やりなおし.3
どかっ、と重いものが落ちる感じがあって、気がつくとそこは、お洒落めな内装のバーだった。
横を見ると、落ちたのは物ではなく、人だったのだと理解する。同僚が勢いよく椅子に座ったようだ。
「いやー、参った参った」
「どうしたん」
「いや、トイレの後に部長たちに捕まっててさ」
奥を見ると、部長や常務が集まって座っているテーブルがある。
「よく抜けてこられたな」
「課長が代わりに入ってくれてさ、助かったよ」
「それは何より」
テーブルの端の席で、せめてもの華となっている課長がいた。同僚はさっきまでそこに居たということだろう。
一回り以上歳の離れている部長たちに比べ、課長は俺とも片手で数えるほどしか歳は変わらず、年齢から考えても綺麗な人だ。バーの淡い照明の中でも、整った目鼻立ちが見て取れる。
「いやあしかし。課長が課長で良かったよな。仕事は出来るのにえらそうにしないし。ヒラの立場や考えもちゃんとわかってくれるし」
「そうだなぁ」
お互いに少し酔いが回っているのか、言葉が軽い。
「ま、家庭のほうは大変みたいだけど」
だから、こんな発言も出てきてしまう。
「……家庭?」
「知らんか。あー、まあ、うん」
グラスを傾けつつ、同僚はちょっと罰が悪そうに声を落とす。
「旦那さんと、うまくいってないらしい。というか、もう何日も帰ってきてないとか」
「……へえ」
俺も、残っていたグラスのカクテルに口をつける。溶けた氷で薄まって、なんとも味気なかった。
飲み会が終わり、三々五々に人が散って行く。週末といえど、ここからさらに別の店に行くほど元気ではない俺は、駅のほうに足を向けていた。
「お、お客さん、大丈夫ですか?」
途中、ロータリーから雑踏に混じって慌てた声が聞こえ、振り向く。
開いたタクシーのドアの前で、女性がへたりこんでいた。
課長だった。
「すみません、知り合いです!」
駆け寄って声をかけると、あたふたしていたタクシーの運転手が、目に見えて安堵した表情になる。
課長を抱え上げてシートに座らせ、運転手に待っていてもらいつつ、すぐ側のコンビニに入って水を買って戻る。さすがに放っておけないので、俺も同乗した。
幸い、課長も会話が出来る程度には意識がはっきりしていた。住所を運転手に伝えてもらい、車が動き出す。
「ごめんなさいね……」
渡したペットボトルの水を一口飲んでから、課長が零れるように話す。
「いいですよ。部長たちにしこたま飲まされたんでしょう」
俺も入社間もない頃に経験した。あの人たちは悪気はないのだが容赦がない。俺より長く勤めている課長も、それぐらいはわかっているはずなのだが。
「飲みすぎちゃったみたい、ね。これぐらい平気だと思ったんだけど……」
「まあ、体調とかコンディションもありますし」
気落ちしているのか、情けなく感じているのか。
内心の程はわからないが、普段は直線的と言うか、ぴしっとしている課長が、糸が切れたようにシートにもたれかかっている。髪も少し乱れていて、顔も少し赤い。それが色っぽく見えてしまったことが後ろめたくて、目を背けた。
いくら視線を外しても、課長がそんな姿になってしまっていることと、同僚から聞いた話と、結びつきを意識せずにはいられなかった。
何と声をかけていいかわからず、課長からも何か話すことはなく、二十分ほどで、タクシーは課長の家の前に到着した。
静かな住宅街の中で、割りと大きな一軒家で、すっかり夜も更けているが、真っ暗だった。
俺の座っている側のドアを開けてもらい、課長に肩を貸す。家のドアの前で、課長は迷うことなく、片手で鞄の中から鍵を取り出す。家に人がいる可能性など、まったく考えにない動きだった。
玄関の照明をつけると、課長は多少揺れてはいるものの、しっかりした足取りで一、二歩進み、座り込んだ。
自分で動けそうなことに安堵し、軽く息をつく。
「お疲れ様です。では、俺はこれで」
背を向けた俺の手に、指が絡められた。
振り返ると、ほのかに赤い顔が、潤んだように見える瞳が、俺を見上げていて、
「……上がっていく?」
小さく指に込められる力に、胸の中まで締め付けられたようだった。
こんな。
こんな誘い、”受けられるはずがない”。
「――いいえ」
なるべく丁寧に。
俺は絡められた指を振りほどく。
「帰らないと、いけません」
言い聞かせるようにして、微笑む。
優しさではなく、仕事の一環であるかのように、礼儀正しく。
詰まった胸で、小さくしか吸えない息を鼻から入れて、俺は改めて背を向ける。
「待って」
二度目の引止めに。
何と返すべきか一瞬、考えているうちに、手に握らされたのは高額紙幣だった。
「……タクシー代」
「あ、いえ、そんな」
ゆっくりと、課長は首を横に振り、
「それぐらいは、格好つけさせて」
綺麗な笑顔を、俺に向けた。
俺のよく知っている、美人で仕事の出来る課長の姿だった。
「……はい」
上司の命令では、受けないわけにはいかなかった。
タクシーは俺を乗せて、住宅街を抜け、車のライトが交差する国道に出た。
緩やかな眠気に襲われ、俺は眠りに落ちていく。
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