第10話 どっか行きたいところある?

「どっか行きたいところある?」


 夏休みもなかばを過ぎた頃である。その日パートが休みだった母と、ケイコがお昼ご飯の冷し中華を食べていると、母が不意にそうきいてきた。

 ケイコははしを止めて母を見る。母はほお杖をついてテレビの方をむき、コップの氷をカラカラとゆらしながら麦茶を飲んでいた。


「どっかないの?」


 ケイコが黙っていると、母は目を細めて横目にケイコを見る。少しいらだたしげな母の口調に、ケイコはうかがうように視線を上下させた。行きたい場所はあった。けれど、思い浮かんだその場所を口にするのに抵抗があった。それは服を脱いで自分の肌を他人にさらすような抵抗で、ケイコに胸元まで上がった言葉を口にさせるのをためらわせていた。


「あたし……」


 言いよどむケイコが少し目を上げる。

 母の目。

 ケイコは意を決して、しぼり出すような声で答えた。


「アキちゃんのコンクールに行きたい」


 アキの参加する音楽コンクールの会場は、電車で五駅ほど離れたところにある県の文化会館だった。小学生のケイコが一人で行くには少し遠い場所である。


「ふーん」


 母は少し目を開くと、鼻で返事をして再びテレビに目をむけた。ケイコは自分の心臓がキュッと絞まるのを感じた。母は横をむいたままで、一口麦茶に口をつける。


「あんたら、ホントに仲いいわよね」


 母に行きたいところを聞かれたとき、一番にケイコの頭に浮かんだのはアキの顔だった。アキには「あたし下手くそだから。ケイちゃんこなくても大丈夫だよ」と言われていたけれど、アキがドレスを着てステージで演奏する姿をケイコは見てみたかった。

 けれど母の反応に、ケイコははずかしさが足の先から肌をチリチリと走って、顔を熱くしていくのを感じた。気はずかしさに落ち着かなくなってケイコがうつむくと、母はコップを置いてほお杖をついたまま、顔だけをケイコにむけてぼそりとこぼした。


「こういうときは動物園とか遊園地とかに行きたがるもんじゃないの? フツー」


 ケイコは手をギュッとにぎり、赤くなる顔を隠すようにますますにうつむいた。母はそんなケイコの様子に、わずかに唇の端をゆがめて皮肉な笑いを浮かべると、再びケイコから目をそらして浅く息をもらした。


「どこにも連れてってないから、たまには親子水入らずで遊ぼうと思ったんだけど」


 ケイコは「あっ」と顔を上げた。

 ケイコはやっぱりこんなこと言うんじゃなかったと後悔した。アキのコンクールに行きたいのは本心だったけれど、それを口にしたことがまさか母への裏切りのようなものになってしまうなんてケイコには思いがけないことだった。


 ――そんなのじゃないのに。


 母がさびしげに笑う。


「親より友達とはまいったもんよね」


 沈黙。

 テレビの音が嫌にさわがしく聞こえた。母はそのまま口を閉じてしまい、ケイコはとてもいたたまれなくなってしまった。なにかしゃべろうと、もぞもぞと口を動かすけれども言葉が見つからず、ケイコは下唇を小さくかんだ。


 ――そんなのじゃないのに。


 母は黙ってしまったケイコを見ずに、しばらくそのボサボサのくせ髪をいじっている。どうすればいいかわからなくなったケイコは落ち着きなく視線をさまよわせる。胸がキリキリと鳴っている。ケイコは泣きたくなかった。もう泣かないとあの雨の日に決めたのだ。だから必死に言葉をさがして、自分の気持ちをつかまえようとした。


「あたし」


 しぼるような声。母がケイコに目をむける。


「あたし、お母さんとアキのコンクール行きたい」


 顔を上げたケイコはやっとさがし当てた言葉をふるえる声で母に伝えた。それがケイコの本心だった。ケイコは今にも泣き出しそうな赤い目をむけて母を見る。母は髪をいじる手を止めて、ケイコにむき直った。そしてしばらくじっとケイコを見つめて、やがてお腹を抱えて笑い出した。

 ケイコは母の反応に目をしばたたかせる。笑い続ける母は、ようやくに笑いを抑えると、髪をくしゃくしゃとかき上げてひとつため息をついた。


「……で、いつあるわけ? そのコンクール」

「え?」


 ケイコは目をまるまると開いて母を見返す。


「いつやるのかわからなきゃ、休みがとれないでしょ」


 母は根負けしたかのように言った。ケイコは胸を締め付けていたものが溶けてくのを感じた。

 アキのコンクールに母が連れていってくれる。

 それを理解した瞬間、ケイコは身体の芯に喜びが音を立てて駆けていくのを聴いた。


「いい顔するわね、ホント」


 母があきれた声で言ったが、不思議とそこに嫌な響きは聞こえなかった。

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