天国地獄に行く前に
風谷閣下
序
「落としましたよ!」
叫ばれる前に、振り払われる前に。絞り出した声は最後がかすれていた。
びくっと振り返った女性は、幸いすぐに俺の持つカードケースに気づいたようで、あ、とわずかに声を漏らす。
俺はそれ以上言うこともないので、カードケースを差し出した。
トップに見えるICカードは何度も上書きされているらしく、文字が薄く重なって見える。何ヶ月どころでなく何年も、彼女がその区間を往復した証明、定期券を兼ねていた。
わずかに女性が会釈して、俺に背を向け、足早に歩き始める。
「……はぁ」
すっかりあがってしまった息を、溜めて、吐く。
女性の鞄から滑り落ちたカードケースに気づいて、踏まれそうになりながら拾って。
離れていく頭を、見失わないように背伸びしながら駅を出て。
わずかな距離ではあるけど、何年かぶりに全力で走って。
なんとか腕を掴んで。
今に至る。
彼女が長身だったので、何とか見失わずに済んだ。彼女の足が長かったので、追いかけるのに苦労した。
発車を告げるベルが階段の向こうで鳴り響いても、足を走らせなくなって、もう長い。無理は身体に祟る。
自然、淡々と続いていく日常の中で、久々に起きた『非日常』の結末は、なんともあっけない。
「はぁー……」
運動するには、スーツはあまりに窮屈だ。呼吸を落ち着けてから、腕時計に目をやる。走って短縮した時間、休憩して消費した時間、差し引きプラスマイナスゼロにほぼ等しかった。目の前で赤に変わった信号の分を入れればマイナスだ。
非日常が終われば、また日常が始まる。
まだ、水曜日の朝だ。
なんでこんなふうになってしまったんだろう。
「――やりなおしたいですか?」
「え?」
耳に飛び込んできた声に目を開くと、ほとんど真っ暗だった。
「え、あれ、ここどこ」
「まあまあ、いいじゃないですか」
周りに何があるのか、ぜんぜん見えない。声はどうやら、自分の頭より少し高い位置から聞こえてくる。子ども、というか中性的な声だ。声のするほうだけは、わずかにぼんやりと光っている。だが、見える範囲には何もない。
「いや、俺、仕事に行かないと」
「そんな些細なこと、どうでもいいじゃないですか~」
どうでもいい、と来た。そんなことを言われたのは、取引先のえらいさんに連れて行かれた、高いお店の女の子から以来だ。だがそれと比べても、より一層緊張感がない。
「それより、やりなおしてみませんか?」
「はい?」
「お兄さんにもあるでしょ。あの時こうしていたら、とか、ああしていなければ、とか」
「んん……?」
なんだかうさんくさい話が進んでいる。が、
「まあ、あると言えば……」
「ですよね!」
あまり考えずに出た言葉に、食い気味にかぶせられた。
「そんな貴方に朗報です!」
「はぁ」
「過去が、やりなおせますよ!」
「はぁ……?」
あまりにぐいぐい来られて、曖昧に答える。いやだって、言わんとすることのイメージはついても「やったぜひゃっほう」とはならないだろう。
「……うーん、微妙なリアクション。やっぱり何回やっても導入がうまくいかないなぁ。もっかいアンケートに書いとこ。”導入システムに難あり”と」
「あの、ちょっと」
何を言ってるんだこの人。人?
「おっとと。まあまあ、案ずるより生むが易し、百聞は一見にしかず。だいたい解析も終わったみたいですし、まずは行ってみてくださーい!」
ジェットコースターで落下するような感覚。待って、と言う暇もなく、意識が闇の中に落ちた。
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