シアワセ林檎@山野井莉子 ②

今日も私はバイトの空き時間を見計らって、大学に行きます。

なぜ大学に行くかを問われてしまうと、昔所属していたサークルの付き合いが未だにあってというのもありますが、それ以外にも理由はあります。別れてしまった彼への淡い思いの欠片が、このキャンパスの中には沢山ちりばめられているのです。その欠片を拾い上げると、彼が私に語りかけてくるのです。

「迎えに来てくれたんだ。うれしい」

キャンパスの門の陰に居る彼に話しかけます。

「やあ」

彼はキャンパスの大講堂へ私を手招きします。

「え?私授業は、別に」

「ほら、早くしないと授業始まっちゃうよ」

私の手を強く引いてきます。その握られた手からは暖かみが伝わってきます。そう、これは幻じゃないんだ。今この目の前、触れて感じる全てが『現実』なんだ。

「ちょっと、待って!」

彼の導きに従い大講堂の扉を開けると、いつか彼と嗅いだ、古い建物独特の熟された薫りが鼻を擦ります。

既に授業は始まっており、私は教室中の視線を浴びてしまいました。晒し者にされている気分でとても恥ずかしいです。颯爽と席に着こうとしますが、後方の座席は既に埋まっていました。大学ではだいたい勉強する気のない人達が後ろにいって終始しゃべくり倒すと相場が決まっていますよね。

そもそもこの授業は何を学ぶ授業なのでしょうか。まあ、彼が手招きしてくれた授業ですから意味が無い訳ないですよね。内容については、最前列の人に聞けばきっと分かるはずです。一番授業を真剣に聞いている人が最前列に来ることは、オセアニアでは常識です。

私は後方座席を諦め、最前列に腰掛けることにしました。……おや?彼の面影を残した男性が、なぜか白紙のノートとにらめっこしています。一体彼は何をしているのでしょうか。

「ここ、座ってもいい?」

最前列は彼以外には座っていませんが、礼儀として一応聞いておきました。淑女としては当然のマナーです。

「い、いえ。お構いなく」

彼の声が明らかにうわずっています。おや、この子はどこかで見たことがある顔です。ああ、そういえばサークルにたまに顔を出していた後輩でしたか。確かやたら内地と絡んでいる可哀想な人ですよね。ですが、この口振りからすると、さては彼、私のことを憶えてないのでしょうね。ですが、ここで彼が私を思い出させることが重要ではありません。

依然私は周囲の注目を浴びていますから、一刻も早く教室に居る一人の生徒として溶け込まなければいけません。これ以上目立つことをすれば、既に大学を卒業して勝手に入ってきている不法侵入者ってことがバレてしまいます。

「今どこやってるの?」

速やかに彼の隣の席に腰掛け、目が泳ぎまくっている彼に、授業の内容について聞いてみます。

「い、いやあ、僕久しぶりにき、来たから、わわわからああ」

挙動不審だった彼が、更に奇っ怪な動きを見せるようになりました。これではダメです。彼に似ているだけで、彼は決してあの彼とは言えません。彼とは違う、何か怪物のような何かです。他人に怯え、他人と関わり合えば自覚無く人を傷つけてしまう、そのような類いの人間です。

結局内容のことは聞き出せないまま、怯える彼を見つめながら授業は終わりを迎えてしまいました。


大学で彼の残り香を一通り楽しみましたが、アルバイトのシフトの時間までには少し余裕があります。一旦家に帰ってゆっくりするとしましょう。

私の家は大学から程無い距離にあります。大学を卒業してから、どこか遠くへ引っ越して悠々自適なフリーターライフを送ることも考えましたが、彼の思い出が詰まったキャンパスとこの家からは、どうしても離れるという選択肢は選ぶことは出来ませんでした。いつか、彼が戻ってきてくれるような気がして、いつでも戻って来られるようにと引っ越してはいけないように思えたのです。この二つから離れてしまうと、私の人生を丸ごと否定されてしまうような気がして、立ち去ること即ち私自身の喪失につながると恐怖してしまったのです。

人生の狂った歯車を直すには、何か悪いモノを切り捨て無ければならないと良く言うものですが、私にとってそれは私自身の人格否定になってしまいます。たまに現れる彼は『幻』だってことは、うすうす分かってはいるんです。ですが私の心のどこかでそれは『本物』だ、彼は私のことが好きだと囁き続けるのです。

家に帰っても迎えてくれる人は居ません。迎えてくれるのは、片付けていないコンビニ弁当の空の器と彼との写真。でも、時々彼の写真が動き出し、私の前に現れて私を慰めてくれるから、そんなにさみしくはないのです。

無理矢理着飾った服を脱ぎ捨て、いつものジャージに着替えます。この格好の方が落ち着きます。なぜならこのジャージは、彼が置いていったものだからです。男物だからサイズが大きかったのですが、洗濯を繰り返すうちに丁度良い長さになってしまいました。

もう彼は帰ってこないのか。いや、もう帰って来ているのか。あちこちにちりばめられた彼の残滓によって、私の中では彼とはまだ別れていないことになっています。あの日から仲はそのままなんです。毎日携帯電話でメールするとmailerdaemonというアドレスから英語で洒落た文面を送ってきます。私に文面に何が書いてあるか、クイズを出して楽しませようとしてきます。やっぱり彼はとても優しいのです。

不意にテレビを点ける。また下らないバラエティで笑いの強制が始まる。いつまでこんなことを続けるのだ。

そういえば、昨日作り置きしておいたカレーがありました。腐らないうちに食べてしまわないといけません。いつも二人分作ってしまうので、必ず翌日もカレーなのです。彼がいつ帰ってきても良いようにと、いつもカレーを作るときは二人分を作ります。そうしなければ、心が安まらないのです。

カレーを口の中に掻きこんで、しばらく下らない番組を見ている内に出勤時間を迎えてしまいました。

もう時間です。働きに行きましょう。いってきます。

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