第11話 アキのコンクール

 ケイコが玄関のドアを開くと気持ちよい風が肌をなでた。その日は北風が吹く秋の近さを感じる涼しい日で、今日はいい日になりそうだとケイコは胸をおどらせながら、アパートのむかいにある駐車場に駆けていった。


「お母さん、はやく!」

「はいはい」


 母が鍵を開けるとケイコは車に飛び乗った。


「はしゃがないの」


 母がたしなめるが、ケイコは車の後部座席に置いてあったウサギのぬいぐるみを抱いて転がる。それはほんのりとあたたかく感じられ、ケイコはぬいぐるみをギュッと抱きしめた。

 車はコンクール会場である県の文化会館へむかう。


「楽しみ?」


 運転中、母がケイコにそう訊いた。


「うん」


 ケイコが素直にうなずくと、バックミラーに映る母がほほえむ。


「そう」


 母が笑ったのでケイコも笑う。そして車は文化会館へ着く。


「へえ、けっこう広いのね」


 大ホールの扉を開けた母がそうつぶやいた。ホールは見上げるような高さの広い空間で、二階、三階にまで席があった。このたくさんの座席の遥か下に緞帳どんちょうに閉ざされたステージがある。その両脇には曲線のついた丸い柱のような不思議な形の壁がならんでいて、ケイコは自分がどこか違う世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。


「ここでピアノ弾くんだ」


 観客席はすでに半分ぐらい人で埋まり、たくさんの人の頭が動いている。


「すごいな」

「そうね」


 母と二人ならんで席に着く。

 やや薄暗いホールにはひんやりとした空気が流れている。

 ケイコは肌がピリピリしてくるのを感じた。まるで自分がステージにのぼるかのように緊張してきて、ケイコはとなりの母の手をにぎった。母は驚いた顔をしてケイコを見たが、ケイコがこわばった表情で緞帳の閉じたステージを見つめているのに気付いたのか、目元をゆるめてその手をやわらかくにぎり返した。

 やがて客席のほとんどが埋まると、ホールの照明はしぼられ、緞帳がゆっくりと開いた。コンクールが始まったのだ。

 暗くなった観客席とは対照的に、照明にまばゆいステージには一台のピアノが置かれている。黒く光る大きなピアノは、音を弾き出されるその瞬間を待つように、沈黙にたたずんでいる。

 そして紹介アナウンスが流れ、燕尾服を着た男の子が、ステージの袖から現れた。

 男の子は一礼してピアノのまえに座ると、両手を広げ鍵盤に指を走らせた。

 ピアノが鳴る。

 男の子の演奏は力強く音を奏で、ひとつひとつ音を立てながら勇ましく流れる。

 男の子の演奏が終わると、次に現れたのは白いドレスを着たショートヘアーの女の子で、彼女はやわらかく音を操り、まるで糸で織物を編むように、繊細に曲をつむぎ上げる。

 次々となされる演奏にケイコは魅了されながら、同時に胸の内側からざらざらとしたものが染み広がるのを感じていた。


「みんな上手だね」


 母の手をにぎるケイコの手に力がこもる。


「そうね」


 母の返事を否定するようにケイコは首をふった。


「でもきっとアキのほうが上手だよ」


 アキの名前が呼ばれた。

 ステージの袖からアキが姿を現す。

 赤いフリルのドレスを着たアキは、その長くさらさらとした黒髪をきらきらと光る白いティアラで飾っている。

 ケイコはため息をついた。照明の下に立つアキの顔が、凛々しくまわりから浮き上がるようにまばゆくて、どこか遠い国から来た女の子みたいに見えたからだ。

 一礼したアキがピアノにむかう。


 静寂。


 アキの指がゆるやかに鍵盤に降りる。

 音。


 ――花だ。


 華やかに始まる曲に、ケイコはぐるりぐるりと花びらが空を舞いめぐる音を聴いた。

 ケイコは音に身をまかせるように目を閉じる。

 するとケイコの身体は小鳥に変わり、空へと飛び上がってこの花の舞いに身をゆだねた。

 花は風にのってめくるめく渦を巻き、ケイコは花とたわむれながら花と花の合間に踊る。くるくるまわるケイコの視界に映るのは、花のピンクと空の青とに草の色。花のすき間に下にのぞける草原は、くり返しに吹く風に緑のうねりを波立てた。


 ――あれは。


 ケイコは風打つ草原に一人立つ少女を見つけた。


 ――アキちゃんだ。


 さらさらとした黒い髪をなびかせている少女は空を舞うケイコを認めると、遠くの丘を指さしてケイコを誘うように歩き出す。少女がアキであると確信するケイコは、迷うことなく少女のあとを追って飛ぶ。


 ――夜?


 丘のむこうに暗闇が見えた。風もないその場所には、空との境を失った暗く果ての見えない夜の海が静かに広がっていた。

 この波音もしない夜の海に音がひとつ。

 ケイコは闇にすっと走る、白い水のしずくを見た。

 海に落ちる。

 音。

 高く空から降るしずくの線は、一定のリズムで海に落ちて、波紋を描いて音となる。

 やがてしずくは数を増して雨となり、波紋が重なり音を連ねて曲となった。


 ――明かりだ。


 波紋のしぶきがかがやくと、海が跳ねて明かりを灯し、光をならべて道をつくっていった。

 道の上を少女が歩いている。

 ケイコは海に飛び込み小柄なイルカに姿を変えると、波を切って少女のあとを追いかけた。

 音が音を呼ぶ海打つ雨は、しだいに白い線で空を染め上げ、暗闇を塗りつぶして海とともに世界を光で満たしていく。

 そこで世界がはじけた。

 ケイコは爆発の音を聴き、白く裂けた世界のむこうに赤い火を噴く火山を見た。

 闇は消え、海は消え、ケイコは人の姿に戻って見知らぬ街の広場に立ち、祝福の言葉を告げるように火を噴く火山の赤い色を見上げながら、胸に鳴る喜びの音にふるえていた。

 街の広場にはピアノが置かれ、アキが黒髪をゆらし演奏している。

 音と音。

 アキの指が鍵盤をたたくと、火山が連続に火を噴き上げ、アキの指が鍵盤を走ると、のびた炎が空を朱色あけいろに染めていく。

 音と音。

 ケイコはただたたずむ人としてそこに立っていて、ただふるえる人としてそこで泣いていた。

 音。

 噴炎。

 火の降る街の燃える広場に、最後の火山の音が響き、ピアノの音だけが残ると静かな雨が降り始めた。

 雨は火を鎮めて、街を水に沈めていく。

 音は遠く、小さく――。

 そして――終音。


 拍手。


 ホールに響く満場の拍手に目を開けたケイコは、客席にむかいおじぎをするアキを見た。

 席から立ち上がってケイコは拍手をした。

 アキがステージを下がっていく。

 ケイコは目じりに涙をためながら、力いっぱいに拍手した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る