〈11〉




 ようやくと、俺達は目的の蒼沼へと辿たどり着く。


 沼とは言うがほぼ湖と言っても差し支えない広さを誇る。

 しかし、水深が浅くのっぺりとしている。


 意外だったのはこの沼――この浅さならば水温成層もないだろうに、しかし底の方には植物が一つとして生い茂っていない。

 普通これくらいの浅さならば水生植物のコロニーだが、まるで人工のそれのように随分と水底が整然としたもんだ。


 この蒼沼を歩いてぐるりと一周しようと試みるなら、一時間や二時間は掛かってしまう。

 緑が豊かでなかなかに勇壮な景観だが、脇を囲う薄暗い樹海も含め、なんだかちょぴり怪しげとも言えようか。


 迂回うかいした分、けっこうな距離だった。

 そしてその半分近くは深い森の中だ。――自分達自身、何度か休憩を挟んだとはいえよくもここまで歩いてこれたと驚く。

 課外授業を抜け出したのが午前10時前後。今は午後2時過ぎであるから、だいたい4時間近く費やした事になる。


「さてさて、いよいよ佳境かきょうだぜ? お前ら準備はいいか?」


 ぱんと両手を打ち鳴らし、気合の入り具合を確かめるよう全員の顔を順に見渡す羽佐間だったが、対するメンバーの表情は暗い。


「今頃は、ボク達のことで学園は大騒ぎになってるかな……?」

「国やんに大目玉くらうやろか……」

「………………」


 ここまでの疲労もあるのだろうが、それ以上にここに来てようやく冷静になったらしい3人。


「おおーい⁉ お前ら、今更過ぎるぞ! ここまで来ちまってから、なんで後悔してんだよ」

「せやかてなぁ……」

「――水宮、お前さっきまでお菓子食べながらふつーに楽しんでたろーが!」

「うぅーん……よう考えたら、うちめっちゃアホな事してる思てな」

「考えるな! バカになれ! ポジティブなバカになれ!」


 まあ、当たり前の話か。

 そもそも俺と羽佐間以外は明確な理由もなく流れで乗っかってきたのだから。


「心配するなお前ら。もし事がバレても、お前らは脅されて強引にって事にするからよ」

「え……? つまり、亮一くん達だけで罪を被るっていう事? そんな……!」

「そ、そやで! そんなんアカンわ――りょーちん!」 

「いいから、もしバレたらそう言えよ」

「マジか玄田、お前そこまでの覚悟を……?」

「俺も羽佐間コイツに脅されましたってちゃんと言うから」

「――って、玄田ァァァァァッ‼」

「なー? みんなで言おうなー? そうしようなー? このハゲがぜーんぶ一人で画策して、俺達を脅して無理矢理協力させたって」



 そんなで、俺達は目的の試験会場の視察を始めた。


 まだ納得し切れていない3人だったが、ここまで来てしまったらどうしようもないと腹をくくったか――取り分け水宮などは切り替えが早く、もう樹海の探索を楽しんでいた。


 複雑な樹海内だが、平野の道から続く入り口にてすぐにも見つかったスタート地点――テントでも設置するつもりなのか、広い範囲で地均じならしされており、資材の一部がまとまって置かれていた場所――さえ判明してしまえば、樹海内にはちゃんと目印チェックポイントとなる箇所が用意されているから、後はそこを頼りに進めばいい。

 そしてそのルートと、土を掘り起こすなどして地形に手を加えている箇所、木を伐りスペースを確保してある箇所、あるいは単純にそれらしい形跡を頭に入れて回る。

 それらの情報を最終的に学園まで持ち帰って、照らし合わせるという訳だ。

 ただし調べたそれらを紙などにメモする事はできない。

 何せ俺達はあくまで遭難した結果ここへ流れ着いたいう身分。発見された際、そんなものを所持しているわけにはいかない。


 作業は結構なはかどりをみせた。


 というより順調過ぎた。

 して時間は残されてないだろうという予想は裏切られ、何の差し支えもなくルートを一周して、演習場所の地理を検分できてしまった。


「で、この後はどうする?」


 スタート地点に戻ってきた俺達は、なんだか拍子抜けに空を仰ぐ。


「まあ、目的は果たせたんだから……捜索隊が来るまで待機じゃね?」

「で、その捜索隊はいつ来る?」

「そんな事まで俺が知るワケねーだろ」

「もうすぐ日が暮れちゃうよね」

「だな」

「そうなると、どうなるん?」

「日光が消えて明かりもなくなり、気温も一気に下がり込む。ここいらに民家も街灯もないだろうから、真っ暗で薄ら寒いこの樹海の中に取り残されるって事だ」

「そ、それって……アア、アノ……遭難そうなんって言うんじゃ?」

「普通、この状況は遭難って言うな」


 じーっと俺達の視線が羽佐間を焦点とする。


「なんだよ、俺が悪いってか?」

「……ま、言ってても始まらねえか。民家は無いとはいえ、蒼沼の付近になら管理小屋の一つでもあるだろ」

「観光地でもねーんだから、管理してる人間なんていねーだろ」

「雨露を防げるならこの際ポンプ小屋みたいなのでもいいが」

「都合良く、そういうのあるといいけど……」

「ていうか建物自体が無さそうやでここらへん」

「わかった。最悪、俺の能力で屋根付きの家を建ててやるよ。形状を自在にってのはこういう時便利だからな」

「玄田、そこはお前こういう時しか役に立たないの間違いだぜ」

「お前一人だけ風雨に晒されるか?」


 ともかく、こうなっては事は急がないといけない。

 日が暮れてしまえば行動ができなくなる。

 その前にせめてまきでも集めて、火でもおこしておきたいぐらいだ。

 そうやって俺達の存在を分かり易くアピールしとけば、さすがに直ぐにも見つけられるだろう。


 そんな訳で、二方向に分かれて探索する事とした。

 その位置から、俺と時野谷は蒼沼を南下していき、羽佐間達は北へと。

 蒼沼を一周しようとすれば一時間以上は掛かるだろうが、二つの地点からそれぞれ出発すれば半分の時間でちょうど向こう岸にて合流できるだろう。

 もし何も見つからなかった場合、その対岸にて俺が豆腐ハウス建造リアルマインクラフトをする手筈てはずだ。

 だからついでに薪になる乾いた枝を見つけたら拾っておくよう指示した。


















 時刻は午後4時を過ぎている。

 日暮れまで、もう1時間と猶予ゆうよはない。


「やっぱり、見つからないね」

「ダメそうだ」


 時野谷と二人、連れ立って探すが、そう都合良くはいかない。

 近辺には薪になりそうな乾いた手頃な枝もない。水辺の近くのこんな場所じゃ仕方がないか。


「ここらは学園以外に人がいないって話だが……。それでも人が住んでないってだけで、人工物の一つも在っていいだろうに」

「学園の半径50k圏内にはって話だけど、やっぱり学園を設立するに当たって立ち退きとかがあったのかな?」

「かもな。それぐらいはやりそうだ」

「でもおかしな話だよね。下の町には普通に人がやって来るのに、ここの地方の住民だけを追い出すなんて」

「確かに、な。ただまあ町に来る連中ってのはつまり外国からの観光客だ。この日本の中の独立国家『ナガミネガオカガクエン』の国民じゃねえからさ」

「じゃあ、ここの国民は僕らだけって事になるね」

「教師達もほとんどその外国から通ってきてんだからな」


 となると学園が政府ってところか。

 自国民から選出されていない政府高官役職一同。――背筋が寒くなる話だぜホント。


 さてさて、そんな御上おかみたて突いている真っ只中ただなかの俺達だが、ほんと彼らは何をしているやら。

 俺達が居なくなっている事はもう知れてるはず。

 課外授業の終わりに寒河江教官が人数が足りてない事に気づくだろう。

 そうして庭園の端――森の入り口に分かり易く置かれている俺らの手荷物も見つける。

 となれば、森の奥へ入り込んで迷ってしまっているとも判断がつく。

 警備隊の中央局へ通報もされるし、それで俺らのタブレットが不具合を起こしていることも調べられる。

 そしてさらにはちょうど今その西側の監視網が機能していない事実と照らし合わされ、捜索隊がこっちに向かっている。


 という手筈である事を見越しての俺達の現状だ。


 だと言うのに未だヘリの一つだって飛んで来やしねえ。

 これじゃ本当にただの遭難だ。



 結局、目ぼしい物は影とも無く、合流地点である蒼沼の対岸へと着いてしまう。


 沼をぐるりと囲む樹海だが、こちらの西側の方が木々の密度が薄い。

 拠点を建てるには見晴らし的にも丁度良いかもしれない。

 夕日のあかねに染まりつつある空気の中、沼のへりを北側から渡ってくる羽佐間達の人影を遠くに見ながら、さっそく自身の能力で雨風をしのげる場所を造ろうとしていた。


 と、その羽佐間達が大きく手を振って何か叫んでいるのを知る。

 時野谷と顔を見合わせ、こちらからも向かって彼らとの合流を急いだ。

















「見つけたぜ管理小屋! こっから北東の位置、沼から離れた樹海の中に隠れるように在ってよ。俺の眼じゃなきゃ、まず見つかんねー代物だった」

「よし。少なくとも人の手がある場所って事は、誰かがやってくる可能性があるって事だからな。ところでその建物、施錠せじょうとかされてなかったのか?」

「ああ、確かに扉には頑丈そうな錠がしてあった」

「そうか。まあ最悪、窓なりを壊して入ればいいか」

「いや、それがな――」

「えっへん!」


 何故か知らんが、水宮が得意気な顔して胸を張る。


「……なんだ?」

「いや、それがよ、水宮が開けちまったんだよ。扉じゃなくて、裏手の戸窓みたいなヤツをだが」

「開けた? 開いていたじゃなくて、水宮が開錠したってか?」

「えっへん!」


 また同じように、めて欲しいといわんばかりの顔を強調する。


「は、晴香ちゃんの……能力で、その、開けちゃったんです」

「能力で?」

「俺も驚いたぜ。その戸窓って、内側からかんぬきされてる程度のヤツなんだがよ。水宮が蜂に自分のブレザーのリボン括りつけてさ、その戸窓の隙間から中へ入れて、錠前の輪っかの部分に通してまた戻ってこさせて、後は外側から上へと徐々に持ち上げてくだけで……」

「それで、水宮さんが開けちゃったの?」

「そう、驚くくらいあっさりとだぜ」

「ミステリのトリックとかで有りそうな手法だな」

「せやねん! たまたまこの前見てたドラマでな、そんな風にして鍵開けててん! なんか紙とか針金とか使ってやってたけど、これうちも出来るんちゃうかなぁ思てな!」

「なるほど。良くやったじゃねえか」

「エラい? うちエラい? なあなあ、うちエラい?」

「ああ、偉い偉い。ほれ、みんな水宮に拍手」


 ぱちぱちぱちという喝采の中、水宮が「うぇへへ」と嬉しそうな声を出していた。

 見てて飽きない奴め。


「じゃあともかく、そこに向かおうよ」

「うっし、こっちだぜ!」

「いや待て――」


 意気揚々と先陣を切る羽佐間達を慌てて止めた。


「んだよ玄田?」

「お前ら、薪になりそうな枝見つかったか?」

「こんな湿気の多いトコじゃ、乾いた枝なんて見つかんねーって」 

「やっぱりか……。仕方ねえ、俺が沼から離れて探してくる。こっち側は森の層が薄いから、乾いたのが見つかるだろう。お前らは、先にその小屋へ行っててくれ」


 そう言って俺は、蒼沼の西側を指し示した。


「でもお前、小屋の場所がわかんねーだろ? 普通じゃ、まず見つけられない位置だぜありゃあ」

「だからそっちの誰か一人、俺が戻るまでここで待機してて欲しいんだ。残りはその小屋の中で、何か使える物を探しといてくれよ。本当に日が暮れたら、行動なんてできないからな。分担して効率的に動こう」 

「もぉ、しゃーないなぁ。ここはデキル女のうちがりょーちんに付いていっててあげよう」

「出来れば付いてくるんじゃなく、ここで待ってて欲しいんだが」

「もぉ、しゃーないなぁ」

「話を聞け。層が薄いとは言え奥まで足を運ぶかもだから、出来るだけリスクを抑えたいんだよ」

「もぉー! しゃーないなぁー!」


 上機嫌の水宮は、俺の話をまるで聞かずに背中をぽんぽんと押し遣ってきた。


「だから聞けよ!」



















「うちキャンプファイヤーって実は初めてやわ」


 上機嫌な水宮がそんな風に声をはずます。


「浮かれすぎだろ」


 木々の間で、俺は水宮を連れて薪にするための乾いた小枝などを探し回っていた。

 もしもの場合を考えて単独で行動したかったのに、ご機嫌すぎる水宮はまったくこちらの意を解してくれない。


「やってさ、どうせ見つかったら怒られるんやもん。そんなら今の内だけでも楽しまな損になるやん」

「おまえのその前向きさは素直にスゴイよ」

「ほめてくれてるん? しゃーないなぁ、最後の一個になったクッキーをりょーちんにも分けてあげよう」 


 そう言って水宮は大事に取っていたらしいクッキーを二つに割って、俺に寄越してくる。


「どうも。――あ、ついでだ。そのお菓子の空き箱もくれ。千切って火口ほくちにするから」

「ふぉーい」


 口の中でお菓子をもごもごとさせながら空き箱を差し出して返事をする水宮。

 何というか、憎めない奴って言葉がこれほど当てはまる人間もいない。


 薪に向く枝は、あまり日が差さず風通しも悪いこの場所では見つかり辛い。

 何度か手頃な枝を見つけて折ってみるが、パキっと渇いた良い音はしない。

 水気がまとわりつく沼地側よりは見つけ易いと考えていたが、収穫はとぼしかった。


 できるだけ早く探してしまわないと夜が来る。

 この場所じゃ明かりなんてものは存在しないから、完全に日が落ちれば辺りは本物の暗闇だ。


「りょーちん、コレええんちゃう? めっちゃ大きいし、キャンプファイヤーしてるって感じがせえへん?」


 水宮が嬉々として横たわっていた倒木を指差す。


「そりゃまだ生木だ。煙がひどい上にそのサイズ、火を付けるのにどんだけの火力と時間が必要だと思ってんだ。もっと枯れていて細っこいのが適してるってさっき言ったろ」

「むぅ、雰囲気でる思てんけどなぁ」


 俺にしかられ、しぶそうに目を伏せている水宮。

 彼女の中ではもう今の状況を楽しむ事しか頭にないらしい。


 木々の間隔かんかくは確かに広いものの、それでもやはり樹海だ。足場も視界も良好とは言えない。

 しっかりした移動ルートが想定されている演習予定場とは違う。

 うねった木々の根っこは、まるで俺達を阻害するように地面を伝い広がっていた。


 それでも何とか、俺はまとまった数の枯れ枝を掻き集められた。

 無論、無理矢理付いてきた水宮は何の戦力にもなっていない。――分かり切っていた事だが。


「水宮、だんだん暗くなってきた。足元にはよくよく注意して歩けよ」

「ほいほーい……――うきゃっ⁉」


 そんな暢気のんきな声を返していた水宮が、突如姿を消した。


「――おい!」


 入り組んだ太い根で視認できなかったが、どうやら大きい段差があったらしい。

 それに気付かず彼女はその傾斜けいしゃを滑り落ちていったのだ。


「水宮――平気か?」

「あたたた……。落っこちてもうたぁ」


 下からそんな情けない涙声が返ってくる。――どうやら無事らしい。

 段差の高さは1m以上はあった。

 かなり低いが、がけと言っても差し支えないなこりゃ。


 近場に露出していた大きな樹の根を頼りに、慎重に俺も下へと降り立つ。


「見事に言った途端だったな」

「うぅ……! 気をつけてたつもりやのにぃ」


 水宮の状態をると、泥で半身を汚しているが特にスカートから露出している脹脛ふくらはぎの部分が線をひいた様にまみれている。

 擦り剥いたらしく、左側は若干出血もしていそうだった。


「そこの怪我、擦り剥いたか?」

「そっちの足は大した事あらへんけど、もうかたっぽが滑り落ちた時に地面でぐきってなったぁ」

「足首をくじいたのか。ちょっと見せてみろ」

「いたたた……」


 無造作に投げ出されている彼女の右足首を看てみる。

 際立って異常はなさそうだが、捻挫ねんざなのは間違いないだろう。


「歩けるか?」

「ぐぅぅ……頑張れば……」


 泣きそうな瞳でそう訴えかけてくる。

 まあ、歩けないとそう断言して弱音を吐かない彼女のそのささやかな気丈さが微笑ましい。


「わかったわかった。背負ってやるから心配するな」


 俺は掻き集めた枯れ枝をブレザーで包んで腰に巻き、空いた背中を水宮に差し出す。


「ええの? りょーちん」

「置いて行った方がいいか?」

「――そ、それはイヤや」

「ならほら、掴まれって」


 彼女の前で膝を折って促した。


 しかしどうしてか、水宮は俺の肩に手こそ掛けたものの、そこで動きを止めている様子だ。


「……何してる? この体勢、けっこう疲れるんだけど」

「え、えっとやな、その――」


 顔だけ振り向いて様子を窺うと、何というかまるで恥ずかしがっている素振りだ。


「さっさとしろよ」

「や、やからぁ……うち今汗臭い思うから、ちょっと……」

「昼からずっと歩きどおしだったんだから、そんなの当たり前だろ。俺だってそうだ」

「ゆ、ゆうても……男子が汗臭いのと、女子が汗臭いのは……違うやん?」

「いや、一緒だろ」

「全然違うて! ほらあの、男の子は汗臭いのもフツーやん? まあわかるってゆーか。けど女の子が汗臭いのって……なんか、ダメージが違うやん?」


 何を面倒くさい事を言い出したのかこいつは。

 言いたい事のニュアンスは伝わるが、今この時点で言い出す事柄じゃない。今の状態ならそういう事は華麗にスルーだろうが。


「そうか、わかった。んじゃ水宮はここに残るって事で」

「――それはアカン!」


 すたっと立ち上がった俺の腕を泣きながら引き留める水宮であった。


「じゃあどうすんだよ」

「せ、せやからぁ……! うぅぅ……」


 そんな涙目でにらまれても、ほんと俺はどうすればいいんだよ。


「あのな、そういうお年頃の機微きびはわかるけど、今この状態ってかなり危ういんだよ。こんな場所で明かりを確保する前に日が暮れたら、もう手立てがないわけだ。そういう部分を考慮して、ここはぐぐっとこらえて貰えんかね」


 ちょっと強めにそう釘を刺す。

 事実そういう状態だしな。


「お、おにちく!」


 いや待てコラ。

 まったく紳士過ぎる俺にも限度ってもんがある事を置き去りにして思い知らせてやろうかとも思う。

 まあ無論、そこまで狭量きょうりょうじゃない。


「もうほら、頼むからわがまま言うなって」


 今一度、屈んで背中を水宮にさらした。

 促され、彼女はしぶしぶだが頷く。


「わ、わかった。旅の恥は吐き出せ言うし……」


 遠足レベルの旅だがな。

 それと旅の恥は〝掻き捨て〟だ。吐き出せって何だよ、だいぶ思い切りが良くなってるじゃねえか。


 ともかく、ようやく決心したらしい水宮が俺の背中に身を寄せて体重を預けてきた。

 女の子特有の甘い香りに混じってたしかにほのかに酸っぱいような汗のにおいはするが、そんな気にするレベルでもない。

 至って普通、それが人のにおいだ。


 水宮の両膝の裏に手を回ししっかりと固定し、立ち上がった。

 その際に若干ずり落ちそうなったのか、水宮がぎゅっと首に手を回して張りついてきた。

 うん、あのー、あれだね、詰まる所あれだよね、柔らかくて暖かい膨らみがね、いわゆるあれでね、決してやましい事情ではないわけだが、かと言って健全な男子が何も感じ無いかと言えば大嘘であって、むしろ身体全体を使って喜びを表現したいわけで、アレがアレしてナニがナニになって、まーほら、つまり――ナイスおっぱい。


 心中のそんな意馬心猿いばしんえんを表面に出さないよう苦心しながら、さっき降りてきた崖はさすがに昇れないので脇の緩やかな傾斜から元の場所へと。


 すると、耳元で何やらすんすんと鼻を鳴らしてくる水宮。


「やめろ――すごくやめろ。わざわざにおいを嗅ぐな」

「やっぱりほら! りょーちん、自分かて汗かいてる言うても、全然イヤなにおいはせぇへんやん! 男の子と女の子やとこうも違うんやわ」

「んな事あるか」

「やってそうやもん。なんかほら、不快な感じがせーへんていうか。りょーちんのにおいなんか落ち着くもん」

「それはお前……異性間だからだろ」

「何それ?」

「だから、異性間だからそう感じるだよ。俺からしてみれば水宮だって全然臭くないし、むしろ……あれだ……何て言うか……」

「んんー……?」


 本気でわかってないらしく、口をへの字に首をかしげている。――もうやだこの子。

 そういう方向にはまるで無知な水宮である。

「男女のにおいの違いとは即ちフェロモンの違いであり、においを検出する脳の機能が異性のものと同性ものとではまるで違った検知の仕方をしている。脇や陰部などに存在するアポクリン腺から分泌ぶんぴつされる汗には、異性を引き付けるフェロモンが多く含まれており、また人間の血中にある白血球のパターンの違いにより、個人個人で惹かれるにおいには違いが生じる。これは自分や近親者と異なったパターンを持つ異性を配偶者に選ぶことで、より多様な免疫機能を持つ子孫を残そうとする本能によるものだ」とかいう難しい言葉でにごしていては理解してくれないだろうし――

「突き詰めて言えば、男女がそういう事に至るためのプロセス」と掻いつまんでは口が裂けても言えない。

 というか、何で俺はこんな事で思考をフル回転させなきゃならんのか。


「なあ、今のどうゆう意味なん?」

「なんでもない、忘れろ。ともかく嗅ぐのなし」 

「……うち、ほんまに臭くないの?」

「しつこいって。そりゃレモンやミントの弾ける香りとはいかんだろうが、そんな気にするような程でもないから」

「そこまで言うなら、ええけど……」

「はい、じゃあこの話はおしまい」 

「りょーちん変やの」


 どっと疲れた。


 上まで戻ると急いで来た道を逆に辿り、このまま羽佐間達の居る小屋まで向かう。

 薪木にもう少し余裕を持たせておきたかったが今の量でも問題はない。


「りょーちん、ごめんな」

「いきなりどうした」

「やって、うち今めっちゃお荷物やん。手伝う言うたのにこの有様やわ」

「仕方ねえって。あれだ、気を回して付いて来てくれた――お前のその心意気だけでも充分だ」

「ほんまに? ほんまにそう思う?」

「おう」

「うぇへへー」


 嬉しそうで恥ずかしそうな、そんな屈託ない笑い声がすぐ耳元から聞こえる。

 ――かなりくすぐったい。


「でもあれやで、疲れたらちゃんと言いや? うち片足だけでもなんとか歩けるし、無茶したらあかんよ?」

「お前のその足で歩かせる方が無茶だろ」

「そら、そやけど」

「平気だこれくらい。俺をそこらの軟弱と一緒にして貰っちゃ困る。普段から、もっと苛酷なトレーニングを積んでるからな」

「ほほぉ、どうりでエエ身体しとるわけですなぁ」


 また無遠慮に背中から人の身体を好き勝手にまさぐりながら「仕上がってきてますのぉ」とそれっぽい事を言ってる水宮。

 なんというか、彼女にとっては犬猫を撫でるような感慨なのか。


「でも、なんでそんな鍛えとるん?」

「男の価値は筋肉だからな」

「わぁ、イタイお人や」

「ぬかせ! もうそんな言葉で俺はへこまん!」

「もうって事は、前はへこんでたんやな」

「言うな……!」


 よみがえるトラウマであった。

 いや、違う。時代があれなだけだ。きっとガチムチな兄貴達が大正義な時代が来るはずなんだ。俺は間違ってない。


「でもうちは嫌いやないよ」

「そ、そうか?」

「なんかな、安心すんねんな。たくましいってゆうか、頼りがいがあるゆうか。あ、でもりょーちん限定やで? りょーちんの身体だけな?」


 言葉の上面だけで聞くと、ものすごく変な気を起こさせる発言である。

 当人としてはこれできっと素直にめてるつもりで、そういう意図はないんだろうからスゴイ。


「ほんまに無理したらアカンよ?」

「甘くみるなって言ったろ」


 前に一度だけ文治さんに無理言って同行させてもらった訓練の一つ。

 40kgの背嚢はいのうを背負って、学園の近隣にある2500m級山の踏破。

 そしてその途中にある岩壁でのクライミング体験。

 まだ正式に学園に在籍していなかった時期な上、文治さんが都合を付けてくれたお蔭で、俺はそんな行事を気兼ねなく堪能できていた。

 思えばあれが俺の最後の自由だったか。

 結局は色々と痛い目にあってリタイアだったが、その時に比べれば水宮一人を背負って来た道を戻るくらいわけない。

 いや、あの時背負っていた背嚢よりも水宮はだいぶ重い気がする――などと女の子のタブーに触れる話題はまずいか。

 口には出さないでおこう。


 背負っている手前、水宮の足に何気なく目が向かう。

 左足の脹脛から血がにじんで垂れている。

 さっき擦り剥いた所だろう――水宮は大した事ないとは言ったが、捻挫している右足を含め、やはり気になる。


「まいったな」

「どしたん?」

「その足だよ。せめて湿布や消毒液があったらな。その小屋の中に救急キットの類ってなかったか?」

「どやろか、倉庫に寝室つけちゃいましたみたい感じやった。壁にはカマとかクワみたいなんがあって、別の部屋には折りたたまれたマットとパイプベッドがあってん。あ、そうそう、シャワートイレ付きやわ」

「……水道が通ってるのか、そこ?」

「うん。フツーにお水でた」

「へえ……」


 じゃ、やっぱりこの辺りにも人が来るのだろうか。

 にしてもそんな場所で寝泊りするというのも変な話だ。


「これくらい平気やから」


 俺の黙した思案顔を勘違いしたか、水宮はそう明るく言う。


「じゃあ歩け」

「おにちくぅ」

「真面目な話、蒼沼付近に生えてる野草で対処できねえかな」

「野草?」

「まあ、つまり薬草だよ」

「薬草? 回復するやつ?」

「だな」


 まあ、ゲームみたいに瀕死の重傷からたちどころに回復ってのは無理だし、症状と効能を照らし合わせなきゃだが。


「たしか切り傷や擦り傷には殺菌効果のあるクマザサの葉が効くらしい。あとドクダミの葉とかも有名だ。他には名前の通り止血効果があるチドメグサとか。正確には植物じゃなくて地衣類っていう分類のサルオガセも天然の抗生剤って呼ばれてる。くじいた右足に効くのはツワブキの花だが、残念ながらまだ花が咲く季節じゃないな。今の時期ならスミレとかもれ物に効くっけか」

「ほへー」

「漢方とかなら、薬草ってのはだいたいは乾燥させてから粉にして服用するもんだが、生の葉っぱや根っこをそのまま患部に貼り付けたり、しぼったりあぶったりしても用いれる。即席だろ?」

「そんなんよう知ってるなぁ」

「そういや、昔は苔を止血剤にしてたって話も聞いた事ある。神山の能力使って患部を覆わせれば包帯代わりに活用できるかもな」

「りょーちんは色んな事知ってるんやな」


 背中から感嘆の声が聞こえる。

 これもすべてディスカバリーチャンネルの受け売りとか言ったら、威厳が損なわれるだろうか。――黙っとこう。

 まあ、小屋の近くに目ぼしいのが自生してりゃの話だ。


「りょーちんはすごいんやな。物知りさんやし、頼りになるしやし」

「まあ、自慢じゃないが――っていう自慢だが」

「なんやそれぇ」


 そうやって水宮はまた屈託ない笑い声をあげる。


「でもそういう……なんやかんや冗談めかしてても、何てゆうか、りょーちんはどっかで冷静やねんな。キモがすわってるってゆうか、一歩ひいた目線から物事をちゃんと見れてるってゆうか」

「やけに褒めてくるな」

「うちは頭悪いし、ぬけてるばっかりやから、そんなりょーちんがちょっと羨ましいかな」


 その声に少しだけ俺はどきりとした。

 顔は見えないが、右耳に吐息と共に触れたその声は、なんだか憂いを多分に含んだ響きだ。

 あの闊達かったつな水宮からは想像もできなくらい、ひどく哀調を帯びたものだった。


「なんだよさっきから? 俺を褒めても食い物なんか出てこねえぞ」

「あちゃー、そら残念やわ」


 しかし次に聞こえた水宮の声は、いつもの彼女のものだった。

 朗らかで剽軽ひょうきんなあの感じだ。

 そしておどけた後のように、水宮は声を立てて笑っている。


 冗談なのか本気なのか、どこか曖昧な雰囲気が後を曳く。

 そんな印象だった。


 けれども、これ以上立ち入って話をするほど俺は不躾ぶしつけではなかった。

 俺の知らない水宮がいて当たり前。

 誰にだって、どんな人間にだって、関知できない事情はある。


「まあ俺がもしそういう風に見えるとしたら、ただ必死でそう見せかけてるだけって話だがな。……理想には容易く届かないもんさ……」

「理想?」

「なんでもねえよ」

「うん?」


 褒められるのは嫌いじゃないが、まだまだ俺はそう手放しで賞賛される人間ではないと自覚している。

 まあ、自分のひそかなる野望のため、口先だけじゃない男になろうと必死で努力してきた成果が出ている証拠として受け止めておくか。



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