第16話 火星の様に

 朝9時に待ち合わせ。

 コンビニの駐車場に30分前に待機する私。

 コーヒーを買って飲んでいるのだが手が震えて全然上手く口に運べない。

 まだ秋口なのに手が冷たすぎる。

 緊張が極度に達していた。

 こういう時にいてくれたらいいな、と思う楼留子さん。

 今日は流石にいなかった。

 あ~、緊張する。

 もう一回トイレに行っておこう、と車のドアを開けた時、

「ずいぶん早いね、渡辺君」

 美月さんが現れた。

 いつも美人なのだがその私服姿は更に美人が増していた。

 白のカーディガンに紺色のスカート。大人びた格好にお洒落で落ち着いた茶色のバックを下げていた。

 もう目が眩む位素敵だった。

「どうしたの? 渡辺君」

 一言も発しない私を不審に思ったのか小首を傾げる美月さん。

「いや、別に」

 照れ笑いで返す私。

 見とれていました、なんて言える訳もなく。

 ずっと喋れない状態が続いてしまった。

 そんな私を見て、

「どうしたの~」

 クスクス笑いながら私の肩に手を置く美月さん。

 そこでようやく我に返った私。

 よし、喋るぞ。

 緊張しながらも話しかけてみる。

「いや、いつもと違う格好だったので」

「そう? 変かな」

「いえ、全然。むしろ……」

「ん?」

 楽しそうに顔を近づけてくる美月さん。

 駄目だ。

 緊張しすぎてまともに喋られない。

「ちょっと今日はどうしたの~」

 楽しそうに笑う美月さん。

 本当に素敵だ。

 ついついまた見とれてしまう。

 朝日をバックに木漏れ日がその姿をベールで被う。

 そんな幻想的な姿を現実に引き戻す音が遮った。

 プルルルル

 携帯電話の音が鳴った。

 まさか。

 いや。

 そんな。

 白い手が大人びた茶色のバックの中に入る。

 そしてその手が取り出した携帯は憎たらしい位に光っていた。

「はいもしもし」

 鳴っていたのは美月さんの携帯電話だった。

 お疲れ様です、と答えた瞬間会社からのものだという事はすぐにわかった。

 一気に手が冷たくなった。

 はい、はい、わかりました、と頷く美月さん。

 まさかサービス出社の要請か? しかし美月さんに来るとは思えないのだが。

 ピリリリリ

 私の携帯電話も鳴りだした。

 震える冷たい手で出る。

「もしもし渡辺君」

 毎日の様に聞いている声、沼田サブリーダーだった。

「今日第2班で坂本さんのやっている作業のデータが消えてしまってね。今2班の全員で頑張っているみたいなんだけど納期が明日なんだよね。で、今日休みで手が空いているのは渡辺君だからどうかな、って坂本さんが」

 何を言っているのかわからなかった。

 要するに休みの日に来い、と言っているのだ。

 しかもタダ働きで、だ。

 馬鹿にするにも程がある。

 もう頭に血が上りすぎていた。

「だから何ですか?」

 もう完全に開き直って聞いてみた。

 私の怒りが伝わったのか、沼田サブリーダー少し息を飲むのが聞こえた。

「いや、だからって……」

 こんな返しが来るとは思っていなかったのだろう。

 言葉が続かない沼田サブリーダーに、

「行くわけねーだろ、今日は俺にとって大事な日なんだよ。坂本にも言っておけ。あと明日渡す物があるからな、覚悟しておけよ」

 何かモゴモゴと聞こえてきていたが電話を切った。

 そしてまだ電話している美月さんの電話をひったくる。

「おい、まさか前川さんまで出勤しろ、っていうんじゃないだろうなぁ」

 早口で捲し立てる。

「えっ、誰ですか?」

 私と入れ替わりで2班に入った松下さんの様だ。

「渡辺です。誰の命令で電話してきたのですか?」

「え、えっと」

「松下さんに怒っているわけではありません。命令した奴と話がしたいのです」

「え、え?」

「……じゃあ小野田リーダーを出して下さい」

「えっ、でも」

「でもじゃねーよ。早くしろ!」

 つい怒鳴ってしまった。

「何だテメーは」

 面倒そうに小野田リーダー代行が出た。

「1班の渡辺だ」

 私が言うと面倒そうなため息が聞こえて来た。

「今日前川さんは予定があるんだから下らない用事で呼び出してんじゃねー!」

 思い切り怒鳴りつける私。

「何が下らない用事だ、あっ? 緊ボ(緊急ボランティアワーク)だぞテメー!」

 小野田リーダー代行も怒鳴ってくる。

「下らない用事じゃねーか。何が緊ボだ!」

 私も怒鳴り返す。

「あー、テメー、緊ボのどこが下らないんだ。納期が間に合わないと会社が大打撃を受けんだぞ。わかっているのか、おっ? 会社の都合を考えられないで自分勝手な事ばかり言ってんじゃねーぞ」

 下らない。

 本当に下らない。

 もう今日で愛想が尽きた。

「こっちの都合を1つも考えてくれないのに何で会社の都合ばかり考えなくちゃならないんだ。言ってみろよテメー!」

 小野田リーダー代行の声が止まった。

「ほらっ、何とか言ってみろよ。この会社では電話口で黙るのは卑怯者のする事じゃなかったのか、おい!」

 煽る私。

「テメー、いい加減にしろよ」

 苦し紛れの声が聞こえたので、

「いい加減にするのはお前、いやお前らだ。いいか、今日絶対に前川さんは出勤させないからな」

「何だお前、前川と付き合っているのか。ちゃんと会社には報告したのか」

「うるせー! いいか、今日はもうこの携帯電話に電話してくんじゃねーぞ。1回でも鳴らしてみろ。お前をキャンプの時の坂本みたいにしてやるから覚悟しろよ」

 返事が返って来ない。

「わかったな。誰が電話してきても狙うのはお前だからな」

 念を押して切った。

 言ってしまった。

 息が荒い。

 呼吸が整わない。

 呼吸で苦しんでいる私の背中をゆっくりと撫でる手。

「緊ボだよ。私行くね。渡辺君はお酒飲んで酔っ払っていた事にして。フォローしておくから」

 手が離れる。

 その手をしっかり掴んだ。

「渡辺君?」

「行かないで下さい」

 言わなくては行ってしまう。

 手なんて握った事も無いのに驚く程自然に掴む事ができた。

 困った顔の美月さん。

「でも緊ボなのに出勤しないと罰ボ(罰ボランティアワーク)で1週間泊り勤務になっちゃうよ。大丈夫、渡辺君の分までやっておいてあげるから黒ネズミ王国は楼留子ちゃんと行ってきて」

 こんな素晴らしい、こんな素敵な人をいつまでもこんな所においておけるものか。

「いつまで自分を犠牲にするのですか」

 美月さんが少しビクッとした。

「だから今日は行かせません。いや、もうこれからずっと行かせません。楼留子さんが再就職先にあてが有るそうなので一緒にそこへ行きましょう」

「えっ、でも」

「こんな事がいつまでも続くのですよ。幹部になったら今度はそれをやらせなくてはならないのですよ」

 はっ、とした表情になった美月さん。

 その両肩を包み込むようにして掴む。

「もう会社を辞めましょう」

 美月さんさえ辞めれば私はいつでも辞めようと思っていた。

「でも私バカだから他の会社じゃ勤まらないよ。いつも伊藤リーダーに」

「そんなのずいぶん前の話じゃないですか。第一前川さんは誰よりも仕事出来ているではありませんか。そして誰よりも仕事量をこなしているではありませんか」

 被せる様に言った私。

「いつまでもボランティアワーク、深夜まで仕事、それに他人の分まで手伝っていたら本当に体壊しますよ。お願いです、会社を辞めて下さい。生活の事をご心配なら少ないですけど私の貯金を全部差し上げます。そしてそれを使い切った後も一生面倒見ます」

 洗脳が解ける方法。

 私にはそんな物は無い。

 しかし、美月さんの事を思う気持ちだけは誰にも負けない。

 そういうつもりで訴えた。

 ありったけの力を込めて訴え続けた。

 そんな私を不思議そうに見る美月さん。

「……渡辺君はどうして私の事をそんなに心配してくれるの」

 今だ、今言うしかない。

「あなたの事が好きだからです」

 驚くほど簡単に出て来た。

 何年も言えなかった言葉。

 その言葉に大きく見開いた美月さんの目。

「あなたの事が好きだからです」

 念を押す様にもう一度言った。

「あなたの事が好きだからです」

 更にもう一度言った。

 とても真剣な顔で。

 どうか届けと願いながら。

 すると、

 クスッ

 笑い声がした。

 美月さんが笑っていた。

 私の前髪を人差指で1回弾いてから笑うのを止め、口を開いた。

「私、かわいくないよ」

「そんな事はありません」

「私、料理できないよ」

「別にかまいません」

「私、バカだよ」

「そんな事はありません」

「私、脚太いよ」

「別にかまいません」

 すべて受け入れます。

 そして最後にもう一度、

「私、かわいくないよ」

 そう言われたので、

「そんな事はありません。世界で一番かわいいです」

 本当の事を物凄く真剣に言ってあげた。

 すると口元を緩めゆっくりと私を抱きしめる美月さん。

「まっ、前川さん」

 驚く私に、

「美月でいいよ」

 笑いながら言う前川美月さん。

「そっか、じゃあ面倒見てもらおうかな」

 そう言って私の頭を撫でた後ロードスターに乗り込む。

「会社行くのやーめた。渡辺君黒ネズミ王国行こうよ」

 ドアを開けたまま私の方を振り返る美月さん。

「はい前川さん」

 私もロードスターに駆け寄る。

「美月でいいって」

 苦笑する美月さん。

 秋風が祝福するかのように木々の葉を揺らし私達の下へ降らせた。 

 

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