第7話 ケイちゃんはいいよね

「そろそろ帰らなくちゃ」


 アキが携帯電話を取り出してそうつぶやいたのは、少し遊び疲れた二人がアスレチックコースの脇にあるブランコにならんで座り、休んでいたときだった。


「もう帰るの?」

「四時までには帰りなさいって、お母さんに言われてるの。アラームが鳴っちゃった」


 アキが振動する携帯電話をケイコに見せる。ランプがピカピカと赤い光を点滅させていた。


「あたしはまだ遊べるよ」


 木陰からのぞく空はまだまだ明るく、そびえるような大きな入道雲は陽射しにくっきり白く浮いている。


「あたしもまだ遊んでたいよ」


 アキは携帯電話をしまうと、足をぶらぶらさせながらうつむいた。アキのさらりとした髪がたれて顔を隠す。


「帰りたくないな」


 隠れた顔からアキの声がぽつりと聞こえた。ケイコは普段とちがうアキの様子に、その表情をうかがうように頭を傾けた。


「なんで?」

「帰ったらあしたになって、そしたらまたレッスンしなくちゃいけないもの」


 アキがケイコにふりむく。下唇をかんで上目づかいこちらを見るアキのその表情をケイコは知っていた。

 ものほしげに見えるその表情は、手に入らないとわかっているものをねだる表情で、さっきケイコが麦茶に映る自分の顔に見たものだった。


「レッスン嫌なの?」

「うん」


 ケイコはまえをむいて訊いた。うなずくアキもまえをむく。


「みんな上手なんだもん。あたしなんかよりずっと。先生はもっと練習すれば誰よりも上手になれるって言うし、お母さんはお母さんには無理だったことでもアキならきっとやれるからって言うけど、でも無理なんだ。あたしのほうがどうしたって下手なの。だから先生は怒るし、お母さんはため息をつくの」


 話しながらアキはゆっくりとブランコを揺らした。


「レッスンしたくないな」


 鎖がこすれてブランコはキイキイときしむ。その音はケイコの耳にひどくざらついて響いた。


「コンクール出たくない」


 ケイコはずっと黙っていた。アキの言葉はブランコの不快な音と混ざりあって、ケイコの胸をぐちゃぐちゃとかきまわし、今なにか声を出したら、とてもよどんだ気持ちの悪いものが口からあふれ出てきてしまうような気がして、ケイコはただ口を閉じ、アキの言葉に耐えていた。


 ――嫌だな。


 こみ上げる不快感をケイコは無視しようとする。それを認めたら、自分がどうしようもなくみじめなものになる気がしてならなかったのだ。

 そのとき林間に風が吹いた。風がこずえを鳴らす。木々のざわめきがあたりを覆うと、ケイコはそこにピアノの音色を聴いた気がした。

 ケイコの胸に言葉が浮いた。


「でもあたし、アキのピアノ好きだよ」


 その言葉は澄んでいた。

 それはケイコの純心で、少しの屈折もない自然な言葉で、ケイコ自身も驚くほどにキレイに澄み切った響きの言葉で、だからケイコはその言葉を言うことができた自分にすごくうれしい気持ちになって、だから期待のまなざしでアキの顔を見たのだった。

 けれどため息混じりに返ってきたアキの言葉は、とてもなにげないもので、それだからこそひどく残酷なものだった。


「ケイちゃんはいいよね。レッスンとかしなくていいんだもん」


 ケイコはブランコから降りた。


「帰ろう」

「あ、ケイちゃん」


 ケイコは走った。うしろのアキをふり返ることもなくケイコは走り、自転車に飛び乗った。


「まってよ、ケイちゃん!」


 アキの顔が見れなかった。ケイコは胸から込み上げてくる感情を必死に抑えて、自転車をこぎ出した。


「ケイちゃん!」


 アキの声が遠ざかる。涙が目尻から流れるのをケイコは感じた。

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