君と幸せに。


1日、生きた心地がしなかった。


全く何も手につかない。

食事も喉を通らないのは、飲み過ぎによる胃もたれからだろうか、それともやっぱりソウタのことを考えているからだろうか。


何をしていても、無意識に涙が頬を伝うことに驚くくらいだから、きっと後者だろう…。

思い出の中のソウタの汚点に腹を立てて嫌いになれたらいいのに、残念なことに思い出はどれも綺麗すぎてどこにもその要素を見つけられない。


いっそ心が凍ればいいのに。

それが無理なら、だれか催眠術にかけてくれないだろうか。

そしたら明日は普通の営業マンでいれる気がした。

でも現実はそんなに甘くないわけで。



小清水からの電話のあと、ケータイの電源を切ってひたすら自分の気持ちと向き合った。

ケータイの電源を入れたのはは22時過ぎ。


ブーブー。

メッセージの受信音。

「話す気分になったら何時でも電話かけておいで」

「明日第2応接取ってあるから。午前中いっぱい予定なし」

「辛くてどうにもならなくなったら小清水と私が契約変わるから帰っていい。」


涙腺がゆるい私はまた泣いた。

これだけ泣けば枯れてしまって明日は泣かなくて済むんじゃないだろうか。


「ありがとう。」


サクラに返信した。

精一杯な返信だった。



今日一日考えて出した結論は「この恋に終止符を打とう」だった。


•彼が知りたいことを答えてあげる程度の会話をすること

•私は『元婚約者』じゃなくて『元彼女』の設定にすること。

•職場で二度と泣かないこと。

•彼らのこれからの幸せを願うことはできなくてもいいから、自分のこれからの幸せを願うこと


これ以上心をかき乱されないように、

この恋を終わらせるための決め事だった。



時は過ぎて朝が来た。

目覚めて起きたとき、意外にも心が『無』に等しい気がした。


悲しくもない、辛くもない。

本当に心が凍ったのかと思ったが、ケータイを開いた時小清水からの不在着信の表示に、一瞬胸がえぐられたような痛みが走って現実を悟った。



自動ドアがあく。

スーツ姿のソウタと、ふんわりした紺色のスカートを履いた私服の奥様がご来店。

「前園様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」

奥へ案内する私。

心臓の音は予想以上に穏やかで、私は結構冷静に対応できている。

2人を誘導して少し前を歩く私。

「お身体は大丈夫ですか?」

私の後ろでソウタの声がした。

「ええ、お陰様で。先日はお見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。」

応接室のドアを開けながら2人に営業スマイルを向ける。

目を細めて笑うのは、ソウタと奥様と目が合わないようにと言う心理に近い…。


狭い4畳ほどのスペースに4人がけにテーブルしかない部屋。

4人がけのテーブルの上には3本のペットボトルのお茶。

契約資料。

自分の名刺。


「あの…沢木さん。」

「 はい?」

「いきなり私用の話で恐縮ですが、私と沢木さんがお知り合いだというのは本当ですか?」

ソウタが探るような、不安げに問いかけるような目で私を見る。

隣に座る奥様は真剣な顔だ。


ドッドッドッドッドッド…!

冷静だったはずの心臓は、鼓動を早めた。


「友人を交えて食事に何度かごいっしょいたしまして。」

必死に営業スマイルを心がけるが細めたまぶたの中で目が泳ぐ。

奥様を前にしたら『元彼女』と言い出せなくなったチキンな私。

急に冷静さを失った心は狂ったように脈打つ。


「あの…お恥ずかしい話ですが」

少しうつむきながら、ソウタが話し出す。

「小清水さんにはちらっと言ったのですが、実は海外で事故に遭いまして大学くらいまでしか…。

その…、記憶がないんです。」


ギュッと苦しくなる胸。


「今回の物件も…大学の友人が、私がこの辺に住んでいたと言っていたのがきかっけで。条件が良くて即決で決めたんですが。」


首をぽりぽりとかきながら俯くソウタ。

付き合っていたころと変わらない仕草。

25歳の誕生日プレゼントをくれた時も、照れ臭そうに首をかきながら笑っていた…。

記憶の中のソウタと重なる。


そしてまたギュッとなにかが胸を締め付ける。

指先が震えを隠すように膝の上で手を握る。

「それで、もしかしたら記憶の手がかりにならないかと思いまして、沢木さんとお話がしたくて。」

「…そうですか。」

口角だけをあげて、愛想笑う。

私はちゃんと笑えているだろうか…。


「あの、その知人の方は主人の以前の勤め先の方だったりしませんか?」

奥様が言う。


奥様の直球な質問。

私をソウタに紹介したのは、ソウタの職場の後輩の手島君で、彼は私の幼馴染だ。

手島君の名前を出したら、真実が全てバレる気がして答えることを迷った。

手島君には私から口止めをしておこう。

彼ならきっと黙っていてくれる気がする。


「…はい。」


奥様と、ソウタ、2人が見合わせた顔が嬉しそうにぱぁっと明るくなた。


「あの、その方のお名前教えていただけないですか?記憶の手がかりが欲しくて。」


奥様の必死な目にまたギュっと胸がいたくなる。

この2人が知りたいのは、私ではない。

その向こうにいる、人たちとの過去なのだろう。

自分はそれを望んでいたはずなのに、

それが現実になって傷ついている。

滑稽だ。


「手島睦月さんという…○○会社の方です。」

奥様を見ながらゆっくり答えて、心の中でため息をついた。

「私たち、結婚式あげてないんです。主人の記憶が戻らないと呼べる人も呼べなくて。正直ちょっと焦っていて。

以前の職場の名前はわかったんですが、いきなり会社に問い合わせるのも気が引けてしまって。」


ぎゅうううううう。と音を立てて胸を締め付ける何か。呼吸ができなくなりそうだった。


ソウタの結婚式。

ソウタの…

結婚式…。


“私お色直しするならブルーがいいな。”

“カナは、黄色の方が似合うよ”

雑誌の結婚式の記事を一緒に読んだあの日を思い出す。

“じゃあ両方着る”

“カナの好きにしなよ。一生に一度なんだから”


なにかがグッとこみあげてきた。


これは…まずい…。

苦しい。

やばい。


ーーーー。



「あ、あの、沢木さん?」

ソウタが動揺した声をかける。

わかっている。


ソウタは昔から、女の子の涙に弱いのだから。


「す、すみません…。目にゴミが…。」


ハンカチで涙を拭う私を、2人が何も言わずにただ驚いた顔で見ている。

その理由は想像がつく。

目にゴミが入った涙の比ではないのだから。


ハンカチで拭うが、止まらないことに焦りを覚えて…冷静でいられない頭の中。


「あや…。すみません。ホントに…。」

何を弁解しているのか。

口にハンカチを当てて、呼吸を数える。


小さく深呼吸した私は、奥様と目が合ってしまった。

奥様が態とらしく、カバンの中のケータイを確認した。

「そうちゃん、私今仕事の電話が入って来ちゃって。10分席を外すね。」

ソウタは疑いもせず「行っておいで」と送り出す。

立ち上がって、後ろのドアへ向かう奥様。

ソウタの後ろで、意味深な会釈をして出て行った。



「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。すみません。」


“カナは嘘つくの下手だなぁ”

ソウタが日本を発つ日の空港で、泣くのをこらえた私に言ったソウタの言葉を思い出す。


「あの…前園様。驚かずに聞いてください。」

「は、い…」


頭の中で色々綺麗に納める言い訳を考えた。


「じ、実は前園様と私は…以前す、少しだけお付き合いしていたことがありまして…その…。」


目を合わせられずちらっと、ソウタの顔色を確認する。


「そ、そうだったんですか!?」



「いやぁ…こんな綺麗な人と…?

すみません、本当に覚えがなくて…」


目を合わせない私だが、ソウタが私の顔の何かを確認するように凝視しているのはわかった。


「この前お会いした時、少しだけ面影があってどこかで会ったかな程度には思っていたんですが。」

照れ臭そうなソウタ。


「沢木さんとはいつ頃まで交際していたんでしょうか?」


一瞬どうしようか迷った。

真実を言おうか。

それとも…。


「海外に行く少し前まで。それで手島君から消息不明になったと聞いて。それで再会できたものですから…生きていてよかったと…動揺してしまって…お見苦しいところを何度も見せてしまってすみません。」


交際していたことを言ったら、少し心が軽くなってスラスラと嘘を交えた言葉が出てきたことに自分でも驚いた。


「そうだったんですね、実は車で大きな交通事故にあってケータイも破損して。記憶もなくしてしまって。

医者は一時的だと言っていたんですが、一年くらい戻らなくて…。

だから今は妻と記憶探しの旅をしているんです」

「そうだったんですね、なんだかそんなドラマがあったような気がします…記憶探しの旅って。」


涙は乾きはじめている。

まつげに絡まる小さな雫が見えるくらい、目を細めて愛想笑いをした。


ソウタの記憶が全部戻ったら、全部思い出したら…ソウタは私を選ぶだろうか。

膝の上の手が再び震えた。


「あの…、失礼ですが…本当に失礼だってことはわかっているんですが。」

ソウタが首をかきながらおずおずと聞く。


「は、い…?」

「どうして私たちは別れてしまったんですか?」


一瞬言葉に詰まった。


“ずっと一緒にいよう”

“一年後、帰ってきたら結婚しよう”

“君にたくさん話したいことをバゲージに詰めて帰るよ”

“カナ、カナ!”


ソウタ。

ソウタ。

ソウタ。


ーーーー…。


「た、多分、価値観が合わなかったんです。」


「…。」


渾身の営業スマイルを作って自分に、そしてソウタの記憶が戻った時の保証にと言い聞かせた。


泣くな。

泣くなよ。

ここで泣いたらもう隠しきれない。

泣くなよ。

泣くなよカナ。


「手島ムツキさんの連絡先お教え致しますね。彼の方があなたのことよく知っていると思うので。」

「は、はいぜひ…!」

ソウタは食い入るように答えた。

私は愛想笑って胸ポケットからケータイを出した。


手島君の番号を付箋にメモする。

指にソウタの視線を感じて少し震える。


手島君が私にソウタを紹介した居酒屋で。

“ねえカナさん、連絡先教えてよ”

“あ、いけない。ケータイ会社に忘れてきた見たい”

“じゃあ、このメモにケータ番号書いてくれる?”

そんなやりとりがあったよね。

その時も、こんな事務用品の細長いピンクの付箋紙だった。


泣くな。

泣くな。

泣くな。

言い聞かせて小さく深呼吸をした。


「はい、こちらです。」


顔をあげたら、ソウタと目が合った。

数秒の時間が流れる。

今日1番まともにソウタの顔を見た気がした。

昔よりも少し日焼けした、優しい顔立ちの男。

何度もキスをした薄い唇

何度もキスをした顎のほくろ。

何度も、何度も後悔した夢の中の恋人の面影を残した現実の彼。


付箋を受け取る彼の指。

夢の中で何度も私の手を引いた左手には今は見知らぬ指輪が光っている。



さようなら。



幸せになって。



付箋のメモを受け取るソウタの指を見つめて優しく瞼をつぶった。





「カナ…?」




かちゃ。


ドアが開く。

「急に席外してごめんね。」

奥様が入ってくる。


「あ、ああ!ミホ。今、沢木さんから手島さんの連絡先を貰って。」

奥様と目が合う。

私は目をつぶって小さくうなずいてた。



コンコン

「お話中、失礼いたします。」

かちゃ。


サクラが入ってくる。


「すみません、沢木さん。今別件でお客様が見えられていて急遽と言われてまして…ちょっと対応お願いできますか?」


「前園様、申し訳ございません。

ご契約の件私が引き継いでよろしいでしょうか?」


「ええ、大丈夫です。購入の意思はは変わらないので。ね?」

奥様が快い返事をしてソウタに同意を求める。

サクラが私にウインクして、席を変わる。

私は一礼して部屋を後にした。


パタン。


ソウタと奥様がいる部屋に背をもたれてため息をついた。

急に涙と冷や汗がぶあっとこみ上げた。

ポタポタ…。ヒールの先に涙が落ちる。


「沢木さん。」


顔をあげたら目の前に見慣れた顔。

痛々しく笑う小清水。

しかも私のカバンを持っている。


「お疲れ様です。帰りましょう?」


バカね。

なんであんたが傷ついた顔してるのよ。

私の方が何倍も傷ついてるんだから!


「小清水…くっ」


私は小清水の胸に倒れ込んで泣き崩れた。



小清水は私の手を引いて裏口に誘導し、すぐそばに留めてあった自分の車の助手席に私を乗せた。

男の車なのにいい匂いがした。


運転席から身を乗り出して、泣き崩れる私を抱きしめた小清水。


「お疲れ様でした。」


「うわぁぁぁぁぁ…。」


昨日枯れるほど泣いたと思ったが

まだ予備タンクがあったかのように、溢れて止まらない涙。



「俺は。」



「俺は、あなたにいらないって言われるまでそばにいますから。」



小清水が男らしく言った。



5年が過ぎた。

あのヘマばかりしていた、世話のかかる小清水は副所長になった。

私は4人の子供のママ。

長女のユマ、長男カエデ。妊娠8カ月のお腹にいるのは双子らしい。

2階建の一軒家に住んで、猫は3匹。

ミケとトラとクロ。


4年前の新婚旅行はヨーロッパに一週間。


家の居間に額に入れて飾られた一通の手紙


『カナさんの理想を超える結婚生活を作っていくことを誓います。

小清水シン』



たしかに、結婚生活は私の理想をはるかに超えた。



私は誰よりも幸せものだという自信がある。
















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ハッピーエンドになりますように もちもん @achimonchan

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