第5話 ラムネと山本とビー玉
「ほっぺたどうしたの?」
「転んだ」
「ふーん」
家に帰ったケイコは通知表を渡したけれど、母はそれを見ても特になにも言わなかった。
夏休みになった。
母は今日もパチンコに行き、アキは「コンクールが近いからピアノの練習があるの」と言っていたので、ケイコは母からもらったお小遣いをポケットに入れて、自転車をこいで商店街の方へとひとりでむかった。
夏の陽射しは相変わらず暑くて、セミはジージーとうるさかった。あごに汗が伝わる。のどに渇きを覚えたケイコは商店街に着くと、ラムネを買いにまっすぐに駄菓子屋へと走る。
「おばちゃーん」
「はいはい」
色とりどりの駄菓子に埋もれた店内の、奥の方の暗がりから小さなおばあちゃんがしわくちゃな顔をのぞかせた。
「ラムネください」
「六十円だよ」
氷水を張った金タライから取り出された水色のラムネ瓶が渡される。汗みたいに水をしたたらせて、ケイコの手にそれはひんやりとした。
「一気に飲むとお腹冷やすからね」
ケイコはうなずきながら、ラムネの口のビー玉を指で押し込む。
シュワシュワと舌にはじけるラムネの味。
ケイコはラムネ瓶をくわえながら自転車にまたがる。
商店街の横には小川が流れている。ケイコが橋を渡ろうとすると川の土手で釣りをする人影が見えた。
山本だった。
野球帽をかぶった山本は、ひとりで土手の草むらに座り、釣り糸を垂らしている。
ケイコはその帽子に陰る横顔をじっと見て少しうつむくと、ほっぺたをさすりながらハンドルを返して道を戻った。
駄菓子屋でもう一本ラムネを買う。
「山本」
土手に姿を見せたケイコに、山本は驚いた顔をした。
「昨日はごめんね」
ケイコは山本にラムネを投げた。ラムネはしずくを散らしてクルクル飛んで、山本の手にパシッとおさまる。
「あたし、ひどいこと言った」
山本のカエル顔が不思議なものでも見るように、まじまじとケイコを見つめる。
「ごめんね」
頭を下げたケイコはそのまま土手を駆け降りて、自転車に乗って走り去った。
うしろをふり返ると、山本は手に握るラムネ瓶をぼんやりと見ていた。
ケイコはそのまま住宅街へと自転車をこいでいく。
丘をのぼる坂。
ケイコは自転車を降りないで、立ちこぎで坂をのぼっていった。
カゴにいれたラムネ瓶がガラガラ揺れる。
「はあ、はあ」
噴き出す汗。
「はあ、はあ」
照りつける陽射し。
「ふはっ!」
のぼり切る。
アキの家が見えた。
「はあ、はあ」
ピアノの音が聴こえる。
家の塀まで近づいて、ケイコはその音に耳を傾けた。
水のような音。
「はあ、はあ」
塀の影によりかかって座ったケイコは、ぬるくなったラムネの残りをのどに流し込む。
自分の心臓の音を感じながら、ケイコは目をつむってピアノを聴いた。
焼けた地面の熱を冷ます、優しい雨のようなピアノの音がケイコの耳を満たしていく。
心臓の音が落ち着いていく。ケイコは手をだらりとさせ、音に身をまかせるように身体の力を抜いた。
水の音。
ケイコは降る雨が乾いた土地を優しくうるおしていく様子を幻視した。
雨はやがて川となって流れていく。
流れの先をケイコは見た。
そこには大きな大きな湖があって、無数の波紋に雨をどんどん吸い込んで水かさを増していく。
湖はあふれて海になる。
ケイコは海に浮いた。
ふわふわと波間にただようケイコは、しかしそこで雨が止んだことに気付いた。
音が途絶えた。
「そうじゃないでしょ、アキちゃん! ここはもっと強くリズミカルに弾くって何度も……」
怒鳴る声。ケイコがアキの家をそっとのぞくと、庭のむこうの部屋の窓に、ピアノに座るアキと先生らしいおばさんの姿が見えた。
「この曲はここでなにを伝えたいの? もっと考えて弾いてみて!」
アキはうつむいて、ひざに小さく手を置いていた。
ケイコはすぐに顔を引っ込める。そして自転車を押して公園へ行った。
木陰のベンチに座る。
空のラムネのビー玉をからからと鳴らす。
木陰の下でラムネ瓶をかざすと、空色のビー玉は黒ずんで見えた。
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