シアワセ林檎@山野井莉子 ③
家からコンビニまではそう遠くありません。自転車で十分の距離です。日も暮れて、街の明かりが所々できらめいています。たまに電柱の陰に彼が隠れていますから油断できません。
「やあ」
言っている側から、電柱の陰から声が聞こえました。彼の声です。
「え?そんなところで何してるの?」
「散歩」
「散歩?近所に住んでるの?」
「いや、君が見たくなって、遠くに散歩」
「うそ?!」
彼は私に会いに来たと言っています。これは夢です。間違いありません。
「ホントさ」
彼は私に手を伸ばしてきます。その手はとてもざらついていて、まるで木に触っているようでした。
「ほら、早くしないと仕事に遅れちゃうよ!」
彼は私の手を引いてきます。自転車よりも速い速度で彼は駆けていきます。昔から彼は足が速かったから当然です。
「ちょっと!早いよ」
こんな応酬をしたのはいつ以来でしょうか。懐かしくて目から涙がこぼれます。
「早く早く!」
私を置いていかないように、速度を調整してくれます。彼はどこまでいってもやさしいのです。
そのうち街灯が線香花火に変わり、街を彩り始めました。道路はレッドカーペットに代わり、私たちを祝福してくれるようでした。
そんな素敵な街の中を彼に導かれながら駆け抜け、あっという間にコンビニに着いてしまいました。
「おはようございます!」
ついに私は彼と同伴出勤を成し遂げました。私の夢がようやく叶いました。
「お、おはよう」
店長が挨拶に応えてくれますが、どうも様子がおかしいのです。
「どうしたんですか?」
「いや、キミ、それは一体なにかね?」
私の右手を指さしてきます。彼の手がつながれたままのことを咎めているのでしょうか。
「何って、彼氏ですけど?」
「お、おう。そうか。キミはその木の枝が彼氏と言い張るわけだね」
店長に指摘され、私の右手を再び確認します。すると、先ほどまでは感じられた彼のぬくもりはみるみるうちに失われ、言葉通り木の枝に変わっていきました。先ほどまで彼氏だと思っていたのは、なんと木の枝だったのです。
「そ、そんな。な、何かの間違いです!だって、さっきまで彼とちゃんと会話してたんですよ?」
「まあ、失恋は辛いと思うが、早く立ち直れよ」
私の言葉を遮るように、店長は私の肩をポンポンと叩き、その場を立ち去っていきました。
「待って下さい!私はまだ別れていません!」
「いい加減、現実を受け入れたらどうだ。いつまでも幻想に閉じこもっていたら、見えるものも見えなくなっていくぞ」
店長の去り際の言葉が、何故か私の胸の奥に刺さってしばらく消えませんでした。
いつものようにコンビニのレジに立ちます。今日はお客さんがそこそこ入っていて、品出しも疎かになってしまいました。お客さんの列が切れた合間を見計らって、今日到着した雑誌群を補充します。
今日到着したのは、少年週刊誌と女性向けファッション誌、そして誰が買っていくのかが今のところ分からない成人誌です。だいたい少年週刊誌は売れ残っていまい返本せざるを得なくなりますが、女性向けファッション誌はそもそも入ってくる数が少ないため、私が購入してしまう場合が多いのです。その御陰で最近のファッション事情にはとことん詳しくなりました。
それでも、彼は振り向いてくれません。
人妻ものの成人誌を並べ終えたところで、レジに戻ります。いつも思いますが、今の時代コンビニで成人誌を買う人などいるのでしょうか。ネット通販が充実している昨今、最早実店舗で堂々と買う方が珍しいと思います。逆に実店舗で買う奴は、見せびらかして喜ぶ癖でもあるのではないかと疑ってしまいます。ネットではそのような『プレイ』が流行っていると聞いたことがあります。そんなことをしているのでは、その内警察にわいせつ物陳列罪で逮捕されるでしょう。
戻ってきてすぐ、新しい客が入って来ました。おや、見覚えのある顔です。その一人は今日大学で会った挙動不審の彼です。一体何しに来たのでしょうか。
そんな彼は、真っ先に成人誌コーナーに迷わず直行します。大学ではあんなに自信がなさそうだったのに、こと性欲に関することになれば、性格を一変させるようです。ただ入店直後に直行するような、ここまで潔い人間はなかなか見たことがありません。だいたいはカモフラージュで、少年誌を眺めつつ、『偶然入ってしまった』かのようにカモフラージュして入って行くのです。彼にそんなためらいを一切感じません。
彼は舐めるように成人誌コーナーの雑誌を一瞥した後、『快転落』に手を伸ばしました。彼は三次元の女ではなく二次元の女に興味があるようです。
やがて満足したような顔を浮かべ、その雑誌を手に取りレジへ向かってきます。なんと、立ち読みだけでは飽き足らず、お持ち帰りをするようです。なんというアイアンハートでしょうか。
ついに彼がレジの前に現れました。
「お願いします」
そう差し出されたのは、先ほど見ていた『快転落』ではなく、結婚情報誌『セクシィ』でした。何なんだ?彼は交際せずに、結婚して下さいと誘ってるのでしょうか?真偽を確かめる必要があります。
「あれ、どこかでお会いしませんでした?」
まずはこのままだと結婚まで押し切られてしまいますので、軽い話題転換をして彼の気をそらします。私は彼と結婚するつもりなのだから、貴方とは結婚するつもりはありません。
「え?……あ、ああ!!!そういえば」
なんとこの人、この期に及んですっとぼけました。きっとプロポーズを軽く拒否されたので、日和っているのでしょう。全く、これだから彼以外の男はだめなのです。
そもそもこの目の前にいる彼は、私を追跡してここに辿り着いたのでしょうか?まさか、ワザワザ『セクシィ』を手渡しプロポーズする為だけに後を追ってきたストーカーなのでしょうか?彼の目的を今一度探る必要があります。
「どうしたんですか?この辺に住んでるんですか?」
「いや、たまたまこの付近に友達……いや、多分今から友達になれるかも知れない人のところで飲み会やるんですよ。それで、これは買足しで」
何か会話のつじつまを無理矢理合わせようとしているように見えます。怪しいです。実に怪しいです。
「それも……買足しなんですか?」
核心に迫ります。彼はどんな反応を見せるのでしょうか。
「い、いや、まあ、これは興味があるってだけで」
なんと、『興味がある』だけで済ませてきました。私の態度を見て、機会を改めることにしたのでしょうか。
「興味?」
「はは、そりゃ、男ですから」
「そ、それもそうですよね」
結婚は男だけが興味を持つモノではありません。もちろん女も興味を持つモノです。確かに結婚というモノは男女の仲ということもあって、それ相応のモノがなければ成り立たないのでしょうが。
「あ、あと、フライドチキン一つ下さい」
「フ、フライドチキン、ですか?」
諦めに満ちた彼の口から、思いもよらない言葉が出てきました。う、嘘ですよね?フライドチキン?私と彼の好きだった食べ物を何で知ってるのでしょうか?もしかして、今目の前に居る彼は、あの彼なのでしょうか?彼が目の前に現れたのでしょうか?もしかして生き写しですか?私のために残してくれた分身なのですか?ああ神様、こんな奇跡を私の元に連れてきてくれてありがとうございます。神に感謝します。もう木の枝は一生棄てません。
そんな彼と、もっと話したくなりました。もっと知り合いたいと思ったのは罪でしょうか。
「も、もし良かったら、連絡先交換しません?」
気づいた時には、もうその言葉が出ていました。彼は快く了承してくれました。
そして彼は、続けざまに誘いをかけてきました。
「よよよよよかったら、いま、いや、これからパーティやるんで、ぜひ来て下さい!バイト終わったら、よ、れ連絡してくださいむかにいきますんで」
彼の必死のアプローチに、応えない人が何処にいるのでしょうか。
「ありがとう」
久しぶりに自然と出た、感謝の言葉でした。
シフトの時間も終わりを迎え、コンビニから立ち去り、遂に決断の時を迎えました。例の彼の誘いを受諾すべきでしょうか。彼は以前の彼と好みが似ています。しかも『セクシィ』で求婚までしてきました。これは又とないチャンスのような気がします。ですが、彼のこともあります。彼は未だ私に未練があるはずです。彼は私のことをいまだに健気に思い続けているはずです。一時の言葉のすれ違いによってこんなことになってしまっただけのはずです。
『いい加減、現実を受け入れたらどうだ。』
不意に店長の言葉が頭の中でリフレインしてきました。私は現実から逃げているというのでしょうか。私の中の現実は、みんなの思う現実とかけ離れているとでも言うのでしょうか。
もう私には何が現実か、分からなくなっています。
例の彼に再び会えば、現実と向き合うことが出来るでしょうか。私に想いを必死で伝えようとする彼に報いれば、私は救われるというのでしょうか。彼をここで諦めろというのでしょうか。
『いつまでも幻想に閉じこもっていたら、見えるものも見えなくなっていくぞ』
全ては一度、真剣に向き合うことから始まるような気がします。私は例の彼に貰った番号に、電話を掛けることにしました。
例の彼はすぐさま電話に出て、そこで待っていて欲しい、と言われましたので、その言葉に従うことにしました。
例の彼は一分もせずにやってきました。
「ご、ごめんなさい。お待たせしました」
「いえ、こちらこそ」
迎えに来た例の彼は、何故か以前の彼の姿に重なって見えました。
「こちらです」
彼の手招きに従い、道を歩んでいきます。先ほどとは違い、レッドカーペットや線香花火はありません。彼は特に私に話しかけることはしませんでした。素振りからも分かりますが、相当緊張しているのでしょう。私も昔、あんな感じで彼の一挙手一投足に体を震わせて、今にも呼吸困難で倒れそうになっていました。私にもああいう風に楽しんで居た頃があったはずです。
いつから、こんなに恋をすることが苦しくなってしまったのでしょうか。
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