベッドのスプリングでそこまで強く打ちつけたつもりはなかったのだが、場所が悪かったのかもしれない。咄嗟に避けられるほどあたしの反射神経は良くなかった。

「彼女なら消したはずだ」

 機械がマニュアルどおりに喋っているみたいな返事。あたしはリツのその様子にぞっとするものを感じていたが、平生を装って次の質問をする。

「彼女とは誰?」

「姶良」

 リツはそこで正気を取り戻したらしかった。あたしの顔をびっくりした表情で見つめている。

「リツ……あなた、誰?」

 視界が薄れていく。打ったところに左手を当てる。変な感触。

「冷羅君、君……」

 リツ……どうしてそんな顔をするのよ? 心配そうな顔なんてしないでよ。あたし、ますます疑ってしまうじゃない。あたしの存在価値がその身体にしかないと。

「ヴァイス……笑って」

 なかなかに変な台詞だったが、あたしはそう言って気を失った。こんな馬鹿なあたしを笑ってほしいと思ったのは本当のことだったけども。



 * 14 * 姶良


 彼女は泣いていた。眠りながらも。

 ――頭に包帯をしている……。何かあったのだろうか。

 夜にはそんなものはなかったはずだった。うん。確かに記憶にはない。

 じっとその包帯に目を向ける。違和感があった。

 ――青い……。

 ボクの中が冷えていくのがわかった。意識だけという今の状態でもそういう感覚が備わっているのだから不思議だ。経験から得られた感覚は消えないということだろうか。

 待て、今はそんなことに感心している場合ではない。

 ボクは冷静になってその血らしき部分を見つめる。包帯に血がにじんでいるだなんて、その手当てをした人間はよほど縫合が下手なのだろう。

 ――つまり、これは血ではない。

 嫌な予感がした。だけどもうボクの役目は終わっている。しかし彼女にそれを知らせるべきだろうか。不安定な今の彼女にはそれが何に見えるだろうか。

 ――あの馬鹿……。

 手当てをした人物に思い当たって舌打ちをする。正確には舌打ちをしたつもりになっているだけなんだけども。

 ――ジョークのつもりか? 悪趣味な。

 こんなところで毒づいていても仕方がない。彼女が早とちりをする前に誰かを呼んできたほうが良さそうだ。さすがに今のボクでは混乱する彼女の主導権を握るなんて真似はできないだろうから。説得してなだめる自信はない。ならば肉体があるほうが好都合だろう。

 ――あの馬鹿、一体今どこにいるんだ?

 お願い、ボクの身体。もう失いたくないんだ。



 * 15 * 冷羅


 否定することは簡単なはずだった。あれは幻覚で、あれは幻聴で、あたしが勝手に作ったものだと思い込めばよかったのだから。

 忘れてしまうことは簡単なはずだった。なかったことにすればよかったのだから。

 だけどさ、どうして? どうしてあなたは……。



 そっと瞳を開ける。世界がにじんで見える。真っ白な世界がぼやけて見える。

「あぁ……」

 また涙だ。

「……苦しい」

 目を擦ると包帯がずれた。上半身を起こすとあたしは何とはなしにその包帯を引っ張った。巻き直せる自信はなかったが、崩れていてはその意味がない。邪魔に思っていたため、ためらいはなかった。

「……あれ……?」

 涙で視界がかすんでいるのは事実だ。だけど色を間違えることはないだろう。

「青い……?」

 どういうこと?

 気味が悪くなって目を擦り、涙を拭う。そしてもう一度見る。

「どうして?」

 血と思しき物は青い。長い包帯をくまなく見るが、やはり赤いそれは付着していなかった。

「どうして?」

 不意に彼女の台詞を思い出す。

『ボクの血は赤い色をしていない』

 赤ではない。

 あたしは包帯を投げ捨て、そのまま後退する。そしてベッドから転げ落ちる。ひっくり返って背を打ちつけたが、痛いどころの騒ぎではない。すぐに起き上がり、さらに後退する。

 なんなのよ?

「あたしの目……おかしくなっちゃったの?」

 赤ではないそれが不気味に映る。そういえば、最後に自分の顔を確認したのはいつだったか。あたしの瞳は何色だっただろうか。

 慌ててあたしは鏡を探す。ベッドのそばにある棚に入っていたはずだ。髪を直してもらうのに使っていたものがあるはずだった。

「あった」

 最後に髪を結ってもらったのはいつだったか。あれは確かこの部屋に専属でついていた女性の看護師がやってくれたのだった。

 あの看護師をここのところ見ていない。それは偶然か?

「!」

 鏡を自分に向ける。自分自身の姿を見たのはいつ振りなのか。

 夜になる前に引かれたカーテンを思い出す。夢を見る前は開けっ放しにしていることも多かったカーテン。なのに今は夜になる前、夕方になるとすぐに閉められてしまう。それは何故だったのか。どうしてそんな些細な変化を見抜けなかったのか。

 瞳は真っ青だった。

「いやぁぁぁぁ!」

 鏡を落とす。

 ガラスが割れる。

 その破片があたしの足にかかり、傷を作る。痛みとともに、そこから青いものがうっすらとにじんでいるのが目に入った。

 青い、青い、青い、青い…………。

「なんで? なんで? なんで? なんで?」

 床に散らばるガラスの破片を避けるように窓のそばへ。涼しい風を部屋に運んでいるその場所。外の世界に最も近い場所。だけどそんなことは頭に浮かんでこなかった。

「どうして? どうして? どうして?」

 赤い色をしていないとおかしいでしょう? あたしは何を見間違えているの? どうして青いの? 前まで赤い色をしていたはずなのに!

「違う。違う違う違う違う!」

 両手でしっかりと頭を支えて、しっかりと瞳を閉じて、それでも抑えきれずに頭を大きく横に振る。

 一体何が起こっているの?

「冷羅君!」

 ドアが開く音がした。見れば血相を変えて慌てているリツがいる。こっちに来ようとしているらしい。

「いやぁっ! 来ないで!」

「落ち着け。落ち着くんだ、冷羅!」

 ぎりぎりまで窓に寄ってリツから遠ざかろうとする。

 彼は教えてくれなかった。あたしの身体のことを。あんなに訊いたのに。こんなに変わってしまったなんて思わなかった。

「信じていたのに……あなたを信頼していたのに」

 手が窓の桟に当たる。彼から逃げるには窓から出るしかない。

「どうしたんだい、冷羅君。それ以上向こうに行ったら危険だ。戻ってきなさい」

「来ないでぇっ!」

 身体が震える。声が震える。涙で視界が歪む。涙で世界が歪む。

「落ち着こう。な? 話は聞くから」

 ベッドの向こうにリツは立っている。それ以上近づけないらしかった。

「戻っておいで」

 リツはあたしに手を差し伸べる。その長い腕はベッドの向こうから出されたものでも届きそうなくらいに近かった。

「!」

 だから、とても怖かった。

「冷羅君!」

 それは一瞬で。

 視界がぐるりと反転して。

 生まれて初めて加速度というものを感じた。

「いやぁぁぁぁぁぁ!」

 リツのこわばった表情が脳裏に焼きついている。

 ねぇ。ヴァイス。あたしはあなたに愛されていたの? 一人の女の子として、あなたに愛されていたの? もしそうだったなら……ごめんね。

 痛みも音も、感覚として受け入れることのないまま意識は途切れた。



 * 16 * 姶良


 まさか意識が逆流してくるとは思わなかった。どうしてそうなったのか、彼はその説明責任を果たすことなく実行に移した。ひどい話だ。

 やはり彼女との同居は必至のようで、それ用のプログラムはしっかりと組まれているらしかった。

 ボクに対しての扱いはさらに悪化してゆく。まぁ、ボクは物同然だし、彼女さえ無事ならそれでいい。やがて来るだろう局面で、彼女が無事であるならそれでいい。ボクは死に、彼女が残る。そのエンディングがボクの望むシナリオ。

 あぁ、それにしてもひどいよ、ヴァイス。いや、これをやっているのは彼方のほうか?

 あぁ、もう別にどっちでもいいけど、どうして彼女に対するアクセス権を切るのさ? これじゃ彼女と話すことができないよ。何のためにそんなことをするの? ボクがこのことを知らせたから? でも自分の身体を守ろうとするのは当然でしょう? こんな仕打ち、ひどすぎるよ、ヴァイス!



 * 17 * 冷羅


 そこにどんな色の花が咲いたのだろう。

 赤だったのか、青だったのか。

 それは綺麗なものだっただろうか。

 それは美しいものだっただろうか。

 春のあの花よりも、

 夏のあの空よりも、

 秋のあの木よりも、

 冬のあの風よりも……。


 残念なことに、あたしは死ななかった。地面が土だったおかげで命が救われたらしかった。死んでもいいと思っていたのに、この世界はあたしをまだ必要としているらしかった。

「どうしてあんな馬鹿なことをしたんだ!」

 リツは目覚めたばかりのあたしを怒鳴りつけた。身体はさっぱり動かない。あちらこちらを骨折したらしく、固定されているからのようだ。

「青かったから」

 あたしは視線を以前は窓があっただろう場所に向ける。そこには窓はない。

「空と同じ色をしていたから」

 なんで空色は青い色なんだろう。空は様々な色を持っているのに。夕焼け色が橙色だからいけないのかな?

「何が?」

「……」

 苛立ったリツのその台詞にあたしは答えない。

「空を飛んでみるのも悪くないかなって思ったの。あの混乱の中で、ぼんやりと」

 自分の身に何が起こったのかよく思い出せない。大体、足がろくに動かないというのに窓から落下すること自体がおかしい。どうしたらそんな器用な真似ができるのだろう。

「言っていることが支離滅裂だよ、冷羅君?」

 怪訝そうな顔をしてあたしを見つめるリツの顔を見る。

「きっと頭の打ちどころが悪かったのね」

「脳波には異常はなかったはずだが?」

「でもあたしはあの日のことは思い出せないわ」

 窓がない部屋に移されたことしかわからない。どうしてそうなったのかも。

 首を横に振りたいところだったのだが、やはりそこも固定されていて動かせなかった。こんなことなら、もっと回復したときに目覚めるべきだったと毒づく。

「冷羅君……」

「哀れむような顔をしないで。そんな顔で見られるのは嫌なの」

 リツのつらそうな表情にあたしは達者な口で言ってやる。

「今回の事故は僕の監督不行届きが原因だ。まさかあそこまで身体が動けるようになっていたとは気付かずに窓の安全柵を設置していなかったことに問題がある」

「あったとしても、あたしはそれを乗り越えていたと思うわ」

「それさえあれば僕は君を支えることができたんだ」

 あたしにはその台詞が別の意味に聴こえた。

「……」

 繋げる言葉が浮かばない。

「君を追い詰めたのは僕だ。もしかしたら……担当医を外されるかもしれない」

「!」

 リツは視線を外す。その先には床があるだけだろう。ひょっとしたらあたしから伸びる様々なセンサーのコードが伸びているかもしれなかったけども。

「担当が代わるの?」

 それはそれで妙な気がした。ありえないことを言っているように聞こえたのだ。それは信用とか信頼とかそういう次元のものではなく、リツ以外が担当することに果たして意味があるのかがわからなかったのだ。

 あたしの問いに彼は静かに首を縦に振る。視線は外したまま。

「そう……」

 ここで駄々をこねたら少しは可愛げがあっただろうか。あたしのそばにいられることが幸せだと言った彼に対し、この反応はどう取られただろうか。

「止めないんだね」

 寂しげな彼の台詞。

「あたしに決定権はないはずだけど」

 気付いたときからずっとあたしの面倒を見てくれたリツ。それにはとても感謝しているし、彼から教わったことも多い。わがままを何度も聞いてもらったし、変な時間に呼び出したことも何度もあった。迷惑を掛けるだけ掛けて、あたしは彼に何を返してきたのだろう。

「そうだったね」

 彼はあたしを見て笑顔を作った。寂しげで、悲しげな表情。

「これ以上わがままは言えないもの……」

 言わないつもりだった台詞がこぼれる。胸が苦しい。これは怪我の所為じゃない。精神的な苦しみ。

「ここはわがままを言うべき場面だよ」

 彼は苦笑する。あたしが引き止めないことをわかっているからだろう。こんなこと、わからないほうがいいだろうに。近くにい過ぎたのかもしれないね。

「そうね」

 あたしも苦笑する。

「じゃあ、これで」

 彼はそれだけ言うと部屋を去った。固定されたままの頭では彼の背中を見送ることさえできなかった。



 よく考えてみれば可能性はあった。今、この施設には彼方さんがいる。


 怪我が完治した頃にやってきたのは彼方さんだった。青い石のはまったピアスが今日も銀髪の間からのぞいている。

「調子はどうかな?」

「担当医、あなたになったんですね」

 落下したときに受けた傷の治療中はほとんど寝ていたので、担当医が誰かということは気にならなかった。しかし機械が少ない部屋に移されてすぐにやって来たのが彼だということは、つまり彼があたしの担当になったということなのだろう。

「そうだよ」

「ヴァイスは……いや、リツはどこに行ったんですか? 元気にしていますか?」

 思い切ってあたしは治療中ずっと気に掛けていたことを訊ねる。彼方さんは興味深そうに片目を細めて笑う。

「気になるかい?」

「あたしの所為で……その……研究を辞めることになったりしてないかな、って」

「その心配はないよ」

 彼方さんはしれっとそう答えて、作業の準備を始める。血液検査らしい。

 ……血液。

 何か胸に引っ掛かりを覚えた。その違和感がどこから来るのか思い出せない。

「今も研究を続けている。冷羅ちゃんの手術には立ち会ってもらうよ。彼の技術力は買っているからね」

「そうですか……」

 あたしは彼方さんから視線をそらす。どこか落ち着かない。

「嬉しくないの?」

「へ?」

 視線だけ彼方さんの顔に向ける。楽しそうな表情。

「ヴァイスだなんて愛称をつけて慕っていたみたいだったから」

「ずっとそばにいてくれましたからね」

「それだけ?」

 にやにやした笑みが気になる。何を期待しているのだろうか。

「それ以上に何があるんですか?」

「あると思っていたけどな。……でなければ、あんなに取り乱したりしない。鏡がトリガーになったのは確かだとしてもだ」

 後半の台詞は自身に向けてのものらしかった。言っている意味がわからない。

「どういう意味です?」

「あぁ、いや。冷羅ちゃんの好みのタイプってどんな男性かなと思っただけ」

「なっ……!」

 頭に血が上る。なんてことを言う人だろうと腹が立った。つまり彼は、あたしがリツを好きだと言いたいのだ。なんてずるい言い方だろう。

「そのくらいの年頃の女の子ならちょっとは気にするかな、と。――あぁ、オレはそう言う意味では君に興味ないよ。守備範囲外」

「範囲内でも困ります!」

 彼方さんは声を立てて笑う。こんな人だとは思っていなかった。

 膨れて視線を正面に向ける。この部屋にも窓はなかった。

「さてと。少しはリラックスできたかな?」

 これが演出だったらセンスがないと思うだけだが、おそらくこれは彼方さん自身の趣味嗜好を兼ねているに違いないと思った。

「不機嫌ではありますけど」

 わかりやすく頬を膨らまして見せると、彼方さんはまた笑う。

「くくく……面白い。リツが好むのもわかるかも知れん」

 あたしの視界に注射器が入った。身体が自然とこわばる。

「あれ? 注射、苦手だったっけ? そんな話は聞いてなかったけど」

 異変に気がついたらしく、あたしの視界から注射器を隠して訊ねる。

「えっと……苦手と言うことではないんですけど」

 なぜかそれを遠ざけたくて仕方がない衝動に駆られる。

「心配しなくても大丈夫だよ。ちょっとちくっとするだけだし、そんなに血も抜かないから。今の技術はすごいよ。一滴の血液から健康状態が一発でわかっちゃうくらいなんだから。大量に抜く必要があるのは輸血用に保存するときくらいのものさ」

「えぇ……」

 それはわかっているつもりだ。一瞬で終わる作業を、いつまでも長引かせるわけにはいかない。

「安心できた?」

「覚悟は決めました」

「よろしい。じゃ、腕出して」

 指示された台の上にあたしは左腕を置く。視線は右腕のほうに向けて、できるだけ注射器が目に入らないように構える。

「すぐ終わるからね」

 消毒用エタノールのひんやりとした感触。その後に一瞬だけちくっとする痛み。

 好奇心であたしはその血液がどれだけ抜かれたのかをちらりと見る。大丈夫。ちょっとだけだ。

「はい、終了。なんてことないでしょう?」

 あたしは彼方さんのその台詞にゆっくり頷く。

「えぇ」

 その血が赤かったことに安堵したとはとても言えなかった。血が赤い色をしているのは当たり前のことなのに。どうしてそんなことに安堵するのか、あたしはとても不思議に感じていた。

「これからもうしばらく安静にして、幾つかのテストをクリアしたら手術。手術の詳しい話は日時が決まったら教えるからね」

「はい」

 あたしはその気持ちを押し殺して頷く。悟られまいと必死だった。なんでそうまでして隠さなければならなかったのかはよくわからないのだけども。本能的なその行動は理解できるようで理解しがたいものだった。

「んじゃ、いつものを始めるか」

 抜いた血液を特殊な箱に収めると、彼方さんは電子ボードを構えた。これから今日の健康状態に関した質問に答えることになる。初めの頃こそ面倒だったそれは、もう日課として受け入れていた。

「よろしくお願いします」

 いつもリツがやっていたことを別の人間がやっているのは奇妙に感じられるのと同時に、妙な高揚感があった。新鮮な感じがするというかなんというべきか。そのうちにこんな気持ちも薄れていくのだろうと思うと、この今を大切にしたいだなんて思えてくる。あたしはリツに対してわずかながら罪の意識を感じつつ、彼方さんの質問に答えていった。



 まどろむ時間が長くなった。覚醒している時間が短くなったと言うよりも、ぼんやりしている時間が長くなったと言うべきか。手術に備えて新たに加わった薬の所為だろうと彼方さんは説明してくれたが、あたしにはあたしの自由を奪うためのものとしか思えなくて、だから余計にいろいろなことを疑わしく感じていた。それでも頭の中がクリアにならない所為で思考できなかったのだけども。それが悔しくて、ストレスばかりが溜まっていく。リツからもらった情報端末も手元になく、身体もろくに動かないこの状況では調べようにも手段がなかったけれど、それでも思考する自由を奪われては生きている気がしなかった。せめて、夢を見ることができたら。あの幻はしばらく見ていない。



 ドアが開いた音がして、あたしは目が覚めた。上体を起こしてそちらを見ると、見慣れないものが目に入った。

「どちら様?」

 首を傾げて問うと、白衣を身につけたその人物は部屋の中につかつかと入ってきた。顔が花束で見えないので誰なのかわからない。でも、着ているそれは彼方さんが身につけているものと全く同じように見えた。

「こんにちは。初めましてと言うべきかな?」

 声も彼方さんにそっくりだったけど、でも雰囲気が違う。別人のように感じた。

「?」

 彼はあたしのベッドの隣に立つと、その花束をどけて顔を見せた。左耳に付けられた赤い石のピアスが目に入る。彼方さんがつけているものとは色違いのようだった。

「彼方の双子の弟の遥香です」

 彼方さんと瓜二つの青年は自分のことを遥香だと名乗るとにっこりと笑んだ。その笑い方は彼方さんがしないものだった。

「双子の……弟?」

 なんでそんな人があたしのところにやって来るのだろうか。しかも花束を持って。

 このときはまだ気付かなかった。その青い花がバラだとわかったのは彼が去ったあとだった。これほどまでに真っ青に染まったそれはある種とても見事で、白いバラに青いインクを吸わせたわけではないことは見ただけでわかる。それはもはやバラとは違う花のようでもあった。

「そう。そっくりでしょう? 一卵性双生児ってやつ。会う人会う人間違えるから、ピアスで見分けられるようにしたくらいでさ。赤いほうが俺、青いのが彼方」

 顔を近づけて耳にはめられたピアスを見せてくれる。丸くて小さな石。なんという名の石なんだろう。

「はぁ……。確かにそっくりです。でも雰囲気は違いますよね」

「おや。俺たちの見分けがつきそう?」

 顔を離すと意外そうな表情を浮かべる。

「ひょっとしたら、ですけども」

 あたしはにっこりと微笑む。あたしのところに訪ねてくれるお客さんが増えることは正直嬉しい。話し相手がいることは幸せだった。

「あ、そうだ。この花活ける花瓶とか壺とかある?」

「そこの棚の奥に確かあるかと。なければ水差しを使ってください」

 この部屋に移ってからどこに何が置いてあるのかなんて確認していない。あたしの持ち物自体もそんなになかったし、置いてあっても使う人がいなければ意味がない。この部屋に移って以降は看護師も誰一人として来なくって、彼方さんの顔しか見ていなかった。遥香さんは彼方さんと全く同じ顔をしていたからある意味ちょっとつまらないのだけども、そんなことを彼に言うのは失礼だろうと思って黙っていることにする。

「了解っと」

 ベッドの隣に備え付けの棚がある。そこの一番下の引き戸を開けて遥香さんは目的のものを探し出した。一瞬、何かを見つけて手を止めたように思えたけど気のせいだろう。

「うん、これならちょうどいいだろう」

「あら」

 見たことのない花瓶が出てきた。薄い水色の立派な壺である。丸い形のそれは重そうで、安定しそうに見えた。

「ん?」

「そんな花瓶があるなんて知らなかった」

「じゃあ、誰かの忘れ物かな? ま、いいや。ちょっと花を活けに出るね。すぐに戻るよ」

 初対面とは思えない気さくな話し方をして花束と花瓶を持って彼は出て行った。



 遥香さんの言うことによると、彼はカウンセラーに近い仕事をしている人間で、あたしが情緒不安定であることを気にした彼方さんが話し相手として呼んだらしかった。

「はぁ……それはわざわざどうも」

 花を活けて戻ってきた遥香さんが簡単に自己紹介とここに来た理由を説明してくれたあと、あたしは彼に頭を下げた。

「窓のない部屋に移されたんじゃますます気が滅入るかなと思って花を用意したんだけど、気に入ってくれた?」

「えぇ。華やかになりますからね」

 重なる青い花びらは何かを連想させる。しかしそれに対して特別な感情はわかなかった。

「来るたびに花を持ってこようかと思うんだけど、何かリクエストはある?」

「いえ、任せます」

 知っている花は幾つかあったのだけど、どういうわけかどの花もあたしのイメージでは真っ青に染まっていた。青ではないはずのその花が鮮やかなブルーを有しているのを不気味に思うと同時に、なぜかそれらを前から知っていたかのような親近感があって、あたしはどうしてそんなことを思い浮かべてしまうのかわからなくて混乱した。

「わかった」

 遥香さんはにこにこと笑顔を絶やさない。どこかにやついているように見える彼方さんよりはずっと親しみがわいた。

「さて、彼方に呼ばれたのはいいが、一体何を話せばいいんだろうね? 仕事外らしいし」

 その台詞にあたしは小さく笑う。

「ん?」

 何か変なことを言っただろうかという顔をしている。それがまたおかしい。

「別に何でもいいんです。……あ。どこかの昔話とか神話とか伝説とか、そういったお話、ご存知じゃありません? できればそんな感じの物語を聞きたいんですけど」

 仕事じゃないと言うのなら、この生活とは全く違う世界の話を聞きたい。物語なら、ぼんやりとした頭でも充分に理解できる。

「昔話、神話、伝説、ねぇ……?」

 いきなりこんなリクエストをされるとは思っていなかったのだろう。遥香さんはきょとんとしていた。

「何でもいいですよ。なんなら、ここででっち上げてくださって結構ですよ。誰にも言いませんから」

 あたしはたぶん意地悪そうな笑顔を作っていただろうと思う。言いたくても話す相手は彼方さんくらいしかいないのだから、どんなに素っ頓狂な話をされてもそこから先に広がることはない。遥香さんもそれくらいのことは彼方さんから聞いていることだろう。

「うん、面白いね。それ」

 遥香さんはあたしのリクエストに乗ってくれるようだった。小さく笑う。

「だったらとっておきの話がある。ちょっと長いから、何度か分けて話すとしようか」

「本当?」

 それはとても嬉しい。話に続きがある限り、遥香さんはここを必ず訪ねてくれるだろう。あたしの目はきらきら輝いていたはずだ。

「あぁ。昔話や神話とはちょっと毛色が違うけど、それはそれは壮大なお話だ。言い伝えみたいな長い長い物語。だからちゃんとついてきてくれよ」

 その台詞にあたしは力強く頷く。

「……その物語の世界は」

 遥香さんはあたしのために即興で作ってくれたらしいそのお話を、感情豊かに語って聞かせた。



 それはある少女の物語。青い血を持って生まれた少女の孤独な物語。仲間を探して国中を旅する物語。ある町では人を助け、ある町では事件に巻き込まれ、泣いたり笑ったりしながら強く生きていく少女のお話。

 遥香さんが前もって宣言したとおり、その物語は壮大だった。だって彼女、最後には宇宙にまで飛び出すのよ。あたしはこの施設の中から出たことがないのに、彼女ははるか遠くに行ってしまうの。すごいでしょ?



 物語は佳境に差し掛かった。いよいよ彼女の出生の秘密が明かされるという場面だ。

 この場面に来るまでに、花瓶に活けられた花は様々なものに変わった。どういうわけか青いものと赤いものが交互で飾られていたんだけども。その理由をついぞ訊ねることはなかった。



 その日。

 物語が始まる前、あたしは遥香さんが喋りだす前に口を開いた。

「あの……遥香さん?」

「え、あ、なに?」

 物語の入り口まで先に進んでいたらしい遥香さんがびっくりしたような顔をする。このタイミングで話を止めたことはなかった。

「あたしは、人間なのでしょうか?」

「なんだい? 藪から棒に」

 目をぱちぱちとしばたたかせながら遥香さんが問い返す。

「いえ」

 こんなことを聞いても、彼はごまかすだけだろう。そんな気がする。

「……そうだなぁ。それって結構難しい問題だよね?」

 だからこんなふうに、笑うこともなく真面目に返してきたことが嬉しかった。

 今度はあたしが目をしばたたかせた。

「参考までに、俺の出生の秘密を教えてあげようか?」

「え?」

 さらにこんな感じで話がそれるとは思ってもいなかった。

「隠しているわけじゃないし、この手の研究をしている人間ならみんな知っている。この年まで生きているのは俺と彼方くらいのものだから」

「どういう……?」

「遺伝子工学の産物なんだよ。ヒトゲノムを持っているだろうけど、親は複数いる。複数人の遺伝情報を人工的に繋ぎ合わせて作られたんだ。俺を構成するメインの遺伝情報を持っている二人、彼らを一応の両親としているんだけど、彼らは遺伝配列にちょっとした特徴があってね。子孫を残すのにハンデがある。それでたくさんのお金を投じて俺が生まれたってわけ。個体になるにはちょいと欠損部が多かったんで、それを補うためにいろいろな人から提供してもらっている。キメラという訳ではないから、どこの細胞を取っても同じDNAを得られるはず。出てこなかったら大笑いだけど」

 言って遥香さんはなんてことのないような顔をして笑った。ジョークにしてはつまらない。

「うちの両親、よっぽどの金持ちだったんだろうね。結構綺麗な顔にしてくれたもんな」

 片手をあごに当ててポーズを決める。

 確かに遥香さんも、同じ顔をしている彼方さんも、変な例えで恐縮だが、女装したら似合うんじゃないかという顔をしている。喉ぼとけもそんなに目立たないし、肩幅も男性にしてはない。華奢ですらっとしている。だから綺麗なのは顔だけではないだろうなと思った。かなり変な想像だけども。

「遥香さんって、実はナルシスト?」

「どちらかと言えばね」

 さらりと言って笑う。あたしもつられて小さく笑う。

「で、生殖機能にいろいろあって、俺は、いや、俺たちは子宮から生まれなかったんだ。開発初期であった人工子宮から誕生した。人工子宮って見たことある? 結構きっついものだよ。明らかに機械で、いかにも生産しましたって感じの物でさ。正直見るもんじゃないね」

「は、はぁ」

 遥香さんは笑いながら言うが、正直笑えない話だと思う。いや、笑いながらじゃないと話せないことなのかも知れない。

「思いっきり人工的に作られた、自然無視の産物が俺ってわけ。こんなんでも人間だといえるかな?」

「え?」

 そこでこんな質問をされるとは思っていなかった。あたしは答えに窮する。

「ジーンリッチやデザインベイビーってやつ。それは人間が行っていいことなんかね?」

 いきなり倫理の話が始まる。彼は結構専門的な話をしているが、それをあたしが理解できていると解釈しているところが面白い。

 見た目は十歳をわずかに超えたくらいの、いかにも女児の相手にそんなことを説明しても理解できないと笑うのが普通の反応のような気がしていたあたしは、いくらか対等に扱ってくれているらしい彼に好感を持った。反対に、彼があたしの実年齢を知っているからこそそういう態度をするのではないかと不安に感じてもいた。

「考え方次第ではないでしょうか」

「生殖とは神が行う神聖なものであるから冒してはならない、とか?」

 興味深そうなその表情は彼方さんがするそれと全く同じだった。

「神様がどうのこうのはどうだっていいんです」

「そう言うならさ」

 彼はそこで台詞を止めて、あたしの目をまっすぐに見つめる。

「自分が人間かどうかなんて、自分自身で定義すればいいんじゃない?」

 あたしは答えられない。視線をそらす。

「んじゃ、訊くけど、君は俺が何を証拠に持ってきたら自分が人間だって納得する?」

「それは……」

「結局、自分自身がそうだと思えば自ずと答えは導き出される」

 彼が突き放した言い方をするのは、それがたぶん自分自身の存在についてにかかわる大事なところに触れているからだろう。相手を考えるべきだった。

「……よし。だったら生物の勉強でもするか? どちらかというと保健体育の勉強かもしれないけど」

「へ?」

 いきなりの提案にあたしはついていけない。思わず遥香さんの顔を覗く。

「冷羅ちゃんはこの施設内で生まれたんだ。自然分娩。帝王切開じゃないからはっきりするだろう」

「え? なにが?」

 きょとんとして首を傾げる。

「君が生まれる瞬間の映像があるはずなんだ。探してみるから一緒に見ようじゃないか」

 もはや何にどう合いの手を入れるべきなのかわからない。

 あたしがこの施設内で生まれたなんて初めて知った。てっきりこの外で生まれて、両親がいなくなってしまったことを機にここに引き取られたのだと思っていた。

「ある種グロテスクだが、感動物だぞ。許可は強引に取ってきてやるよ」

「そ……そこまで言うんでしたら」

 あたしが戸惑いを隠せずに答えると、遥香さんは勢いよく立ち上がる。

「善は急げだ。探しに行って来る」

「え?」

 彼は裾の長い白衣を翻してドアに向かう。

「遥香さん! あの物語の続きは?」

 まさかこんな調子で出て行ってしまうとは思わなかった。彼の行動はあたしには予測できない。

「また今度」

 軽く手を振って遥香さんは部屋を出て行ってしまう。

 また、あたしは白い部屋に置き去り。

「……」

 追いかけて行けたらどんなによいか。

 あたしは動かぬ足をつねる。そこに痛みはない。窓から落ちたあの日から一歩もベッドから出ていなかった。温かいだけの無用なもの。

「切ってしまってもいいのに」

 研究が進んでいるといわれる義体の開発。あたしの足も義足にして、コンピュータ制御で動くようになったりしないのかしら。それをしないのはお金の都合なのかな。

 だんだんと意識が薄らいでゆく。あたしは横になって遥香さんが活けていってくれた花を眺めた。今日は赤い花だった。

 この花……こんなに赤いものだったっけ?

 あたしはぼんやりとそんなことを考えながら眠りの世界に落ちていった。



 花がしおれる前に遥香さんはやってきた。今日は手のひら大の再生専用端末を花束以外に持っていた。

「いらっしゃい」

 あたしはにこにこしながら迎え入れる。

「起きていたの?」

「花が枯れる前に、必ず遥香さんはやって来てくれるから」

 楽しみにしていたのだ。あの物語の続きも気になっていたから。

「待っていてくれるなんて光栄だね。花、すぐに活けてくるから待っていて」

「はい」

 端末をベッドのそばにあるテーブルに置くと、青い花束と赤い花が活けたままの花瓶を持って部屋を出て行く。

 本当に探してきてくれたんだ。

 あたしは端末を眺めながら驚いている。あれからどれだけの時間が流れたのか、その正確な時間はわからなかったが、それでもかなり早く見つけてきたものだ。でっち上げるにはもっと時間が掛かるだろうと予想されたので、たぶんそこにあるのは本物なのだろう。

 そんなことを考えていると遥香さんは戻ってきた。

「早いですね」

「今日はとりわけ首を長くして待っていたみたいだからね。走ってきた」

 確かに彼の呼吸はやや乱れている。走ってきたのは本当のようだ。

「そんなに慌ててくださらなくてもよかったのに。ありがとうございます」

 花瓶に活けられた花があたしによく見えるように配置する。寝ている姿勢からは微妙な位置でも、こうして上体を起こしてから見ればとても綺麗に見える。遥香さんはその微妙な加減を実にうまくセッティングしてくれていた。

「俺にできることなら出し惜しみはしないよ」

 にっこりと微笑むと、彼はベッドの脇においてある椅子にいつものように腰を下ろす。

「さて、それが例の証拠ってやつ。いろいろ上の連中が文句言っていたらしいけど、彼方に軽くあしらってもらった」

 その様子がうまく想像できない。でもあたしのために苦労しただろうことは理解できた。

「見てみるといい。勉強になるし、何より、君もいずれは経験することだろうから」

「あたしが……経験する?」

 端末を手に取ったあたしは、それを動かす前に遥香さんを見つめた。

「だって君は女の子だもの。誰かを好きになって、子どもを産むことは充分にありえることだろう?」

 全く想像ができない。あたしが、子どもを産む?

 とても自然な遥香さんの言い方には違和感が全くない。実に当然のように聴こえる。

 でも、あたしが子どもを産む? そんな未来がやってくるとは到底思えない。身体が全く動かなくなる未来ならしっくりくるのに。

「あたしが?」

「男性は経験できないからね。産むことはさすがに女性の機能だから」

「あたしが……子どもを?」

 ぜんぜん実感がわかない。この幼い身体の今だからイメージできないのだろうか。

「まぁ、見てごらんよ。いい機会だ。滅多にこんな映像を見られるもんじゃないよ」

 遥香さんはあたしの手元にある端末を指で示す。それにつられてあたしも端末を見つめた。

 ……これを見ればわかる。

 あたしは黙って端末を操作し、映像を見た。母と思しき女性から女の子が産まれてくる様子は、うまく言い表せなくてもどかしく思う。色が不鮮明なのはわざとだろうか。産声が端末のスピーカーから漏れていた。

「どう?」

 感想を求められたが、あたしはすぐに答えられなかった。苦しそうな母の声が頭に響いている。声というよりも息遣いなんだけども、それがその苦しさを表しているようで、あたしには衝撃的だった。

「産むのも大変なんですね……」

 呟くようにした返事はあたしのショック度合いを如実に表していた。

「これでも楽なほうだったらしいよ」

「え!」

 ありえない。これ以上苦しんで赤ん坊を産むと言うのか。

「男の俺ではさっぱりわからないけどね。一般論」

 言って、遥香さんは肩をすくめる。確かに脇で見ている男にこのつらさはわからないかもしれない。

「君もそのうち体験するんだ。冷羅ちゃん。恐れることはない。生物である証拠だよ」

「!」

 あたしは子どもを産むことのできる身体を持っている。生物の証……。

「もう一回見る?」

 遥香さんのその台詞にあたしは勢いよく首を横に振った。もう充分だ。

「全力で拒否することはないのに」

 彼はくすくす笑う。あたしの手の中に合った端末を取り上げて、電源を切ると白衣についた大きなポケットの中に収める。その様子を眺めていたらちょっぴり残念に思えてくるのだから不思議だ。

「じゃあ、あの物語の続きを話そうか。いよいよクライマックスだったね」

 遥香さんはそう言ってあの物語の続きを聞かせてくれたはずなのだが、どう言うわけかあたしの記憶に残っていない。あの少女は、真実を知ったのだろうか。



 手術の日取りが決まった。その頃のあたしはほぼ思考が停止していた。眠るような日々がずっと続いていたし、遥香さんとのお話もそんな調子だったせいでしばらく顔を合わせていなかった。それでも花瓶に活けられた花はいつも元気で、花の色が変わるのを見てはあたしのところにきてくれているのだとわかって嬉しく思っていた。

 手術については彼方さんではなく、遥香さんが説明してくれた。

「この手術が終わったら、しばらく夢を見るかもしれない。自分が自分でなくなっているような夢を。だけど心配しないで。それは夢なんだから。君はちゃんとここにいる。俺たちがいる。迷っても、ちゃんと俺たちが行くべき道を指し示すから。だから今は、ゆっくりおやすみ」

 説明のあとに遥香さんはそう付け足した。意味がよくわからなかったが、声も出せない状況だったのであたしはその意志を彼に伝えることはできなかった。やがて来る眠気に、あたしは勝てそうにない……。

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