2-9(完) 楽園のそちら側

「あのっ……えつの山猿がっ!」


 閹尹の罵倒で私は我に返った。赤い顔をした彼は地団駄を踏んでいた。私は彼に、彼女は何者なのかと聞いた。


「南の果てで買い付けられた、いやしい小娘ですよ!」


 と彼は吠えた。


「値段は真珠三斛さんこくだったって、ええそうですよ、そんな法外な値段で買われてきた、きんじゅうみたいなやつです。はんっ、あんな性悪女、確かにお似合いだ! しかしね、あのひとの後釜につくのがあいつだなんて、ああくそ、胸くそ悪い!!」


 閹尹の話はもうしばらく続いたが、長くなるわりに情報は少ないので、すべては載せない。それにしても、三斛もの真珠とはまた目が回る話だ。三斛、ますで三十杯分の真珠というのは、私の想像の範疇をはるかに超えてしまう。


 だが確かに、あの少女はそれだけの価値があるだろうと思わされた。彼女には明らかに平凡でない何かがある。見た目だけでなく、もっとずっと深いところにも。あの微笑み、そして翡翠の玉玦ぎょくけつのかちかちという音を思い出すと、私は今でも背筋に冷たいものを感じる。





 さて、それから後のことについては、一体何を記録しておくべきか迷う。すべてが順調で、私は何事もなく脱出できたからだ。石季倫の突然の帰宅に緊張し、また急に取りやめになった金谷邸は、反動でだらしなく弛緩してしまっていた。そのたるんだ空気のなかから逃げ出すのはあっけないほど簡単だったのだ。


 だが何も書かないのも味気ないかもしれない。一つだけ書いておこう。


「よお、どうだったよ、ここは」


 私は門で門番の一人に話しかけられた。彼は私に長い架空の身の上話をさせた、「おねんね」するぞと脅した、あの門番だった。私の肩をがしりと組んで、彼はにやにやしていた。


 そんな彼に、私は満面の笑みを作って答えた。


――はい、すごかったですよ。すごかったですねえ、何がすごいってみんなすごいんですけど、お屋敷がすごかった。遠目にしか見えませんでしたが、すごかった。もしかしたら宮殿より立派なんじゃないですか。あ、こんなこと言ったらまずいかな。でもきっとあそこには、ものすごい美人がいるんでしょうね。……


「おいおいおい、あそこの美姫が見たかったって? ナマ言うじゃねぇか」


 彼は私をうれしそうに小突き回した。


「てめえが見たら目がつぶれちまうぜ。まあ俺は一回ちらっと見たことがあるが……。なあに、いつか、もしかしたらもしかするかもしれねえぞ、お前も」


 ばしばしばしと三回叩いて、彼は私を解放した。


「じゃあ、また来いよ!」


 ええぜひ! 私は笑顔でうなずいて、彼と別れた。次に親方が来たとき、彼は角材に頭をぶつけるとかして死んだ、不幸な弟子の話を聞くことになるだろう。




 帰ってきたあとのことについても、一つだけ書いておこう。今回の最大の功労者に敬意を表するためにだ。


「親方」の言う「あねさん」、「刀自」のいう「お嬢様」、そして「閹尹」の言う「あのひと」。三者の恩人であり、彼らを協力者にしてくれた私の恩人でもある彼女は、洛陽の外れのあばら屋に住んでいる。私が彼女に会いに行けたのは、諸事情が重なり、潜入した日から数日が経ってからだった。



 寝台もなく床にしいたむしろに伏せっている彼女は、目だけは開けられる状態になっていた。病状の進行がいちじるしいと、彼女につけた下女は語った。ほとんどの時間、意識があるのかないのかはっきりしないのだと。


 それでも私は彼女の枕元で、今回の取材の顛末を話した。清書寸前にまでまとめた草案を横目に見ながら、できるだけ正確に。それが彼女の望んだことであり、求めた唯一の報酬だったからだ。こと細かに記録すること、そして報告することが。


 私は長い話をし、親方の、刀自の、閹尹の言葉を彼女に伝えた。帯にぬいつけるという、伝統的だが少々縁起の悪い方法で持ち出した閹尹の艶文すら音読した。彼女は休憩しましょうかという私の提案を「いいえ」とかすれた声で、驚くほどはっきり断り、ときどき長く目をつぶるときもあったもののじっと聞いているようだった。


 以上です、と私は話を結びにかかった。約束通り、これらのことは記録します。記録し、あなたたちのことを後世に伝えると、誓います。


 私がそう話を終えると、彼女は何か言いたそうな動きをした。何度目だろうか、濡らした布で彼女の唇や口の中を湿らせてから、私は彼女の口元へ耳を寄せた。彼女のか細い呼気が、意味のもてない風音として私の鼓膜を打った。


 私はじっと待った。彼女の息から、そして彼女の両足の付け根の病巣からただよう腐臭に、反射的に顔が歪まないよう意思の力で押さえつけながら、彼女の言葉を待った。


「ありがとう」


 と彼女は言った。言って、その呼吸が聞き取れなくなる。私は急いで確認したが、彼女はごく静かに眠っているだけだった。その寝顔が意外なほど安らかなことに、私は下劣にも安堵した。数日前に下腹部の痛みで暴れるように転げ回っていたと下女に聞いていたにも関わらず、たまたま目にした彼女の寝顔が安らかなことに、私は安堵していた。


 彼女について述べよう。


 今回の大胆な取材を可能にしてくれた彼女は、かつて石季倫の寵愛を受けた美姫だった。西の胡族の、あるしゅうちょうの娘だった彼女は、あるとき大金と引き換えに石季倫に買われた。酋長は正式な嫁入りだと思っていたようだが実際はもちろんちがう。乳姉妹だった刀自とともに金谷邸に入った彼女は麗しく才気にあふれていたので、やがて石季倫に寵愛された。その間に、水車の整備に手抜かりのあった親方をかばったり、泣いてばかりいた閹尹を慰めたりした。そうして三〇になる頃には石季倫に捨てられた。房老に格下げされた彼女に周囲の当たりはきつかった。心身をいちじるしく損ねた彼女は刀自の奮闘も懇願も虚しく、金谷邸から追放された。


 それからのことについて詳しく書くのはただの悪趣味になるだろう。そのような日々の果てに彼女がたどり着いたのがこのあばら屋でありこの肉体なのだと書けば充分だ。私が彼女にたどり着いたとき彼女はもう病んでいて、先の長くないことは誰の目にも明らかだった。


 だからだろう、と私は思っている。あの金谷邸に潜入、しかもただ取材し記録するためだけに潜入したいなどという私の気が触れたような願いを彼女が手伝ってくれたのは。そしてもちろん私も、彼女が死に瀕しているからこそこんな無茶な要求をしたのだ。こんな無茶でも、恐らくは通るだろうと見越して。


 だが何はともあれ、取材はすでに終わった。報告ももはや済んだ。彼女は眠っている。あとはこの記録を完成させるだけだと、私は草稿を手に彼女のあばら屋を出ることにした。


 下女を呼んだ私は彼女に賃金を渡した。足りるだろうかという私の問いに老いた下女は


「足りすぎるくらいで」


 と答えた。


「こんなにもらうほど、長くありませんよ」


私は下女があまり細やかな人物でないことを、自分のことを棚に上げて残念に思った。





 この日の洛陽はよく晴れていた。


 時刻は隅中すぎ、太陽はわずかに傾き、それもあってもうもうとあがる砂埃がよく見えた。この時刻でこんなにも砂埃があがるのは、金持ち高官がこぞって牛車の速さを競争しているからだ。今はちょうど朝廷も終わり、朝廷後の各自の会合も終わり、彼らが帰宅する時間なのだ。その帰り道で、彼らは乗っている牛車の速さなぞを競い合っている。最速の牛車は、もちろん石季倫のものだ。彼はこんなことでも、頂点に立たなければ気が済まないのだ。……


 私は腕を組んで彼女のあばら屋の柱にもたれかかった。この通りから少し離れた区画で、なにか狂騒的な歓声が聞こえてくる。私の鼓膜にはまだ彼女の呼吸の音がはりついている。「ありがとう」という言葉と、言葉にならなかった風音が。


 果たして私に感謝されるいわれなどあるだろうか? 名を残したいという、功名心が動機である私に。


 極めて久しぶりに、こんな問いないし葛藤が頭をよぎった。あの玉玦のかちかちという音も。私はため息をつき首を振ったが、その拍子に砂埃をまともに顔に受け、口に砂が入った。じゃりっと口の中で鳴るこの砂は、あの石季倫の牛車が巻き上げたものかもしれない。そう思うと、私は勢いよく吐き捨てずにはいられなかった。そんなことをしてもどうにもならないとは知りつつも。




 彼女はこの二日後に他界した。刀自に迷惑がかかることを恐れて、また故郷の一族の名を汚すことを恥じて彼女は匿名を強く希望したので、故人の本名は伏せたままにする。最後になったが、ここで改めて感謝と哀悼の意を示す。

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