夢から覚めたら -3
リーダー格と思しき男が警察と交渉を始めて早一時間が経とうとしていた。
その間ずっと体育館の固い床に座らされているからお尻が痛い。しかし、それ以外にも問題があった。すでに十二時を回っているせいで空腹を訴える生徒が多数なのと、あともう一つ……俺の膀胱が限界に達しそうになっていた。
皆、どちらかといえば空腹感や緊張感のほうに意識が向いているようだが、八百人もいれば二、三十人くらいは俺と同じ立場の者もいるだろう。ベストなのは、誰かがトイレに行きたいことを犯人たちに伝え、それに追従すること。だが、如何せんその気配がない。
マズいな……非常にマズい。そろそろダムが決壊してしまう。
不機嫌そうに携帯の向こうにいる警察と話し合いをする男を見て、こめかみを押さえた。
タイミングが重要だ。できることなら電話が終わって、なおかつ交渉成立などで機嫌が良いときが狙い目だ。
かといって、それを待っている余裕もない。漏らすわけにもいかないしな。
一度大きく息を吸って、気付いてもらえるようにはっきりと真っ直ぐ手を挙げた。
すると俺に気が付いた女の犯人は電話を終えた男の肩を叩いて、こちらを指差した。
さあ、どうなる?
「おい、どうした。何か用事でも思い出したのか?」
その言葉に、多くの視線が俺に集まった。それを抜きにしても流れ出る冷や汗を拭ってから、確かめるようにゆっくりと立ち上がった。
「あの、トイレに行かせてもらいたいのですが」
言った瞬間に辺りがざわついた。いや、わかるよ。皆、タイミングを見計らっていただろう? 悪いが、俺には見計らうだけの余裕がないんだ。
「トイレか……ちょっと待ってろ」
隣の女と小声で話した男は、考えるように腕時計を見下ろすと二度頷いてハンドサインで仲間に指示を出すと、次は俺に向かって手招きをした。
恐る恐る生徒たちの間を抜けて近付いていくと、まじまじと全身を眺められて、肩を叩かれた。
「よし、下手な気は起こすなよ。校舎内のトイレを使え」
「……はい」
意外にもすんなりと許してくれた。拍子抜けではあるが、どうやら女の犯人が見張りとして付いてくるらしい。
体育館から出て校舎へ。
一階にある一番近いトイレの前まで行くと、女の犯人は何も言わずに抱えた銃をカチャリと鳴らした。わかっていますよ、下手なことはするな、でしょ? 残念ながら、今の俺にそんな余裕はない。
「………………はあ」
出すものを出して、漸く冷や汗が止まった。そして、洗面台の蛇口から水を流すと止まっていた思考も回り出した。
考えてみれば、今は思いの外にマズい状況なのかもしれない。躊躇なく人を殺す犯人に、周りを囲む警察。もしかしたら警察はまだ学校内に死人が出ていることを知らないのかもしれない。いや、知っていたとしてもか。どちらであろうと突入してくることはない。仮に犯人グループを射殺、結果として事件解決したとしても、突入の影響で生徒及び教員に死人が出たとなれば体面を保つことは不可能になる。
何よりも、犯人のリーダーが素顔を晒していることが状況の悪さを物語っている。つまり、少なくとも逃げるつもりは無いということだ。もしも、警察との取引に成功して逃亡するつもりなら絶対に顔を見せることはしない。何故なら八百人にも目撃されれば必ず写真のように精巧な似顔絵が出来上がる。もしくは誰かしらが隠れて写真を撮っている可能性もある。
だから、パターンは二つだ。
思想的な自殺犯か、何も考えていない突発的な犯行か。
前者だとしたら全員と言わないまでも下手をすれば生徒の半数は被害を被るし、説得も無駄だ。確固たる意志がなければ、わざわざ学校なんてリスキーな場所を選ぶはずがない。警察と話して、自らの意志を外に伝えたいのなら銀行などでもいいはず。……そうだよな、どうしてこの学校が狙われたんだ? 正門から侵入してきた犯人たちが放送室まで辿り着く時間を思い返してみれば、真っ直ぐに進まなければ着かない早さだった。つまり、建物の構造を下調べしてあるということ。隠れても見つけ次第殺すという自信も、そういうところからきているのだろう。
ともあれ、こちらとしては後者であると有難い。何も考えていない馬鹿なら、逆撫でして逆上でもさせない限りは懐柔することも可能。まあ、佇まいや口調から察するに、まず間違いなく前者だろうけれどね。
「……はあ」
鏡に映る自分に向かって溜め息を吐くと、トイレの入り口のほうからコンコンと壁を叩く音が聞こえた。視線を向けると、銃を構えていた女が無線機を手に持ち、こちらに差し出していた。
「え~っと……なんですか? それを持て、と?」
問い掛けると、深々頷いて見せた。
ああ、この人は人質と喋らない人なのか。先程は男と話していたようだから声が出ないというわけではないのだろう。まあ、詮索はすべきではないな。
無線機を受け取ると、ノイズ混じりに男の声が聞こえてきた。
「――聞こえているか? 返事をしろ」
「返事? えっと……これ、どこを押せば? ん、ああ、そこですか。ありがとうございます。あの……聞こえていますが」
教えてもらったボタンを押しながら答えると、今度はボタンを放せとジェスチャーで伝えられた。なるほど、交互に繰り返すものなのか。
「――よし。お前、名前はなんだ?」
「あ、春秋です。春秋操」
「――春秋だな。じゃあ、春秋。お前に仕事を任せる。門の外にいる警察が人質用の食事を用意したから受け取って来い」
「人質……全員分ですか? たぶん俺一人じゃ無理だと思いますけど」
「――大丈夫だ。お前一人でやれ。そうだな……二十分以内に体育館へ運んで来い。一分遅れるごとに一人殺す。もしも、お前が逃走すればお前のクラスメイトを全員殺す。さあ、急げよ? 時間は有限だ」
その言葉を最後にブツリッとノイズが消えた。
どうやら見事なまでに外れクジを引いてしまったらしい。大凶なんて生易しいとさえ思えてしまう事態だ。間が悪いというのか、運が悪いというか、ね。
無線を返した顔にそんな感情が現れていたのか、女は急かすように銃口で俺の背中を押した。まあ、当然従いますけどね。死にたくはないですし。
トイレを出て下駄箱に向かおうとすると、それを遮られた。
「あの、靴……は?」
かぶりを振って断られた。体育館へと通じる通路からと、下駄箱で靴に履き替えて正門まで向かう距離を考えれば、それほどの差はないけれど……上履きで行くしかないのか。
敷地を囲む塀伝いに進んでいくと、正門へと続く角を曲がったところで女は足を止めた。それも当然のことだ。犯人が不用意に警察の前に姿を現そうものなら撃たれてもおかしくはない。だからこそ、先程の男の言葉が効いてくる。俺には、俺以外の誰かを犠牲にしてまで助かろうとする気概はない。
平穏が好きなんだ。
だから、指示に従って、さっさと日常を返してもらおう。
一歩一歩確実に進みながら、携帯で時間を確認した。
「……残り十七分、か。急いだほうが良さそうだ」
歩みを駆け足へと変え、正門の前まで辿り着くと、門の前にパトカーは無く、数百メートル先で道を封鎖するように停められていた。それを確認すると、向こうからも見えていたのだろう、段ボールの乗ったカートを押しながらワイシャツの上に防弾チョッキを着た男性が歩み寄ってきた。
「私は交渉人の
「二年の春秋です。食事を運ぶように言われました」
「春秋くんだな、ちょっと待て」
掌を向けられると、片耳に付けたイヤホンの向こうの声を拾うように手で押さえていた。
「間違いないな? ……わかった。 春秋操くんだね。まず、これを入れるために門を開けてくれるか?」
警察も犯人たちがしたように門を飛び越えて、中から鍵を開ければいいと思うのだが、倫理観云々よりも、それを犯人に目撃されることを恐れたのだろう。
「じゃあ――っと、これは……」
門の掛金に手を伸ばしたところで、気が付いた。
太くて半透明の黒いコードが巻き付けらていた。んん、どう考えたって触れないほうが良い物だろう。
「これ、多分ですが開けないほうがいいですよね?」
指差すと、そこに視線を落とした鳥飼さんは門越しに確認して静かに息を吐いた。
「そのようだな。爆弾の可能性が高いから触れないように。食事は……そうだな。まずはカートをそちらに渡してから段ボールを積んでいこう」
「わかりました」
時間と、角でこちらを窺っているだろう女を気にしつつ、持ち上げたカートを受け取った。門が塀ほど高くなくて助かった。まあ、それでも二メール弱はあるから荷物の受け渡しが簡単というわけではないのだが。
「おにぎりは一人に二つずつ行き渡る数が入っている。それから、そっちのは水だ。……春秋くん、作業をしながら教えてくれ。中はどんな状況になっている? 皆、無事か?」
「そうですね……知る限り生徒に怪我人は出ていないと思います。ですが、おそらく教員の……先生の数人はすでに」
思い出したように視線を背後に向けると、倒れた三人の遺体が転がっていた。しかし、黒いバンは姿を消していた。
「そうか、生徒は無事なんだな。じゃあ、教えてくれ。どうして君が選ばれた?」
向けられた懐疑的な視線に気が付いた。
この人は少なからず俺を疑っている。確かに、こういう作業に選ばれるにしては中途半端なのだろう。三年の出席番号一番、とか。生徒会長とか、そういう人が任せられるはずなのに、来たのは二年一組の出席番号二十八番。懐疑的に思って当然だ。
「偶然、ですかね。トイレに行かせてもらった帰りに頼まれたので、タイミングが悪かったとしか」
「なるほど。トイレに行くことは出来るわけか。携帯は? 取り上げられたのか?」
「いえ、みんな普通に使っていますよ。警戒しているので直接、警察に連絡したり動画を撮ったりしている人はいないようですが。携帯があるおかげで、まだ比較的落ち着いているんだと思います」
「パニックにならないのは良い事だ。話を聞く限りじゃあ、どうやら犯人もそれがわかった上で放っておいているのだろう。……春秋くん、犯人は何人いる?」
「車で乗り込んできたのは六人でした」
「車?」
「はい。さっきまで門の中にあったのですが、どうやら移動したようですね」
「じゃあ、犯人の装備はわかるか? でかい銃を持っているとか、それとも拳銃なのか」
「どちらもです」
「本物か? 撃つところを見たのか?」
「……拳銃のほうはわかりませんが、でかい銃のほうは本物です。先生たちが、撃たれたのを見ていましたから」
そう言うと、鳥飼さんは門に手を着いて深く息を吐いた。
おそらくは犯人も情報が伝わることをわかった上で、俺をここに来させたのだろう。理由はわからないけれど、犯人たちが直に警察とやり取りをするよりかは圧倒的にリスクが低いのだと思う。
「これで全部積み終わりましたね。制限時間も近いので戻ります」
「ああ、ちょっと待ってくれ。これを」
握った拳を差し出されて、その下に手を添えると何かが乗せられた。
「……なんですか? これ」
「小型の無線機、盗聴器だ。出来れば、でいい。出来れば、犯人の近くに置いてくれるか? 今は、君だけが頼りなんだ」
「はあ……わかりました」
期待されても困る。こういうのは責任感が強い者に任せることであって、俺のように、ただ運が悪い者には荷が重すぎる。
適当な返事をしてから盗聴器を手の中に隠して、段ボールの積み重なったカートを押しながら、女が待つほうへと戻っていった。どうやら制限時間内だったらしい。俺のせいで誰も死なずに済むのは有り難いけれど、状況を見ていたのなら、もう一人くらい助っ人を用意してくれて良かったんじゃないかな? とは言えないね。
ともあれ、無事に任務は熟せた。
「よし、戻ってきたな。時間通りだ。じゃあ……春秋だったか? 食事を配ってやれ」
言われたとおりに三年の列から、おにぎりと二個と水を一本ずつ渡していきながらも、頭の中で盗聴器をどうするべきか考えていた。
やはり、最も望ましいのは警察と交渉している男だろう。リーダーだと思うし得られる情報も多いと思う。しかし、隙があるようには見えないし、何より盗聴器を仕掛けようとしていることを知られたら躊躇なく殺される自信がある。……嫌な自信だな。
それはともかくとして、狙い目は無口な女だろう。他の四人は体育館内を散り散りに動き回っていて近付くには不自然だし、女のほうは黒のバックパックを背負っている。盗聴器も黒いし、上手くすれば同化して見つかるリスクも減る。
何か気を逸らすのに使えそうな物はないかとポケットの中を探ると、防犯アラームに手が触れた。
ふむ……いやいや、ここで大音量を響かせるのはどう考えたって得策ではない。
仕方がない。多少のリスクは承知で試してみるしかない。
決心して、おにぎりを配りながら段ボールの底に手を伸ばした時、折り目から段ボールの端を少しだけ破り取った。片手に盗聴器と段ボールの切れ端を忍ばせて、配布を終わらせた。ここからが正念場だ。
「配り終えました」
積み重ねた段ボールを乗せたカートを押しながら男のほうに向かっていくと、今まさに警察と交渉している最中だった。こちらに気が付くと手で指示された。
カートをその場に置いて、元いた場所に戻れ、かな。
「ふぅ……あ、ちょっといいですか?」
言いながらポケットに手を入れて女の下へと近付いていくと、銃口を向けられて手を挙げた。そして、そんな姿を見た男までもが電話をしながら拳銃に手を伸ばしていた。
「いや、あの……ちょっと、背中を向けてもらってもいいですか? わかっています、下手なことをしたら殺されるんですよね? でも、どうしても気になってしまって……いいですか?」
遜ったような言い方をすると、女はよくわからないような仕草を見せながらもゆっくりとこちらに背を向けた。
――危なかった。
近付いていきながら再びポケットに手を入れて、体とバックパックの間に警戒されないよう微かに触れて段ボールの切れ端を取り出した。
「取れました。何かの拍子に飛んだんでしょう。ゴミですね」
そう言うと、女と男から緊張の色が消えた。
「では、自分の場所に戻りますね」
踵を返して、二年一組の列へと歩みを進めた。しかし、その時「おいっ」と男に呼び止められた。
「……はい」
「ご苦労だったな」
まさかの労いの言葉に会釈を返して、再び向き直った。平静を保っているように見せたが、内心はヤバかった。
いやいや――バッカやろうが。こちとら心臓バクバクで今にもはち切れそうなんだよ。しかし、バックパックのサイドポケットが開いていて、なんとか上手くいった。黒い網の中だし、盗聴器自体にそれほど重さも無いから目を凝らさない限りは見つかることもないだろう。
「っ――ふぅ」
体内に籠った熱を吐き出すように息を吐いてネクタイを緩めていると、スラックスをグイッと引っ張られて足を止めた。そんなことをする奴は一人しか思い浮かばない。
「……どうした? 華」
「災難、だね」
そう言って差し出されたのは二つのおにぎりだった。床には別に二つのおにぎりが置いてあることから、俺の分を取って置いたということらしい。いや、確かに別のことに気を取られていて自分の分を取って置くのを忘れていた。
「本当にな。俺はどうにも運が悪いらしい」
言いながら後ろの者に下がるよう指示を出し、華の隣に腰を下ろした。
トイレに立ってから凡そ三十分足らずだろうが、それでも随分と長いように感じた。とりあえず今は腹が減っていないのだが、それよりも周りからの、何があったかを話してほしそうな視線に耐えられそうにない。
まあ、それなら期待に応えますよ。
大して面白くも無い、緊張と緩和のつまらない話を、事件が解決するまでの少しの暇潰しにでもなればいい。
但し――話の下手さはデフォルトだ。諦めてくれ。
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