第5話 風邪引き香詠
部屋の戸口に仁王立ちになるルイグンに、香詠ははたとまばたきをして机から顔をあげた。
「香詠。今日で三日目だ。今日こそ休んでもらう」
有無を言わさぬルイグンの言葉を聞いた香詠は気まずそうに目を泳がせる。
「ご心配、恐れ入ります。ですが、その、きちんと休んでいますから……」
「嘘をつくな。この量の書物をひとりで書き上げて、寝ているはずがない」
香詠の部屋には大量の帛書が散らばっていた。昨夜「今日の分です」と言って持ってきたあとも休まず書き続けていたのだろう。
あの日、自ら帝国のくびきを焼きつくして来たことを明らかにしてから、香詠は昼夜もなく筆を走らせていた。頭の中に蓄えてきた知識の限りを書き記そうというのである。その量は膨大で、王宮にあったわずかばかりの紙はあっという間に底をつき、これもまた貴重なものではあるが帛を与えて間に合わせていた。狼は文字をもたないので普段は紙も帛も使わず、帝国から取り寄せたものが大事に保管してあるだけなのだが、香詠のおかげですっかり使い果たしてしまいそうだった。
ルイグンが部屋に踏み入ると、暖かい粥を捧げた女官が続く。ルイグンは帛書をかき集めて空いた場所に膳を整えさせ、無言で香詠を手招きした。香詠は渋々硯箱に蓋をして膳の前に移動する。ルイグンはその真正面に腰を据えた。
「あなたが温かいものを食べてきちんと寝入るまで、今日は政務を執らないと決めた」
正面から睨まれて香詠はきゅっと肩を縮め、そっと匙をとりながらため息をついた。
「大げさです……。食事だってきちんととっていますのに……」
「ほう、ほとんど焼き菓子しか食べていないと聞いたが」
「うう……」
恨めしそうな顔をしていた香詠も、ひと匙ふた匙と温かい粥を口にすると体のこわばりもほぐれていくようで、食べ終える頃にはどことなく眠そうな顔をしていた。
「ごちそうさまでした。おっしゃる通りに休みますので、ルイグン様は政務に……」
「……聞こえていなかったのか? あなたが寝入るのを見届けるまでここにいると言ったつもりだが」
返事を聞かずにルイグンはひょいと香詠の体を抱え上げ、寝台に下ろして綿入れでぐるぐる巻きにしてしまう。寝台の端に腰を下ろし、綿入れの端から顔を覗かせる香詠の頭をそっと撫でた。香詠は不服そうにルイグンを見上げながらも、やはり今にも眠りに落ちそうだ。
「ルイグン様、横暴です……」
「かまうものか。これが王の務めだ」
しばらくして静かな寝息が聞こえてきたのを確かめ、ルイグンは女官にあとのことを任せてそっと部屋を去った。
次の日、執務室に向かう途中で慌てた様子の女官がぱたぱたと駆け寄ってきた。
「王様、王妃様がお風邪を召されたご様子で……」
ルイグンは驚き、急いで香詠の部屋に向かう。香詠は寝台にぐったりと横たわっていた。
「ルイグン様……? ……申し訳ございません、気が緩んでいたようで……」
「無理がたたったのだろう。まずはゆっくり休むことだ」
そう声をかけて去り、執務室に入ったものの、どうもそわそわして落ち着かない。冷たい果物なら喉を通るだろうかとか、滋養のある温かいものはとか、薬の知識はたぶん香詠自身が最も詳しいだろうなとか、気がつくと香詠に何をしてやれるかを考えていて執務に集中できない。
「……兄上、聞いていますか?」
「……あ、ああ、聞いている。先月のガイラ金山の様子はどうだった?」
マルクンは大きなため息をついた。
「聞いていないじゃないですか。さっきも言ったとおり、特に変わりありません。人間が住みついて盗掘を続けているのも相変わらずですね。現地の役人も対策に困っているみたいですよ」
「そうか……」
ルイグンは考えこむ。採掘された金はすべて国の管理下に入れることになっているが、人間による盗掘も、また現地の狼による盗掘も後を絶たない。それだけ金山が広く豊かな証でもあるが、国力に直結するだけに悩ましいところだ。
「盗掘者には引き続き厳しい対応をしていく。マルクン、今後も監視を頼むぞ」
「ええ。……あ、そういえば、人間の盗掘者をひとり捕らえたと聞きましたね」
「ほう」
ひとりか。全容がつかめないので多いとも少ないとも言えないが、なにかのきっかけになれば良い、と思いながらうなずくと、マルクンは珍しくなにかを言いよどむように目を泳がせた。
「それが……」
「おっと、マルクンに先を越されるところだった」
執務室の入り口にジグハが顔を覗かせた。
「ジグハか。入ってくれ」
ジグハは軽い足取りで執務室に入ってきて、マルクンの隣に腰を落ち着けた。
「まずは公主様にお見舞いをと思って、果物を整えていたら遅れてしまったよ。風邪を召されたそうだね。お大事に」
「叔父上、白々しいですね。快く思っていないくせにわざわざ気を遣ってみせなくたっていいのに」
「はは、だからこそだよ。恩は売っておくものだろう? ……さて、本題だが、その盗掘者、既にこちらに向かわせている」
「ふむ。俺も話を聞いてみたい。人間の足だと金山からはもう少しかかるか」
金山から王宮までは狼が駆けて三日だが、人間が歩けば五日以上はかかるだろう。ジグハは表情をあらためてルイグンに向き直った。
「ルイグン様。ひとつお願いがあるんだが、盗掘者の罪を免じ、我が娘の婿に迎える許しをいただきたい」
ルイグンは驚く。
「どういうことだ? ……人間なのだろう?」
マルクンも口をぽかんと開けたままジグハを見つめている。ジグハはマルクンと並んで帝国との和平に反対していた王族の筆頭だ。それが人間の婿を迎えるとは……。
ジグハは相好を崩して言葉を継ぐ。
「盗掘者とは言うが、都育ちの頭の切れる男だそうだ。きっとルイグン様と公主様のような睦まじい夫婦になるよ」
香詠とルイグンが睦まじいことを快く思っていないと、さっき言ったその口で言うのだからこれは絶対になにか裏がある。マルクンも声をあげた。
「叔父上、それは道理が通りませんよ。どうしてわざわざ自分から人間と縁を結ぼうなんて……」
マルクンを遮り、ジグハは不敵に鼻先をあげる。
「これは帝国から押しつけられた婚姻じゃない。我々狼も少なからぬ人間の命や財産を握っているのだということ、帝国にわからせてやる必要があるだろう?」
ルイグンは押し黙り、ジグハをじっと見つめた。確かに金山に住みついた人間の数は少なくはないだろう。しかし、帝国のすべての民の数に比べればものの数にも入らないはずだ。金の供給を断てば帝国も困りはするだろうが、それも盗掘者をすべて管理下に置ければの話。ジグハの言うことはどうもおかしい。
「……いや、わかった。ともあれその男から金山の事情も聞けるだろう。近しく留め置けるのであれば、婚姻もまた一つの手だな」
ひとまずそう言ってマルクンを黙らせ、ルイグンはもうしばし考えにふけった。
「香詠、具合はどうだ」
声をかけて部屋に入ると香詠は膝の上に書を広げて読んでいるようだった。ルイグンが入ってきたのを見て気まずそうな顔をする。
「……また起きていたのか」
「……おかげさまで、ずいぶん具合も良くなりましたので」
そろりと互いに伺いあう視線が交差する。ルイグンはといえば日に三度は果物だの菓子だのを届けていたし、香詠はそのたびにこそこそと書を読んだり書いたりしていて女官やルイグンに夜具で巻かれていた。
「……まあ、いい。そろそろ本当に顔色も良くなってきたようだ」
ルイグンがため息をつきながら寝台の端に腰を下ろすと、香詠は身を乗り出して帛書を広げる。
「あの、ルイグン様! お伝えしたいことがございます」
「うん? なんだ」
香詠の手元を覗きこむと、整然と数字が並んでいる。
「これはガイラ金山の働き手の数と産出量の記録です。働き手の数は食糧の流通量からの類推ですが、年を追うごとに急速に増えております。しかし、金鉱石の産出量は増えるどころか微減を続けております。金が枯れているなら、人が増え続けるはずがございません。この金、どこかに流れているものかと」
「なるほど……確かにガイラ金山には人間が住み着いて盗掘を続けているという報告がある。先の戦も帝国が一方的に送ってよこした役人が金山を管理しようとし、小競り合いになったのが発端だ。しかし和平の中には金山の管理は狼の権利とする協定もあったはずだが、まだ流出しているか……」
香詠はルイグンの言葉に考え込み、周囲をうかがいながらそっとささやく。
「単に盗掘によって流出しているのでしょうか? ……金山の管轄はどなたなのですか?」
「……叔父上だ」
そう答えながら香詠に伝えようとしていたことに思い当たり、ルイグンはわずかに言葉を探す。
「……叔父上が、人間の婿をとるらしい。もとは金山に潜り込んでいた盗掘者だとか」
ルイグンと香詠は顔を見合わせてしばし黙り込んだ。
「……怪しいですね」
「そうだろう……?」
ジグハの行動はあまりにも怪しすぎる。しかし、今のところなんの証拠があるわけでもない。難しい顔をして考えこむルイグンに、香詠もまた考えこむ様子で言葉を探している。
「盗掘者をわざわざ罪を免じさせてまで婿にとるということは、よほどの利益を持ってきたのでしょう。ただの盗掘者とは思えません。もしや帝国の中枢と何か繋がりがあるのでは」
「……ああ、都育ちだとも言っていたな。そこは間違いないだろう」
香詠は寝台に散らばった帛書をまとめて片付けながら表情を曇らせた。
「もしジグハ様が直接帝国と結びつきを得るようなことになれば、ルイグン様の勢力もゆるぎかねません。やはり金山の件、もう少し深く追うことが必要かと」
「そうだな……。……しかし、香詠、あなたはやはり叔父上が金を横流ししていると考えるのか?」
ルイグンが少し尻尾をしおれさせるのに気づいたかどうか、香詠はさらに考え込む。
「……どうでしょう。最も単純な考えでいけばそうかもしれません。ですが、わたくし個人の感情でジグハ様を追い落とそうとは思いませんし、他にも金の流出に関わっている者がいるならばまとめてあぶり出したいところです」
「ふむ……」
ぱた、ぱたと尻尾を揺らし、ルイグンは王族の顔をひとつひとつ思い浮かべていく。まだまだ香詠に好意的な者は少ないが、それぞれに立場があり、想いがある。皆この狼の国を大切に思い、それぞれに守ろうとしているのだが、やりかたが違っているのだ。ルイグンは狼の王として、最も狼を強くできるやりかたを探らねばならない。そして見つけ出したやりかたを明らかに示すことが、王たる者の使命だろう。例えば今は香詠と協力し、狼の財産を守ること。
「……マルクンを泳がせてみるか」
呟いたルイグンに、香詠は意外そうな顔をした。
「……わたくしを贔屓しているように取られませんか?」
香詠を快く思っていない王族に狙いを定めるのは危険だと言外に伝える香詠に、ルイグンは首の後ろをがしがしと掻く。
「やりかた次第だろう。これまでにガイラ金山の調査を命じてあるのもマルクンだ。それに、マルクンが黒ならあいつは必ずボロを出す。そうでなくとも何かしらはつかむだろう」
褒めているのかけなしているのかよくわからないと言いたげな顔をした香詠から帛書を取り上げ、ルイグンは香詠をしっかりと夜具で包む。
「そうと決まれば、あなたは事態が動くときに備えてしっかりと休むのだ」
「ですから、もう平気だと……」
「聞かん。事態が動きはじめてから調子を崩しては遅いのだぞ」
不服そうな顔をそれでも夜具に埋もれさせて、香詠はおやすみなさいと目をつぶった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます