第62話黒い男、佳大一行の前に姿を現す


 アガーテは長槍から手を離すと同時に身体を捻った。

夜闇の中、独楽のように回転しつつ、悪心影の鎖骨に蹴りを浴びせる。

手応えを感じた瞬間、翼で空間を叩き、アガーテは宙に舞い上がると、高校から灼熱の火炎を迸らせた。


「おや、そんなに高く飛んで平気ですか?」


 ナイが嘲笑するより早く、アガーテの姿がぶれる。

背後から伸びる無数の手に稲妻の速度で反応し、長槍で打ち据えつつ、宙を蹴って悪新影を飛び越えて、ターニャに迫る。

行く手を塞ぐルログとナイ目がけて火炎を吐きつけ、長槍を投擲。オレンジの波濤を突き破り、弾丸のような勢いで翔ける長槍は、ターニャの顔を打つ。

刺さらなかった。その衝撃で鈍器で強打されたようにのけぞり、そのままシャンタクの背中から転がり落ちる。


 落下したターニャを、どこからともなく現れた2頭目、3頭目が受け止める。

小柄な彼女は驚きはしたが、ダメージらしいダメージを受けず、3頭目の背中にしがみつく。

羽毛ではなく、鱗で身体は覆われているので、ターニャはしがみつくのに難儀した。


「光よ、星間を超えて降り注ぐ光よ!貴方は剣であり、矢である!」


 ナイが朗々と詠う。

アガーテの皮膚が粟立ち、見る間に表皮が剥離する。筋肉が壊死し、両手足から感覚が抜け落ちた。


「夢は終わる。永遠の夢は水底に溶けて、残り香は緑に還る」


 深い火傷を負った女神の身体から、勢いよく湯気が立つ。

全身が緑色に変色し、腐った循環液をまき散らしながら、アガーテは膝から崩壊していく。

後に残ったのは、緑色の堆積物のみ。彼女が纏っていた衣装は、絶命すると同時に消失した。


「……死んだの?」

「はい。さ、そろそろ休みましょう!明日に障りますからね」


 ターニャの呟きを、ナイは耳聡く聞き取った。

彼が微笑みかけられた途端、瞼が重くなり、不安と狼狽の中、ターニャの意識は暗転した。

次に目を覚ました時、そこはボスティン村の宿だった。隣のベッドで、ジャックはまだ眠っている。

彼女はそれから一睡もできなかった。ベッドの下、2人の間の床に寝かされていたハルパーの剣に気づいたのは、ジャックが先だった。


 ジャックが尋ねると、ターニャはしどろもどろになる。

昨夜、夢の中で女神に襲われた事、それを突如現れた黒い男達が撃退した事を辛抱強く聞き取ると、ジャックは隣室の2人を呼んだ。


 ジャックはベッドの足元に置かれた椅子に座る。

佳大とクリスは、ターニャが座っていない側のベッドに腰を下ろした。


「昨日、女神に襲われたって?殺したの?」

「うん……多分。けど、私がやったんじゃなくて赤い服の黒い人がやった。私は大きな鳥みたいのに乗ってただけ」


 ターニャは息を溜めてから、吐き出すように言う。


「名前とか分からないのか?」

「ナイって言ってた。鎧の人もいたけど、そっちは知らない」

「ナイ…、大きな鳥?」


 佳大の記憶に、引っ掛かるものがある。赤い服の黒い人――ナイ?


「黒いってのは、黒い肌って意味か?」

「うん」

「何か知ってるのか?」

「俺の元居た場所に、ニャルラトホテップって神の伝承がある」


 本来は一小説家の創作なのだが、そのあたりをくどくど説明しても仕方がない。


「ニャル…?」

「ひょっとして違う名前だったか。読みが複数あるんだ、ナイアーラトテップとか」

「あ、それ!」


 耳に馴染みのある名前に、ターニャは声をあげる。


「どんな神なんだ、それは?」

「様々な化身を持ち、世界に混沌を齎そうとする存在だ。貌がない故に千の貌を持つとされ、本体を持たないとされる」

「本体が無い?」

「本体が無い代わりに、あらゆる姿形で現れる事もでき、一度に複数の化身を遣わしたりする…ってヤツ」

「混沌をもたらすとは穏やかじゃないな」


 ターニャは居心地悪そうにしているが、誰も責めてない。

緊張しているのは、ターニャを除くとジャック独りだ。ホラーファンである佳大は不安より好奇心が勝っていたし、クリスはどんな相手が出ても自分の方が上だと思っている。


「その連中、ここに呼べないか?」

「え、どうだろう」


 佳大に聞かれても、ターニャにはわからなかった。

彼女の主観からすれば、あの場に現れた者達は、突如湧いてきたようにか見えない。

呼ぶ方法など知らない。夢の中に出てきただけだし、彼らは現実のものなのだろうか?


 黙り込んだターニャが漂わる気配の量が変わる。

煙が漏れる程度だったものが、今やジェットエンジンを噴かしているようだ。

打ち合わせるでもなく、佳大はターニャから距離を取る。クリスは気づいていないらしく、席を動かない。


「お呼びですか、ターニャ?」


 ジャック組の止まる部屋に、新たな人物が登場する。

ターニャが話した通りの、目に痛い程赤いローブを纏った、黒い肌の男。

身構えたジャックに対して、クリスは自身の膝に肘を乗せ、興味深そうに男を眺めている。


「あんたは、ナイ神父か?」

「ナイ神父!?フフフ…やはり私について、おおよそ把握しているのですね。佳大」

「まぁな、なんでターニャに前に現れた?」


 ナイは肩を一度竦めてから、口を開く。

自分はナイアルラトホテップそのものではなく、佳大から供給される力が、彼女の内面を汲み取り、相応しい形で具現したものに過ぎない。

そも、彼のメッセンジャーと同等の力は発揮できず、せいぜい化身を作り出す程度。外なる宇宙にも、何ら関りはないと、朗々と語った。

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