第6話 朝食は逃げない

「義父上、この晴れやかな日に、なぜそのように楽しまれないのですか?」

 梁克嶺が尋ねると、晴れ着を着崩したジグハは酒を煽って片頬を歪める。

「楽しんでいるとも。……あの忌々しい小娘をどうしてやろうかと考えてね」

 梁克嶺は注意深くジグハの顔を観察しながら酒を注ぐ。忌々しい小娘とは公主のことだろう。狼に歓迎されていないのであれば、やはり一刻も早く連れ帰らねばならない。ジグハに近づいたのも、狼の王宮に潜り込むためだ。

「あの小娘のおかげでルイグン様はすっかり狼の誇りを失ってしまった。高価な絹を墨で汚したものをありがたがって……あんなちんちくりん、ひと口に呑み込んでしまえるというのに」

 フンと鼻で笑い、なみなみと注がれた酒を舌ですくい取る。悪そうな顔を酒の器に突っ込んで懸命に舐める姿は滑稽だ。あの清らかで可憐な公主のどこが気に入らないというのか。

「才知に長けた公主だと聞き及んでおります。金山の件は隠し通せるでしょうか」

「マルクンでは無理だね。焦って何をやらかしたものかわからない」

 ジグハは牙をむいて唸り、忌々しげに頭を抱える。

「金山の調査をするというから、分け前を与えて黙らせたのが間違いだったか……」

 こうして見ると、狼といっても欲にまみれたまったくの俗物である。梁克嶺はいままで恐れをなして必死に戦ってきたのが馬鹿らしいような気持ちだった。

「ならば、王弟どのに罪をかぶせるしかないでしょう。先に罪を告白し許しを請えば、あとから糾弾されるより印象は良いものです」

「……なるほどねえ」

 ジグハは少し思案する様子だったが、やがてにやりと笑って梁克嶺に杯を勧める。

「さすがは婿殿だね。なるほど人間というのも、味方につければ心強いものだ」


 ルイグンが香詠の様子を見に部屋に行くと、香詠は床を払ってすっかりいつもの装いに戻っていた。

「もう起き上がって大丈夫なのか?」

「はい、おかげさまですっかり元気になりました。マルクン様は今日出立されるそうですね」

「耳が早いな。そのうち挨拶に来るだろう。先に朝食でもどうだ」

 連れ立って石の回廊を歩くと、透明な日差しが清々しい。草葉には朝露がきらめき、美しい夏の朝の風景である。

「生まれ変わったような心地がいたします……。こちらは朝晩寒いくらいに冷え込みますが、それがかえって清々しいものですね」

 目を細めて光を受ける香詠も、朝露のきらめきを身にまとうようだった。

「この地の夏は短いが、そのぶん皆が思うさま楽しむのだ。冬は海側に都を移すが、それでも寒さは厳しく、日も短い。夏の間に楽しんでおかねば、冬を越せないからな」

「働くばかりでなく、楽しんでおくことも大切なのですね」

「そうだ、特にあなたには肝に銘じておいてほしい」

 真面目くさって言うと、香詠は一度驚いたように目をまるくしてから笑い出す。

「わたくし、そんなに働いてばかりでしょうか? きっとルイグン様のお役に立てて嬉しすぎるのがいけないのです」

「む……」

 そうこうしているうちに食堂に着いた。低い卓の上にはいっぱいに温かい食事が並んでいる。豆乳や、小麦粉をふかふかに焼いたもの、豆と肉を香辛料でほくほくに煮たもの、羊の乳を発酵させて固めたもの。果物は煮詰めたものもあれば、甘みの凝縮した蜜瓜も干しぶどうもある。香詠と食卓につくことはあまり多くないが、こちらに来てしばらく経つというのに何度食卓を前にしても興味津々できょろきょろしてばかりいる。並んで席につくと香詠は身を乗り出してどれから食べようかとじっと考えている様子で、ルイグンは思わず笑ってしまう。

「香詠、朝食は逃げない。まずは茶を飲むといい」

「あっ、お、お恥ずかしいです……ありがとうございます」

 香詠用の深さのある器に茶を注いで渡す。香詠はふうふうと吹き冷ましてからゆっくりとすすった。

「羊の乳も最初は慣れませんでしたが、美味しいものですね。お茶は苦くて美味しくないと思っていましたが、乳で煮るとまろやかになってお腹にも優しい感じがいたします。塩や香辛料のおかげか、薬というよりはお料理のようですね」

「朝はこれがないと始まらんな。特に二日酔いで気分が悪い日など、他の何がなくとも茶だけは飲む」

 干しぶどうを口に放り込んで噛む。香詠も干しぶどうの粒に手を伸ばした。

「ルイグン様も二日酔いなどなさるのですか?」

「するさ。王とは何があっても注がれた酒を飲み干さねばならぬ悲しい生き物だ」

 小麦粉のふかふかをちまちまとちぎって口に詰め込んでいる香詠を眺めながら、ルイグンは同じものにどっさり肉を乗せてひと口に食べる。香詠はそれを信じられないというように見上げた。

「大きな口ですねえ……」

「狼だからな」

「わたくしもそのようにたくさん食べられたらいいのですが。こちらに来てから美味しいものがたくさんで、一生かかっても食べつくせない気がいたします」

「こちらの食事が口に合っているならなによりだ」

 幸せそうに食事を頬張っている香詠は小動物のようで見飽きない。つい出来心で、固めた乳をひとかけてのひらに乗せて香詠の口元に差し出した。

「これは肉とよく合う。食べてみるといい」

 香詠はちぎったばかりの小麦粉のふかふかで両手がふさがっている。少しの間おろおろと視線をさまよわせてから、思い切った様子でルイグンのてのひらに顔を近づけて固めた乳のかけらを口で拾った。かすかに唇か舌が触れたような感触があって、自分のやったことながらぶわっと体が熱くなって尻尾が逆立ってしまう。

「……美味しい、ですね!」

 にこにこと顔をあげた香詠の耳も赤くなっている。小動物に餌付けする気持ちだったはずなのに、なぜこうも気恥ずかしいのか。

 入り口のほうから咳払いが聞こえて、はっと顔をあげると旅装を整えたマルクンがなんとも言えない顔で立っていた。いつから見ていたのか。

「……お食事中、失礼しますよ。出立の挨拶に参りました」

「……ああ、早かったな」

「ええ、まあ……」

 気まずい。香詠も居心地悪そうに口の周りをそっとぬぐっている。マルクンが気を取り直したように背筋を伸ばして口を開いた。

「……ガイラ金山の調査に行って参ります。必ず賊を捕らえてご覧にいれましょう」

「うむ、頼んだぞ、マルクン」

 なけなしの威厳で重々しくうなずいてみせ、マルクンの尻尾が戸口の向こうに去るのを見届けて、ルイグンはため息をついた。

「……これでなんの成果もあがらなかったら、恥のかき損だ」

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