2-5 楽園の存在意義

 ここで断っておかなければならないことがある。


 刀自と閹尹をそれぞれ婢女や宦官の長と紹介したが、彼らは婢女や宦官の、唯一の長というわけではない。すでに述べたが金谷邸はとてつもなく広く、奉仕している人々も大勢で、誰か一人がとうかつできる規模をはるかに超えてしまっているからだ。


 だから金谷邸には何本かの目に見えない境界線が引かれ、いくつかの管轄区に分かれている。刀自と閹尹はある同じ管轄区を受け持ち、そこでさらに細分化された人々――美姫の世話をする婢女ひじょである房老ぼうろう、宴などで主人の側近くに仕えること許された儀礼的な宦官――の長の一人に過ぎない。刀自の言う”シマ”とは彼女の管轄区のことだ。


 しかし石季倫がここまで使用人たちを細分化するのには、屋敷の広大さ以外に理由がある。ある背信事件が起きたせいだ。


 その事件は今回の取材の本筋にはあまり関係のないものだし、あまりに有名な話であるから、私がここで書く意義は薄いかもしれない。しかし時の風化のなかで、何が消え何が残るのかは誰にもわからない。冗長になるかもしれないことを承知の上で、私もここに記録しておこう。


 かつては石季倫も、家政を取り仕切るさいを置いていた。しかしこの家宰は買収に応じ、せきの家政の秘密を漏洩した。買収したのは、もちろん王君夫だ。石季倫に激しい対抗心を燃やす彼は、石季倫が起こしていたある奇跡のからくりを明らかにするために、巨額の金を積んで家宰に暴露させたのだ。


 石季倫が起こしていた奇跡とは、こうだ。


 一つはまめがゆ。石季倫は来客によく豆粥をふるまった。この豆粥はよく煮た豆がはいっていて、いつ来客があってもすぐに出てくる上いつでも出来たてだった。言うまでもなく、粥だけならともかく豆はとても煮えにくいので、来客があってから煮立て始めては絶対に間に合わない。ましてや今にも崩れるほどのおいしい煮豆にするには、長時間煮る必要があるはずだ。それなのに石季倫は常に涼しい顔で、突然の来客にも出来たての豆粥をふるまってみせた。


 もう一つは韭蓱虀きゅうへいせいだ。韭蓱虀はにらうきぐさあえものだが、にらはなんとかなるものの、水中でとれるうきぐさを厚い氷の張ってしまう冬に手に入れることは不可能だ。だから韭蓱虀を食べられるのはせいぜい秋の初め頃までのはずだが、しかし石季倫の元を訪れれば、冬でも韭蓱虀きゅうへいせいでもてなされる。まるで石季倫の元には冬など来ていないように。


 石季倫に自分のほうが格上だと世間に見せつけたい王君夫は、しかし、この石季倫の二つの奇跡をうらやましがりせっやくわんというあり様だったらしい。そこで彼は石季倫の家宰を買収したというわけだ。


 王君夫の提示した金額に目がくらんだ家宰は、奇跡のからくりをすべて暴露した。


 豆粥は、常に釜をたいて豆を煮立てておき、来客があったら急いで白粥をつくって、そこに放りこむだけ。冬に出てくる韭蓱虀のほうは、実はうきぐさはいっていない。叩き砕いて煮えやすくしたにらの根に麦芽を加えて、いかにも蓱っぽく見せているだけなのだと。


 こうしてすぐに出てくる豆粥も、冬でも出てくる韭蓱虀も、石季倫だけが起こせる奇跡ではなくなってしまった。


 石季倫が王君夫も奇跡を起こし始めたことに気がついたとき、つまり仲間内での格付けにおいて王君夫に追随を許したとき、彼は激怒した。激怒して、徹底的に調べ上げ、情報漏洩元が家宰であることを知ると、彼を八つ裂きにして殺してしまった。それ以来、石季倫は家政の全容を知る家宰を置いていない。


 ある背信事件。その事件の顛末は、以上の通りだ。


 聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、愚かで下らないとしか言い様がない。だが彼らの間では、つまり由緒正しい血統のもとに生まれ、金持ちで、高官で、朝廷の中枢にあって政治を動かしている彼らの間では、こういった下らない事々が一番に優先すべきことであり、誰彼問わず血道を上げていることなのだ。仲間内での自分のめんを、莫大な浪費によって保つことが。


 この金谷邸にしても、そのうちのひとつに過ぎない。ここは石季倫の考える安逸な避難場所であり、彼の美的感覚をもって作り上げた楽園であるが、何よりも世間に見せつけるための金ぴかであり、同輩からの尊敬を勝ち取るための巨大なげんてき消費なのだ。

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