やりなおし.1

「お、っと」


 前につんのめりそうになって、慌てて踏みとどまる。


「ふふ、大丈夫?」


「あ、はい。大丈夫です……先輩」


 少しぼーっとしていたようだ。暖かくなってきたからだろうか。

 空は青く、ゆっくりと雲が進んでいた。


「もう、しっかりしないとね。次は3年生なんだから」


「……はい」


 高校2年生を終えようとしている俺と、卒業証書を手に持つ先輩。

 登校頻度の減っていた先輩だが、今日、ついに、先輩はこの高校を卒業する。


「部活、後の事よろしくね」


「もう、ほとんど誰も来やしませんよ」


 ほとんど、というのはせめてものオブラートに包んだ言い方で、この半年ほど、他の部員は誰も出ていない。元々頭数で入ってくれただけの人もいるし、掛け持ちで別の部活がメインの人もいる。それぞれがそれぞれ事情があった。


 結果的に、頻繁に出席する先輩とは、たくさんの同じ時間を過ごした。

 明確な活動も少ない部活で、今になってみれば、何をして過ごしたかなんてほとんど覚えちゃいない。他愛のないことを話して笑いあったり、本の貸し借りをしたり。完全下校時間まで文庫本のページをめくる先輩の姿は、とても静かで綺麗だったことは鮮明にイメージにある。


 楽しかった。


 先輩は、楽しんでくれていただろうか。


「そうだねえ、ふふ」


 ああ、そうだ。この笑顔だ。


 いつだって、先輩はこの笑顔を俺に向けてくれていた。


 自分だけが特別、と思い上がるほど馬鹿ではない。先輩は誰に対しても人当たりがよく、素敵な人だ。けど、その笑顔の多くを自分が受け止めていた自負がある。


 それも、今日までだ。


「あ……」


 それに気付くとめまいがした。


 このままでいいのか。

 部活に使っていた家庭科室に足を運んでくれたのだって、割りと不思議なぐらいだ。用が済めば、先輩は卒業して行ってしまう。


 もう、会えなくなる。


「せ、先輩」


「ん?」


 窓から外を見ていた先輩が振り返る。


「そ……」


 何を言うつもりだ。


 落ち着け、変なことを言うな。先輩の卒業に水を差すな。

 卒業おめでとうございます、これからもがんばってください、それだけでいい。今言おうとしていることは、きっと先輩を困らせる。


「卒業、」


 だって、"言わなかった"じゃないか。


「――しても、」


 言いたい。


「俺と、会ってくれませんか。付き合って、ください」


 言った。


 先輩は、大きく目を開いて驚いて。

 少し、眉を寄せた。


(――あ)


 後悔が押し寄せる。


 させてはいけない顔をさせてしまった。よりによってこんな日に。今まで逃げて逃げて逃げて来たのに。ここに来て、どうして。明るく見送るだけでよかったはずなのに、傷つく必要も傷つける必要もなかったはずなのに。


 ふ、と先輩の顔に柔らかな笑みが戻った。


「いいよ」


「……え」


 からからになっていた喉がぐっと詰まる。飲み込めない。唾を、空気を、返された言葉を。


「これからもよろしくね」


 そんな俺の何もかもを、先輩が包んでくれる気がした。





 県外の大学に行った先輩とは、頻繁に会えるものではなかった。その分メールは毎日何度も送りあった。


 先輩の大学に行くためには、自分の学力ではかなり頑張らないと難しい。人が変わったように勉強に打ち込んだ。成績はぐんぐんと伸び……るほど頭の出来はよくなかったが、それでも着実に成果は出た。代わりに、人の増えなかった部活は活動休止になったが。


 先輩のメールからは、思いやりと、大学生活の楽しさがあふれていた。

 俺も先輩といっしょに、それを味わいたい。その一心で勉強に取り組み、そして――念願の、合格を勝ち取った。


「四月からはまたいっしょに通えるね」


 そう言ってくれる先輩と、ともに過ごすキャンパスライフ。


 期待に胸を躍らせた俺を待っていたのは。

 先輩の、俺の知らない一年の間に育まれた、俺の知らない人間関係。

 会う人誰もが、俺なんかよりずっと上等な人間に見えて。


 ……不実なことはなかったのだと思う。


 先輩は、誰に対しても明るく、優しく、ノリもよくって。

 誰からも愛される人で。


 ただ、俺が、そんな中で飛び抜けて先輩の特別でいられなかっただけで。


 どんどん先へ行く先輩に、追いつけなかっただけで。


 会う回数も、メールの回数も段々と減り、卒業を待たずして、俺は先輩の側から身を引いた。


 俺の知らないところででも、きっと笑っていてほしい。



 意識が、闇へ。

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