2-8 楽園での問いかけ
彼女は美しい少女だった。美しいが、まだあどけない少女だ。高級そうな衣裳、ただし主人の頽廃趣味をうかがわせる動きに支障の少なそうな衣裳をまとい、ゆるく結った髪に純金らしい
だれだ、という疑問は閹尹の様子を見てすぐに氷解した。彼はさっと顔を青ざめさせ、すぐさまがばりと平伏したからだ。美姫か、と私にも察しがついた。そして閹尹と同じく血の気が引くのを感じた。繰り返しになるが、主人・石季倫のいない今、金谷邸に君臨する美姫たちはこの楽園の最高権力者だ。しかも儀礼宦官の長である閹尹が四の五の言わずひれ伏したのを見る限り、彼女は相当高位の美姫なのだろう。
背に冷や汗が伝った。私の協力者はこれ以上いない。美姫にもぜひ協力者がほしかったが、それは叶わなかった。彼女は何も知らないはずであり、当然私を疑わしく思っているだろう。完全な異物である私を。
「ねえ、ねえってば。伏せてないで答えてよ」
ころころ鈴が転がるような愛くるしい声で、彼女は私に問いかけた。彼女の腰帯から垂れた
「もうすぐご主人様が帰ってくるのに、お前たちはどうしてこんなところにいるの? ここで何をしているの?」
私は泣いた。
もちろん嘘泣きだ。ただちょうど少女の声がほぼ真上に来たので好機と思ったのだ。私は瞬時につばを両方の下まぶたに盛り付けて涙に偽装した後、顔をあげて盛大な泣き真似をしながら自分の頬を平手でしたたかに、何度も打った。お許しください、お許しください、そう大声で泣き叫び、彼女の足下にひざまずいて許しを乞う。お許しください、お許しください、お許しください……。
「あははっ」
彼女は声を出して笑った。
「上手ね、お前!」
いやな汗が体中から染みてくる。看破された? しかし私にほかに打つ手はない。この許しを乞う宦官の演技を続けるほかない。何かあやまちを犯した場合、こうやって自分を罰しながら許しを乞うのが、宦官の流儀なのだから。
そう判断を下しつつも、私は混乱を感じずにはいられなかった。見破られた? まさか。相手は年端もいかない少女だ。私は半年間、ある元宦官に謝礼を払って、宦官になりきるための訓練を積んだ上で今回の取材に臨んだのだ。屋敷で私に疑いの目を向ける者などだれもいなかった。それなのに、この少女は?
「ふふふ」
少女は笑っていたが、
「もういい。もう充分見たわ、それは。だから、ちょっとこっちに来てよ」
――陣中の銅鑼が一斉突撃を合図するときよりも速く激しく、心臓が脈打っている。私は上体をあげた。にこりと笑う少女と目が合った。彼女は軽快な足音とともに視界から消える。私は観念して立ち上がり、後ろを振り返った。彼女はそこにいる。高楼の
「早く」
私が宦官らしく小股で踏み出すと、彼女は眉をつり上げて不平を言った。
「それはもういいって、言ったじゃない」
ばれている。私は確信した。しかし、だとしたら彼女の目的は何だ? 彼女は、信じがたいことに一人らしかった。供の一人もつけずに我々を追跡し、姿を見せ、話しかけてきた、その目的は一体何だ? 私や閹尹や刀自を告発しないのはなぜだ?
「きれいでしょ」
彼女は私に語りかけた。私はまだ考えていた。
「ちゃんと見てよ」
言われて、私は目をこらしあたりを見渡した。どうする? あたりに人目はない。ここで彼女を突き落として口をふさぐ、という短慮が頭をよぎらないではなかったが、すぐに打ち消した。彼女は美姫のなかでも一級品らしい。さすがに彼女がいなくなれば、石季倫も気付くだろう。それに第一、片付けに割ける時間はない。
「あのね、わたしはここ、好きよ」
私の思考など知らない彼女は、楽しそうに言った。
「わたしはね、感謝してるの。そういう人もね、いるの。わたし、すごい田舎から来たの。この世にこんなにきれいなものがあるって知らずに死んでたわ、きっと、あのままだったら。だから、感謝してるの」
意味がわからない。
彼女はまた、ふふっと笑った。
「両方の人がいるって知っておいたほうがいいんじゃないかと思って。どっちか片方だけ書かれるのって、
私は心臓をつかまれた気がした。
「ねえ、どうして記録なんかしているの? こんなこと。こんなあたりまえのこと、ちっともおもしろくないのに」
私は沈黙を守った。彼女はおもむろに、
「答えて。じゃなきゃ、大声あげるわ」
まさか。あたりに人影など、
「だれもいないふうに見える?」
――いつか当たり前でなくなるからだ。と私は答えた。そしてだれも書いていないからだ。私が生きている間は、私の記録などだれも見向きもしないだろう。しかしいつか、来たるべき時が来る。当然のことが当然でなくなったある時点の未来において、そのとき私の書き残したものは唯一無二の価値を持つ。そうすれば、……
「そうすれば?」
――永久に私の記録は書き写され、世に伝わるだろう。私の名も、また。
「ふうん」
私の告白を聞き終えた彼女は、唇をとがらせた。
「意外とふつうの人なのね、あなた」
いつ以来だろうか。私は羞恥で血が沸くのを感じた。
「でもおもしろかった」
彼女は礼代わりとでもいうようにもう一度私へ微笑むと、また軽やかに走った。どこへ? 高楼を降りる梯子へ。
「教えてあげる。ご主人様、帰ってくるのやめたって。あと、このあたりにはだれもいないから。よかったね」
待ってくれ、と思わず私は彼女を呼び止めていた。呼ばれた彼女はすぐには動きを止めずに梯子を数段降り、頭だけをのぞかせてから私に猶予を与えた。油断も隙もない彼女に問いかける私の声は、自分で驚くほど切羽詰まったものになっていた。
――君の目的はなんだ?
「ひまだったの」
彼女の答えは明快だった。
言うや否や、彼女はあっという間に梯子を降りていった。呆然とする私の手が及ばないところへ、あっという間に逃げ去っていった。
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