章末 俺と彼女の第一歩

 どれくらい進んだだろうか。

 深く濃い霧に覆われているため、道の先は愚か、今の時間帯さえも景色から読み取ることが出来なかった。


 そろそろ、戦闘による興奮状態で誤魔化すことができていた火傷も痛み出す。

 何かの奇跡を信じて動き回っていたが、それも最早限界だった。

 ネーブル樹海――別名、迷いの森の名は伊達じゃない。


「下ろすぞ」


 端的にそう伝えると、ずっと抱いたままで痺れていた自身の腕を解放する。

 その間、抱かれっぱなしだったルゥは地面に降り立つと、物珍しそうに辺りを見渡していた。


「あんまり離れるなよ。見失うと、多分二度と会えんぞ」


 「はぁーい」と手を挙げ返事をする彼女。

 先の出来事から彼女の態度が少し軟化したような気がする。特に下りようともせず、今の今まで抱き続けられていたしな。


 その理由こそさっぱり分からないが、気の使う頻度が減りそうなので俺としてはありがたい。


 取り敢えず怪我の手当をしようと、服を脱ぐ。

 腕や胸など、目に入る範囲を一通り見てみるが、幸いにも症状は軽かった。

 全身が赤くなってはいるものの、幾つかの水疱が出来ているだけで知覚低下なども見られない。


「それ、大丈夫なの?」


 後ろから声がかかったので顔を向けると、まだ少し恐怖心があるのか微妙な距離を空け、俺の火傷を指差していた。


「まぁ、これぐらいなら問題ない」


 それだけ伝えると、俺はリュックから小壺を取り出す。


「…………それは何?」

「塗り薬だ。貰い物なんだが、あらゆる外傷に効くらしい。とはいえ、この様子から見ても一週間くらいは塗りっぱなしで、安静にしとかなきゃいけないだろうがな」


 清潔なタオルを取り出すと、お湯を張り、全身の汚れを落とす。

 火傷とはいえ、土や泥のついた状態で放置していては悪化してしまう恐れがあるからだ。


「わぁ……温かいね、これ」


 桶に溜まったお湯をちゃぷちゃぷと触りながら、楽しそうに語る。


「あとでテントを立ててやるから、その中でルゥも身体を拭くといい」


 ルゥの目があるため、拭く範囲は上半身までに留めておく。ただ背中までは届かないため、タオルの両端を掴み優しく擦るようにして拭きあげた。


 そうして拭き終えると、俺は火傷をしてそうな個所に万遍なく薬を塗っていく。指先が肌を摩る度にヒリヒリとした痛みを感じた。


 腰や肩甲骨の辺りまでは何とか手が届いたのだが、そこから先はどう頑張っても無理そうだな。仕方ないが、このまま放置だ。


 今度はリュックから包帯を取り出す。ついでとばかりに小壺を片付けるため、それが置いてあるだろう位置に手を伸ばした。

 しかし、その手に触れる物は何もなく、ただ空を切るのみ。


 顔を上げると、なぜかルゥがその小壺を取り上げているのを確認できた。


「わ、私が……背中に、塗ってあげる……!」


 やけに意気込んだ様子で、彼女はそう提案してくれる。

 ふむ、その心意気は嬉しいのだが……。


「……いや、別に無理しなくてもいいぞ?」

「い、いいの……やる。私が決めたことだから……!」


 終始言葉が吃(ども)っているものの、やる気は充分に見て取れた。

 むしろ、そのやる気のせいで空回っている感じがしなくもない。


「そ、そうか……。じゃあ、頼む」


 悩んだ結果、俺は任せてみることにした。まぁ、変に水をさしてもしょうがないし、無理をしているわけでもなさそうだからな。


 人差し指で小壺の中身を掬うと、薬を馴染ませたルゥの手が背中に触れる。自分とは違う、きめ細やかで小さな掌の感触に僅かばかり身体が震えた。


「あっ……痛かった?」


 その手が止まり、不安げに質問を投げかけられる。

 俺は首を振って答えた。


「いや、大丈夫だから気にするな。というよりも、痛みを和らげるために薬を塗っているのに、それが痛いから止めるってのはなんか違うだろ」

「ん……確かにそうかも」


 安心したように頷き、再び手が動き出す。手当てという言葉があるが、その本来の意味を俺は初めて理解した気がする。

 触れる手は温もりで満ちており、物理的な温かさ以上の何かを感じた。


「――はい、終わったよ」

「あぁ、悪いな。助かったよ」


 改めて礼を言うと、俺は全身に包帯を巻き付けた。

 服も気直し、ようやく一段落つく。


「さてと……次はテントを立てますか」


 グッと背伸びをすると、手早く組み立てる。


「……ねぇ、何かすることある?」


 心境の変化による賜物なのか、ただ手持ち無沙汰なだけなのか、またしてもルゥは俺に話しかけてきた。

 その仕事を探す積極性、働きたての新人ならば素晴らしく好印象を持たれるだろう。


「いや、特には。何かあったら呼ぶから、その時まで座ってていいぞ」


 だが残念なことに、残っているのは力仕事ばかり。ルゥが出来るような仕事は、このテント設営においては無かった。

 少し悲しそうな顔をする彼女に罪悪感を感じたりもするが、それで怪我をされても俺が困るだけなので、ここは心を鬼にして一人黙々と作業をする。


 それからも、迷わない範囲で木々を集め、焚き火をし、キャンプの準備を済ませる。


 もちろん、こちらの作業ではルゥの力を借りた。張り切り過ぎて、本気で迷子になりかけたりしたのだが……まぁ、何事もなくて良かったよ。

 そうするうちに、後は夕食さえ調達すれば、今日はもう休むだけとなった。




 チャプチャプと隣のテントから水の音が聞こえる。ルゥが身体を拭いているだろうその横で、俺は鼻歌交じりに料理具を振るっていた。


 今日のメニューは常備してある生肉と野菜の炒め物。ただ焼いたり、煮込んでスープにするのが主流のこの世界において、炒め物はかなり変わった調理法だったりする。


「なんか、いい匂いだね」


 そう言って、身体を拭き終えたルゥがテントから出てきた。ほんのり潤いを含んだ肌は普段よりも瑞々しく見える。


「もうちょっとで作り終えるから、血は少し待ってくれ」


 一口味見。少し薄味だったので、調味料を足し、もう一口。

 …………うん、こんなものかな。

 味付けに満足し、完成した料理を置く。


「……ねぇ、レス」

「なんだ?」


 血をあげるため、いつものように袖を捲っていた俺にルゥが話しかけてきた。


「前に、私達は血じゃなくても栄養補給できるって言ってたよね?」


 思いがけない質問に、面を食らう。

 王都にいた時だろうか、確かにそんなことを言った気がする。


「あ、あぁ……。効率は下がるが、可能だ」


 取り敢えず、質問には答えてみる。

 しかし、その答えを聞いてもルゥは黙ったままだった。ただ、目だけはチラチラと俺の作った料理に向けられている。


 このタイミングでそういう質問をするってことは、果たしてそういう事だと捉えていいんだよな……。


「……もし良かったら、食べるか?」


 確証はなかったが、断られた時はそれまでだ。俺は思い切って聞いてみる。

 一瞬、驚いた顔を向けるも、モジモジと下を向きルゥは小さく頷いた。


「…………そうか」


 嬉しさと安堵から、そんな言葉しか漏れなかった。気を抜くと変な顔になりそうだ。


 兎にも角にも、先ずはルゥの分の食器も出す。予備に買っておいたが、そのまま使わずに放置していた新品のものだ。

 しかし、緊張しているのかソワソワと体を揺らすだけで、ルゥは食器にさえ手を付けない。


 少しでも警戒心を和らげようと、俺が先に一口食べてみせた。

 その様子をマジマジと見ていたルゥは、やがて意を決したように料理を掬うと一口運ぶ。


「…………美味しい」


 本当にか細く、唇が動いただけではないかと錯覚しそうな程の声だった。けれども、両頬を涙で濡らす少女の小さな呟きを、俺は確かに聞いた。


「……あれ、私……なんで泣いて…………」


 自分が泣いていることに気づき、ルゥは困惑した声を出す。

 右手で何度も目を擦り、けれども、左手の食器は離さずにずっと料理を食べていた。

 何度も、何度も。口を動かし、その度に「美味しい」と呟きながら。


 その姿を見て、ようやく俺と彼女の関係は一歩進んだのだと感じた。



 ♦ ♦ ♦



 瞼を開くと、テントの布地が目に入る。寝返りに合わせて辺りを見渡すが、私の他にテント内には誰の姿も無かった。


「……当たり前、だよね」


 なぜなら、他ならぬ私がお願いしたのだから。

 触れることはできた。貰った食事も涙が出るほど美味しかった。それでも、同じ空間で寝ることはまだ怖かったのだ。


 無防備な寝姿を晒すと何をされるか分からない。テント一枚隔てただけなので大して何も変わらないけれど、それでも安心感は違った。

 ……いつか、この問題とも向き合わないといけないなぁ。


 毛布を顔まで引き上げると、大きく息を吸い込む。

 これまでは違和感として気になっていた匂いも、今では当たり前のものとして受け入れるようになっていた。


 まだまだ、課題は山積みだ。

 けれど、やれることや感じ方の変化など得られるものもあった。

 ……明日の朝ごはんは何だろうな。


 こうして、取り留めもなく明日のことを楽しみに出来るようになったのだ。それも、誰かが作ってくれたごはんを。


 口元に浮かぶ僅かな笑みから、私は確かな一歩を踏み始めることが出来たのだと、実感した。

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