第9話 雨宿り

 ケイコはあてもなく自転車を走らせた。止まりたくなかった。止まってしまうと、もうどうしようもなくなってしまうような気がして、ケイコは自転車をただただ走らせ続けた。

 気付けば商店街のあたりにいた。夕方の商店街には夕食の買い物をする人たちが行き交っている。

 にぎやかな音。

 思わず自転車を止めたケイコは、しばらくその音を聴いた。その音はとても遠く聴こえ、ケイコは肌が底冷えるようなうすらさむさを覚え、逃げるように自転車をうしろにむけた。ケイコは人のいない道へと戻ろうとする。


「あ」


 そこで突然、頭にぽつぽつと水滴が当たった。


「あめ?」


 見上げると黒々とした雲が山のむこうからにわかにわき上がり、雷が鳴るとドッと重い雨粒が地面に打ち降り始めた。

 ケイコはシャッターの下りたタバコ屋の軒先に雨宿りした。


 雨。


 雨から逃げるように走る人たち。

 さっきまでのにぎわいが嘘のように、商店街は雨音に静かになる。


 雨。


 ケイコはひとり雨宿りする。


 雨。


 立っているのに疲れてしまって、ケイコはとなりに立っている自販機によりかかって座り、濡れた髪を払って降る雨をながめた。


 雨は白く地面にはぜる。


 ケイコは泣いていた。雨にまぎれるように小さく声を出して泣いていた。どうしようもなくみじめな気持ちがあって、アキがどうしようもなくうらやましい自分があって、それで勝手に傷ついている自分がひどく腹立たしくて、このギリギリと胸を締めつける痛みに、ケイコはどうしようもなく泣いていた。


 雨。


 やむ気配のない雨は、道を水たまりで埋めていく。

 泣き続けるケイコは雨の中に人の駆ける音を聴いた。その水を跳ねる足音はだんだんと大きくなって、ケイコのほうへと近づいてくる。

 そしてケイコのまえで突然やんだ。


「え?」


 顔を上げたケイコが見たのは、自分のまえに立ち止まってこちらを見下ろす山本の姿だった。

 びしょ濡れの山本は、雨の中からじっとケイコを見ていた。相変わらずのカエルのような無表情で、ケイコを見下ろしている。その顔にケイコは無性に腹が立って、山本をにらみ返した。


「なによ」


 山本はケイコを無視してとなりの自販機にむかう。ガコンという音がして、山本は自販機の取り出し口に手を入れる。


「ん」


 コーラを手にした山本は、それをケイコのまえにつき出した。


「なに」

「ん」


 戸惑うケイコに山本は口を結んだまま、ただコーラをつき出す。


「……あ、ありがとう」


 ケイコがしかたなくコーラを受け取ると、山本はぼそりとつぶやいた。


「ごめんな」

「え?」


 ケイコは泣き腫らした目をまるくして、ぽかんとした顔で山本を見上げた。


「顔、なぐって」

「う、うん……」


 山本はそれだけ言うと、背中をむけて雨の中へと歩いていった。


「あ」


 ケイコはあわてて立ち上がり、山本の服をつかんだ。


「まってよ!」


 山本がふり返る。山本の目がケイコを見る。


 ――この目、知ってる。


 その目を見た瞬間、ケイコは山本の服を引いていた。


「ぬれちゃうよ」

「ぬれてるよ」

「もっとぬれちゃう」


 ケイコは無理矢理に山本を軒下に引っ張った。山本は嫌がったが、服をにぎる手の強さに折れたのか、やがておとなしくケイコのとなりに並び、一緒になって雨をながめた。

 沈黙を雨が打つ。

 しばらく会話もなく二人でたたずむ。二人のあいだには一本の線のようなものがあった。ちょっと引っ張れば切れてしまいそうな、それでいてたがいをつなげている、そんな線が確かに二人のあいだにあって、この沈黙を気まずさのない不思議な共感に変えて、二人をこの場所に結び付けていた。


「泣いてたのか?」


 やがて沈黙にぽつりと山本の言葉が浮かんだ。ケイコがうなずくと、山本はぶっきらぼうに言った。


「オレは泣かねぇぞ」


 ケイコが山本にふりむく。横顔のままの山本は、下くちびるを突き出して、にらむように降り止まない雨を見すえた。


「父ちゃんはのんだくれでどうしようもねぇから」


 いまだに弱まる気配を見せない雨は、白いしぶきで地面を激しく打ちひしぐ。


「オレは強くなって、父ちゃんなんかいらねぇようになるんだ」


 雨にびしょびしょに濡れている山本の横顔は、けれど顔を下にはむけず、雨を突き破るようなまっすぐなまなざしで雨空を見上げながら、雨音に負けない声で決然として言った。


「だから泣かねぇ」


 軒の暗がりに山本の瞳がねばり気のあるにぶい色で光る。

 ケイコは自分が山本を嫌いだった理由を知った。

 山本の目をケイコは知っていた。

 強がりで、なまいきで、ふてぶてしくて、反抗的で、夏にいつまでも沈まないお日さまのようにあきらめの悪そうな目。


 ――あたしの目だ。


 それはケイコと同じものだった。

 どうしようもなさにただあがき、手に入らないものを欲しがって、じたばたと手足をばたつかせることをむなしいと知りながら、だからといってあきらめることもできないで、いつか幸せが来るんじゃないかと淡い期待を捨てられないでいる自分。

 ケイコが目をそむけていた自分が山本の目に映っている。

 しかし今のケイコには、その目は決して不快に思えなかった。

 山本のくれたコーラの缶が手の中にある。

 ひんやりとしたその感触は、じんわりと肌になじんでケイコの体温と混ざっていく。


「あたしも泣かない」


 その声はかたく、けれど確かにケイコの口から発せられた。


「泣かない」


 ケイコは胸を締めつけていた痛みがにじんで身体に溶けていくのを感じた。痛みはにぶく薄らいで、全身に広がっていく。この痛みは決して消えることはなく、ケイコの身体を手足の先まで血のめぐるように流れていった。けれどそれは全然不快な痛みではなくて、ケイコはこのチリチリと走る痛みが自分を肌覚まして自分を変えていく感覚に、心地よさを覚えていた。

 ケイコも雨空を見上げる。

 黒い雲から際限なく降る雨を耐えるように見ていると、雨は根負けしたかのようにしだいにその勢いを弱め、やがて雨のむこうに雲の切れ間をのぞかせた。


「あっ」


 雨が弱くなるとケイコが呼び止める間もなく、山本は軒から飛び出した。走り去る山本の背中が小さくなり、やがて街角に消える。

 そして雨が晴れた。

 赤焼け。

 雲の去った空に、赤い夕日が顔を出した。

 雨のにおいの残る空は夕日をあざやかな赤色ににじませる。

 街が赤色に染まる。

 ケイコはしばらく赤くなった世界を見ていた。雲は影を引いて赤く流れ、ケイコは肌を染めて赤くたたずむ。

 ケイコは山本からもらったコーラのプルトップを開けた。

 炭酸の抜ける音。

 舌を刺激する炭酸にさわやかさを感じたケイコは、そこでぽつりとつぶやいた。


「帰ろう」


 ケイコは自転車を押して、ゆっくりと歩き出した。

 ――明日、アキに謝ろう。

 夕焼けのあたたかな赤色の中を歩くケイコは、そう思いながら家への道を進んだ。

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