第61話ターニャ覚醒―千なる無貌―

「エ、エリシア様!!」


 切羽詰まった様子で天井に叫ぶアガーテを、ターニャは不思議そうに見つめる。

視線は錯乱する女から、目の前の曲剣に吸い寄せられた。この剣なら、佳大を一撃で?

恐い、恐い…が、反撃が恐ろしいだけだ。不意を衝いて命を奪ったことは、何度もある。


「触れたらいけません」


 意を決して歩み出たターニャを、何者かが呼び止めた。

空間そのものが喋ったように明瞭な言葉に、アガーテは思わずエリシアを呼ぶのを中断。


「何?」


 アガーテに睨まれたターニャは、怯えた表情で首を左右に振る。

堪えるように結ばれた口元から、呻くような声が漏れる。首が一往復終えた瞬間、広間の天井と壁が吹き飛んだ。


「ひぃっ!!」


 轟音に肩を竦めた彼女の視界に、壁の向こうの景色が映る。

夜闇の中、大地が光っている――近視である彼女には正確に見て取れなかったが、下方で何かが行き来しているのはわかった。

頭上には満月。星は見えないが、言葉を失うほどあたりは明るかった。


 アガーテは眼下に見える明りを呆然と眺める。

それはライトアップされた夜の摩天楼群だ。地上に見えているのは星ではなく、篝火のような照明。

車輪のついた箱が馬も無しに動き、城塞を凌駕する塔が林立し、投げられる明りが街を昼間のように照らす。

その上空を、2柱と1名のいる宴会場は不自然に漂っていた。床は空中に固定されているかのように動かない。


「フフフ…、女神と言えども度肝を抜かれましたか?」

「誰だ!」


 浮遊する床に、新しい登場人物が姿を現す。

黒い肌に赤いローブを身に着けた、長身の男。狼狽えるアガーテを嘲笑う微笑を浮かべながら、男はターニャの前を横切り、剣を引き抜いた。

その剣身をなぞる指の動きは、まるで愛撫するように優しい。男が剣に触れていたのは僅か5秒ほど。男はハルパーの剣の刃を指で挟み、柄を小柄なネズミ女に向ける。


「どうぞ」

「へ……あ、ど…ども」


 早口でそれだけ言って、ターニャは曲剣を受け取る。

男が指を離した瞬間、ターニャの細い腕ががくんと下がった。


(重!!なんだよこれ、こんなの振りまわせないよ……)


 思わず放り捨てた曲剣を、新たに出現した人物が拾い上げる。

黒塗りの、フィリア帝国では見かけないスタイルの鎧に身を包んだ大柄な戦士は、曲剣を軽々と拾い上げると、翼の女神に切っ先を向けた。

同時に黒い風が、アガーテとカルラに向かって吹きつける。踏ん張ったアガーテと違い、茫洋と座り込んでいたカルラは、風に身を任せ、床の縁に転がっていく。


「あ、ちょっと!」


 アガーテが相方の危機に気づいた瞬間、金切り声が彼女の耳に飛び込んできた。

不吉な予感に駆られ、後方を仰ぎ見た彼女の視界に映ったのは、10頭以上いる、双頭の蝙蝠に似た怪物。

蜘蛛のような複数の目はそれぞれが輝き、身体のあちこちについた複数の口には牙が生え揃い、クリーチャーは獲物を待ちわびるように打ち鳴らす。

ターニャは知らぬが、その名をルログという。


 アガーテの足が止まった瞬間、カルラは宙に浮かぶ宴会場から落下。

50㎝、1mと落下していき、高度が2m下がった時、虚空から現れた無数の白い腕がカルラの身体を掴む。

白い腕の群れは、狂気の女神をバラバラに引き千切っていく。断面は石膏像のように硬質で、それぞれの部位は音を立てる事無く、結合を止めた。


「さぁ、お友達は我々の前に敗れました。遺言があるなら聞きましょう?」

「あ、アンタたち…何?」

「我々は彼女だ。彼女の心の中で生まれ、彼の異邦人によって姿を与えられたもの。千なる無貌(ナイアルラトホテップ)とでも呼ぶが良い」


 ナイア…?ターニャは既に展開の目まぐるしさについていけていない。


「いい気になるな!」


 アガーテはターニャ達を一喝すると同時に、火炎の奔流を吐きつけた。


「この姿は見せたくなかったんだけどな…」


 アガーテの全身が痙攣する。

上下の顎が頭ほど大きくなり、整っていると呼べた女神の顔は、カバそっくりに変化した。

血と埃に塗れた鎧が全身を包み、手には錆びた長槍。


「ほう…」


 黒い鎧の戦士――悪心影が愉快そうに呟く。

2人の前に歩み出て、ハルパーの剣を正眼で構える。


「ターニャ、こちらへ」


 その一言と共に、重々しい羽ばたきが突風と共に現れる。

馬のような頭を持ち、象の如き巨体を持つシャンタク鳥だ。シャンタクは恭しく頭を下げ、背中を晒す。

ターニャは赤い衣の男の助けを借り、巨大な生き物に騎乗する。

その後方、2人に向かっていったアガーテに、脊椎がくの字に曲がる程の衝撃が襲い掛かる。


「あ、うわ…」

「お気になさらず。それと私の事は、ナイとお呼びください」

「ナイ?」


 ナイは目を細め、口の端を上げた。

紙礫のように吹き飛ばされたアガーテは、長槍を突き立てて落下を阻止。

槍を床に立てた瞬間、距離を詰めていた黒鎧の剣士が、不和の女神の胴を真っ二つにしようと、曲剣を振り下ろす。

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