2-4 楽園の対抗者

「打ち合わせ通り、僕や刀自が直接教育をしている新入りのかんがん、というていでいきますから」


 私の顔に白粉をはたきつけながら「閹尹えんいん」は言った。


「あなたも精々それらしくしてくださいよ。馬脚を現してもかばってやるなんて、僕は口が裂けても約束しませんからね」


 わかっている、とはちょうど白粉が口周りに塗られていたので答えられなかったが、もちろんそのつもりだった。協力者には自分の身を第一に考えてもらいたい。


「ふん」


 白粉を塗り終えられた私がそう答えると、閹尹は鼻で笑った。


 冷ややかな彼は、まだ若い美しい宦官だ。彼の見た目は美男というよりも、勝ち気な年頃の娘が男装しているようにしか見えない。声も少女のように高いままで、変声していなかった。きっと幼くして去勢されたのだろう。


 彼曰く、石季倫は婢女に対してそうであるように宦官も二種類に分類しているらしい。つまり若くて美しい宦官と、そうではない宦官とに。前者は宴など表に顔をだす場所での雑役を専らこなし、後者は裏の、閹尹曰く「もっと汚い仕事」に従事させられるのだという。彼は表に立つほうの宦官の長だった。そして私もまた表の宦官の新入りとして、彼や刀自について屋敷の内部の実情を取材する予定、だった。


――金谷邸の主人・石季倫が、今にも帰ってこようとしている。


 この予定外の知らせが屋敷に届いたとき、屋敷の中への潜入を手伝ってくれる刀自と閹尹は、親方たちと一緒にいるであろう私になんとか知らせようとしてくれたらしい。


 しかし秘密の伝言、「緊急事態発生、タダチニ中止サレタシ」、そういった意味を持つ暗号はあらかじめ決めてあったものの、わけもわからずこれを伝えるように命令された閹尹の部下と私は、入れ違いになってしまったようなのだ。


 今からでもここを脱出したほうがいいのではないだろうか? 私の問いに、「できるのならもうしてますよ」と閹尹は嘲笑を隠さずに言った。


 詳細は伏せるが、私が使った経路は帰ってきた主人をもてなす準備のために大いに使われる、少々特殊な裏口であり、経路であるらしい。その「準備」をする者も特殊な者たちであり、私が彼らに扮してまたそこから脱出するというのは、どう考えても不可能であるらしい。


 では他の裏口から、と言う私の言葉を閹尹はさえぎった。帰ってきた石季倫が何をするかで、どの裏口や経路が閑散とするかは変わる。しかし石季倫がこの屋敷に帰って何をするのか、それは石季倫本人にしか、あるいは石季倫本人にもわからない。


 なぜならこんなふうに予定を急遽変更して金谷邸に帰ってくるのは決まって何か不快なことが起こった日であり、石季倫はいつもにも増して気ままになるからだ。何を所望し出すかわかったものではないし、だから全ての準備をする必要がある。石季倫が何に興じるのかはっきりするまでは、予定通り宦官のふりをしてここに潜んでいるほかない。


「それに、あなたにはかえって都合がいいかもしれませんよ」


 と閹尹は言った。


「屋敷は大騒ぎです。あなたに気を止める余裕なんて今は誰にもないでしょうから、あなたがいることに気づきもしないかもしれない。よかったですね」


 それはよかったと私は返して、ところでと聞いた。この屋敷のすべての壁に花椒が塗りこめられているというのは、本当だろうか?


「ええ。今だってかすかに匂うでしょう?」


 と閹尹は言った。いかにも純度の高いえんぱくを含んでいそうな、真っ白で高級そうな白粉をあまり吸い込まないよう注意して鼻を動かすと、閹尹の言うとおりうっすら花椒の香りがした。


「最初は洛陽の屋敷だけだったみたいですけどね。あのおうくんがいつものように競って、自分の屋敷の壁にせきせきなんて塗り込んだものですから、どちらが上かはっきりさせようとしたみたいですよ。金谷邸ほどの規模の屋敷は、王君夫は持ってないですし」


 閹尹は無関心そうに言った。


「まあ、いつものことです」


 私はまた目眩がしてきた。


 頽廃し軽佻浮薄が極まる今の時代、大金持ちの高官たちはこぞって贅の限りを尽くすばかりではなく、贅沢の度合いを競争するありさまだ。その中にあって石季倫は飛び抜けた、負け知らずの大富豪だが、しかし張り合おうとする連中は後を絶たない。その最たる人物が王君夫だ。


 おうくんは、嘆かわしいことに、きんじょうへいの母方の叔父にあたる。陛下をお支えすべきがいせきの身でありながら、彼は石季倫に贅沢・浪費の面で勝つのが自分の責務だと思いこんでいるらしく、事あるごとに石季倫と競っている。


 例えば、王君夫が乾飯ほしいいを燃やして釜をたいてみせれば、石季倫は対抗して飴を燃やした火で米をたいてみせる。碧緑へきりょく色の綾織物を裏地にした紫のまんまくを道に張り巡らせ、これは四〇里もあると王君夫が自慢すれば、石季倫は矢も防ぐ絹織物の最高級品・錦だけでできた幔幕を五〇里ぶん作らせたと聞く。


 そして今度は、せきせき。私も実際に見たことはまだないのだが、確か黄河の下流に合流するせいすい、その南にあるせいなんの地や、ちょうこう以南のぐんで産出される石の一種であったはずだ。長い間風雨にさらされるとこの石は赤くなり、やがてやに状になるという。しゃけつなどの際に使われる止血剤の材料であり、言うまでもなく貴重で高価な代物だ。


 王君夫はこの赤石脂を壁に塗ったというのだ。石季倫に自分の優位を見せたいがために、彼は貴重な薬の材料を大量に浪費したのだ。そして石季倫はその王君夫に自分が格上であることを知らしめるためだけに、さらに花椒を浪費したというわけだ。もちろん花椒も香辛料であるだけでなく薬にもなるし、果たして石季倫の浪費した量があれば幾人の命を救えただろうかと、虚しくも考えたくなる。


 石季倫と王君夫。


 言うまでもないことだが、彼らがやっているのはどれもこれも途方もない話だ。もし私が順調に仕官し、出世し、働けたとして、そうして得た一生ぶんの収入の実に何百倍もの財産を、彼らはただただ見栄のために一瞬で吹き飛ばして、平然としている。そうした競争を、彼らは飽きることなく繰り返しているのだ。それが今の朝廷を占める大部分の者たちがしていることなのだ。


 あまりにも嘆かわしいが、これが私たちの時代だ。それにしても、宮中の、椒房の風習をまねるなど、言語道断ではないか。石季倫は陛下も朝廷も、敬うどころか畏れてすらいないのか。なんたる紊乱びんらんだろうか。髪を宦官風に結ってもらいながら私は閹尹に息巻いたが、そんな私に、彼は薄い唇をつりあげて冷笑を浴びせた。


「へー」


 と彼は私の髪を必要以上に引っぱりながら言った。


「そこに憤るなんて、腐っても士大夫崩れなんですね。でもはくしゅくせいになりたいんだったら、山に行って山菜でも食べていたらどうですか。こんなところに来てないで」


 ……彼から絶え間なくぶつけられる冷笑的な、敵意に近い空気に、さすがに私も黙りこんだ。彼はどうして私の取材に協力を申しこんでくれたのだろうか。余計な詮索だが、そう考えずにはいられなかった。


「さあ、終わりましたよ」


 閹尹がそう言うまで、異様に長く感じられる苦痛な時間が続いた。私が立ち上がると閹尹はさっそく私の立ち振る舞いに文句をつけた。


「そんなにまっすぐ立って歩いたりしないでくださいよ。あなたは今、宦官なんですから」


 私が事前の練習通り、少し前かがみになってちょこちょこと小股で歩く彼ら宦官特有の歩き方をしてみせると、閹尹は苦虫をかみつぶしたような顔をした。


「僕の前でやらなくたって結構ですよ。主人たちの前でやる動作ですから、それは」


 だがあなたに対してもすべきことではないのか、と私は言った。宦官の長たる、あなたにも。


「ええ、そうですよ。まったく、胸くそ悪いな」


 そう理不尽な苦情をつける閹尹と宦官の控え室を出て、私たちはごく自然な様子で廊下を歩いた。すれ違う婢女や宦官は小走りに、閹尹へ軽く一礼しながら通り過ぎていく。閹尹はそんな彼らを無視したりたまには礼を返したりしながら、迷路のような屋敷を迷いなく、ある場所に向かって一直線に進んでいるようだった。


 閹尹が目指していた場所には、すでに刀自が待っていた。彼らは互いに軽くうなずき合って合図すると、刀自について行くよう、視線で私に指示を出した。私が宦官たちのする大げさ気味な拝礼をすると、閹尹は小さく舌打ちをして、また屋敷のどこかへ歩き去って行った。


「どこで覚えたんだい、それ?」


 刀自があきれ顔で私に聞く。取材の準備にはいつも万全を期しているのだと私が答えると、刀自は「よくやるよ」とぼやき、短くため息をつくと歩き出した。


「あたしの”シマ”を案内するよ。しっかり目に焼き付けて、記録しておくれ」

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