2-7 楽園の眺め

「……こっちですよ」


 閹尹えんいんは振り返ったがそう言うとすぐにまた前を向き、私の三歩先を歩いた。


 ここは金谷邸の庭園に広がる移植林の、その奥深くへ続く細道だ。踏み固められてできたらしい自然発生的な裏道を、彼は平服のまま歩いていた。


 周囲に人の気配はまるでしない。よって彼も人目を気にせず、宦官特有の歩きかたではなくごく普通の歩きかたでずんずんと歩いた。すばやく、身軽に、しかし華奢に、あぶなっかしく。彼が普通の人間の歩きかた、つまり長い距離を歩くための歩きかたをほとんど忘れかけていることは一目瞭然だった。とはいえ幼くして、少なくとも声変わりが始まる前に去勢され宦官になったのだろうから、当然のことではある。


 しかしだからこそ、そこまでしてどこへ行くのかという私の問いかけは、彼に黙殺されてしまった。私が黙ってついてくることを彼はかたくなに要求した。彼は顔をゆがめて、「ここであなたの正体をばらしてもいいんですよ」と脅迫さえ口にしたのだ。そこまで言われてしまっては、私もついていくほかなかった。




 刀自と別れたあと、おおむね事前のとり決め通り閹尹と合流した私だったが、彼が案内したのは約束通りの場所ではなかった。


「僕たちお飾り宦官に、たいして見るものなんてありませんから」


 と彼は言った。


「それより、見せたいものがあるんです」


 見せたいものとは何なのか、どこにあるのか、彼は決して口にしなかった。いや、あなたがたいして見るものなどないと、そう言って切り捨てるものを記録するためにここに来たのだと私は訴えたが、そんな私に対して彼が言い放ったのが、正体をばらすぞというあの脅迫だった。


 参ったと思いつつ、私は閹尹の様子をうかがう。


先を行き、顔をうつむき、私に表情を読み取られないようにしている閹尹は、しかしわかりやすく思い詰めた様子で、明らかに何かを打ち明けたがっていた。


 彼の顔は見えなかったが、彼が若者のよく見せる、逼迫や苦悶や焦燥、そして現状への否定と拒絶にあふれた、あの青白くも幼さの抜けきれない顔をしているのはまちがいなかった。彼はそんな何をしでかすかわからないあやうげな気迫を放ちながら私を脅迫し、それでいて私が去ってしまうのではないかと心底おびえ、彼のまだ短い人生でためこんだ積年の思いを告白したがっていて、そして年相応に甘かった。


 たとえば、背後にいる私が足音を静め、やがてひそかに立ち止まり、数歩後ずさり、そしてくるりと向きを変えて逆走し、脱兎の如く逃げ出してしまうかもしれないとは、彼は考えもつかないのだ。私を確実に見張るという考えもなく、彼は自分の顔を隠すこと、陰鬱な物思いに沈んでしまうこと、そして早く目的の場所に着くことばかりを考えている様子だった。どうしようもなく彼は甘かった。


 さてめんどうになったと思いつつも、そのじつ私はすでに屈していた。彼の脅迫にというよりは、自分のなかの好奇心にだ。中華九州に並ぶ者なき大富豪・石季倫が築いた、金谷邸。ここの住人である閹尹が何を語るのか、私は大いに興味をそそられていた。


 もちろん若者の苦悩やその告白など、どれもありふれていて似たり寄ったりで、改めて記録すべき物であるかどうか、私は大いに疑問を覚える。しかし重ねて言うが、閹尹はこの金ぴかの楽園の住人なのだ。これだけ特殊な経歴を持つ彼であればその告白にもなにがしかの特異性が認められるにちがいなく、ならば是非とも取材し記録したいものだと、私は好奇心を旺盛にしていた。


 ひらけた場所に出た。


 広い湖があり、そして湖から吹き上がる涼風を楽しむためのこうろうがある。高楼はまだ新しいらしく、白木の柱は切り出した、削り出したままの鮮やかな木目を、塗り隠されることもなく浮かべたままだった。新しいというよりはまだ未完成なのだろう。石季倫に白木の木目を楽しむような、つつましい趣味はありそうにない。


「……こちらのはまだ建設途中で、」


 閹尹は聞かれてもいないのにそう教えてくれた。いよいよ沈黙に耐えきれなくなったのか、あるいは私を無理矢理に連れてきたことにいまさら呵責を感じたのか。どちらにせよ彼はそんな言動をとった自分を一瞬後に恥じたらしく、唇をきっと結び、高楼を登るよう私に顎で命じた。


 特に抵抗する気もなかった私は、しかし彼がおそらくは考えているとおり、少しの不満や不安を示した。彼に疑心を持たれないようにするためだ。私が高楼のはしごを登りはじめると、ようやく閹尹は私を背後から見張ることを思いついたらしい。彼が後からはしごを登っている気配を感じながら、私は黙々と高楼を登った。


 たどり着いた高楼の最上階からは、あたりの景色がよく見えた。


 ここから展望すると湖がきんこくすいの流れの一部をせき止めてできた人工湖だということがよくわかる。かなり大がかりな土木工事だったにちがいなく、一体どれぐらいの工夫こうふや資材を使ったのだろう。これを個人で施工した石季倫の財力に改めて舌を巻きながら、私はここからの眺めを帰ってから地図に起こすべく、欄干に手をかけやや身を乗り出し気味に、あたりを注意深く観察した。


「……壮観だ、なんて思っているんですか?」


 軽蔑と敵意に満ち満ちた声が飛んでくる。発したのはもちろん閹尹だ。


「いい景色だ、立派だ、すごい、きれいだ、そう思うんですか? あなたも」


 いや、と私は振り返って答えた。ただこれも記録したいから、よく見て覚えておこうとしていただけなのだと。


「……ふん」


 閹尹は鼻を鳴らした。私をぎんと睨みつける彼が何かを言い出そうとして、まだ躊躇していることは明白だった。私は待ったが事態は動きそうにない。私たちが屋敷を抜け出してかなり時間もたったはずだ、彼に少し働きかけてみようかと思い始めたそのとき、閹尹はやっと口を開いた。


「僕の家は、商売をやっていました」


 と彼は私の予想通り、自分の身の上話を始めた。


「それなりに儲かっていました。次兄に学問をやらせて、小役人にしてみたりするぐらいには」


 閹尹は私から顔をそむけ、あらぬところを睨みながら話をつづけた。


「商品を運んで、遠方で売って、またそこの特産物を買い入れて、ちがった場所で売る。それをくり返すような、ありふれた商売をしていました。移動すれば山賊に襲われたりしましたが、それでもうまくやっていました。商売がだめになるほどひどくやられたことはなかった。俺は運がいいんだというのが、父の自慢で……」


 そこで閹尹は、はっとあざ笑った。


「何が運がいいもんか。たまたまけいしゅうを通りがかったとき、そのときのがあの……せきすうだったんですから」


 なるほど、と私は思った。だいたいの事情は飲み込めた。石崇。自分の主人である石季倫のことをいみなでののしった閹尹は、その大胆不敵な行為の反動からなのか、深い息をついていた。


 歴史書に詳しい伝記を譲るとしても、ここでも石季倫その人についてある程度書いておくべきだろう。


 石季倫。彼の家柄は、立派の一言に尽きる。何せ彼の父であるせきだいはわがしん王朝の成立に多大な貢献を果たしたげんくんであり、その功績によって臣の最高の名誉のひとつであるだいとなった人物だ。その末子である石季倫はもちろん父の死去の際に莫大な遺産を、受け継いでいない。老いてもなお慧眼に衰えのなかった偉大なる石大司馬は、石季倫に銭の一枚、はくの一端すら与えなかった。自分で稼ぐだろうから、というのがその理由だ。石大司馬はまだ成人してそこそこの、何も為していない石季倫が、しかし金儲けに対して規格外の才能を持っていることをすでに見抜いていたのだ。


 どんな資産家であろうと、元手がないのであればいわゆる「一発当てる」ことからそのしょくの道は始まる。石季倫の場合はどうかというと、けいしゅうになったことがまさにそれだった。


 けいしゅうといえば、交通の要所のなかの要所だ。あのさんごくていりつの時代においては、一時は三国それぞれが三分して占拠するに至った紛争地でもある。この物資と人間の一大集積地である荊州、その地方長官であるに、石季倫は家柄と人脈と才覚によって就任した。そして通行権や交易権といった刺史が持つ大権をらんようし、往来する商人や使者の上前をぞんぶんにねた。その度合いは掠奪に等しいもので、見る間に私財を増やした石季倫はあっという間に資産家の仲間入りを果たしたのだ。職権濫用の咎は、もちろん大金でもみ消しておいてから。


 閹尹の父はそんな石季倫によって破滅させられた、数え切れない被害者のひとりらしい。


「困窮した父は……僕に目をつけました。顔がよかったから。僕だけだったんですよ、父が金で囲っためかけの、その顔の良さを引き継いだのは、僕だけだったんです。だから売られました。僕をこんなにしたのは、父です。売値をあげるためにね。肉切り包丁でどすん、ですよ。それで売られて、転売されて、たどりついたのがあのせき……の別荘だなんてね、本当に、ひどいと思いませんか」


 私は黙ってうなずいた。


「死のうと思った。殺そうと思った。でも、あのひとがいたから、」


 手を挙げて、私は彼を制した。


「……何ですか」


 躊躇がようやく陶酔に変わってきたらしい閹尹は、佳境にさしかかった話の腰を折られて、実にうらめし気に私を見た。だが私にははっきりさせなければならないことがある。


 閹尹に睨まれながら、なぜ今ここでそんな話をするのか私は聞いた。お互いの身の安全のため、互いに深入りをしないこと、必要最低以上の素性を明かさないこと。これらが今回の「協力者」たちと私があらかじめ交わした約束だ。それなのに、あなたはなぜ、あえて約束を破るのか。その意図は果たしてなんなのか?


「はんっ」


 閹尹は嘲笑し、


「だれにも危険なんて及びようもないからですよ」


 とおおむね私の予想の範疇の返事をよこした。私は彼自身の口からその言葉を聞きたかっただけなのだが、彼はもとの話に戻ろうとはせず、その饒舌はまた別の打ち明け話を始めた。


「僕が素性を話そうが、僕が元々どこのだれなのか、わかってしまったところで何ともないからですよ。僕の家族は死にました。全員。僕の金でまた商売を起こして、失敗して、破産して、一家総出で首吊りです。地元じゃ有名な話だって、教えてくれたんですよ、後輩が。僕と同郷のやつが、たまたま後から入ってきて」


 語末の湿った響きを、彼はけらけらと笑って打ち消した。


「馬鹿ですよ。馬鹿な連中でしたよ。僕のほうがよっぽど利口じゃないですか。だって、僕は長にまで登りつめてやったんですから! 長ですよ、長。僕には自分の手足よりもこき使える部下が何人もいるんです。宦官、宦官とはいえね、僕は長だ! 鶏口牛後なんて、あなたにはわざわざ言わなくてもいいですよね? 顔だけで頂点に立てるほど、宦官の世界だって甘くはないんだってことも!」


 彼は息巻くと、ふいに喧嘩でもふっかけたがっているかのように、その青白く血管の浮き出た拳を挑発的に振り上げて、


「別にね、あんなのなくたって、困りはしないんですよ。どうせあったって、使う機会なんてありはしないんですから! 貧乏だった僕だけじゃない。うだつの上がらない、変人奇人のあなただって!」


 私は肩をすくめた。確かに「機会」など存在しないだろう。貧困は常に結婚をあきらめさせる主要な要因であり、私のほうについても、まあ、ありはしない。


 さて、閹尹にさんざん挑発され馬鹿にされたが、特に怒りやそのほかの感情はわいてこなかった。彼のありとあらゆる言動や態度は、今のも、そして今までのも、すべて虚勢であることが、今や間違いようもなかったからだ。目の前で肩を上下させている彼はすでに、泣き出していた。


 さらにまた、彼が虚勢を張れる唯一の根拠であるらしい「お飾り宦官の長」という地位にしても、あと数年のうちに彼の掌から砂のようにこぼれ落ちてしまうことは確実なのだ。宦官の肉体にはやがて、去勢された動物と同じ変化が現れ始める。つまり、ぶくぶくと太りだすのだ。閹尹もその天命から逃れられはしないだろう。その白く細く長い首、小ぶりな顎は、膨らみたるみ、贅肉の段々が何段もできるだろう。柳のような細腰は丸太のように巨大化し、突き出た腹で自分の足下すら見ることも叶わなくなるだろう。鹿のようなその両足は、燻製にするために天井から吊された豚のそれにそっくりになるにちがいない。繊細な銀細工のような指先が、かつての形容が趣味の悪い戯れ言に聞こえるほどの図太さを帯びることも確かだ。


 そんなふうに水太りした後、彼ら宦官は破裂してしまったかのようにしぼんでいき、最終的にはしわくちゃに折りたたまれた皮の塊と化す。その小さな体の命がつきてしまっても看取る子供たちなど当然おらず、葬儀は仲間の宦官同士の間でひっそりと営まれる。彼らのあげる慟哭の声は、かなり痛ましい。なぜなら彼らの声はみな、市場でよく聞けるどら声、声を張り上げて客を呼び込み、そうして得たわずかな金でこうしのぎ、そのようにして何日も何年も生き延びてきた老女たちとそっくりになるからだ。


 それが閹尹はじめ宦官たちに降りかかる宿命であり、訪れる人生だ。もちろん皇帝をたぶらかし、世の乱れの原因となった宦官もいる。ちょうこうこうきょうせきけんちょうじょうちょうちゅう、最近ではこうこうなど、世に知られた宦官は悪党ばかりだ。しかし世に知られない大多数の宦官はこうして生きて死ぬのであり、個人的には同情こそすれ、彼らに対して怒りを覚えることはなかなか難しい。


「ねえ、記録してくださいよ」


 閹尹は泣き笑いしながら言った。自覚があるかは不明だが、その口ぶりはすがるようなものになっていた。


「あのせき……せきすうは、こんなにひどいやつなんです。それをしっかり、記録してくださいよ。じゃなきゃ僕が、僕がまだ生きている甲斐なんて、」


 そこで大きな吃逆さくりが、閹尹の口から飛び出た。彼は言うことを聞かない肺の奥、そこで激しく動く部分を押さえつけながら、


「どうして、あなたなんだ」


 と私を問い詰めた。


「なんであのひとは、あなたを。僕のことは、何か言っていませんでしたか? 一言でもいいんです」


 私は首を横に振った。彼女はほとんど何も語らなかった。私が取材する上で必要な情報を教えてくれただけだった。この青年に何も伝えることがないことを、私としてもとても残念に思った。閹尹の癇癪がついに爆発したからだ。彼はうめいて地団駄を踏むと、鬼気迫る形相で私につめよってきた。


「渡してください。あの女に」


 閹尹は袖から取り出した何かを握り、私に押しつけてきた。どうやら手紙らしかったが、私は無理だと答えた。荷物は門で厳しく点検される。ここから何かを持ち出すのは非常に危険だ。


「できるでしょう!」


 しかし閹尹はあきらめなかった。むしろ私の言葉に底意地の悪さでも感じたのか、さらに殺気だって私につかみかかってきた。


「この檻の中へ入ってこれたあなたなら、できるはずだ! 無理だと思ったのに、冗談だと思ってたのに、あなたは本当にここへ来た! こんな馬鹿げたことができるあなたなら、これぐらいできるはずだ、できないはずがないんだ!!」


 閹尹は必死だったが、その細腕の力はたいしたことない。彼に胸ぐらをつかまれたところで、踏ん張ってしまえば私の上体は揺らぎもしなかった。大人と子供の喧嘩だと私は思った。しかも彼は、成熟する道を永遠に閉ざされてしまった子供だ。圧倒的な力の差を前にして、閹尹はますます泣いた。もはやつかみかかった理由すら忘れているのだろう。子供なのだ。


 私はしばらく彼の好きなようにさせておくことにした。彼の体力はすぐにつきるだろうし、ここで疲れさせておけば少しはおとなしくなるだろうと踏んでいたからだ。さらにまた、私はどうやって彼に手紙の配達をあきらめさせるか考えなければならなかったし、それに何より彼に同情していた。ここですぐに彼をねじ伏せてしまうのは、あまりに哀れに思われた。つまり私はうかつにも、頭の中を今起きていること以外のものでいっぱいにしてしまっていたのだ。


 だからだろう。私は高楼を登る、新しい足音にまったく気がつけなかった。彼女の存在に気がついたのは、彼女が高楼を登り切ってしまった後、そのやわらかな声を聞いてからだった。


「ねえお前たち、ここで何をしているの?」

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