内々定持ちだけど生理用品愛用者で隠れ女装男子やってる ⑥

手渡された白ワンピースを身に付けて練習がてら何度かウェイターの真似をしてみたところ、部員から中々様になっているじゃないか、との声をもらえた。

店の食品を運ぶのに白いワンピースってどうなのかとか、もっと派手な方が見栄えするんじゃないかとかいう考えは、丹君の方向性は癒し系のお姉さまだから、という釜戸さんの一言によって見事霧散したのだった。茶髪のゆるふわカールヘアウィッグを装着し、橋本君による手の込んだメイクを施してみると、確かに家庭料理を出してくれそうな素朴なお姉さんに変身できていた。女装ではあるが限りなく女性の普段着に近いシンプルな白のワンピースと一枚の花柄の羽織で、その辺の高級ショッピングモールを歩いていても何ら違和感がなさそうな格好だ。見た目に近いゆったりとした動きを意識しながらお茶を出す真似をしていると、思いの外自分でも悪くない気がしていた。

「似合う似合う。丹君やっぱ才能あるよ」

「ホントっすか、ありがたいです」

「うん。あとは本番当日まで、そういうゆっくりした動きを心がけてみて。エレガントに、ゴージャスに、かつ繊細に」

「エレガントに、ゴージャスに……」

指摘を受けた通り、なるべくゆっくり歩いてみる。が、どうにも静かな動きを心がけると、腕全体が震えてしまい持っているトレイの上にある陶器のカップがカタカタと鳴ってしまう。

「……意外に難しいですねこれ」

「そうだね。慣れるまでに少し練習が必要かも。見てて」

釜戸さんがすっと立ち上がる。俺の持っていたトレイを受けとると、そのまま体の中心をまっすぐ保った状態で、緩やかに歩き出した。左右の腕はトレイと一体になったようにぴったりとくっついていて、その状態から一歩踏み出しても、カップもトレイも震えて音をたてることはない。惚れ惚れするほど美しく姿勢を保った状態で、もう一歩。気品ある佇まいながら動きはあくまで緩慢だ、そして何よりどこか朗らかさすら感じる。

「お待たせいたしました。ロイヤルミルクティーです。お好みで、レモンとお砂糖をどうぞ」

「ありがとう」

トレイの上のカップが差し出され、俺の前に置かれる。陶器の中に実際飲み物は入っていない。そこではたと、そういえばこれは練習だった、と思い出した。釜戸さんの所作に引き込まれて、思わず礼まで口走っていたことに、改めてその並々ならぬ才能を思い知る。

「凄いですね、何というか、それしか言えないです」

「ちょっと丹くん。ちゃんとどういう風に動けばいいか見てた?見るだけじゃなくて、これを丹君ができるようにするのが目標なんだからね」

「あ、はい」

そうだ、ただ漫然と見るだけではなく、できるようにならなければ。何もしないのであれば、これまで釜戸さんに憧れていただけの俺と同じだ。たおやか、かつしなやかに、上品でありながら大胆な美しさを身に着けるためには、その振る舞いのどこに特徴があるのか、自分に足りないものは何なのかを徹底的に分析しなければならない。

「もう一度お願いします!」

お願いに答えるように釜戸さんがトレイを持って少し離れたところから歩き始める。軽い内股を保ちながらそれでいてまっすぐに、平均台を進むかのように。脇を閉め、しかし上半身は真正面に向け、お盆は床と水平に持つ。なるほど具に観察していないとわからない繊細さがある。

これまで常々可愛くありたいと思ってはいたのだが、どうやら可愛いという方向性にも色々あるらしい。釜戸さんが考えている可愛いは、俺の思う可愛いのさらに外側にあるような、より現実にいる女性らしいという意味での可愛いだった。

――確かにこういう方向性もありなのかもしれない。それこそ、この人が本物だと思わせるに相応しい。

他の部員も釜戸さんの立ち振舞いに熱のこもった視線を投げている。彼らと俺は、今釜戸さんを中心に同じ憧憬を共有しているのだった。神聖ともいえる静かでゆったりした部室で、前田君がカメラのシャッターを切る音が響く。

同じような動作を、釜戸さんはそれから何度も見せてくれた。その度に、笹原君は何か気になったことを書き留めているようだったし、橋本君は時々釜戸さんにレフ板を翳して光の加減を見ていたし、前田君は何度もシャッターを切っていた。そんな中で、俺だけが釜戸さんの動きを追うのに必死だった。魅了されながらも何とか正気を保とうとして前のめりになりそうな上体を伸ばし、顎を上げ、釜戸さんの一挙手一頭足を見逃さんと目を見開いた。

「どう? ちゃんと見てた?」

暫くして、何度同じ動きを繰り返したかわからない釜戸さんが近寄ってきた。その額には光に当てられたというのに汗の玉一つ浮かんでおらず、寧ろふわりとメレンゲの甘い匂いがしてきそうだった。その倒錯に今は三時のおやつ時だろうか、と夢見心地に思ったが、時計を見るともう六時だった。

「はい……」

「そう。じゃあ動きはしっかり復習しておいてね。今日はこれでお仕舞いにしようか。皆道具しっかり片付けてねー」

始めたときと同じく、掛け声一つで部員がお疲れさまでした、と挨拶をして各々散っていく。パソコンをシャットダウンする橋本君や、カメラを片付ける前田君や、メモをしまう笹原君を見ているうちに、先程までの緊張がほぐれ、俺も被っていたゆるふわカールのウィッグを外すことができた。

片付けが終わり、部員の皆が去ったあと、俺はある考えのもと、釜戸さんに声をかけた。

「釜戸さん、一つお願いがあるんですが」

「うん、なあに?」

「今度、俺と一緒に女性用下着売り場に行ってくれませんか」

はぁっと釜戸さんが笑いながら噴き出した。

「ちょ、ちょっと丹君、ひぃ、それ不意打ちすぎでしょ、あははは!」

割と真面目に提案したつもりがツボにはまってしまったらしく、暫く釜戸さんは笑い続けていた。声が収まってから、俺は話の続きを切り出す。

「いや、結構真剣な話なんですけど」

「ごめんごめん……というか、下着売り場ねえ……んー、女装していけば何とかならないこともないけど、アタシはあまりお勧めしないよ? バレたらお縄だしね。それこそ洒落にならないと思うけど」

腕を前に出して手錠を嵌められた人のようなポーズを取る。意識していないとつい忘れがちだが、世間的に女装はグレーゾーンの趣味だ。俺は女装のために下着が欲しいと思っているが、世の中には下着が欲しいために女装をして売り場に来る新正の変態もいるのである。嘆かわしいことこの上ないが、世間からみたらそいつらと俺たちは同じものだと認識されてしまう。釜戸さんの言わんとしているのはそういうことだ。

だがそれでも時には譲れないこともある。釜戸さんがあれだけ素晴らしい姿勢を保って女子の振る舞いができるのは、きっと表面だけではなく裏面や内面ーーすなわち直接肌に触れる下着にまで趣向を凝らしているからに違いないと考えたのだ。完璧なお洒落をして自信を持っている女があらゆる行動に自由であるように、完璧にお洒落な女装、つまり下着にまで工夫をしている釜戸さんだからこそ、おそらくあのような素晴らしい立ち振舞いがなせるに違いない。だからこそ、例え捕まる恐れがあったとしても、本当の女らしさを手に入れたい俺としては、ここは引くわけにいかなかった。

握った拳に汗が滲み、体から冷たい悪寒がせりあがってくるのを押さえながら、俺はその一言を絞り出した。

「それでも、それでも俺は行ってみたいです。そこに可愛い下着があるのなら…」

一瞬にして緊張した俺の表情をどう受け取ったのか。釜戸さんは、はは、と破顔し片眉を下げたまま頷いた。困ったように人差し指を頬に遊ばせる。

「ん、まあ、そこまで言うなら止めはしないし、一緒に行ってあげる、けど…」

「ありがとうございます!」

「その代わり……後悔しても知らないよ?」

いつになく念を押してくる釜戸さんに、覚悟を持って、はい、と答える。いざ当日、下着売り場で男であることがバレてしまえば、それこそ限りなく約束されたこれからの人生を完全に棒に振ることになる。それほど今回の作戦はリスキーなのだ。

帰りがけ、俺は敵地に乗り込むスパイのように覚悟を決めて、釜戸さんと次の日曜に下着売り場に行く約束を取り付けた。


決戦の日。釜戸さんから伝授されたナチュラルなスタイルを意識して服を選び、待ち合わせ場所であるショッピングモールへ向かった。今日の服装は七分丈の白紺ボーダーのカットソーと水玉のスカート。胸元には瑪瑙のペンダントをぶら下げ、夏用にと購入していた薄目のサングラスをかけた。茶髪系のウィッグをポニーテールに結わえると、よく町中で見かけるタイプの女性が完成した。表情も見えないこの格好ならおそらく怪しまれずに下着コーナーに行くことができるだろう。

集合場所に先についていた釜戸さんは、俺に気付くと、おぉやるね、と声をかけてくれた。

「すごい、完全に町に同化してたよ。これなら大丈夫だね」

釜戸さんの今日のコーディネートは、モスグリーンのブラウスに水色のスカート。肩がけのハンドバッグを持ち、髪はブラウン系のベリーショートだ。可愛い系を意識してか、いつもよりちょっとだけ化粧が薄く、つけまつげだけが長い。実際可愛い。俺が男として見るなら確実に声をかけたくなるタイプだ。

二人でショッピングモール内を簡単にぶらつきながら、下着売り場の前まで来た。俺がいざそこに入ろうとすると、釜戸さんははたと足を止めた。

「じゃあ、アタシはここで待ってるから」

「え、一緒に来てくれるんじゃないんですか?」

「いや、ちょっと苦手でね、ここは」

釜戸さんは手のひらをこちらに向け、少し後ずさりする。明らかにしり込みしている。やはり釜戸さんほどの人でも下着売り場はレベルが高いのだろうか。

「気を付けてね。うん、本当に」

「あ、はい」

後ろから声援を送ってくる釜戸さんを背に、俺はいざその戦場へと足を踏み入れる。――と、その瞬間に、持っていた覚悟のすべてが無に帰した。

少し遠目に見てもふわふわと曖昧な輪郭であったその場所は、いざ足を踏み入れてもその印象通り薄いガーゼと柔らかい布があふれる場所だった。ベージュとピンクのナイロンが多用された売場だ。肌に優しそうな体によさそうな、まるっこい女の体を直接包み込んでくれる下着の数々、上下セットであったり、単品それぞれであったり、さらにその上から羽織るネグリジェであったりが、鏡や照明にその身を映し出して、彩り豊かな宝石のように整然と並べられている。施された刺繍も蝶であったり花であったりと多種多様だ。それを着用する女を想像してみると、確かに自分でそれを身に付けてみたいという願望よりも先に、男としての本能が沸き立ってしまいそうで怖かった。

釜戸さんが言っていたのはこういうことだろうか。いや、それよりももっと恐ろしいことがあるのかもしれない。

言いしれない背徳感を胸に、そのうちの一つを取ってみる。まだ人間の体温を知らない布は、思っていたよりも小さく人体を覆うのにはおよそ不向きにしか見えない。特に紐部分は派手な柄のものほど細いものが多く、中には布部分よりも紐の方が多そうという感想を持つものもあった。一緒に住んでいた彼女も確かに下着を持っていたはずだが、実はあまり彼女たちの下着についての記憶がない。あの子たちはこんな薄くてよくわからないものを身にまとっていたのか。そう思うとこれを自分が身に着けられる自信がなくなってくる。こんなものを身にまとってお手洗いに駆け込んだときにはどうすればいいのだろう。これまでは家でしか女装したことがなかったからお手洗いに行きたいときは、普通に自宅のものを使えばよかったが、人前で女装している人たちは普段男女どちらを使用しているのだろうか。もし男性用に入らねばならないとき、このような下着をつけていたら――どこかに男性向け女装用下着はないのか。いや、そんなものがあるはずはない。馬鹿か俺は。

堂々巡りになってくる思考の中で、徐々に自分の体に対する自信と理解が失われていく。手に取ってみたわずかばかりの小さな下着は、見た目と裏腹にそれだけ重く俺に圧し掛かり、これまでの価値観を、認識を圧倒していた。男としての自分と、女の服を着てみたいという願望が、女の下着という、両性に強く訴えを起こす目の前の品によってないまぜになり、自分の着眼がどこにあるのか見失うばかりになりそうであった。

「お客様」

呼ばれた声にはっと顔を上げると、ショッピングモールの制服を着た中年女性が立っていた。胸元の店員バッチが冷たく光っている。丸みを帯びた中年女性の体の周辺には、今まさに触っているブラジャーと同じタイプの型の下着が、こちらを睨み付けていた。

「よろしければ、サイズ計測、いたしますよ」

中年女性は客に接する種類の笑みで俺に声をかけてきた。サイズ計測、と聞いて真っ先に肩幅や腰幅の計測が思い浮かんだが、ここは女性用下着売り場だ、胸や尻、ウエストの計測のことだ、と認識を改めた途端に、ひやりと嫌な汗が背中に湧き上がった。胸や尻を計測するということは、確実にこの場で男であるということがわかってしまう――

俺は手に取っていた下着を急いで元あった場所に戻すと、立ち上がりスカートを軽く叩いてから店員に向かって首を横に振った。ぶっきらぼうさを装いながらすぐにその場を離れると、中年の女性は目的を失ったからか、俺がいた場所からすぐに離れていった。今の行動は怪しまれなかっただろうか。途端に不安になったが、売り場を離れたすぐ先に、うさ耳付きのカバーに入った携帯をいじりながら待っていた釜戸さんを見つけ、思わず駆け寄った。

「釜戸さん……っ」

「おぉ、お帰り、早いね!」

泣きそうになりながら縋った釜戸さんは、何でもないように俺を受け止める。

「どうだった、何かよさそうなの買えた?」

「いや、それどころじゃねえっす、俺もうあんな恐ろしいところ無理っす……!」

「落ち着いて、言葉が荒れてるから」

指摘されて、あ、と口元に手を当てた。想像していた以上に取り乱している自分に気付き、二度、三度深呼吸をしてから釜戸さんに向き直る。

「恐ろしいところでした。女と付き合ったことは結構ありましたが、その、下着をじっくり観察したのは初めてだったんで、まさかあんな薄くて小さいものを着てるなんて思ってもみなくて。しかも途中でサイズ測りますか?  とか店員さんが聞いてる来るし、内心死ぬほど驚きましたよ。とても可愛いものを買ってくる勇気なんて出ませんでした」

「うん、そう。だから勧めなかったの。可愛い服見たいだけならわざわざ下着売り場に来なくても良いしね……あとサイズ測られたら絶対バレちゃうし、バレたら終わりだし」

うんうん、と釜戸さんは小さな頭を前後に揺らす。

「し、しかし、なら釜戸さんはどうやって女らしさを手に入れたというのです?  下着まで完璧に女装してるからじゃないのですか?」

俺のずっと気になってた問いかけを振り絞る。が、釜戸さんは意表を突かれたようにきょとんと首を傾げるだけだった。

「え、別に下半身まで女装する必要はないよ? アタシたちは、女装をする人であって、女の子になりたい人ではないんだから」

さも何を聞いているのだ、というように当たり前のように言ってのける。言われた言葉を反芻する。俺たちは、女装をする人であって、女の子になりたい人ではない。別に下半身まで女になる必要はない。が、直後、釜戸さんがたと何かに気付いて問いかけを返した。

「もしかして、丹君は女の子になりたいの?」

「え」

「んー、確かにそういう子もいないこともないけど、女装と女の子になりたいのはちょっと違うんだよねえ。そこは混同しない方がいいよ、住み分けは大事」

またも釜戸さんは頷く。この言葉を聞いて、改めて自分に問いかける。

俺は女の子になりたかったのだろうか。それとも、ただ女装がしたかったのだろうか。そもそも女装がしたいと思った理由はなんだっただろうか。ああそうだ、ミレイだ。俺はミレイを作るために女装を始めた。

ネット上で作り上げたミレイというもう一人の俺。作り上げること自体が楽しかったし、それでフォロワーが喜んでくれるのも嬉しかった。それは俺自身がどうこうというよりも、ミレイの姿で皆が夢を見てくれるのが嬉しかったのだ。だからこそ、暇つぶしのつもりで始めたのに、思っていたよりも深みにはまり、女装そのものに興味が移った。が、俺は現実の俺が女装をして周りを楽しませることができる自信もなく、周りに引かれることを恐れて表に出られなかった。現実の俺は絶対にミレイには勝てない。だから自分をさらけ出せなかった。

それが釜戸さんに出会い、ナナカマドの皆と触れあってみて、自分の女装姿でも人を楽しませることが出来るのではないかという希望を抱いた。

俺の姿で皆を楽しませたい。それが最初のきっかけだった。だから別に、俺は女の子になりたいわけではない。女装をして、女装の高みを目指して、いろんな人に夢を見てもらいたいのだ。

それこそ釜戸さんと並び立つくらい可愛くて希望を届けられるような、そんな存在になりたい。

「俺は、女装で高みを目指したいです」

切り出した言葉に、釜戸さんがこちらを振り返る。

「沢山の人に夢を見てもらいたい。だから別に、女の子になりたいわけではないですね。可愛くなるために趣向を凝らすのも好きです。もちろん、最近は可愛いものそのものも好きですが」

釜戸さんは黙って俺の話を聞いている。果たしてこれが正しいのかはわからない。ただ、一度でいいから釜戸さんに本音をぶつけてみたかった。

「楽しんでもらうためなら何でもするつもりでした」

「その熱意、いいね」

「ただ、それは方向性を間違えてしまうと、さもしいだけになる。この間釜戸さんが言っていた、本当にしたいことをしていただけだ、というのは見返りを求めない、ただ自分の追い求める理想に対して全力で追及しろということだったのだと思います。何もないところから作り上げるのが俺なら、持っているものを洗練していくのが釜戸さん。憧れるから近づくんじゃなくて、本当は、心から可愛いと思えるものをいくつも持っている中から、突き詰めていく。釜戸さんにあって俺にはなかった輝きは、そういうところから生まれたんじゃないかと思うんです」

俺に耳を傾けていた釜戸さんが、また頷き返す。だから、と言葉をつづけた。

「だから今度は、たくさん可愛いものを見て、沢山いいものを買いたいですね。全力でオシャレを楽しみたいです。そして最終的に、高みを目指したい。目標というより、自分も楽しみながら人を喜ばせながら、目指したい」

「そうだね、それが一番だよ。好きなことやって、好きなようにふるまってみて。肩の力を抜きつつ」

釜戸さんがまた頷く。その表情は、どこか晴れやかだ。思うことをすべて話した自分自身も、もしかしたら釜戸さんと同じような顔をしているのかもしれない、と思った。

そのあとは下着売り場に戻ることなく、雑貨を見たり服を見たりしながら歩いた。途中でお腹が空いたらフードコートで釜戸さんと向かい合って座り、フラペチーノとパフェを注文した。小腹を満たした後は、化粧品売り場と、携帯ショップを巡って、通りすがったゲームコーナーのクレーンゲームで猫のぬいぐるみを取ったりして遊んだ。帰る頃にはもう下着売り場のことなんてきれいさっぱり忘れていて、ただただ笑いあいながら楽しんだ思い出だけが残った。


それから何日かして、迎えた大学祭当日。予定通りナナカマド女装喫茶のホールを手伝うことになったときの服装は、初日に練習で来ていたものと同じ癒し系お姉さんをイメージした白いワンピースだった。釜戸さんが俺のために用意してくれたその服の上から、薄緑のエプロンを身に着けた姿が、今日の仕事着だ。髪はこれまでと同じく、緩くパーマをかけてふんわりしたスタイルにしてみた。

あの下着売り場での一件で自分は女の子になりたいわけではないのだと気づいてから、女装をするときに生理用品やタンポンを使用するのは、もう止めることにした。付いてしまった知識は仕方ないが、そのまま意識することがなければいずれ風化して忘れることができるだろう。その代わり、身に着けるありとあらゆるものは自分好みの可愛い品に総取り返し、今では自宅机の上にあるペンケースや文房具などは拘って選んだ赤と緑のチェック柄に統一している。部屋の中を一つ気に入った柄で統一するのはなかなか壮観で、次はどこを改装しようかと今から楽しみにしている。

更衣室で橋本君と一緒に化粧の最終チェックをしていると、いつも通りメイド服姿の釜戸さんがやってきた。お祭用衣装のためか、今日は少しだけいつもよりチークと口紅の色が濃い。

「お疲れ様です」

「お疲れ。どう、首尾は?」

「上々です。橋本君のお化粧、相変わらず素晴らしい腕前ですね」

ありがとうございます、と脇にいる橋本君がほほ笑んだ。彼の今日の姿は、青いチャイナドレスだ。構内で初めてナナカマドのメンバーに会ったとき、惚れ惚れするくらい美しい足を晒して作業をしていたのは、どうやら彼だったらしい。釜戸さんは目の前の二人に納得したように頷く。これは、もう大丈夫、という安心の顔だ。

「よし、じゃあ今日の案内係は任せたよ、二人とも」

「はい!」

声かけに気合を入れるように元気よく声を張ると、隣の橋本君が少し驚いたように肩を震わせた。

「あ……何だか、最近変わりましたよね、丹君」

目を丸くしたまま、橋本君が不意に呟いた。

「わかる! アタシも最近思ってた!」

「そうですか?」

「前にも増して自信があふれているというか、希望に満ちているというか。お日様みたいな笑顔をするようになったなあって」

聞けば以前は何か眉間にしわを寄せてあれこれと考えを巡らしているように見えたらしく、肩肘が張っているとか、何かに対して警戒をしているような、気を抜けない印象を強く持たれていたようだ。ところが最近はその何かを考えている素振りがまるでなくなり、見たものが気に入ったらことあるごとに、笑って可愛いと口にすることが増えたらしい。

「その姿といったら、朗らかの極みですよ。あんまり大きな声じゃ言えないですけど、丹君の笑顔を見て惚れてしまいそうな男の人もいるかもしれません」

「それって自分のこと?」

「やめてください、たとえ話です」

釜戸さんは困った様子で鏡を覗き直す橋本君を見ながら、ふふふと意地悪そうに笑った。この人がよからぬことを考えているときの笑顔は、普段の天使のような表情と異なるが、それはそれで可愛らしい。

それにしても、朗らかの極みとは、なかなか橋本君も嬉しいことを言ってくれる。自分では全く分からなかったが、他人から見たときにそう言われるということは、何かが変われた証拠なのかもしれない。

「それはそうと、もうすぐ大学祭始まる時間ですよ」

「あ、そうそう。もう始まるよって、言いに来たんだった! 客席も料理も大体仕上がってるから、予定通り最初のお客さんからご案内でよろしくね」

「了解しました」

用件を伝え終えた釜戸さんは、そのまま更衣室を後にし、ナナカマド女装喫茶ホールとして改造された別室へと向かっていった。橋本君と一緒に、それを追って教室へと向かう。既に部屋の前には、開始時刻待ちのお客さんが何人も並んでいた。

「もうこんなにお客さんいるんですね。熱心だなあ」

「うちは毎年こんな感じです。物珍しさから来る人が多いのと、いざ来てみたら思ったよりいいサービスしてくれるってことで、固定ファンとかもいるみたいですね」

橋本君が初心者の俺のために解説をしてくれた。これだけ人がいるなら一人くらい女装に興味があってナナカマドに入りたいと思う人がいてもよさそうなのに、意外と女装家を見てみたいだけで自分がしようという人はあまりいないらしい。

「好奇心半分、休憩半分ってところでしょう。まあ、お客さんがどうであれ、私たちは私たちの持てる最高のおもてなしをするだけです」

「はい」

橋本君の女装ポリシーを汲んで、返事をする。

が、その何人も並んでいる先頭に、意外な人物を見つけてしまい、ゆるふわパーマを施した俺の脳天にぴしゃりと衝撃が走った。小柄で胸が大きく、少しだけ疲れた表情を浮かべる女――以前内々定祝いの飲み会で何の因果か向かいの席になり、釜戸さんとなぜか知り合いであった、山野井である。

山野井は隣にいる細身の女の子と話し込んでおり、こちらの様子には気づいていない様子だった。素早く気づかれないように教室内に移動し、隅へと移動する。中で準備をしていた釜戸さんが不審な動きをする俺を察してややこちらを心配そうに見ていたが、フードを用意している笹原君に呼ばれてそちらに向かってしまった。

どうしよう、この場で山野井に見つかってしまったらまた何やかんやと言い寄られ、仕事にならないかもしれない。せっかくナナカマドの皆と一緒に初めての文化祭に参加できることになったのだから、できれば穏便に事を運び、他のお客さんにも気持ちよく出店を楽しんでもらいたい。それには山野井に今この姿が丹温太だと気づかれてはならない。これは最早自分の問題にとどまらず、ナナカマドの大学祭の晴れの舞台にかかわることなのだ。

回避策を考えている間に時間は無情に過ぎ去り、開始時刻を告げるチャイムが鳴った。それと同時に受付担当の前田君が外にいるお客さんを順番に案内し始める。最初のお客であった山野井は、教室の一番奥にある窓際の席に案内された。ここから先は、橋本君と自分の仕事だ。橋本君に山野井の相手をしてもらえるように言い渡そうと振り返った。が、早くも橋本君は別の席のオーダーを取っており、山野井の席には、一番近くの自分が相手をするしかない状態になっていた。

――万事休すか。仕方なく、山野井と細身の女の子が座る席へと向かう。これまで何度も練習してきた、オーダーを取るときの心得を思い出す。ゆっくりと、エレガントに。そうだ、自分は今皆を優しく包み込む癒し系のお姉さん。気品あふれ、自信に満ち、街を行けば誰もが振り向くような優しい可憐な、ゆるやかな口調のお姉さん。自分の美しさに自信を持ち、あらゆる行動に自由な女の人。

「ご注文はお決まりでしょうか」

自然と出た言葉は、練習通りの理想的な早さで発音できた。先に反応したのは、山野井の隣にいた細身の女の子だった。目を通していたメニューから、顔を上げてこちらを見ながら、アップルパイとダージリンを頼むと、山野井にオーダーを促した。

「じゃあ、私は、ホットケーキとブレンドコーヒーで」

「畏まりました」

ごく自然に微笑み返すと、山野井は広げていたメニューを閉じる。オーダーを書いてそのままフードのチームに引き渡すべく戻ろうとすると、細身の女の子のほうが、あの、と声を上げた。

「すみません、ここに釜戸官さんはいらっしゃいますか?」

「あ……」

「あ、いえ、ちょっとその人にお会いしたくて参りましたもので。知り合いなので、少し話がしたいとご指名させていただくことは可能でしょうか」

はっきりとしたその口調に、思わず判断に迷った。が、元々知り合いであったという山野井がいるのでこの細身の女の子も同様に知り合いなのかもしれない。最終的に相手をするかどうかの判断は、釜戸さん本人にしてもらえばいいだろう。

「承知いたしました。失礼ですが、お名前をよろしいでしょうか」

「内地知可子と、山野井莉子です」

「畏まりました。内地様と、山野井様ですね。ご指名の釜戸にお取次ぎいたします」

自分でも驚くほど冷静に対応したのちに、フードの方に回っていた釜戸さんに声をかけた。念のため、自分がいることは山野井には隠してもらうように釘を刺しつつ用件を取り次ぐと、釜戸さんは山野井ともう一人のもとに向かって親し気に話を始め、途中で注文のホットケーキを取りに来たかと思うと、その表面にシロップで猫の絵を描いて山野井達に提供したのだった。

山野井達はそのあと暫く釜戸さんと話していたようだった。他のお客へのフードや飲み物の提供を済ませつつ様子をうかがっていたが、雑談を終えたあと遂に山野井はこちらに気付かずに教室を出た。目的が釜戸さんだったからなのかとも思ったが、出会って翌日に家を特定され、あまつさえ女装をしているところを見られた状態で、オーダーを取るほどにまで近付いても気付かれなかったというのは、殆ど奇跡に近い。

山野井来訪の危機が去ってから、ナナカマドの一員として働いている俺のお客さんからの評判は上々だった。癒し系お姉さんウェイターとしてドリンクやフードを持っていくと、「あなたも男性ですか?」と言われることが多く、その度に嬉しさに頬を緩ませら、はい、と頷いた。細いですね、とか、エプロン可愛いですね、との声かけも頂け、自分の好きなことを全力でやりながら他人に夢を与えられる人に、また一歩近づけたような気がした。

用意したフードも飲み物が完売し、店仕舞いの時間が来ると、最後のお客を見送った釜戸さんが、皆に声をかけた。

「皆、お疲れ様! ナナカマド女装喫茶、無事全品完売でーす、おめでとう!」

辺りから部員による拍手がわき起こる。釜戸さんは一人一人にありがとう、と感謝をしながら挨拶をして回り、最後に俺の前にやってきた。

「ちょっと丹君! 大成功だねえ!」

「はい……!」

「山野井ちゃんも全く気づいてなかった。まさか自分のオーダー取ってるウェイターさんが追いかけていた男の子と同じ人だとは思わなかっただろうね。これも丹君の日頃の努力の賜物だね」

「ありがとうございます。ちょっと自信つきました」

感激のあまり顔に手を当て、微笑み返す。釜戸さんと固い握手を交わしたあと、今日が終わったら必ず言おうと決意していた言葉を発した。

「これも全部、釜戸さんのおかげです。本当の女性らしさとは何か、今俺の持てる魅力とは何か。その魅力の引き出し方まで、釜戸さんは丁寧に教えてくれた。自信をもって女装の姿で人前に出られるようになったのも、釜戸さんが俺のことちゃんと育ててくれたからですよ」

「い、いやぁ、さすがにそこまで言われると照れちゃうなあ…!」

「俺、釜戸さんにこれからも着いていきます。ナナカマドの皆とも、楽しく一緒にお洒落を楽しみたいです」

宣言し、周囲をぐるりと見渡す。部室ではどこからどう見ても普通の男子大学生だった部員たちも、今は各々華やかな衣装を着て化粧を施し、第二の姿に変身している。女の子になりきり、前田君の構えるカメラを前にポーズを決めている部員たち、笹原君とお気に入りのアクセサリーを語り合っている部員たち、皆それぞれに自分達の大事なものを追求する同士だった。まるで魔法のようにカラフルになっている空間を見ていると、俺はあの時声をかけられてこの場にいることが正しかったのだと、このサークルが大好きだったんだと、気づくことができた。

片付けを一通り終えて、皆も化粧や服装や髪型を普段通りに戻し終わって外に出ると、釜戸さんが例によって皆に声をかけた。

「よーし、皆!ナナカマドの大学祭成功と今後の躍進を願って、飲みいこう!ここからは、ちょっと大人の時間。打ち上げだよ~。きょうは何と! バーに予約を入れてあります!」

わぁっと歓声が上がり、釜戸さんの誘いに部員たちの顔が綻んだ。

夕闇の構内のメインストリートを、学生たちでわらわらと歩いていく。日が落ちかけて少し肌寒くなってきた風を腕と足とに感じながらふと空を見上げると、白い光を放つ星たちが早くも姿を表していた。もうすぐ夜が近い。

来年の今頃も、俺は同じようにどこかでこうして星を見上げているのだろうか。そのときの俺はどんな格好をしているのだろう。男か、女か。どうであれ、ナナカマドに来て釜戸さんに出会ってしまった以上、何となくまだ可愛いものを集めることは続けているという気がする。きっとどんなに仕事が忙しくなっても、同じようにどこかで可愛い服を求めて、髪を整えて、化粧をしているように思う。そのときはやはり、もっと可愛くあってほしい。未来の自分に望むのも妙な話ではあるが、吸収できるものは何でも吸収して、より高みを目指していてほしい。

内定先の商社に勤めていれば、外国に行く機会も多いかもしれない。モロッコやタイ。これらの国には、レディボーイと呼ばれる、男女の概念を覆す存在がいると聞く。女と男の垣根を超えた彼女らから、また新たな女らしさを学ぶのもよいだろう。目指す方向さえわかっていれば、夢を叶えるために頑張るチャンスはいくらでもある。

おーい、と釜戸さんが呼ぶ声を聞いて、我に返る。そうだった。遠い未来のことよりも、今は目の前の飲み会だ。道行く先に見えてきたバーの入り口に集まる部員たちに混じるため、少しだけ空いてしまった距離を詰めるべく、駆け出した。この飲み会が終わったら、また釜戸さんに次着るための服のアドバイスをいただこう。


<おわり>

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