〈21〉



 やがて、運転する文治さんが助手席を向いて「もういいだろう」と呼びかけた。


 するとそれまで恋人がするように肩から手を回して抱き寄せられていたが、途端にぱっと身を突き放される。

 広い車内の一方に身を寄せていた俺達は、ようやくまともな位置へと。


「む、そっちか」


 バックミラー越しに、ここに来て初めて文治さんと眼が合った。


「文治さん……」

「なんだ亮一、今にも泣き出しそうな顔をして」


 そう言われ、バックミラーに映る自分の顔がいかに情けないかを知る。

 俺はそれを誤魔化ごまかすように何度も顔をはたいたりぬぐったりした。


 俺の左隣で先程までの女性が白いフードのようなものを被る。

 それは顔の上半分をきっちりと薄布で覆うような造りだ。――その光景を見て、やっぱりかと合点がてんがいった。


 彼女の事も知っている。

 異彩を放つあの金色こんじきの瞳、じかで見た訳でないのに脳裏に焼きついたあの色合い。

 それは藤林監督官のものだ。


「玲鈴の事は知っているな」


 文治さんが前を向いたまま、親指で後ろの彼女を示す。


「はい……。文治さんと入れ替わりで学園に来たので、よく覚えてます」


 そう言って、俺は脇の彼女に視線を投げ掛けた。

 けれど当の本人はまるで係わりがないという風にまして座っている。


「実はこいつは俺の直属の部下で、UVF隊員だ」

「――そうなんですか」


 その発言で彼女に体ごと振り返るが、やっぱりこちらに興味を示さない。


「ちょっとした潜入活動の一環で、学園に連絡員を残さねばならんくてな。3月に俺がここを去る際、こいつを代わりに置いていったわけだ」

「潜入活動……?」

「大した案件じゃない。実際、ほとんど待機指示に近い。その間は普通に学園の監督官の仕事もやらねばで、こいつのような愛想の欠片もない人間にとってはそれが苦行らしい。だから今回の俺の人選にもかなりの不満を抱いていて――今もそうやって不貞ふてくされているだろう?」


 どこか面白がる素振りで、バックミラー越しにこちらを見遣る。

 そうすると藤林監督官はぷいっとそっぽを向いてしまう。

 その反応に吹き出すよう「ふっふ」と腹を震わせる文治さん。


「だが今回はそれが役に立った。直ぐ近くに玲鈴が居てくれて助かった」

「という事は、さっきまでのあの状態……周りの人間のあの反応はやっぱり……」

「ああ、玲鈴の能力だ」


 俺がそこに居たにもかかわらず、皆が俺の事を見ていなかった。

 挙句、俺を指差して俺が居なくなったとわめいていた。

 あれは通常の事態ではなかった。


「『不可視ふかし』というよりは『不可知ふかち』と言うべきだな。あの特殊な眼の作用で、こいつは他者の知覚を完全にシャットアウトできる。姿が見えなくなるという次元ではなく、そこに確かに存在するのにそれを認識する事が不可能となる。故にどんな機器や方法を用いようがその所在を掴む事が出来ない。完全なるステルス能力だ」

「でもそれ、俺にまでも影響が及ぶだなんて」

「密着させた距離でなら、自身と一体化させて遮断しゃだんできるそうだ。生物だけでなく、無機物だろうがな」


 とんでもないレベルの能力者だ。

 改めて俺は尊敬の眼差しで彼女を見る。

 けれどやっぱりどこか不機嫌そうに、窓の外を布越しに眺めて(?)いた。


「あれ……? でも藤林監督官の能力って、短距離の〈瞬間移動テレポーテーション〉じゃあ――」

「そう偽装しているのさ」

「偽装?」

「そうだ。さらに言うなら、玲鈴はこの学園の卒業生ですらない。――いや、どこの国の能力者養成所にもその記録は無いはずだ」


 すさまじい次元の話だった。


 つまり彼女はステルス潜入――それを軸としたスパイ活動の最高手という位置づけなのだろう。

 そのために実態を知られてはいけない訳か。


「そんな話、俺にしちゃっていいんですか?」

「あの場からお前は連れ出すためには、ああする他なかったからな。それにお前はUVFに入隊して必ず俺のもとに就くのだろう?」

「そ……そのつもりですよ!」

「なら、大目に見るか」


 結構な秘匿ひとく事項だと思えるのだが、文治さんは賭け事カードゲームのツケか何かみたいに言う。


「あの布で目許を覆っているのもやっぱり、力を無闇に発動させないよう封印を施してる訳ですか」

「と見せかけて、実は単に人見知りをこじらせてるに過ぎん」

「マジすか……⁉」


 結構な美人さんだったのに、勿体ない限りだ。

 その会話の間中、彼女は鬱陶うっとうしがるよう窓側へと体を無理にじっていた。


 トンネルの左右のあかりの点が線へと混じって、車はさらに加速する。


「あの……」


 状況に圧倒されっぱなしで思考が鈍くつのる中、それでもおのずと疑問は口に出る。


「あの、一体どうして……あの場に文治さん達が?」

「聞いてなかったのか。学園上層部からの依頼だ」

「依頼……。俺を助けてくれたのも、学園からの?」

「どうかな。直接的ではないにしろ、そういう事になったとも言える」


 文治さんの言葉は不明瞭だが、誤魔化そうという素振りはなかった。


「……驚いてます」


 学園側が俺の身を案じて文治さん達をつかわしたという話――正直な所、信じられない。 

 その背景は一体どのようなものなのか。

 文治さんと赤植との話を聞いた限りでも断片として判るが、大本の筋書きが俺に関知できない所で進行している。

 これまで同調していた両者が、ここに来て反目? ――いや、そんな単純な話ではないのだろう。

 俺が助けられたのだって、何がしかの理由があってかもしれない。


 だが何より、俺にはもっと気がかりな事柄があった。


「文治さんはあいつの事を……赤植の事を、昔から知っている風でしたけど……?」

「ああ」

「知ってるんですか? 把握してるって事なんですか? 奴の、その……所業を?」

「そうだ」

「――『そうだ』ってそんな安直な返事……。奴が何を行っているか、知ってるんですよね。文治さんが知ってるって事はつまりはUVFが、国連軍が承知してるって話なんですよね」

「そうなるな」


 まるで取り止めもないよう、熱を帯びる俺の口調とは裏腹に文治さんから返ってくる言葉は味気が無さ過ぎた。


「な――なら何で、奴を野放しにしてるんですか? あいつは俺達異能者だけの敵じゃない……それ以外の人間にだって害を及ぼす研究をやってるんですよ。今回の件だって、下手すれば町の人間に危害が及ぶ事態にだってなり得てた」

「………」

「国連軍はどうして何も手を打たないで……何か事情があって動けないんですか? それとも、証拠が揃うまで待っているとか……? いや、そもそも! 国連が動かないんだとしたって、文治さん程の人が――なんで奴を見逃すんです⁉ 文治さんがその気だったなら、あの場で……殺せとは言いませんけど……奴を締め上げるなりしてその悪行を止めさせられたでしょう⁉」 


 緊張からの弛緩しかんのそのふり幅故か、俺は声を尖らせていた。

 ただ文治さんはそのまくくし立てる言葉を一身に受けながらも、まるで微風ですらないというよそおいでいる。


 短くない沈黙を経てから、背中越しのこの人はおもむろに口を開く。


「亮一、お前にはあの男がどのように映る?」

「どのようにって、なに言ってんですか! あいつが悪党以外の何だって言うんですか!」

「そう見えるか」

「なにを、言ってるんです……? 俺にはわかんないですよ――文治さん!」

「あの男はな亮一、紛れもない狂人であるのは確かだ。だが同時に、並ぶ者がいない程の天才でもある」

「天才……?」

「30年掛けても遅々として進歩のないPD型症候群の研究、その突破口を担う数限りの存在だという話だ」


 進行方向に視線を定めたまま、文治さんは抑揚のない声でそう続ける。

 俺はシートに収まり切らないその背中を――微動だにしないその太い首元を食い入るよう見つめていた。


「あの男の双肩にかかっていると言ってもいい程だ。俺達、PD型症候群をわずらった人間の未来がな」

「未来って……」

「考えてもみろ。この先、俺達のこの病気が解明され、それこそ本当にPD型症候群がその他一切の病気と同じ位置づけになる日が来るかもしれん。そうなる事が、どれだけ多くの問題を解決してくれる橋頭堡きょうとうほとなるか」


 俺達のこの〝異質さ〟が解明されるという未来。

 確かにそれは、今この世界に根強く蔓延はびこる諸事情を一挙に洗い流してくれる。


「そしてその為の治療薬と呼べるものを開発できるとしたならば、少なくともあの男はそれを50年は早める功績を残すだろう」


 変わらずの腹の底に響く落ち着いた深い声音。

 けれど、だとしても俺には激しい感情が逆撫さかなでるよう込み上げた。


「だから野放しにしてると? だから、国連側も容認してるって……? ――おかしいですよそんなの! その為に、奴が何をしているか……その為にどれだけの人間が犠牲になっているのか! それを見て見ぬフリしろって事なんですか……! その先の成果の為に、今ある犠牲は仕方がないって言うんですか……⁉ ――それを文治さん! あなた程の人がそんな風に言うんですか⁉」


 そうであってはならない。

 文治さんの言う理屈はわかる。

 けれど、それをこの人の口から聞きたくなかった。

 そんな台詞をこの人が言っていい訳がなかった。


「そんなの間違ってますよ!」

「間違っている、か」 

「だって、文治さんが言ってるのは理屈じゃないですか! 本当にこの先、あの男がそんな功績を残すって確証もない! 可能性が一番あるって話で……実際に、事実として、今この瞬間も奴によって不幸を強いられてる人間が……確かにいる」


 自身の口からかすれた音が漏れる最中、その相手を思い浮かべていた。

 俺には救い出す事のできないその相手を。


 ちっぽけ過ぎる俺には出来ない事。

 でもそれを文治さんなら出来る筈なんだ。


 その切なる訴えにも、答えは返ってこない。

 重苦しい空気が泥のように身にまとわりつく感触を覚える。

 そんな車内とは裏腹に、アクセルは緩まず、加速する車体が阻む物のない通路を力強く走っていく。


 こんな時代、こんな世界に生まれた。

 そして異質に覚醒かくせいを果たした。

 それでもそれが俺には嬉しかった。

 何ら特別でもない自分という凡庸ぼんような人間――そこから脱しえたのだと、そう思っていた。


 けれど現実は、凡庸な人間から凡庸な能力者にくらわりしただけ。


 土塊を纏う程度の能力でも極めればきっと――

 そんな都合の良い考えを持ち続けていた。


 だが、打ちのめされた。

 それが嘘だと気づかされた。


 この世界では、本当に想像も及ばないような事柄が今も繰り広げられているのだろう。

 世界を気まぐれで滅ぼしかねないような戦いが、日夜繰り広げられているのかもしれない。

 そんな存在達が生まれていてもおかしくはない。


 でもそれと俺とには、何の関係もない。

 俺はただはるか遠くで行われているそれらの余波に巻き込まれる大勢の中の一人。

 そういう立ち位置なんだ。


 でも文治さんは違う。

 最強の能力者とうたわれる男。

 指一つ動かさずに、数十人からなる兵士の集団を瞬く間に昏倒させた。


 そして何より、彼は世界を救う側の人間だ。


 だから聞きたくなかった。

 そんな事を言って欲しくなかった。


「そんなんじゃ……それじゃあ……どこに『正義』があるって言うんですか!」

「亮一」


 ここに来て、ルームミラーに鋭い眼光が反射する。


「――『正義』などという言葉を軽々しく持ち出すな」


 息が、肺で詰まった。


 落ち着いた静かな口調。

 けれどもミラー越しにこちらへと当てられたその目はひどく険しいもの。

 普段おっかなく見えても優しげにえているその目許から、底知れぬあの『圧』が放出されている。

 その姿に何の変化もないのに――まるで海面はさざなみを打っていてもその奥深くでは巨大な海流がうねり猛るよう、そのイメージの圧力が俺を芯から呑み込んだ。


「忘れるな。その言葉を手前勝手に用いる時、人は必ず道を踏み外す」


 問い返すための言葉すら出ない。

 顔を下げ、自身の膝を見つめながら、たまらずまぶたを強く閉じた。



 その時、ふわりと自身の襟足えりあしを撫でられるような暖かい感触が。


 びっくりして振りあおげば、藤林監督官がまたさっきのように直ぐ横にっていて、俺の髪をくしほぐすように指を絡めていた。

 そのまま子供をあやすようにぽんぽんとされる。


 そして彼女は薄布から露出しているくちびるを一文字に結んで、前の座席の文治さんを凝視する。


 その視線に気づいて、またもふっと息を漏らす文治さん。


「なんだ玲鈴、俺が亮一を泣かせたととがめているのか?」


 しかし彼女は答えず、どこを見ているか分からない顔をそれでも前の方へ固定していた。


「……いや――ていうか俺、泣いたりなんかしてませんから……」


 抗議の声を上げたが、今の自分がおよそ情けない状態のは自覚している。

 それでも、まるで幼子にそうするよう頭を撫で続ける藤林監督官の指先がこそばゆくて仕方がない。


 そんな俺達を見て、文治さんが今度こそ吹き出して笑う。


 その様子に俺は本当に立つ瀬がない。


あるいはな、亮一」


 一頻ひとしきり声を立てた後、切り替えるようにそう話をべた。


「正義と呼ばれるものは、宗教――信仰とよく似たものであるのかもしれんな」

「……信仰? ……宗教ですか?」

「ああ。それを自らの内に宿し、行動の規範きはんとする際は何の問題もない。だがな、一度ひとたびそれを頭上に掲げて示威じいし、他者に同調を求め、周りに強制させるに至ると、それは簡単に意味を失っていく。――そのようなものだ」

「絶対の正義はないっていう類の話ですか……? 時代や状況――そして人によってそれらはうつり変わるものだと」

「相変わらず、お前は頭でっかちなヤツだ」

「なんすかそれ……」

「その認識も間違ってはないだろうがな」

「じゃあ正解は何なんです?」

「さて、なあ。ただ一つ言えるのは、それを俺が答えてしまっては意味が無いという事だ」

「そりゃ、ないですよ。文治さんから振ってきた話なのに」

「そうだったか?」


 文治さんはとぼけるというより、こちらを揶揄からかうように喉を鳴らした。


「――というかあの! 藤林監督官はいつまで人の頭を撫でてんですか。そもそも俺、ほんとに泣いてなんかいませんから」


 ナデナデナデと、さっきからそうやってされるがままだったが……割と本気で恥ずかしくて死ぬるレベルなんだよなあ。

 俺は無理にでもその彼女の掌を掴んで頭から離す。


「玲鈴でいい」

「はあ…………――って喋ったァぁ⁉」


 顔布で表情は窺えないが、確かにその口許は動いて鈴の音色のような綺麗な声が聞こえた。

 思わずその手を引っ掴んだまま、まじまじと彼女を覗き込んでしまう。


「え? ――え? 喋るんですか……? てか、声出せるんですか――藤林監督官って」

「だから玲鈴でいい」

「いや……ええっ⁉ だっていつもパッドに文字打ち込んで……えぇ?」

「そうしてると最低限で済む」

「さ、最低限って……つまりそのために……」


 確かに声を出せないという事で生徒どころか職員の側までもが気を使い、必要最小限の事しか藤林監督官には尋ねなくなっていた。

 それを狙っての演技だって事かよ。


 その名前の通りの玲瓏れいろうな声、宝玉が触れ合うかのような涼しげなもの。

 布に隠しているその見目麗しい素顔も含め、色々と勿体無さ過ぎるぞこの人は。


「言ったろう、玲鈴は人見知りを拗らせてると」


 面白がる素振りで、文治さんが口を挟む。


「そんな玲鈴に気に入られるとはな。よっぽどお前の情けない泣き顔に憐憫れんびんを禁じ得なかったのか」

「いや、だから! 俺ホントに泣いたりとかしてませんでしたからね! そんな理由もこれっぽちもないですし!」

「情けないと言えば、そうだ――お前が無理矢理着いてきたあの岩登りフリークライミングでも、岩壁の途中で身動きが取れなくなって泣き出してたな」

「何言ってんですか! あの時だって、俺泣いてないすから! ……ま、確かに……動けなくなって文治さんにはお手数かけましたけど」


 かじった程度で調子に乗り、無理を言って連れていって貰ったはいいが、さんざんだったあの時の話を文治さんは急に持ち出してくる。


「あの時と同じだ、亮一」

「だ、だから俺は……!」

「もっと冷静に周りを見ろ。自分が張り付くその岩壁、指を掛けるべき場所、足を乗せるべき場所、見誤らぬようゆっくりと、着実に登っていけばいい」


 からかうような口調は変わらないのに、その響きには真に迫ったものがあった。


「焦るな。足場も固まっていないのに大きく腕を伸ばせばどうなるか、――分かるだろう? 少しずつでいい。少しずつでも、お前なら確かに頂上を目指して登ってゆける」


 そんな不可思議な真摯さで文治さんは続ける。


「そして今はただ、そうやって刻み込め」


 またミラー越しに目線が衝突した。

 やっぱりどこか面白がってるとも受け取れる眼が――それでも何かを期待するように俺へと注がれていた。


「お前のその強いまどいも、打ちひしがれた感傷も、一切いっさい合財がっさいを自身の奥底に刻み込め。そうやって募り、折り重なった分だけ、正解と呼べるものに近づけるさ」


 そして、いつものように唇の片端だけを僅かに吊り上げた表情をつくる。

 その微笑はやっぱり頼もしくて、それ以上に文治さんの言葉が自分の煩雑はんざつとした思念の隙間をうようにして響く。

 そんな波紋のような拡がりが、俺の内部をくすぶらせる。



 何だか本当に文治さんには敵わない気がする。



 この人はきっと俺の想像もつかないような大きなものを背負っている。

 そういう戦いを、決意を、日々繰り返してるんだろう。


 世界をたわむれに消し去れる魔神や魔物と、額をド突き合わせて殴り合う。――そんな戦いだろうか。

 そして未だ世界の均衡きんこうが保たれているという事は、それが辛勝であろうとしのぎ続けているという事。


 いや、文治さんだけじゃない。

 まだ見ぬ知りもしないヒーロー達は、それでもこの世界の最前線にきっと居る。

 いつの日にか俺もそこに肩を並べられたらなと思う。


 そんな夢想をやっぱり捨て切れないんだ。



 そう――

 俺の野望の原点は間違いなくこの人だ。



 その文治さんが今、登って来いとそう言っている。

 自身の元まで俺のペースでい上がってこいと。

 本当にそこまで辿たどり着けるかなんてわかりっこない。

 登り切れるなんて自信も、そうはない。

 手を伸ばし、見つめる先の理想は、こんなにも遠く感じられて、情けなくも足がすくむ。


 それでも俺の中から湧き上がってくるものはある。


 土塊を纏う程度の能力でも、使いこなせればきっと――

 今はそれを信じるだけ。


 想う人間の味方にもなってやれない俺が正義の味方ヒーローになりたいなど、とんだお笑い草ってやつだろう。


 けれどもそれを目指す。


 もっと、確実になりたいからだ。

 もっと、強く在りたいとそう願うからだ。

 もっと、多くのものを望んでまないからだ。


 まだまだ俺はみじめで、不確かで、そしてもろいだけの子供ガキだ。

 でも、だからこそ上を目指す事ができる。

 手を伸ばし、指で取っ掛かりを掴んで、この仕様の無い身体をそれでも引き上げる時、確かに俺はそれまでよりも高みにいる。


 そうして泥にまみれて繋いでいくさ。

 今、この瞬間を。


 生まれついての完全無欠。

 挫折ざせつする事もなく、常に勝ち続けられる存在。

 そんなものは嘘っぱちだ。


 真っ向から挑んで、負かされ、ブッ倒されて、ボロクソになって、這いつくばって、情けなくて、涙と鼻水がれて……

 ――それでも立ち上がれる人間であればいい。


 どれだけちのめされようとも、この拳はまだそうやって強く握り締められている。


 持たざる者、選ばれなかった者。

 好きに呼びやがれ。

 上の連中がそうやって見下し、横に居る連中があきらめの溜め息をく合間も、俺は無様に足掻あがき続けてやる。



 何故ならば――


 どんな巨大な困難が眼前に立ちそびえようとも、俺が〝俺〟をやめるだけの理由になどなりはしないのだから。





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