不本意ながらこいつとは親戚の間柄だ@内地知可子 ③
昼休みの食堂。人でごった返す学食のテーブルに、好物の漬け物定食と水を置いて座った私の向かいには、冴えない猫背の男が座っていた。大盛りのカレーライスを頬張り荒々しく咀嚼する様は、見た目は全く違うが、どこか大食い選手権の巨漢を彷彿とさせる。こいつと食卓を共にすると毎度、もう少し落ち着いて物が食えないのか、と思う。とりあえず食べるときには口を閉じて食え。
小野田光は私が向かい側の席に着いたのも構わず、飲み物のようにカレーを食べ続けている。食事のときに他人が食べ始めるのを待たないのも、人が来たからといって会話を始めようとしないのも、こいつの特徴。会話はいつも、こちらから始めなければならない。
「今日暇だったの?」
「なんで」
「何でって、大学来たの久々でしょ」
私の一言に、光は眉根を寄せた。まるで私の人格全てを否定しにかかるような鋭い視線でこちらを見つめる。
「留年した人間は講義に出席しちゃあいけないっていうのか」
「別に? そんなこと一言も言ってないんだけど。てか、何でそういう風に取るの?」
意味がわからない。こんな状態だから、こいつは普通に人と会話が出来ないんだと思う。光はまた黙ってカレーを食べ始めた。責められたように感じると黙って自分のやってることだけに集中したがるのも、こいつの昔からの特徴だ。光の目の前には常に他人との会話に困ったときのための逃げ場が用意されていて、例えばそれはゲームだったり、本だったり、スマホだったり、食べ物だったりする。たまたま今日はそれがカレーなのだ。他人との会話に困ると、いつも光は暗い顔をしてそれらに逃げ込む。会話が続かないから、光に構う人間は今や大学でも私を除くとほとんどいない。その結果が、二年間の留年という傷の経歴だ。
光は私よりも二年早くこの大学に入学した。普通に進級して卒業していれば、今ごろ社会人一年目としてどこかの会社で働いている年齢のはずなのだが、大学で友達を作らない、サークルにも参加しない、単位もまともにとれない、バイトもしないの典型的な堕落コースをたどった結果、見事に自己愛を肥え太らせたひねくれ者に成長してしまった。単位がとれないのだから就職活動をできるはずもなく、ただただ無駄に大学に居座っているだけ。親の脛をかじり続けては学費を浪費していく学生ニートは、親戚一同の間で噂と心配の種になっていた。
そんな折、本当に何の因果か知らないが、私がたまたま光と同じ大学の同じ学科に入学することになり、あろうことか親類一同から、あいつをどうにか卒業させてくれ、このままだと学費で家庭が破産する、と縋られたのである。まさかこの年齢で年上の親戚の面倒を見ることになるとは全く予想外だった。私自身は、ここで甘やかしたらこいつは一生このままなんじゃないか、と一度反論も試みたのだが、やはり親戚一同としては光の今後より目の前の学費であり、自身の学業の支障にない限りでいいから、と頭を下げて頼み込まれた。これによって、キャンパスライフの片手間にこいつを卒業させるための画策が始まったのだった。
――不本意ながらこいつとは親戚の間柄なのだ。誠に不本意ながら。
光は暫く黙々とカレーを食べ続け、やがて大盛りの皿の半分まで食べ終えたところでようやく無言で食べ続けることの気まずさに気が付いたのか、それでいながらまた敵意しかない瞳をこちらに向ける。
「で? わざわざ僕と飯食いに来て、言いたいことはそれだけ?」
相変わらず愛想もクソもない。今日の光は不機嫌なのか、会話を続けようとする姿勢を見せるも、出てきた言葉が明らかに拒絶の意を含んでいる。苛立ちを覚えたが、ここで挑発に乗っては、また無駄に距離を置かれるだけだ。私は四人掛け席の空いている席に置いていたチェック柄の袋に包んだ弁当袋を取り出し、光に向かって差し出す。
「はいこれ、いつもの。今日もポストに入れておこうかと思ったんだけど、久々に大学来たし渡しておくわ」
光は包みを受け取って、それと私を交互に見比べる。まるで中に毒でも入ってるんじゃないかと疑うような視線を向けてきたが、それには笑って、こちらに敵意はありませんよ、ということをアピールしておいた。身寄りがなくて大人に近づけない子供を面倒見る保母さんとはこういう気持ちなのかもしれない。中身は当然、至って普通の弁当。私が親戚から光の世話を頼まれた当初から続けているもので、光が大学に来ていなかった期間は、ポストに付箋と一緒に置いておくような習慣ができていた。昼と夜どちらに食べてもいいように、比較的日持ちする食材を詰めて作ってある。今日のメインメニューは常温で溶けるタイプの冷凍ハンバーグだ。
光はそれを見てまた黙っていたが、何か言いたげな顔でこちらを見つめてくる。促すでもなく、尋ねるでもなく私は目の前の漬物定食に箸をつけ、大根の浅漬けを一つ口に運ぶ。塩辛さと酸味が口の中で混ざり合い、噛み締める度にしっかりした歯ごたえが伝わってくる。もう一つ、学食で出すことは珍しい奈良漬けをほおばる。甘くできていて、舌にきめ細かな繊維が触れるのがたまらない。これはきっと日本酒に合うだろう。酒が欲しかったが、さすがに昼間から飲むのは少々気が引ける。でも、酒が欲しい味には違いない。
「僕」
「え、何?」
「僕っ、なんだよ!」
せっかく漬物の余韻に浸っていたのに、光が突如立ち上がりこれまでため込んでいた言葉を吐き出すように、突然上ずった声で怒鳴った。思わず椅子を引いて逃げる体制をとると、今度は逆に光が面を食らったように顔をひきつらせる。渡した弁当は机の上において、光は思い切り私の顔を指さした。
「お前らがケラケラうっさい声で笑ってた、駅前留学してたのを見破られたっていうやつは僕! 前の座席に本人が座っているとも知らないで楽しそうに人の悪口で盛り上がってるとかお前本当最低だよな。そうですよ、どうせ僕なんか実際に外国に旅立つ勇気もなければ、英語テストのスコアも上げられないド底辺野郎だよ! お前らリア充にかまってる暇があったら一人でボッチ飯決めてるわ、悪かったな、この野郎!」
わかったら、もう僕のことは放っておいてくれ。平らげた大盛りカレーの皿を荒々しくつかむと、光はそう言いたげな背中を見せて食器返却口に向かっていった。途中、早く去りたいのに人が多くて思う通りに前に進めず、苛立ったように髪の毛を搔きむしり、それでも周りに声をかけるという、それだけができなくて無理に人ごみに紛れようとしているようだった。
何だか、生きるのが大変そう。私があいつに世話を焼くようになってから感じたことを思い出しながら、普通の人とああいう風に堕落していく人間の違いは何なのだろう、と少し考えてみたが、結局、人と付き合うのが嫌なのだろう、というわかりきった答えしか出てこなかった。とりあえず、手渡した弁当についてはちゃっかり持って行ってくれたようだ。多分明日の朝には空になった弁当箱が、いつもの通りポストに投函されていることだろう。
それにしても、駅前留学の嘘の話は、あいつがしたのか。相変わらずしょうもない嘘をつくなあ、と思いながら、光が去った後の四人掛け席で私は一人食事を再開した。甘い沢庵を咀嚼していると、昼間なのにやはりどうにも酒が欲しくなった。今日はもう授業は入っていない。昼間は自重しなくては、と気を張っていたが、部室に酒があったはずだ、と思い出すとどうしても足がそちらに向いてしまった。
薄汚れた大学の部室棟の一室を借りて、アイドル研究サークル Love in you は存在している。主な活動はただ一つ。アイドルの追っかけをやる。それだけだ。部内の規則も同じく一つで、アイドルに関するプライベートな情報を偶然知ってしまった場合、それを無暗やたらに公開してはならない、ということ。幽霊部員含めて部員は全部で八十名近くおり、部員同士はよほど仲がいい限りでないと、お互いの顔も名前も覚えられないというのが通説となっている。現に私も全く顔も知らない先輩が数多く所属していると感じたことが多い。これはLove in youのサークル活動の性質上、それぞれ応援するアイドルグループとオシ面も違うことから基本的に個人応援が多いからだろう。一致団結して特定のアイドルグループを応援しているとき以外、活動はかなり自由だ。
私が部室内に入ると、中には暇を持て余した部員たちが数名いた。皆、パソコンや雑誌・スマホなどに目を向け、自分の追っかけるアイドルの情報を一心不乱に集めているようだ。今日もこのサークルはいつもの通り、学生のたまり場と化している。私は部員たちの脇を通り抜けて自分の私物が置いてある棚のあたりにいそいそと移動する。雑誌用本棚に潰されん勢いの最下層のカラーボックスに、目的のものはあった。黒い瓶に、幅広で淵が金色のラベルが貼ってある、芋焼酎――”裏霧島”。いかにも塩辛いものが合いそうなとろみある液体が瓶から透けて見え、その様子に思わず喉がごくりと鳴った。
「ねえ知ってた。山野井先輩って釜戸官と知り合いらしいよ」
後ろにいる部員たちの話し声が聞こえる。釜戸さんの名前が出てきて、私の酒に注がれていた意識が一気に引き戻され、部員の噂話の方に向く。
「うっそ、マジで? 山野井先輩何者だよ」
「ここにたまに来るOGだよ、噂によるとすげえ美人らしいんだけど、俺も会ったことない」
「いいなー、チケット横流しとかしてくれないかなあ」
「いやいや、それは無理っしょ、いくら何でも」
山野井先輩、という人の顔が思い出せない。美人で釜戸さんと知り合いということから、何となく少し前に開催された大学祭の時、一緒に女装喫茶に行った先輩がそんな名前だったような気がするが、あまりはっきりとは思い出せなかった。しかもその日に誰かの家の住所を渡された。誰の家か、と尋ねたけれども、先輩は教えてくれなかった。あれは結局何だったのだろう。
確か、あの住所の書かれた紙はまだこの部室にあったはずだ。どこかの私物に紛れ込んでいるかもしれない。あの日釜戸さんと会ったあと、聞いた内容をパソコンにメモしつつ置いたからそのあたりにあるのかも。あの日使っていた部のパソコンの脇を覗き見ると、スチール製のペン立ての中に、それらしき紙が残っていた。なるほど、あれだな。
パソコンを使っている部員の脇を抜け、ペン立てから紙を取り出してみる。中には確かにあの日渡された住所が書かれていた。住所をよくよく見ると、都道府県市町村、地域までこの大学とぴったり一致しているようだった。もしかしたら、大学からかなり近い場所なのかもしれない。
これはちょっとした冒険の予感がする。試しにこの住所に書かれている場所に行ってみよう、と私の好奇心が疼き出した。一人で行くのもいいが、どうせなら複数人で行った方が面白そうだ。さて、と考えたところで、名案が閃く。
――話のネタに光を誘ってみようか。
「で、その、何だかよく分からない住所捜索のために、僕を誘いに来たと」
「そゆこと」
午後の講義もひと段落した時間帯。私はいつものとおり、弁当箱を届け・回収しに来ている光の家に立ち寄っていた。インターフォンを十回以上鳴らしてようやく出てきた光は、髪の毛はぼさぼさでシャツに皺が深く、明らかに昼寝起きの姿だった。ひとしきり事のあらましを説明したが、光は例の明らかに敵意しか見えない瞳に眠気を加えた視線でこちらを見て、何が何だかわからない、という呆れ顔を晒している。とりあえず住所探索の冒険に出るにしても、まずはこの姿をどうにかしなくてはなるまい。というか、人前にそんな恰好で出てくるんじゃない。
「ということで、着替えて出発の準備を」
「なんで僕なの」
「あんたどうせ暇でしょ。たまには日の光を浴びながら散歩した方がいいって」
光はぼさぼさぼ髪の毛を伸びっぱなしの爪で気だるげに掻いた。
「余計なお世話なんだけど。日の光ならさっき大学行くときに浴びた。あと久々に講義出たから疲れた」
「甘えるな、アホ。いかにコミュ障だからといっても一応男だし、私が万一危ない目にあったらあんたに戦わせて私は逃げるから」
「それなら僕じゃなくて誰か別の奴に頼んだ方がいいと思う」
だから僕はパス、と光は開けていたドアの扉を閉じて部屋の中に戻ろうとした。が、その隙を見逃さず、私はドアが閉まる直前に空いた隙間に靴のつま先を突っ込んでそれを止め、逆側のドアノブから思い切り体重をかけて扉をこじ開ける。
「いいからさっさと支度して来いや、クソニート」
光の驚いた顔がこちらに向けられていると思うと、内側からドアを引こうとする力が緩み、うえぇ、と心底面倒臭そうなうめき声が聞こえた。数分後、観念したらしい光は部屋着から普段着に着替えて扉から出てきた。鏡を見直したのか、それなりに頭も整えられている。
「よし、じゃあ早速行こうか」
「守ってくれる人いなくてもあんた十分強いじゃん……さすが、”ない乳ゲール”」
「あ?」
「何でもないです……」
ほぼ強制的に連れ出した光とともに、住所に書かれた場所を目指す。大学にほど近いためか、街路には安いラーメン屋とチェーン店が多い。一方で、一歩裏路地を行くと昔ながらの地元の店らしい花屋、家電屋、古本屋なども軒を連ね、古民家を改修して建てられたカフェがあると思えば小洒落たマンションが建っていたりもして、何でも詰め込んだ統一されていない風景が広がっている。その全貌たるや、まさにカオスという言葉がぴったりだ。昔からあったものにあれこれ付け加えた結果なのだろうが、見た目とは裏腹に意外と色々なものが手軽に調達できて住みやすい地域でもある。
冒険心に任せて飛び出したはいいものの、いざ捜索を開始してみると住所の書かれた紙の他に手掛かりは何もない。仕方がないのでまずその場所が大学付近のどのあたりに該当するのか、スマホの地図アプリを使って検索した。案内された経路に従って道を進むと、まるで人気がないアパートの一角にたどり着いた。一軒だけ聳えるアパートは人が住んでいるのかも不明なほど古そうな建物で、壁の周りには蔦が張っている。冒険を楽しむまでもなく、あっという間の時間だった。
「このあたりか」
「何か凄そうなアパートだけど。そのメモ、誰か適当な同級生の住んでるところを書いただけなんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、まだ確かめてみるまではわからないと思う。ちなみに、部屋は番号から察するに、二階ね」
改めて地図アプリに入力した住所を確認する。一番早いのはその住所に書かれたアパートの部屋に突撃することではあるのだが、もしかしたら玄関口の時点ですでに鍵がかかっているかもしれない。一旦、アパートから離れて付近にそれらしい人がいないか、あたりを見回してみた。アパートが建っている通りの道は一本で、通りかかる人はすぐにわかるようだ。
「……こんなところで待ってて、何になるんだ。僕たちの方が怪しくない?」
「いいじゃない、別に。面白ければ何でもオッケー」
「はあ」
光が露骨にため息をつく。と同時に、見張っていた道の先に、人が現れた。茶色の髪の毛に白いワンピースを纏い、クレープ片手に道を行く女性……かと思ったが、よく見てみるとその体は長身でやや骨が太かった。どうやら女性の服を着た男性のようだった。その人物は、徐々にこちらに近づいてくる。
「うわ、何あれ、ちょっとやばいこっち近づいてくるんだけどどうしたらいい」
「んなの知るか! 私に聞くな。とりあえずそこ、その駐輪場に入る!」
突然現れた人影に大袈裟なくらい慌てる光の首根っ子をつかみ、アパート付近の駐輪場に逃げ込んだ。道路に背を向ける形で立たせて、咄嗟にポケットに入っていた自宅の鍵を取り出す。私は肩から掛けていたカバンを外して、駐輪場に置いてあった他人の自転車の籠にそれを突っ込み、駐輪場に用がある人を演じてみせる。そうしている間に、先ほどの女装した男は私たちの後ろを通り過ぎて行き、一旦、謎の女装家に話しかけられる危機は去った。本能的に危機を察知した光は立ちすくんだままガタガタと震え続けている。人見知りもここまでこじらせるとある意味病気かもしれない。さすがに今のは私も悪寒が走ったけど。
なぜか隠れてしまったあと、ふとあの男がどこに向かったのか気になり、駐輪場から向かった方向を覗き見た。男はメモに書かれていた住所のアパートに今まさに入ろうとしているところだった。あの人の友連れを装えば、中に入れそうだ。
「走るよ」
「え、え、何」
慌てる光に構わず腕を引っ張ってアパートの中に駆け込む。コンクリートを軽やかに蹴ってアパートの入り口があと数メートルに迫ったところで減速し、その男の後ろから、怪しまれないようにゆっくり中に入った。男が階段を上がっていく様子を見つつ、私たちも二階へと上がっていく。光はぜいぜいと息を切らしていたが、あえて構うことなく登る。ひとまず潜入は成功したのだ。あとは、メモに書かれた部屋がどこなのか探るのみ。
「よし、もう少しだ」
「おいもう、やめようって。大体、冷静に考えて知らない住所追いかけるとか頭おかしいだろ、お前」
つかまれていた腕を振り払い、光が抗議してくる。が、私は振り返らずに前に進む。
「こういうちょっとしたところにいいことがあるかもしれないじゃん」
「いや意味わかんないし。他人のうちに上がり込むってそれもういいことより悪いことが起きる確率の方が高いだろ。それに全くちょっとしたところではないだろ」
「いいのいいの。ヤバかったらあんたをおいて逃げる予定だから」
「やっぱりクズだよねお前!」
何だかんだと会話をしながら、結局住所の部屋番号までたどり着いてしまった。部屋の前は案外静かだったが、少しばかり扉が開いている。指さしでそれを示して振り返ると、光がいよいよ顔面蒼白といった面持ちで固まっていた。振りほどかれた手に今度は縋りつかれて引き止められる。さすが対人恐怖症患者。見知らぬ他人への拒絶反応は一般人のそれと比べ物にならないらしい。まあいい、と逆に今度は私が光の手を振りほどいてそのアパートの一室に踏み出した。空いているドアを引き、そっと中を見る。
まず飛び込んできたのは、たくさんの女ものの洋服。私や友人たちがよく着ている、今年の流行色を使ったスカートやシャツをはじめ、タイツやスパッツ、ストッキングととにかく山のように服が散らかっている。その先に、逞しい肉体の男が座り込んでいた。その光景に何か既視感を覚えたような気がしたのは、その姿がまさしく先ほど通りを歩いていた、女装の男だったからだ。唯一違うのは、男はカツラを被っておらず、また今はジーンズとメンズシャツを着ていて、遠くから見ても男であると分かるということ。
後ろから続いて光が恐る恐る部屋の中を覗く。はっ、と息をのんだかと思うと、逃げ腰に体をこわばらせた。一歩後ずさりした途端、光は足を踏み外して盛大に転び、その衝撃でひっと少し悲鳴を上げた。
部屋の中にいた男が、光の上げた声に気付いて振り返った。徐々にこちらに近づいてくる。改めて見ると、武骨な体は想像以上に大きく威圧的で、本当に危険な奴のところに来てしまったのでは、と数秒前の自分の発言を猛省した。これは本当にさっさと逃げた方がいいのかもしれない。そう思って光の腕をつかもうとすると、尻もちをついていた光は男の姿を見た瞬間に突如立ち上がり、逃げるどころか逆に部屋に近づいている。
「……あの」
「誰っすか。ちょっと今、着替えてる最中なんすけど」
勇気を出して一言声をかけたと思われる光に、男は冷たく言い放つ。ドアを隔てて外側に、何やらやや希望に満ちた表情をした光。一方、ドアを隔てた内側に、女装をしていたとおぼしき謎の武骨な男。いや待て、ちょっと待て。どういう状況だこれは。確かに私はメモを頼りに何か面白いことが起きればいいな、とは期待していたが、これは全くの予想外だ。
「ち、違うんですこれは全部こいつがやったことで僕は決して関係ありません、ところであなたとてもいい体をお持ちでうらやましい限りです。顔もとても綺麗だしなんというか全てが完璧じゃないですか? 僕みたいな弱小人間とは生きる世界が違います」
「……? はぁ、どうも」
男は早口すぎて何を言っているのか聞き取りにくい光の発言に少し困った様子をしつつも丁寧に答えた。まあこいつと話すってなかなかの労力だからそのような反応をしてしまうのもよく分かる。が、光は何やら謎の男と対面できたことが嬉しいのか、普段よりも生き生きとしているように見えた。羨望か、あるいは好奇が混じりあった眼差しを向け、何を思っているのか、今にもご主人様に飛び付く子犬のように身を震わせている。
いずれにせよどうやら光は先ほど見たあの不審な女装家がこの武骨な男だと気付いていないらしい。これだけ分かりやすく部屋に女物の洋服が散乱しているのに先ほどの件と結び付かないあたり、鈍いというか視野狭窄気味というか、対人関係に関して驚くほどに自己解釈の中で完結している奴だ。もうちょっと周りを見たらどうなんだ。
でも、ある意味これは使えるかもしれない。
「光、お金あげるからちょっと酒と適当なツマミ買ってきて。私はこの人と話がある」
「は?」
「行ってきて。悪いようにはしないから」
私は素早く財布から小銭を取り出すと、光の手に握らせてその背を押した。光は批難するような、なぜ自分が頼まれたのかわからないといった目で私を見ていたが、少し間を置いてから渋々アパートの外へと出ていく。完全に光の気配が消えてから、私は目の前の男に向き直った。男は今しがた目の前で繰り広げられた茶番を疑問に思いながらも、特に自分から話しかけてくる様子はなかった。ただ、床に落ちている装飾品や衣服が気になるのか、それらを一つずつ集めながら部屋の中の衣装棚に戻している。
「あなた。名前は何て言うの」
「丹温太」
「そう、珍しい名前ね。あなた、うちの大学の女装サークルの人でしょ」
温太と名乗った男は私の言葉を聞くなり、部屋の片付けをする手を止めた。数秒黙考したと思うと、はたと何かに気付いたように、顔を上げ私の方を振り返る。
「……あんた、この間の大学祭の時の」
どうやら温太も覚えていたようだ。その通り、私たちは一度大学祭の時の、女装サークル、ナナカマドで店員と客の立場として会っている。先ほど道ですれ違ったときはその格好に驚いてしまって忘れていたが、よくよくみれば温太の顔はあのときの女装店員そのものだった。
彼は女装サークルでそれなりに人気のあった店員だったように見えた。体こそ逞しいものの、細かい化粧や服装などに気を遣えるキレイな格好で周囲も認めるほどだった。現に喫茶にいるときは周りから彼を指名するオーダーが聞こえていたものだ。それがどういうわけか、今の温太は髭が生え体毛も処理されておらず完全に男そのものだった。短期間でここまで変わってしまう人間も逆に珍しいのではないだろうか。
「随分変わったようだど、何かあったの? 今の姿じゃその格好は似合わないと思うけど」
「さあな。あんたには関係ないだろう」
温太の背中は、いつもの光と同じような哀愁を漂わせている。今の俺には構うな、という拒絶の意思だ。誰だっていきなり家に侵入されればその相手に対してこのような態度になるのは当然かと思われるが、そんなことは今の私には配慮する義理はなかった。
「そうは行かないわよ。今からちょっとした取引をするのだから」
「取引?」
温太の言葉に頷く。私は鞄からスマホを取り出して女物の服が散乱している温太の部屋を撮影した。カシャ、と無機質なシャッター音が静まった室内に響く。
「……!? 何を」
「さっきあなたが女装で町を歩く姿を見たけど、今あの格好で歩ける場所って限られてるわよね? 女装サークルのときくらいキレイにしてればバレないかもしれないけど、今その格好じゃどう見ても不審者扱いだし」
手に持ったスマホを見せ付けるようにしてトントン、と爪で叩いた。温太は渋い顔をして私とスマホの画面を交互に見て、怒りと恥のあまり顔をみるみる赤くさせていく。他人の家に突然押し入って盗撮の上に脅迫まがいとは、我ながらなかなか性格悪いと自覚しているが今の私にはこれしかない。
「知り合いや近所の人に見られたら、どう思われるかしらねえ?」
いかにも性悪、という種類の笑みを演じて、温太に語り掛ける。温太は頭を抱えて鋭い視線で私を見た。
「くそ、何が目的だ」
「あなたの女装のことを黙っててあげる、その口止め料として、この部屋の合鍵を頂戴」
「合鍵? 何のために? 金か?」
「違うわ、どちらかというと、あなたがいるこの空間」
意味が分からない、と言いたげな表情を向ける温太。正直私も先ほどの光の表情を見なければこんなことは考えもつかなかったに違いない。理由は不明だがあらゆることに興味を失った光が、唯一この男にだけ人見知りの性格を押しのけて自ら話しかけた。しかも笑顔だった。これには何かしらの意味があるはずだ、と踏んだのだ。別に光の興味関心が誰に向いていようとどうでもいいのだが、あのひねくれ者に何らかの行動をさせるのは自分一人だけだとやや心もとないというのが本音でもある。多少強引な手を使っても、本人が関心を寄せている対象を巻き込んでしまうのが一番早いと思ったのだ。いまだに散らかる温太の部屋を見渡しながら、私は片手を突き出した。
「ここを私たちの拠点とするためあなたにも協力してもらうわ。これから私は光とたまにここに来るから。そのための鍵ね」
「ふざけるな。勝手に自分の家に上がり込まれるリスクがあるのに他人に鍵を預ける奴があるか。無茶苦茶だろうが」
「じゃああなたの今の姿を、友達や近所の人に写真見せながら言いふらすけど、いいの?」
「……クソが!」
私の一言に温太は完全にしてやられた、という顔をして、冷蔵庫脇のマグネットフックにかかっていた鍵束から一本小さな鍵を取り、それを私に向かって放り投げてきた。咄嗟に両手を前に出し、それをキャッチする。温太はもうこれ以上関わりたくないとばかりに、背を向けて部屋の中央で胡座をかき、肘をたててその上に頬杖をついた。
「あら、合鍵が常備してあるなんて準備が良すぎない? 彼女でもいたなら、遠慮してくれてよかったのに」
「生憎暫く前に別れたばかりで今はフリーだ。誰かに渡す可能性があまりに多かったから持ってた方が都合がよかっただけだよ」
「結局色男じゃない」
「俺だって好きでこうなったわけじゃない」
「皮肉ね、世の中って。あんたみたいな女装趣味の変人が、素の人間としては最も男に羨まれる立場にあるなんて」
まあ、私あんたと会ったの今日が初めてだけど。偉そうなことを言いながら、もらった合鍵についた金具の輪に指を通してくるくると弄ぶ。温太は今の一言にどう反応していいか迷っているようで、じっと自分の脹ら脛のあたりに視線を落としている。
「誰でもその可能性はある。俺が極端な例なだけだ」
あんたもそうなるかもしれない、と絞り出した温太の声はどこか寂しげだった。床に落ちたシルクのスカートを武骨な指で撫でながら何か思い出に浸るような、ここではないどこかを見ているような視線を絡み付かせている。この男は底知れない闇を抱えているのかもしれない。
背後から足音とビニール袋が擦れる音が聞こえた。振り向くと、光が重そうな荷物を抱えて戻ってきていた。あの、と一言言い淀むのを見て、ちょうどいいタイミングで帰ってきた光を笑顔で迎える。
「ありがと。今鍵手に入れたから、以後適当に騒ぎたいときはここに集合ね」
「え?は?」
突然の出来事に状況が飲み込めていない光の肩をぱんと叩く。私は買い物袋を片手にお邪魔します、と温太の部屋に入り、あたふたしていた光もその流れで一緒に上がり込んだ。
「じゃあ、始めましょっか、宴会」
笑顔の圧力をかけると、強引だよなぁ、と温太が呟くのが聞こえた。
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