第21話


吾輩の眼の前には石畳がありました。

これは、地に臥せっているのでしょうか?

冷たい石畳が頬に心地よくすらあります。


体を持ち上げようと手をつきますが、全く持ち上がりません。

力が入らない。なぜ。地面を体で拭くように難儀して仰向けになります。

ああ、深い傷だ。薄い鉄の胸甲を突き抜けてざっくりと腹まで。

たぶん吾輩はあの大きな地這い蝙蝠と交戦して、吹き飛ばされて


「…お爺ちゃん!」


リリエ嬢が吾輩を呼んでいます。大丈夫、と言おうとしますが声が出ませんでした。

僅かな明かりの中で赤く光を反射させながらリリエ嬢の剣が翻っています。


「リリエ!少し下がる…」


その瞬間。


蝙蝠が身を跳ねさせて突然リリエ嬢からミマサカ殿へターゲットを変えました。

間髪入れず皮膜の付いた大きな腕がミマサカ殿に向かって振るわれます。

ミマサカ殿は防ごうとしたのか手をあてもなく前に出しますが、防御叶わず壁に叩きつけられました。

嘆こうにも吾輩の口からはああ、とかううとか、意味のない言葉しか出ません。


「せんせっ」


加勢したいが体が動かない。手を伸ばそうとしても震えるだけ。

リリエ嬢はミマサカ殿に目線を送りますが、危ない、今


「ぎっ!!」


蝙蝠の返す手でリリエ嬢が吹き飛ばされます。

なぜ、駄目だ、駄目だ。

私の目が霞んでくる。失血のしすぎだろうか

いや、泣いているのか。悔しい。なぜだ?死んでもいいと思っていたくせに。


蝙蝠は這い回り動かなくなったリリエ嬢の臭いを嗅いでいます。

私の体がブルブルと震える、駄目だ!やめろ!こんな!

今すぐ飛び起きて、あの蝙蝠を叩きのめしたい。彼女らは、私の…

その刹那、リリエ嬢が跳ね起きて蝙蝠に殴りかかりました!


「がぁ!」


しかし蝙蝠は拳を避けもしませんでした。辺りにはガツッと手が頭骨に阻まれる鈍い音が響きます。

蝙蝠は怯みもせずそのまま伸ばされた手を横から咥えると、リリエ嬢を首で振り回して壁や床に叩きつけました。

私はその様子を止めることも出来ず、ただただ見ていました。

ぐったりと本当に動かなくなったリリエ嬢をまた蝙蝠が嗅いでいます。


私は、動けもせず彼女らが捕食されるさ様を見届けさせられるのでしょうか

もしそうなら願わくば先に失血死がしたい。


彼女らの栄光は終わるのか?こんな、微細迷宮で?

駄目だ、そんなことは、この命に代えても

(価値があるのか?)

この、一身一命を賭しても

(またか死にたがりめ)

吾輩の、最後の

(さっさと死ね)


木の机、ペンの音、インクの臭い。

銅の貨幣は人の手垢で青くなり、銀の通貨は脂で曇る。

金貨はいつでも綺麗に輝く。錆びないから?使わないからだ。


卓上でペンを走らせる男は吾輩を横目でチラと見下すと、目をまた帳簿にもどした。

嫌な顔だ。金勘定と保身。自分のことしか考えていないのが分かる。


「冒険者ドンキホーテ、五十六歳、新人。一パーティーのみの団に所属。」

「ステッキ術を扱うが最も得意なのは会計算術。」

「過去、ラクルエスタ国家法に抵触し冒険証の発行禁止処分を受ける。」

「所属は商人ギルド。現在は出向証で活動を行う。」


男の読み上げるのは吾輩の価値。


「当初は学徒としてラクルエスタに上り、大学に所属。」

「内縁の妻の病気の治療費のため犯罪に手を染めるが逮捕される。」

「獄中にあるうちに妻が病死、学籍も剥奪。」

「その後、マルケ商会に入り約三十年間商会の会計や小口投資に関わる。」

「冒険者になったのは数週間前。ギルド法と国家法の抜け道を使い出向証を手に入れる。」

「団では前衛と会計を担当。当該パーティーは西の外れの迷宮で壊滅。」

「現在瀕死の重傷で床を転がり『嘆きのデグイ』の次か、次の次のエサとなる。」


男は帳簿に書き込むと、卓上から何枚かの銀貨を吾輩の前に下ろした。


「装備は鉄の兜と胸甲とバトルステッキ。」

「手持ちはポーションが二個と現金。」

「荷物はロープ、ろうそく、水、保存食、スコップ、応急手当てセット」

「バトルステッキは蟲鋼が一部使われた業物である。」


男はまた帳簿にさらさらと書き込むと、卓上の銀貨を数えてまた吾輩の前に下ろした。

そして帳簿をパタンと閉じた。

吾輩の前には片手ほどの銀貨がある。これが吾輩の価値。

この五十六年の意味。それがこの数えられる程度の銀貨。


「貴様に何が分かる…」


吾輩は男に思わず声を荒げた。

夢を抱いた都上も、冒険の日々も、マリアとの死別も

インクと銀貨で片付けられるものではない。

断じて。そのはずなのだ。なのに


見下ろす男の酷薄な目。

角ばった鼻に高い頬骨と落ち窪んだ眼窩。

広い額、整った髭。指の先にはインクの染みがある。

吾輩の最も知る顔。五十六年使ってきた顔。


「分かるさ。」


男は、私は、アントニオ・ゼダリースは言った。


「これがお前が感じているお前の価値だ。」


眼の前にある銀貨は人一人の価値と言うにはあまりに少ない。

だが、不思議と腑に落ちた。

自分は自分にそう大した期待をしていないのだ。

年齢や能力を抜きにしても、大それた価値などない人間だと。


「吾輩が罪を犯したからか?」


独り言のように呟く。相手は自分なのだから独り言だ。


「お前がそう思うのなら、そうだ。」

「マリアは死んだ。それも家に居る時にお前は連行された。」

「愚かな行動をして、病を治すことも出来ず、彼女の死に目にすら会えなかった。」


吾輩がマリアを思い出す時、印象深いのは明るい金の髪。

青い目、そばかす、少し尖った鼻。

痩身で病気がちだったが健気に働くひとだった。

冗談を言うと、はにかむように良く笑った。

戻らない日々。素晴らしい日々。


だが何より脳裏に残っているのは、連行される自分を見る失望の目だった。

三十余年一度たりとも忘れたことがない愛する人からの視線。

英雄になるとか、愛しているとか、散々軽薄な事を喚いた愚か者へ送る視線。


死にたくない、そんな思いはあの日から一度も持ったことはない。

むしろ冒険への憧れは自責と死への欲求を組み合わせたものへと変わっていった。

眼の前に迫った死にむしろ安息を覚えた。


「吾輩の死に場所がここか」


「お前がそう思うのなら、そうだ。」


同じ顔をした男は興味なさげに相槌を打つ。

迷宮は自分には出来すぎた死に場所だ。

だが、このまま死ぬ訳にはいかない。


「彼女らを助けたい。」


「無理だ。」

「お前ほど無価値な人間がどれほど欲張っても何も変わらない。」

「お前には、その価値がない。」


男はただ淡々と告げる。


「冒険者は、死ぬ。人も死ぬ。運命は変わらない。」

「もし奇跡が起きるのならば、その価値のある人間の元に起きる。」


ああ、それならば自分に奇跡が起こせなくても当然である。

そしてリリエ嬢が勇者となる運命ならば、吾輩の如き芥が何をせずとも生き残るだろう。

であれば、このまま、安息に、綺麗に


願わくばマリアの元へ。できれば地獄でないほうが良いが、どうでもいい。

マリアに謝りたい、自らの愚かさを。一言、ただ一目でいい。


(あなたが英雄になったら歌になるのね)

(それで歌の中なら私達は永遠に一緒、でしょ?)


夜、星空、別れより前の日。

マリアは死を受け入れてしまったのかと、その時は思った。


ビクッ、と体が跳ねる


「ッ…ハァッ!」


死にかけの肺に冷水のような空気が叩き込まれる。

止まりかけた心臓が動く。


「生きるのか」


消滅する数瞬前アントニオはドンキホーテに理由を問うた。


「一身上の都合にて」


アントニオの背には、遥か天上より金貨がザラザラと降り注ぎ山のようになっていた。

奇跡はここにある。

この身の不明によって捨てた五十年に。


否、捨てていない、この時が、この瞬間が。

積み重ねたアントニオの五十余年の年月が。

虚の英雄、憧れの騎士の名が。


蝙蝠はリリエ嬢を鼻でつついている。

捕食する直前。

自分の身の回りに落ちた緊急用の大量の現金がバチッと音を立てて消えると同時に我が身は駆け出しておりました。


アントニオの幻を踏み越える瞬間。

自らを何かが『見た』のが分かりました。

そして自分が『踏み込んだ』事も。


「『我が歌は、世の尽きるまで、鳴り止まぬであろう!!』」


英雄劇お決まりの口上を叫ぶと、この身が軽く強く靭やかになりました。

この五十年がそうではなかったとしても、これから先がそうでなくとも。

今、この瞬間、この時、この身は英雄の仮面を被った英雄となりましょう。


捕食する刹那の最も生き物が無防備な時。

リリエ嬢の腹部に蝙蝠が食いつこうとした瞬間。


吾輩のバトルステッキが蝙蝠の片目を穿ちました!


ア、ア、ア、ア、ア!!


「ぐぅっ!」


蝙蝠を打った衝撃で口からドバっと血が逆流しました。

吾輩は腹の傷が予想通りの致命の深手であることを思い知ります。

同じ様に、この奇跡の残り時間が少ないことも。


お二人だけでも!

顔を必死に押さえて無闇に暴れる蝙蝠を避け、リリエ嬢とミマサカ殿を抱えます。

リリエ嬢は間違いなく深手。ミマサカ殿は外部からは分かりませんが、二人共意識なし。

脱出の可能性があるのは一つだけ。

吾輩は身を翻すと、崩れた壁に向かい走ります。


「ちぃっ!」


崩れた土を避け壁を蹴り、一気に駆け上ります

この階の天井はとても低い。

もしかしたら層と層の間の屋根裏のような場所なのかも知れません。

故に好都合。英雄の奇跡はまだ人間二人を抱えても超常の軽業を保証できる出力があります。

一歩、二歩、三歩、四歩、届く!

吾輩は天井の穴を通って辛うじて中層へ転がり出ました。


「うっ、ぐ…」


びちゃびちゃと血を床に吐きます。

しかしここも中層の下。安全な場所ではありません。

僅かに残った英雄の奇跡を振り絞って、吾輩は上層を目指しました。


運命はどうやらリリエ嬢を生かすように思えます。

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