〈5〉


 週末明けの放課後、寮に戻っても暇を持て余すだけなので、俺は学園内の図書館へと向かおうとしていた。


 高望みさえしなければこの刑務所のような生活も悪くない。

 寮では毎日、味も量も申し分ないきちんとした食事が出るし、見つける努力さえすれば娯楽もある。

 無理をして下の町までり出す事もない。


 広すぎる校舎群は目的の場所まで向かうだけだというに、あり得ないぐらいの時間を要求する。

 いっそ校舎内にもモノレールを走らせろと思う。


 すると渡り廊下の先に、向き合っている二人の人間を見つけた。

 白衣のようなものを着ている妙齢みょうれいの女性と――そして特に、着崩れたような軍服を来ている規格外に大きな背中には強烈な見覚えがあった。


「文治さん!」


 俺は久しぶりに見れたその頼もしい背中に、思わず声を弾ませてしまった。


「おぉ、亮一か」


 岩が動いたような錯覚をともなって、その巨体がこちらを振り向く。

 身長190を超える筋肉質なその肉体は、圧巻という言葉では表せないほどの迫力を有していた。

 脂肪を排しながら鍛えこまれて肥大化した筋肉が、深緑色をした軍服のその分厚い生地を内側から押し上げている。

 ただそこに立っているだけなのに、何かの圧力が熱となってむっと漂ってくる。


「お久しぶりです。こっちに戻ってたんすか」

「ちょっとした用事でな」


 その重厚だが艶のあるバリトンいかつい容姿にとてもよく似合う。

 四角い頑丈そうな顎、分厚い唇に獅子鼻、雑に刈られた短い頭髪。

 一見すればおっかない事この上ないのだが、彫りの深いその目許はいつも優しげだ。


 彼の名前は鎖崎さざき文治ぶんじ


 年齢は30代後半ぐらいだろう。――詳しくは知らない。

 UVFの隊員であり、今年の春までは任務中に負った大怪我のリハビリを理由にこの学園の監督官を兼任していた。 


 UVFとは――Unionユニオン the Variousヴァリエース Forceフォース――人間と異能者を混成して組織された国連所属の精鋭部隊の総称。

 即ち、人類の安寧あんねいおびやかす化け物達――PD型親類種の出現にいち早く駆けつけて、これと相対する集団の事である。

 常に第一級の場で戦い続けている本物の英雄リアルヒーローたちだ。


 そしてそんなUVFの中でも、彼の横に並ぶ存在は無いとされている。

 ――いわく、最強の能力者であるとか。

 ――いわく、いや能力を使わなくても最強であるとか。

 ――いわく、むしろ能力を使わない方が強かったとか。

 そんな類の大袈裟な噂話だが、彼にはそれを真実とさせてしまう程の説得力があるのだけは確かだ。


「あら玄田くん、今期入学の君が鎖崎さんを知ってるの?」


 大岩のような文治さんの背中に隠れて見えなくなっていた女性が顔を出した。

 高等部一年の特別学科を担当している寒河江さがえ亜紀あき教官だった。

 もうそこそこな年齢だと思われるが、ヒールに厚化粧、白衣の下には胸元のがっばー開いたスーツをいつも着ている。


「入学前の年明けから新学期が始まる4月までの間、文治さんには無理を言って指導をお願いしていたもんで」

「そうだったの。それは意外ね」


 俺がここに連れてこられたのは年明け早々だが、検査やら何やらの結果待ちで入学を4月からの新年度に繰り越した。

 学園には居たが授業に参加していなかったその期間に文治さんと知り合ったのだ。


「どうだ最近は、ちゃんと鍛錬は続けているか」


 そう言って文治さんのごつい掌が俺の肩をぐっと力強く包む。

 次の瞬間、不可思議な事に俺は体勢をぐらりと揺らめかせる。

 身体が勝手に横に流れ、つんのめってこけそうになる体を必死で保った。


「ふっふ、相変わらずバランスが悪いな。負荷の高いトレーニングばかりしている証拠だ。筋肉を大きく育てるのもいいが、大切なのはそれの合理的な使い方と、そして体幹だと教えたろう」

「ちゃ、ちゃんと走り込んだりもしてますってば!」


 文治さんのこのマジックの種明かしを未だに俺はされてない。

 一体全体どういう力の加え方をしてるのか、手で触れるだけで俺の身体の芯を揺らしてしまう。

 まだその能力を見た事のない俺にとっては、それが文治さんが発現させたチカラなのかともいぶかしむが、実際の所は判断できない。


「それでは鎖崎さん、例のお話はこちらから理事に通しておきますので」

「ええ。よろしくお願いします」


 寒河江教官がにこりと軽い会釈をして、その場を後にする。


「何の話してたんすか?」

「なぁに、ヒヨッコのお前には関係のない事さ」


 今度はその大きな掌がぼふっと俺の頭を覆う。

 さすがに子供扱いのしすぎに腹を立てる場面だった。


「必ず士官候補の推薦枠を獲得して、入ってやりますよ――UVFに!! そんで絶対、文治さんの下で働きますから俺!」

「そうか、待ってるぞ――」


 口の片端だけをニッと横に引いて、その頼もしい笑みを顔半分で向け、文治さんもまた行ってしまった。


 UVFの隊員は化け物相手に日夜熾烈しれつな戦いを繰り広げている。

 この学園に姿を見せたのだって、きっと特務か何か授かったからなんだろう。

 名残惜しいが引き止めるわけにはいかない。

 遠ざかるその大きな背中を眺めつつ、俺は何の言葉も口にはしないのだった。


 俺の野望の原点は間違いなくあの人だ。

 ヒーローになりたい――いいや、本当はあの人のようになりたい。

 世界や他人が自分達にどれだけ冷たくあたろうと、それでもその世界や他人を守る為に命を削って戦う。


 俺はあの人のようなヒーローでありたいと願う。


 この世界は俺達にとってあまりに苛酷かこくなのかもしれない。

 それでも、俺が俺である事をやめるだけの理由にはならない。――かつて、そういう気持ちをあの人から貰ったのだ。





















 文治さんからダメ出しを受けた為、さっそく俺は目的を変えて走り込む事にした。

 実はここ最近、ランニングをサボっていたのは紛れもない事実だったのだ。――まったくなんて精確さだよ。


 秘めたる野望のため、三か月ちょいの間、軍隊式の特殊な訓練を無理を言って文治さんから受けていた。

 彼がこの学園を去ってからも自主練習的にそういう訓練を日課としている。


 更衣室で運動服に着替え、中庭で準備運動をする。


 この自然豊かな土地は、鍛錬に用いるために手頃な地形が豊富にある。

 例えばちょっとした崖の上からロープでも垂らせば登攀とうはんの訓練場になる。

 そういう秘密の場所を入学早々から見つけて活用していた。


 登攀――クライミングの鍛錬は良質だ。

 見た感じで腕力を中心に鍛えているように見えて、実は何よりもバランス感覚、身体のかんとなる部分の筋肉が鍛えこまれる。

 登っている内に知らず、そういう部分が矯正されていくのだ。

 時折もっとハードにと指の力だけで全体重を支えてみたりするが、それだって肩、背中、腰――それら中枢がきっちりと仕上がっているから出来る芸当だ。

 下の町に行けばボルダリングの練習場は幾つかあるが、この野性味あふれるような環境がたまらんのだよ。


 まあただ今日は走り込むのが目的だ。

 険しい坂道をという選択もあったが、今からこの学園の山を下るにはさすがに時間が掛かり過ぎる。

 校舎近辺でも事足りるならば、わざわざ遠出するまでもない。


 幸いというか敷地だけはキチガイレベルで広いこの学園の長所として、どこであっても体を動かすのにはばかる必要がないという部分がある。

 様々な木々で彩られた中庭だけで、普通の学校のグランドの4倍近くはある。

 もうこれはちょっとした森だ。

 入学当初、教室移動の度にタブレットのナビ機能を片手に目的地を探し当てていたのを思いだす。

 まあ、今でも油断すりゃ校舎内で漂流なんてざらなわけだが。


 学校の中には、既に人影が無くなりつつある。

 そんな物寂しい風景を流しながら、俺は自らの身体をいじめ続けた。

 基礎体力には自信がある方だが、持久力がないと自分でも分かっている。

 走り始めてわずかで息は上がり、体は汗でまみれてくる。

 インターバルを取りながらそれでも繰り返し走り続けた。


 肉体に蓄積されていく疲労のこの感覚――何となく好きだった。

 頭でっかちな俺みたいなのは、こうでもしてないとどうでもいい事を際限なく考えあぐねてしまう。

 頭が真っ白に近付いていくこの感覚は、具合が良い。


 体感で一時間半ぐらいは経っただろうか。

 ペースを落とし、汗が引くまで中庭をゆっくり歩きながら息を整える。


 すると、目の前をさっと横切る小さな影があった。

 日が傾いて暗くなり始めた中庭に光る小さな目が二つ。

 どうやら猫みたいだ。

 それもこの前水宮が我を忘れるほど「にゃーにゃー」していた、あの茶色い毛並みの猫だ。

 やっぱりここに住み着いているらしい。

 茶色の猫は俺を見て一声甲高く鳴いたかと思ったら、もうしゅっと茂みの方へと隠れてしまった。

 何となくだが、棲みかでもどっかにあるのかと気になった。


 一度近場の水道でゆだった頭を水で冷やしてから粗くタオルで拭く。

 その後で猫が入っていった茂みを掻き分け、木々が交差するように乱立するその中心部へと俺は向かった。


 中心部はほんとうにちょっとした森林地帯である。

 湿った空気と薄暗い景色、かなりおどろおどろしい。

 そんな中、地面から出張った岩の陰に目当ての茶色い猫を見つける。

 しかし驚いたことに猫の姿はその一匹だけではなかった。

 他にもう二匹、白黒のブチ猫とキジトラ模様の猫が岩陰にてくつろいだ様子で寝転んでる。


 だがもっとも驚いたのは、そこに人影があった事だ。


 見知らぬ女生徒が岩のくぼみに腰掛けて、足元の猫たちを眺めていた。

 その着ている制服からこの学園の生徒だというのは分かる。

 小柄で大人しそうな女生徒だ。

 制服が高等部のもので、左胸にある記章ワッペンの形からして同学年だ。

 手に提げたビニール袋の中には猫用の缶詰だろうか、そういったものが透けて見受けられた。

 どうも彼女が猫たちの飼い主らしい。


 ふと俺の事に気がついたらしく、視線が下から上へとなぞるように動いた。


「あ……」


 小さな声が上がる。

 そして、相手はそのままの状態で固まった。


「ああ、悪い。驚かすつもりはなかったんだけど」

「…………」


 挨拶代わりにそうびたのだが、なんだか様子がおかしい。

 口を開けた状態のまま、その生徒の動きが完全に止まっている。

 心無しか瞳孔も開いてる気がする。


 ともかく俺は、相手の反応を待った。

 5分か10分かはしただろうか、おもむろにその開いたままの口が痙攣けいれんするように動き始めた。


「……ドウモ……デス……」


 ――カタコト!? ――カタコトナンデ?!

 見た感じは同じ日本人だろう。

 癖が多いのかぼさぼさの黒い髪、大きめの眼鏡の奥の目鼻や口などの造形もごく平均的なそれだ。


「その猫たちの、飼い主さん?」

「ア、ハイ……あ、イヤ、違いマス……」

「えーっと?」

「ア、シュマセン……飼ってるわけじゃないでス……ハイ」

「う、うん。そうか」

「ハイ……シュマセン……」


 顔が紅潮して冷や汗をかいている。視線が定まらずせわしなく動いている。やたら早口である。口の中だけで喋るため声が小さい。

 ――これはあれですね、コミュ症ってやつですね。


 まずい、どうすべきか。

 これ以上刺激しないように早々にこの場を立ち去るべきか。

 しかしこちらから話しかけておいて立ち去るというのも、それはそれで失礼に値しないだろうか。


 どう行動すべきか考え迷っていた俺だったが、ふと周りの猫達が何やら物欲しそうな声で鳴き始め、凍りついている女生徒の足元に擦り寄る。

 どうも猫達は餌が欲しいみたいだ。

 その事に気付いた女生徒は、弾かれたようなぎこちなさで提げていたビニール袋から猫用の缶詰を取り出した。


「あ……」


 しかし彼女はまたしても小さく声を上げる。

 見遣れば、今度は缶詰を凝視したまま固まっている。

 その視線の先を数度辿たどって、俺もその事を知る。

 彼女が買ってきたらしいその缶詰は、素手で開けるためのプルタブ等が付いていないのだ。

 そこから察するに、おそらく缶切りとかを用意してこなかったのだろう。


 猫達は甲高い声で甘えるように彼女の足元に身を寄せているが、このままではお目当てのご飯には有り付けそうにない。


「ちょっといいか、それ貸して」

「エ……ハイ、あの…?」

「いや、その缶詰なんとか開けられる」

「――え?」


 沈んでいた表情が俺の一言でぱっと華やいだ――気がする。


 こんな事もあろうかと、俺は日夜ディスカバリーチャンネルで学習していたサバイバル技術を披露してやる事にした。

 いや何を隠そう、実はこういう機会を待っていた。


 特に俺が缶切りなどの道具類を持ってないと知ってか、若干疑っているらしい彼女はおそるおそるに缶詰を差し出してきた。

 俺はそれを受け取ると、側にあった岩の平らな部分にさも当然のように缶詰の上面を押し付けた。

 そして俺の挙動を不審げに眺めている女生徒にまるで構わず、思いっ切りがっしゃがっしゃと缶詰をその状態で岩に擦り付ける。


 俺の奇行を驚愕の目で見つめる彼女と猫達。


 十分なまでに摩擦を加えた後、掌の上に戻し、缶詰を挟み潰すように両側面からぎゅっと握った。

 すると次の瞬間、ぱっかりときれいに缶詰の上側の蓋が外れる。

 少しだけ中身をこぼしながらも、蓋は完全に開いたのだ。


「あっ……」


 またしても小さく声を上げる。

 しかし今度のそれには、少なくない感動が含まれていた事だろう。


 摩擦で密封してある蓋のへりの部分が剥離はくりし、握ったことで内部からの圧力により脆くなった蓋が押し出されて外れる。

 一般的な構造の缶詰ならば、硬くて平面な場所さえあればこの方法で開封は可能だ。

 いやはや、ディスカバリーチャンネルって凄いもんだ。


 俺は同じ要領で、残りの缶詰も開けてやる。

 彼女はそれをコミカルな猫のイラストの描かれたお皿に盛って、さっきからせびるように鳴いている猫達へと差し出した。

 ようやくご飯にありつけた猫達はよほど腹が減っていたらしく、がっつくようにして瞬く間にそれを食べ終えた。

 うむまあ、取り敢えず俺は役に立てたようだ。


「ありがトウ……ゴザイマス。その、アノ……」

「いやいや、どういたしまして」

「アノ……玄田くんも、猫好きですか?」

「――うん?」


 その女生徒の言葉に違和感を覚えまくりで、思わず間の抜けた声を返していた。

 あれ? 俺いつ自己紹介なんてした?


「あっ、アノ……あれ? 違う? ……でも、玄田くんじゃ……?」

「いや、うん。俺は玄田だけど――うん?」

「……私……同じクラスの……神山です」


 やっべぇ。

 これはいけない、人としてやっちゃいけない事をした。


「ああ! うん! 知ってたよ、 同じクラスのカミヤマだろ? 最初から気付いてた」

「………………」

「ほんとほんと! 会った瞬間から分かってたから! うん!」

「………………」

「そのー、ね? ほらあの……」

「………………」

「本当に申し訳ない」

「いいです。私、影薄いカラ……」


 そういう事言われると余計に罪の意識で胸が苦しくなるわけだが。

 しかしながら、二ヶ月弱も経つのにクラスメイトの顔をまるで存知上げていなかった俺が全面的に悪い。


「それに私、こけ女だから……関わりたくないのもワカる」

「苔女?」


 俺がおうむ返しに問うと、神山はこくりと頷く。

 そして、さっきまで座っていた岩に指の腹をぴたりと付けた。

 するとたちまちに灰色の岩肌が濃い緑色で覆われていく。

 何事かと驚いた俺だったが、よくよく注視すれば岩の表面にふさふさとした植物らしきものが生えているのに気がついた。


「へえ、なるほど苔か」

「アノ……こんなの、気持ち悪いよ……ね……?」

「いいや、そんな事ないだろ」

「エ……? でも、変だし……」

「馬鹿言え。そんなの言い出したら、俺達全員が変って事になる。神山が苔女ってんなら、俺なんか土男――いや、泥男になるな」

「……あ……」


 よくは分からないが、俺の言葉に納得したのだろうか。

 またしても停止している彼女だったが、さっきより幾分表情が柔らかい気がする。


 それらが発現した事で、彼女が周りからどういう扱いを受けたか。

 親しかった人間の目がどういう風に変わったか。

 だが少なくともここに居る俺達だけはその思いを共有できる立場にある。

 それ故に俺ははっきりと答えた。


 これを才能として受け止めきれる人間も居れば、呪いとして受け取ってしまう人間もいよう。

 けれどこの学園にいてのみは、それは目や耳や鼻の形、声や体付きと同じで、ただの個性であると――そう信じたいもんだ。


 そろそろ、日も暮れ切ってしまいそうだ。

 元から薄暗いこの場所は一足先に夜になったかのよう。


「だいぶ暗くなってきたな。荷物を校舎のロッカーに預けたままなんだ、悪いけど一足お先に帰るよ。またな、カミヤマ」

「あっ、ハイ……。また……」


 そう切り出した俺に向かって手の先だけを動かし、小さくバイバイをしている。

 なんだかその様が気の小さい彼女らしく妙に似合っていた。





















 寮に戻ってから、さっきあった失敗談を自室で時野谷に笑って聞かせた。

 まさか同じクラスの人間だとは思いも寄らなかったというインパクトが強くて、誰かに話さずには居られなかった。


「――てな事があってさー。いや参ったよ」

「うん、神山さんだよね。神山かみやま癒月ゆづきさん。というか、亮一くんあの……」

「おう」

「神山さんの席、亮一くんの後ろなんだけど」


 うっそだー。

 そんなまさか、いくらなんでもそれは……――うっそだー。


「――冗談?」

「――本当」


 そんなバカな、嘘だと言ってよ。

 いや、これはもうあれだ――俺の認知能力が低いとかじゃなくて、神山のステルス能力がズバ抜けていると言うべきではないのか――むしろそっちの方が特殊能力なんだろうきっと――目の前で苔を生やした様に見せたのは実はトリックで、なんかこうよくある思考の穴とかを突いた――ともかくトリックなんだよっ!!


「もしかして時野谷、今ちょっと俺のこと軽蔑してる?」

「さすがに、酷すぎるよそれ」

「いやいやいやいや、実際あれよ? ね? 実際問題かなりのあれよ? ほらつまりさ、俺がどうとかじゃなくてね? 何て言うかさ、かなりのさ? こう擬態ぎたい能力? ……彼女かなりのステルスっぷりだと思わない?」

「ちょっともう話しかけないでくれるかな」

「――時野谷?!」

「もう知らない」


 割と本気で怒っているらしい時野谷はぷいっとそっぽを向いてしまった。

 そんな仕草でさえ胸を打つ可憐さだったが、それはともかく、このままでは時野谷に見捨てられてしまうので俺は限りなくみじめに取り繕った。


「ま、待ってくれ――時野谷ぁ!? お前に捨てられたら、俺は一体どうしたらいいんだっ……?! ああうあう……謝るからあ……! 明日ちゃんと神山に謝るからあっ……! うぇうえ……おえっ……」

「ほんとにもう、人として最低だよ?」

「うん、それは俺も思った。本気で悪かったと思ってる」


 別れ話を切り出されたダメ男的なリアクションで、なんとか時野谷との関係を維持できたのだった。

 ふう、一件落着。


「話は聞かせて貰った!」


 そんな折、出し抜けに部屋のドアがばんっと勢いよく開けられた。


「なんだハゲ、呼んでねえぞ」

「だからハゲじゃねーっ!!」


 初っ端からテンションを飛ばしまくっていやがる羽佐間だった。

 俺と時野谷の二人だけの時間を邪魔するとは、なんて野暮だ。


「盗み聞きしてるような奴はハゲだ。ハゲの中でも最も残念なハゲだ」

「ハゲハゲうるせーよ! 坊主にしてるだけだっつてんだろっ!」

「現実を受け止めろハゲ」

「だぁからっ! ……つかなお前、そういう事を言ってくる奴に限って将来ハゲたりすんだからな!」

「ぬかせ。俺の一日のワカメの摂取量なめんなし」

「――気にしてんじゃねーか?!」


 そんな不毛な会話を繰り広げた後、場を仕切り直すように羽佐間はびしぃっと俺に指を突きつけた。


「ともかくだな、話は戻るが、その神山の能力かなり使えると見た」

「はあ?」

「いいから玄田、お前彼女を口説き落としてこっちに協力させろって」

「ふざけんな。俺はまず文通から始めるタイプなんだ」

「知るか! 男なら一発かましてこい!」

「そもそも何を根拠に巻き込むって?」

「だからよ、ステルスだよステルス」

「お前、マジで馬鹿だったっけ?」

「へっ! 言ってろ! 俺にはちゃんとしたプランがあんだよ。ともかく、今週の課外授業までに神山をこっちに引き込んどけよな。じゃ、そういう事で――」


 やって来た時と同じぐらいの唐突さで、ばたんとドアを閉めていった。


「なんだアイツ?」

「さあ」


 顔を見合わせるしかない俺達だった。

























 朝に教室で確認してみると、神山は本当に俺の席の後ろだった。


 彼女はそこで背を丸めるようして文庫本を読みふけっている。

 驚愕に打ちひしがれてざわざわと震えている俺へ、時野谷の呆れたような冷たい視線が刺さる。

 なんとか声を掛けようとしたのだが、相手は本から顔を上げようとしないくらい夢中になってる。

 どう切り出せばよいのやら――そんなこんなでタイミングをいっし続け、結局昼休みになるまで行動に移せずいた。

 時野谷の俺を見る目がどんどん冷淡になっていく手前、意を決してこのタイミングで声を掛ける事にした。


「よ、よおっす! 神山!」

「あ……ハイ、ドウモ」

「昼飯、いつもどうしてんだ? 食堂か?」


 俺の問いに、神山はがさごそとパンの入った紙袋を取り出した。


「買って……あるんだ。うん、そうか」


 一緒に食堂へ向かうという、自然に会話を繋げるための最大の口実を失った。

 ここで俺がパンなり弁当なりを用意していれば、まだチャンスはあったろう。

 しかし俺はお昼はいつも食堂派なのだ。

 既に俺が、手足をプラつかせつつ、特に何をするでもなくここに留まっている事自体が不自然だ。

 彼女は紙袋を手前に抱えたまま俯いて、相変わらず身動みじろぎしない。


「まあ、あれだよな? なんつーか、ほら……うん……」

「……………」

「実際――実際な? 天気がさ……天気が良いよな……。うん、天気がほら……」

「……………」


 きつい。

 俺だって本当は結構人見知りなタイプなんだよ。

 よく知らない人の前では緊張して、上手にお喋りなんかできねえんだよ。

 すがるような目で2列隣後ろの時野谷を見るが、彼は首を横に振るだけ。

 せめて羽佐間を巻き込んでわずかばかりでも会話の切っ掛けを作ろうとしたが、奴は既に食堂に向かった後だった。――くそったれ。


 こうなったらもう、切り札を抜き放つ他なかった。


「み、水宮ぁー!!」

「はえ?」


 教室の入り口付近で他生徒と大きな声で談笑していた水宮を――おそらく対極に位置するであろう彼女を――俺は召喚した。


「何やのもう、大きい声出してからに」


 水宮が怪訝な顔をしながらのこのことやって来る。


「あー、おっほん。神山、これが水宮だ」

「エット、ハイ、あの……?」

「それから水宮、こちらは神山癒月さんだ。ご挨拶なさい」

「うん。知っとるよ」

「――いいから挨拶なさい!」

「へぇ? まあ、ほんなら、水宮晴香です。よろしく」

「ア、ハイ……神山です」


 二人とも釈然としないまま、それでも素直にぺこりとこうべを垂れる。


「えー、それで水宮、お前は猫が好きだよな」

「うん、好きやで」

「それに神山、君も猫が好きだな」

「はい……」

「え? ――そうなん?」


 よっしゃ、喰いついた。

 俺は内心で大きくガッツポーズを取る。


「実はな、この前国村先生に呼び出された時に中庭で見かけたあの猫、神山が餌とかやっているそうだ」

「ええ!? それほんまなん?!」

「アノ……えっと……」

「ゆづちーがその猫さん飼っとんの?!」

「ア、チガ……飼ってはない…です。ゴハンあげてたら、懐いてきて……増えちゃって……アノ……」

「――増えた!? 増えたてどういう事っ!?」

「中庭の奥の雑木林が、猫達のたまり場みたいになってんだよな? そこに茶色のやつ以外にもう2匹は居た」

「ウン……。あそこに……今は3匹」

「どういう事やの……どういう事やのそれ!? ――どこのぱらいそやのそれぇーっ!?!!」


 信じ切れぬという風に、水宮は頭をかき乱して声を荒げた。


「なあ――なあっ! うちもそこ行っていい? 猫さんにゴハンあげていい?」

「べ、別に……私に許可とらなくテモ……その……」

「ゆづちーお願い! うちも一緒に行ってええやろっ? ――なあ! ほんまお願いっ!」

「アノ……だから……」

「お願いお願いお願い! 一緒に! なあ!」

「……じゃあ……一緒に」

「ほんまに!? やったぁ!! ――そしたら早速今日の放課後な? 猫さんとこ行く時、うちも一緒に連れっててな?」

「……うん」


 ドヤァァァァァ。

 何たる天才的采配さいはいであろうか。

 氷を溶かすは熱。旅人のコートを脱がしたのも太陽。かたくなな神山の心理的障壁をこじ開けたのは、お日様のように無遠慮で厚かましい水宮だった。

 無論、この俺の目論見通りである。

 正反対な性質の二人――そんな対極に位置していた星が、今この瞬間俺の導きによって交わったのである。

 陰陽、和合すべし!


 これで少なくとも水宮をダシに、今週の課外授業の計画に神山を巻き込む事が可能となった訳だ。


 ただ未だに目的を果たしていない俺を見る時野谷の目は相変わらずのジト目だ。

 まあ、それはそれでスパイスがあって大変良ろしい。






















 放課後、気晴らしのため校舎の屋上へと上がった。


 山の上に建てられているだけあって、ここからの景色は壮観だ。

 下を見遣れば濃い木々の緑が斜面に沿って広がり、それを線路が真っ直ぐに割っている。

 路線を辿たどってみれば繁華街に行き当たり、ここからなら大小様々な施設が並んでいるその全容が見渡せる。

 今日は空も晴れ渡っているから、実に好い。


 しかしそんな折、出し抜けに持ち前のタブレットからシステム音が鳴った。

 無駄に機能を揃えたこの官給品、いわゆる独立型の情報端末としても勿論機能する。

 その一端である校内の敷地に居さえすれば望んでなくともリアルタイムで接続されるオンラインコミュニケーションアプリ――まあつまり、簡易的なメッセージを高レスポンスでやり取りできる学園全体を巻き込む高機能なチャット。

 そこから俺宛にメッセージが来たのだった。


「羽佐間か……」


 画面には羽佐間のIDが付随されたメッセージが表示されていた。

 極めて面倒臭かったが、仕方なく操作する。

 無駄にった視覚エフェクトで画面からは文字が飛び出して見える。


〈今ドコだ?〉


〈屋上〉


〈どこのだよ〉


〈学校〉


〈なめてんのか〉

〈学校のどの校舎かきいてんだよ〉


〈その問いに答えるには〉

〈まず我々が〉

〈どこからやって来て〉

〈どこに向かうのかという〉

〈命題を〉

〈解き明かさねばならない〉


〈何言ってんのオマエ?〉


〈つまり〉

〈人の一生というものは〉


〈そーゆーのいいから〉


〈聞けよ〉

〈今から深い事を言うんだから〉


〈めんどーな事いいから〉

〈どこだよ?〉


〈じゃあヒントな〉


〈うるせー〉

〈さっさと答えだけ言え〉


〈無理です〉


〈早く〉


〈嫌です〉


〈いいやもう〉

〈こっちでタブレットの追跡アプリ〉

〈使うから〉


〈ストーカーやめて〉


〈キモイなお前〉


〈暴言はNG〉


〈うわ〉

〈東側校舎の4番棟じゃねーか〉

〈なんで教室から一番遠い〉

〈そんなトコに〉


〈話す事は容易い〉

〈だが〉

〈理解を得る事は容易くはない〉


〈別にどーでもいいか〉


〈そりゃないぜ〉


〈中央まで降りてこいよ〉

〈俺も向かうから〉


〈やだ〉


〈上がって来いってか〉


〈はい〉


〈シ・ネ〉


〈チャットの利用規約違反〉

〈これは通報ですわ〉


〈そこから飛び降りろ〉


〈もはや言い逃れできないレベル〉

〈司法が今〉

〈俺に味方した〉


〈なんならこの手で突き落とす〉


〈明確な殺害予告の証拠〉

〈法廷で会おう〉


〈あーもう〉

〈ほんとメンドくせーなオマエ〉


〈お〉

〈示談か?〉

〈示談か?〉


〈行ってやるからよ〉

〈絶対そこから動くなよ〉


〈前向きに〉

〈検討させて頂くという形で〉


〈やっぱシ・ネ〉


 とまあ、いつも通りそんな香ばしいやり取りが終わると、俺は一層ぐでーっとだらけて景色を眺める作業に戻った。



 それなりの時間そうやって頭を空っぽにしていると、後ろから馴染みのある声が掛かかった。


「あー、ようやく見つけたぜ」

「本当に来たのか」


 ベンチでくつろいでいた俺は、面倒臭げに声の主を振り仰ぐ。


「マジで何してんだ? こんな人気ひとけのない屋上なんかで」


 天気が良かったので時野谷に「まずウチさぁ、屋上……あるんだけど……焼いてかない?」と日向ぼっこに誘ったが、やんわりと断りを入れられた次第であって、そもそもアイスティーの用意もしてなかったなと――計画の反省点を洗い出していただけだ。


「特に何も。そんで、どうなすったね?」

「ふふん! 聞いて驚け――まさに天啓てんけいってやつだぜ!」


 またそうやって左のまぶたを閉じて、何の根拠も無さそうな自信にあふれたお得意な顔を見せる羽佐間。


「お前の言ってたこのタブレットの強制GPS機能と、境界に近づいたら警告文が送られてくるって話。本計画の最大の問題点であるそいつらさ」

「どうにか出来るってのか」


 高機能でありながらコンパクト――そんなハイテクの塊である自らの電子生徒手帳をもてあそびつつ、羽佐間は得意気に話を続ける。


「言ったろーが、天啓ってやつだ。ちぃっとばかしヤバイ賭けではあったがな」

「というと?」


 勿体ぶる羽佐間に俺は身体ごと向き直った。


「実は俺らのタブレットから、一時的に学園とのリンクを切断できるっていうとんでもねープログラムがあってだな」

「なんじゃそりゃ? ……それって、間違いなく違法なんだろ?」

「まあな。あんまし大きな声で言えないが、そういう分野に滅法強い人間が学園の卒業生にいたらしくてな。その人が独自に開発したっていうコンピュータウィルスの一種なんだが、それがここ最近になって表に出回ってるんだとさ。学園側も火がついたような勢いでこの違法プログラムの駆除と注意喚起をしてるけどよ」


 そういえば、モンモくんがそんな事を言ってたっけか。


「まあしかし、こーいうモンの感染力はその経路の多さから爆発的に拡がってくもんだぜ。それを今回、先輩方が人脈をフルに活用してくれて」

「――入手できたと?」

「ふふふん! どーよ俺!? すごくね?!」

「いや、お前がすごい訳じゃねえが。……成る程、そのウィルスに外に抜け出る際の俺達のタブレットが折り悪く感染しちまって――というあらましか」

「そーそー。あくまで不幸な事に、その時だけ感染しちまうワケよ」


 羽佐間がそうニヤリとして、言外に悪巧みのり糸を匂わす。


 確かに一応の筋道は立っているか。

 要約すると、俺達の生徒手帳の方に細工を施し、GPSをくらませ、学園警備部隊からのその警告文に気づかないフリを決め込むという算段らしい。

 そのプログラムとやらが確実に通信機能やGPS機能を停止させてくれるなら、問題はクリアされたと言っても過言ではない。

 タブレットの不具合、そして監視網の不備――この二つの不幸な事故により、俺達は晴れて学園を抜け出せる訳だ。


 ――が、なんだか出来すぎた話に聞こえなくもない。

 俺はその事実を天啓だなんだとは受け止める気はさらさらないのだが、当の羽佐間はもう何かノリノリである。


「そんなわけでよ、計画に向けて障害は一つ一つ取り除かれてる状態なんだが……」


 調子良さげに語っていた羽佐間の表情がうつろいだ。

 何やら含みのありそうな言葉を残して、口を閉ざしてしまった。


「見通しは良好なんじゃねえのか。なんでそこで歯切れが悪い?」

「まあ、その事はいーんだが、そのだな……」


 らしくない羽佐間のその素振りに俺は怪訝な眼を向けていた。

 ややあってから、羽佐間は意を決した様に顔を上げた。


「聞いた話なんだが、玄田――お前さ、霧島との件でもしかしたら監査室に目を付けられたかもって話、……本当かよ?」

「その事か」


 俺はまた大仰に青空を見上げる。


「目を付けられるかもって話で、国村先生には釘を刺されたのは確かだな」

「マジなのか。さすがに問題行動起こし過ぎたって事か? ……にしたってちょっと、学園に入って二ヶ月でってのは異例じゃねーか?」

「先生にも褒められちった」


 俺は何ともないという風をつくろっていたが、しかし羽佐間の顔は深刻だった。

 どうやら、一丁前にこちらを心配してくれているらしい。


 能力の無断使用――正確には能力を使用して騒ぎを起こした事をとがめられてのこの事態である。

 能力の使用そのもの自体は実はそんなに罪じゃない。

 羽佐間のように使用しているかどうか他者から判別できないのもあれば、自身でコントロールできずに発動させてしまうケースもある。

 問題はそれを用いて騒乱を呼ぶことであった。

 そういう意味で、俺と霧島の激しいディスコミュニケーションはこの上なく人目をひく訳だ。

 そんな度を越した回数の騒ぎなら学園の上層部が手を向ける道理はある。

 そして、まだ真実か定かではないが、その手段として監査室なる存在が姿を現す確率もだ。


「すまん玄田。俺もだいぶ、お前と霧島の件は面白がってた感がある。まさかそんな大事になるなんてよ」

殊勝しゅしょうなお前って気持ち悪いな」

「真面目な話だぜ、茶化すなよ。今回の計画だけどな、お前はやっぱ外れた方がいいかもな。これ以上、さすがに悪い評価を受けるワケにゃいかねーだろ」


 俺を探していた目的はその事を伝える為か。

 らしくないその気遣いを、俺は鼻で笑う事にした。


「馬鹿言え。俺の能力が必要不可欠だから、今回の話を持ち掛けたんだろ。心配しなくとも最後まで付き合ってやるよ」

「いや、そうは言うがよ――」

「確かにまあ、これ以上バカな事はするなと国村ティーチャーにも言われたばかりではある」

「ならやっぱり……」

「けどまあ、あれだ羽佐間、バカな事もできない人生に意味はないってな」


 そう、不敵に笑んでみせた。

 無理をしてというのじゃない。

 そういう気概から、自然と口元がつり上がる。


「お前……――マジで?」

「大真面目マジ


 呆気にとられていたような羽佐間の顔が、俺に応じるよう次第といつもの自信気なものへと変わる。


「玄田お前、思ってた以上のバカだな」

「そうらしい」

「でも、まっ――そうだよな! バカな事は出来る内にやっておかなきゃだな!」


 そう言って羽佐間は気味の良い声を立てて笑った。

 俺とこいつは、お互いこういう感性だから何を元手にするでもなく親しくなったのかも知れない。

 そんな事を思った。


 しかしまあ俺としちゃ、そういう向こう見ずさだけでこの計画に乗ったわけじゃなかったりする。

 というのも、俺はきっと見極めたいのだろう。


 遠影先輩との話が俺の中でずっと反芻はんすうされている。

 今回の計画、いわば学園の管理体制の不備を突いて外に抜け出す――彼らがもうける最大の禁忌を破るというもの。

 が、たとえその様な免罪符がなくとも、監査室とやらが動く事態になったとして、彼らが一体俺にどういう決断を下すのか。

 それを見てみたいっていうのもあるんだ。


 遠影先輩達も、学園側の逆鱗に触れないぎりぎりのラインを見極めながら活動している。

 それはひとえに不安であるからだ。

 俺達にとって、学園という存在は保護者という立ち位置である。

 その親達が本音の部分で俺らをどう思っているのか。

 きっとそれを探りたいのではないか。


 あるいはやはり、結局俺らは「怪物」でしかないのか。

 その腹を痛め、血の繋がりを持つ筈の実母実父に捨てられた俺達は、やはり異質な「怪物」でしかないのだろうか。

 それを問い掛ける相手が、悲しいかな、今ここには学園という存在しかない。


 だから、なのだろう。


 つまるところ、わざと親に悪戯して困らせて、本当に自分が愛されているのかを知ろうとしている幼子――

 そういう部類なのかもしれない。

 最近は、よくそんな風な事を考えている。


 まあ、単純明快――ただのねっ返り。

 反骨心と打算とで学園に一泡吹かせてやろうという気持ちが強い事も確か。


 というわけで、数稀に俺達を心配してくれているお人好しな担任の厚意は無碍むげにせざる得なかった。

 すまんな、国やん。


「ま、そういう事なら今回の計画、最後まできっちりと頼むぜ」

「報酬の方もきっちりな」

「へへっ。やーっぱお前ってさ、つくづく妙な奴だよなー」

「お前に言われたくはない」


 俺達はそんな軽口の応酬をしばらく続けた後、一息を入れるようにして屋上からの景色に目を遣った。

 そこには梅雨入り前のよく晴れた色の空が広がっていた。



 すると、何やら羽佐間が思いがけず頓狂とんきょうな声を上げた。


「ん? ありゃ霧島の奴じゃねーのか」


 唐突に天敵の名前を出されて、俺は眉根を寄せた。

 羽佐間は眼をらすようにして、屋上からフェンス越しに遠くを見ている。


「そういやあいつ最近とんと見ないな。まあ、珍しい事でもないって話だが。――んで、どこだよ?」

「歓楽街のとこにいるな」


 身を乗りだして足元の校庭付近へと視界を向けようとした俺は、羽佐間から返ってきたその言葉にずっこけそうになる。


「――馬鹿お前、ここから歓楽街までどれだけ距離あると思ってんだ。そりゃ能力あるお前なら容易いんだろうがなあ」

「悔しいか玄田よ? 俺のこの〈回帰せし原初の眼力アイズ・オブ・ネイティブアフリカン〉が羨ましくて堪らないだろぉう?」

「こんな時でもないと自慢できないからって、必死だなおい」

「ふふん、負け惜しみはよせ……よ……って――お? おお? のおおっ!?」


 急調子にそんな風な奇怪な叫び声を上げ始めた羽佐間。


「何の動物の鳴き真似だそれ」

「いやっ……その……」


 どうも羽佐間の様子がおかしい。

 ふざけているようではない、実にリアルなテンパリっぷりを醸しだしていた。


「一体どうしたってんだ」

「いや……えーっと……霧島がな、笑ってるんだよ」

「はあ?」


 何を言ってるんだかこいつは。 

 霧島が笑ってる? ――そりゃあわらうだろうに。

 いつも俺と相対している時のあの腰が抜けそうなほどに妖艶で嗜虐しぎゃく色に満ちた、そんな笑みを浮かべてるんだろうさ。


「あのキチガイ、今度はどこの誰を相手にしてんだか」

「こ、子供だな。小さい女の子だ」

「ほんとか?! あのサイコパス、ついに見境をなくしやがったか……!」


 幼い少女にあの魔性の笑みで迫る霧島を想像し、直ぐさま俺は警備隊への通報を懸念した。


「ああ、笑ってるな、霧島が。……すっげー幸せそうに」

「……――はぁっ?!」


 だが羽佐間の次の言葉でそんなイメージは吹き飛び、思わず上擦った間抜けな声が漏れていた。

 聞き間違いだろうか――

 今、なんだかとても不自然な事を聞いた気がするんだが。


「……幸せそうに笑ってる?」

「あ、ああ。なんつーか、幸せ一杯って感じの……ほら、子供と一緒に居る時のお母さんみたいな顔してる……」

「……き、きき、霧島が? それはあの霧島がか?」

「お、おうっ」

「いや……いやいやいや! 落ち着けよ羽佐間? ……いいか? 霧島だぞ? あの霧島凛だぞ?」

「わわわ、分かってる。俺もこの眼で見ている光景が信じらんね」


 霧島が幸せそうに笑っている?

 まるで慈母のように?


 有り得ない。それは有り得ない。有り得る訳がない。

 いや、あってはならない。そんな事があってはならない。宇宙の法則が乱れるってレベルの話じゃない。絶対にあってはならない。

 そんなのは夢だ。悪夢だ。この世の終りだ。破滅だ。終焉だ。アポカリプスだ。核戦争後の世界だ。ウェイストランドへようこそだ。


「な、なあ? どうしよう玄田?」

「…………」

「俺、変なものでも食っちまったかな?」

「……見てない」

「は?」

「……お前は何も見てない」

「ええっ?」

「今日お前は何も見てないし、俺も何も聞いてない」

「おうぅ?」

「そういう事だ、羽佐間。これ以上言及するな」

「……わ、わかった」


 その悪夢からめる事を願いつつ、俺達は逃げるように屋上を後にした。


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