第2話 アキの家

 アキの家は白い壁に赤い屋根のかわいい家で、小さな庭には芝がきれいに茂っている。チョコレート色の玄関のドアを開けると、正面を丸い瞳のウサギ柄の壁掛けが明るく出迎えてくれた。


「ただいまー」

「おじゃましまーす」


 アキのうしろについてリビングに進む。そこにアキのお母さんがいた。


「あら、ケイちゃん。いらっしゃい」


 アキのお母さんはちょっと丸い体型をした優しい表情の人で、ケイコはそのやわらかな雰囲気がとても好きだった。


「ちょっと待っててね、いま麦茶を出してあげるから」

「あ、おかまいなく」


 ケイコの返事にアキのお母さんは苦笑を浮かべながら、二人分の麦茶とお菓子を出してくれた。 


「なにする? 部屋に行く?」


 お菓子を食べながらアキが訊く。ケイコはとなりの部屋を見た。


「アキのピアノ、聴きたいな」


 リビングのとなりの部屋にはピアノが置いてあった。アキが「えー」と言う。


「下手だよ」

「上手だよ。あたし、アキのピアノ好きだもん」


 そう言われてアキは渋々とピアノの前に座る。


「なに弾こう」

「アキの好きなの」

「えー」


 しばらく首をひねっていたアキは、やがてうなずくとおもむろにピアノを弾き出した。

 ポンと置かれた指が鍵盤をはじくと音が生まれる。

 音。

 指は流れるように鍵盤を走って音を生み、よどみなく音を重ねていく。音は次々と生まれて消えて、消えて生まれてをくり返し、旋律を作っていく。

 ケイコはアキの指を見た。その動きを目で追う。それはまるでアキの指ではないもののようになめらかに動いて、鍵盤の上を右に左に楽しげに跳ねまわっている。

 音楽。

 ケイコは目を閉じる。

 暗闇に風が聴こえたと思った瞬間、海原の上の草原にケイコはいた。

 緑の草原の下には深い青色の海が透けて見えて、そこを魚たちが泳いでいる。

 ここには音が吹いていた。淡い青色の空から涼やかなその音は吹いていて、白い鳥たちとともに草原へと降りてくる。

 草が波立った。

 音のさざ波が草を揺らして、空に舞い上げる。飛んだ草切れは鳥たちに混じって音とたわむれながら空に踊る。

 草に寝転んで空に吹く音を楽しんでいると、ケイコは水平線に白波を見た。白波はどんどん大きくなって、ケイコのところへ近づいてくる。よく目をこらしてケイコは白波の正体を見た。

 クジラだ。

 波の先頭に白いクジラがいて、魚の群れを引きつれてくる。クジラのうしろでたくさんの魚がしぶきになって波をつくっていた。潮を噴き上げるクジラが大きな声で鳴くと、魚たちがいっせいに歌い出し、音の塊となって草原を洗っていく。

 クジラが飛んだ。

 クジラの大きな白い腹を見上げながら、ケイコは魚の波に呑まれた。


 ――すてきな曲。


 波は音の奔流で、音の塊で、心地よく力強い音楽の旋律だった。ケイコは音を奏でる魚たちに身をまかせ、その曲に心を遊ばせた。

 それはケイコの知らない曲だった。けれどすてきな曲だった。

 しかしクジラと魚たちはやがてケイコを残して、遠く水平線に消えていく。そして海原も草原も色を失って、少しずつ暗闇に沈んでいく。

 音が弱まっていく。

 ケイコは目を開けた。

 それはアキの指が、最後の一音を残して鍵盤から離れる瞬間だった。

 音が絶えた。


「どう?」


 アキのはにかんだ顔がケイコにふり向く。


「上手」

「そんなことないよ」


 首をふるアキの手をにぎってケイコはくり返した。


「上手」


 アキは照れたように上目づかいになってケイコを見て、笑った。


「またねー」

「うん」


 アキの家を出ると、空が赤くなっていた。

 太陽が丸いタマゴのようになって山のむこうに沈んでいく。

 しばらくその光景をながめていたケイコは、風がだいぶ涼しくなっていることに気付いた。暑さもようやくあきらめを覚えて、夜を迎えるつもりになったのだろう。

 ケイコはアキの家をふり返った。白い壁が赤く焼けていて、別の家のようにケイコには見えた。

 ランドセルをかつぎ直すと、ケイコはやっと家にむかって坂を下りていった。

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