痛みの先に -3
「あの、トイレに行かせてもらいたいのですが」
結局、我慢は出来ずに夢とほぼ同じ時間に手を挙げることとなった。生理現象は止められないから、仕方がない。しかし、そのおかげでゆっくりと考えることができた。一応、いくつかの手を脳内シミュレーションしてみたけれど、やはり、このタイミングが一番だろう。
例の如く、女の犯人同伴でトイレまで行き、出すものを出してスッキリした気分で手を洗っていると、予想通り、無線を手に持った女が近付いてきた。
無線を受け取って深呼吸をすると、声が聞こえてきた。
「――聞こえているか? 返事をしろ」
「……はい。なんでしょう?」
夢の時と同様にボタンを押して返事をした。
「――よし。お前、名前はなんだ?」
「春秋です。春秋操」
「――春秋だな。じゃあ、春秋。お前に仕事を任せる。門の外にいる警察が人質用の食事を用意したから受け取って来い」
――ここだ。
「お断りします。俺の知ったことではありません」
「――ほう? 中々強気だな。お前のせいで他の生徒が死ぬことになっても、断るのか?」
躊躇うな。ここで引けば、結果的に全員が死ぬことになるんだ。犯人と警察との交渉の間に、もう一つの問題を挟み込めば、状況は大きく変わる。はずだ。
「はい、断ります。俺は自分の命が大切なので……関わるつもりはありません」
「――そうか。忠告したはずだよな? 我々に従うのなら殺しはしない、と。だが、お前は従わなかった。この意味がわかるか? お前は、終わりだよ」
あと一つだ。感情を、揺さ振る。
「ふぅ……黙れ、クソ野郎。全てがお前の思い通りになると思うなよ」
言うや否や、無線を思い切り床に叩き付けて破壊した。同時に、大型の銃を構えた女に向かって掌を向けると、視線を合わせて宥めるよう静かに呼吸を繰り返した。
「落ち着いて……聞いてください。俺は知っています。貴女の背負っているバックパックの中には爆弾を入っていて、貴女は、それを爆発させたくない」
その瞳の揺らめきだけで驚いていることがわかる。しかし、依然として銃の引鉄に指が掛かっているのは事実で、言葉選びが重要だということは重々承知している。……銃だけに? いやいや、冗談を言っている場合ではない。
「いろいろとわからないことは多いのですが、おそらく、主犯格であるあの男と、貴女とでは立場が違うことはわかっています。何が目的ですか? 意味などない自暴自棄のテロ? それとも革命ですか? もしくはこの学校か、警察に恨みがあるとか? なんにしても、貴女が死ぬ必要はないと思います。だって……後悔していませんか? ここまで来たからには後には引けないと思っているんじゃないですか? でも、違いますよ。俺は、まだ引き返せると思っています」
だって、そうじゃなければ『ごめんね』なんて台詞が出るはずもない。
「…………」
迷っているのか、葛藤しているのか、女の視線は俺と合わせたままだが、その瞳は揺れているように見えた。……もしかしたら、俺が想定していた年齢よりも若いのかもしれない。少なくとも男は三十代後半だ。だから、同じくらいかと思っていたのだが、下手をすれば二十代の前半という可能性もある。まだ十代の俺が言うことではないが、若さとは青さだ。つまり、付け入る隙があるということでもある。
とはいえ、保険は必要だな。
女が一瞬だけ視線を外した時を見計らって、トイレに置かれていた粉洗剤を手に取った。およそ武器にはなりそうもないが、目晦ましにはなる。
「っ――」
不用意に動いたせいで女の警戒心を強めたのか、銃を握る手により力が込められた。マズいな……冗談抜きで、このままじゃあ確実に殺される。この場を切り抜ける案は三つ。
その一、女を説得して組織を抜けさせる。
その二、説得しつつ隙を窺って逃走。
その三、真正面から挑む。
さて……これ、もう決まってんじゃねぇか?
一は状況的に厳しい。女は警戒態勢だし、元より俺のようなガキに絆される様なら、こんな犯行に加担しているはずがない。それに、のんびり話していたら他の犯人が様子を窺いに来るだろうしな。
三は論外だ。銃対洗剤では勝敗は明白。仮に目を潰せても、この狭い空間では闇雲に撃たれた時点で避けられる自信はない。
だから、可能性があるのは二番一択だ。短く簡潔に言葉を選んで、無理矢理にでも隙を作らせるしかない。銃でも奪えれば尚良い。
「……俺は、貴女の味方になれます。自爆を強要するようなことも無い。今ならまだ大した罪も犯していないでしょう? 俺を信じて――」
いや、違うな。『信じる』じゃあ軽すぎる。もっと別の言葉が必要だ。
「俺を……俺には、貴女が必要です。力を貸してください。声を……声を聞かせてください! そうすれば、わかり合うこともっ――ッ」
響いた銃声に、俺は為す術もなく床に倒れ込むしかなかった。
まさか、こんなに早く神風がこの場にやってくるとは思いもしなかった。いや、体育館を離れるはずがないと思い違いをしていた。
熱い。
撃たれた腹部は熱いのに、全身から血の気が引いていく感覚がある。頭上で会話を交わす男と女の声も徐々に遠退いていた。
「――ッソ」
読み違えていた。どうにか出来るものだと――俺にならどうにか出来るものだと勘違いしていた。呆気ない。なんて……呆気ないんだ。たかだか銃の一発や二発で。
「ん、でぇ……る、か……」
死んでたまるか。
そう言いたいのに呂律が回らない。まるで全身が痺れているような感覚で力が入られないが、ふら付きながらも立ち上がると、足元に流れ出た血溜りに気が付いた。そして、食道から逆流した血が、口から溢れ出ていることも。
せめて、一泡吹かせたい。
指先に引っ掛かるように持っていた粉洗剤を振り上げると、次の瞬間――向けられた銃口から、俺の頭に目掛けて一発の銃弾が発射された。
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