06: 水に潜る

 その小さな湖のことを、学院の山エルフたちは竜の水リッツア・ドラグナと呼び習わしている。

 トルレッキオには、ドラグーンにまつわる名を持った場所が多い。それはこの地の深くに、今も生きた竜が棲んでいると彼らが信じているせいかもしれなかった。

 竜の水かどうかは別にしても、リッツア・ドラグナ湖の水は上質で、いつも冷たく澄んでおり、底知れない深く暗い青をしていた。

 実質この湖の水が、トルレッキオ学院の主な水源であり、そして、シェル・マイオスの不気味な農地の水源でもあった。

 日照りが続くと、シェル・マイオスはいつも熱心そうに湖へバケツを持って出かけていき、水を汲んでは畑に撒くのだ。

 事の起こりは、十日ほども雨が降らないまま晩秋の日が過ぎた頃のことだった。

 何日も前から、そわそわと落ち着かなかったシェルが、とうとう意を決し、午後の講義をさぼるから、よろしくたのむと言い置いて、バケツを握りしめ走り去っていった。

 なにをよろしく頼まれたのか、良く分からなかったものの、私はてきとうに頷いておいた。歴史学の講義で、隣にシェル・マイオスが座っていないことは、私にとって僥倖だったからだ。

 マイオスは独り言が多い。

 それは独り言ではなく、私に話しかけているのだと彼は言うが、まがりなりにも私語が禁じられている講義室で、彼が感激したり、納得したり、興味をひかれたりした話題が教授の口から出るたびに、へえ、とか、すごいなあとか話しかけられることに、私の神経はかなりすり減っていた。

 マイオスがなぜ私の隣にわざわざ座るのか分からないが、とにかく彼から離れようと、講義のたびに席を移るのだが、マイオスはやはり意図して私の隣をねらっているらしく、どこへ逃げても追ってきた。

 おかげで近頃では、うるさいマイオスの脱力を誘う感想談話を嫌って、私たちの近辺の席を避ける学生が多く、私が講義室にあらわれると、皆の目が、今日はどこに座るのだと問いかけてくるような気がする。

 そのあまりの気まずさに、私はいつも講義室の一番奥の、可能な限り皆から離れた場所を選ぶことにしていた。そこでも一時間の講義の間、マイオスの独り言に耐え続けるのは針のむしろだったが、今日は違う。

 今日は、シェル・マイオスは来ないのだ。

 その開放感に浸りながら、私は大陸史の講義に耳を傾けていた。

 心地よい静けさのなか、教授の話は四部族分裂の時代にさしかかろうとしていた。

 講義室の大扉が激しく開かれたのは、そのときだった。

 ばん、と、けたたましい音をたてて黒檀の扉が開き、その向こうに、全身ずぶ濡れのシェル・マイオスが立っていた。わんわん泣きながら。

 私はとっさに、赤の他人のふりができないものかと思った。彼が私を見つけられない可能性もあるのではないかと。

 しかしマイオスは初めから私がどこに座っているか知っていたような、迷いのない目で、こちらを見つめ、わっと泣き崩れた。

「ライラル殿下! いっしょに来てください。竜の水に僕の額冠ティアラを落っことしてしまいました」

 自分が口にした事実に再び撲たれたように、シェル・マイオスは廊下に膝をついて泣き伏した。がらんがらんと激しく何かが転がる音がした。

 マイオスが、持っていたバケツを落としたからだった。

 教授はもちろん、大講義室にいた山エルフ族の学生の顔が、すべて私のほうを向いていた。

 気のせいではないかと思おうとした。

 だがそんな逃避は通用しなかった。なにも答えない私に焦れて、シェル・マイオスが私の名を繰り返し泣き叫んでいたからだ。

 私は立ち上がって、中央の講壇に立っている教授と目を合わせた。

「退出してもよろしいでしょうか」

 私が尋ねると、教授は慇懃な黙礼をした。

「ご随意に、猊下」

 皮肉のたっぷり聞いた返事に送られ、私は講義室を出るため歩き出した。

 でも一言許されるならば、その場にいる全員に言ってやりたかった。

 うるさいのは私ではなく、シェル・マイオスで、私は彼とは関係ない。私も被害者なのだと。



 まだ泣きべそをかいている水浸しのシェル・マイオスを連れて現れた時、スィグル・レイラスとイルス・フォルデスは学棟の合間にある列柱広場にいた。次の講義のために彼らは移動中だった。

 シェルが、ちょうど行き会う頃合いに彼らがそこを通過するはずだというので、彼を信じて行ってみたのだ。使わないという約束をしたはずなのに、シェルはいつも感応力を使って、私たちが学院のどこにいるかを調べているようだった。

 彼は寂しいからそうしているらしい。私はそれが気の毒に思えて、いつも気付かないふりをしてやっていたが、そう思わない者もいる。

「なんで僕らがここにいるって分かったんだよ。滅多に通らないのに!」

 憤慨したふうに、スィグルは濡れ鼠のシェルを詰問した。答えを知っているなら尋ねなくてもいいと思うのだが、そういう時こそレイラスは口うるさいやつだ。

「イルスを探していたんです。スィグルには用がないから、どこへでも行ってください」

「誰に向かって口をきいてるんだ、こいつは」

 さらに憤慨して、スィグルは怒りの形相になった。怒っていても彼の顔は人形のようで大して凄みがない。

「俺に用って?」

 あぜんとした顔のまま、イルスは私に尋ねた。

 なぜ私に訊くのだろう。私は無理矢理連れてこられただけで、彼には何の用もない。

 そういう態度でいたつもりだったが、イルスはいかにも私が話すだろうという顔をして待っているので、諦めて私は腕組みてしていた腕をほどいた。

「マイオスが額冠ティアラを湖に落としたらしい。命の次に大事なものなんだそうだ」

「まあ……そうかな」

 イルスはうなずいた。

 エルフ族の王族にとって、額冠ティアラは自分の身分を証すものであり、生まれた時に作られ、墓まで持って行くものだ。それを奪われることは首をとられたことを意味しており、名誉がかかっていた。

「取りに行ってやってくれ」

 なぜ私が頼まないといけないのか。そう思いながら私はイルス・フォルデスに申し入れた。すると彼は、なんともいえない困った顔をした。

竜の水リッツア・ドラグナ? シェルが水くみに行ってる、あの湖か?」

「そうだ」

「そうだ、ってお前。いまが冬だって知ってるのか」

「まだ秋だ」

 私はイルスの見解を訂正した。トルレッキオはまだ秋だった。しかしスィグルとイルスはもう外套を着ていた。彼らは寒がりだったからだ。

「お前には秋でも、俺にはもう冬だ。それにあの湖の水は夏だって尋常じゃなく冷たい」

「山渓の雪解け水が、地下水になって、あの湖に流れ込んでいるらしいから」

「そんな豆知識はいい」

 深刻な顔で、イルスは私の話を遮った。

「せめて春まで待てないのか、シェル」

 イルスがそちらに目を向けたので、私も自分の傍らに立っている小柄な森エルフの姿に目をうつした。シェル・マイオスは蒼白な顔で、がたがたと震えながら、涙まで流していた。

「……イルスを、説得してください」

 歯の根が合っていないが、彼の意志は鮮明だった。私に言っているのだった。

「フォルデス、何ヶ月もたったら、見つかるものも見つからなくなる」

「シュレー、お前、そんな薄着で平気なんだったら、お前が行け。竜の水に潜れ」

 講義中に連れ出された私は、確かにシャツ一枚だった。平気なわけではなく、寒かった。ただ寒さに耐えられるだけだ。

「私は泳げない」

 答えると、えっと大仰にスィグルが驚いた。驚くようなことだろうか。

「なんで泳げないんだ」

 情けないと言わんばかりの顔で、イルスが尋ねてくる。

「泳ぐ必要がなかったから」

 それ以外の理由があるのかと思ったが、イルスはまるで私がとんでもないことを言ったような顔をしていた。

「お前、それで、恥ずかしくないのか」

「微分積分が全く理解できなくて恥ずかしくないのかフォルデス」

「じゃあこの話はいい」

 私が即答してやると、片手で顔を覆って、イルスはうなだれた。

「とりあえず行くだけ行ってみる。シェルは着替えたほうがいいんじゃないのか」

「ありがとうございます」

 私に言ったのか、イルスに言ったのか、はっきりしない礼を述べて、シェル・マイオスは震えながら、自分の身を抱いていた。確かにこのままでは風邪ぐらいはひきそうだ。

「場所は伝えますから、先にいっててください。日が暮れたら探せなくなりますから。僕も部屋で着替えたら、すぐ行きます」

 今度は明らかに、マイオスは私に向かって喋っていた。

 学寮にいる者が、どうやって竜の水にいる者に場所を伝えるつもりなのだ。

 マイオスが感応力を使って私を伝令がわりにするつもりなのは、考えるより早く分かったが、私はその考えから逃れようとした。午後の講義に戻るつもりだったからだ。

 しかし、よたよたと去っていくマイオスから、すでになにか目に見えない糸のようなものが伸びてくる感じがした。それは神殿で使われる翼通信に似ていたが、もっと漠然と曖昧な声であり、もっと明確に他者を使役するための力だった。

「じゃあ頑張ってね。晩ご飯までには戻ってくるんだよ」

 レイラスがにやにやと暢気な口調を作った。

「君は来ないのか」

 私が誘うと、レイラスはますます、にやりとした。

「行かない、僕は用なしだし、泳ぐ必要もないから。温かい講義室で昼寝でもするよ」

 手を振って、レイラスは意気揚々と列柱広場を抜けていった。

 私は、ひどく憮然としたイルス・フォルデスと、列柱の陰に残された。足元を見ると、シェルのバケツが置き忘れられていた。

 そのことを考えた瞬間、どこからともなく伸びていた糸がふるえ、私はむしょうにそのバケツを拾いたくなった。マイオスはこれを、持って帰ってほしいらしい。

 しかし私は、へこんだ使い古しのバケツなど持って歩きたくない。腕組みをして顔をしかめた私を、イルスはじっと見ている。

「シュレー、お前はシェルに甘すぎだ」

「甘いわけじゃない」

 いらいらして、私は目を伏せた。脇に挟み込んだ両手が、むずむずする。

 バケツを拾いたくて。

「とにかく行こう」

 広場の石畳に長靴の底を鳴らして、私は足早にその場から逃げだそうとした。仕方ないというふうに、少し遅れてイルスはついてきた。

 ほとんど走るような早足の私を、イルスは不思議そうに眺めたが、やがて私が立ち止まって、踵を返すのには、イルスはあ然とした顔をした。

 その視線を浴びながら、私は走っていることにならないぎりぎりの早さで、列柱広場まで戻り、バケツを拾った。屈辱感に打ちのめされながら。



「マイオスを殺すしかない」

 水際で私がぼやくと、イルスは湖の水に素足をつけて立った後ろ姿のまま、声をあげて笑った。

「あいつが本物の守護生物トゥラシェを見つけるまでの辛抱だろ」

「ときどき我慢の限界を超えている」

 シェル・マイオスの感応力の細い糸は、今でも学寮のほうから延々と、私の後頭部あたりに繋がるように、切れずに伸びていた。マイオスに言わせれば、これが可能な距離の遠さが、感応力の強さのひとつの目安らしい。

 森エルフたちの持つ力がどれくらいのものか私は知らなかったが、シェルの力は、私が学院の端まで逃げても、その支配域から出ることができないほど広範囲にわたっていた。私に限らず、シェルは学院にいる者なら誰でも、彼らがどこにいるか探すことができる。

 私にはシェルが伸ばしてくる目に見えない糸が感じられるが、他の者には分からないらしい。繋がれるのは契約した相手だけだとシェルは言っていた。彼は頑として認めないが、それはつまり、支配したものしか操れないという意味だ。

 人を感応力で操ってはならないというのは、森の者たちの掟らしい。私にそれをやっていることが同胞にばれれば、彼は罰を受ける。

 どんな罰か知らないが、受ければいいと、私は毎日彼のことを心の底から呪っている。

「それで、シェルはどこに額冠ティアラを落としたって?」

 暗い青の水底を透かし見るようにうつむき、イルスは本題に入るよう促した。

「厳密には」

 シェルが伝えてきた要領を得ない情報を、私は自分の頭の中で整理した。

「落としたのではない。マイオスが竜の水に落ちて、水から上がってきたら、額冠ティアラがないことに気付いた。場所はこのあたりに間違いない」

「深いな、ここは。中はどうなってるんだ」

「知らない。伝承では、この湖は底なしで、冥界に続いているらしい」

「冥界?」

 その言葉を知らなかったようで、イルスは私に尋ね返してきた。彼は公用語の語彙に不足があり、日常使われない言葉を知らないことが度々あった。

「死んだ後に行く世界のことだ。実際にあるわけではない。レイラスが信じている月と星の船と同じようなものだ」

「あいつは本当に信じてるんだから、本人の前でそんなこと言うなよ」

 振り返って念押しをしたイルスの顔は苦笑していた。スィグル・レイラスが信じていようがいまいが、彼が期待するような楽園の船など妄想の産物だ。そう思えたが、私は黙っていた。信じるのは自由だ。

 決意したのか、イルスは外套を脱いで、私のほうに放って寄越した。制服の緑色のシャツも脱いで寄越し、肌着だけになってから、ふと思いついたように、自分の額冠ティアラを外して、それも私に投げ渡した。

「持っててくれ。シェルの二の舞はごめんだからな」

 私は彼の額にある竜の涙を、久しぶりに見た。

 イルスはもう一歩、水の中へ歩いていった。膝上まで竜の水につかってから、彼はこちらを振り向いた。彼があと一歩先へ行くと、そこから先は暗い水中の奈落だった。

「なんであいつは水を汲むために、こんな奥まで水の中を歩いたんだ?」

 水が冷たいらしく、イルスはかすかに震えていた。

「水の中を見たかったようだ」

「見てどうするんだよ、まったく、あいつは変わり者だぜ」

 悪態をついて、イルスは深く息を吸ったようだった。そしてそのまま私を見て、一歩後ろへイルスは歩いた。ほとんど水しぶきも上げず、イルスの体は水に呑まれた。

 水中に消えた彼の姿に、私はなぜか、ひどくぎくりとした。

 真夏でも、ここで泳ぐ者はいない。水が冷たいこともあったが、例の伝承が原因だった。水底から、この世のものではない者が、ときおり浮き上がってくると、山エルフたちは信じている。それに足を掴まれるのを恐れて、竜の水に入るのを避けている。

 迷信深い民族だから。

 そう思いながら、私は竜の水の底を透かし見ようとした。

 どこを泳いでいるのか、イルスの姿はちらりとも見えなかった。

 彼は深く潜り、そして私が焦れて水に入るまで、浮かび上がってこなかった。

 彼ら海エルフが水中に長く留まれることは、あらかじめ知っていた。だから彼に探索を頼んだのだ。

 でも彼は寒いと言っていた。

「イルス・フォルデス」

 心配になって、私は意味なく呼びかけたが、その声は波のない水面を上滑りして消えただけだった。

 確かに、足を浸す水はひどく冷たかった。この中に全身浸かったら、どんな感じがするのだろう。

「イルス」

 私は声を強くして、もう一度水の中に呼びかけた。

 水面にさざ波が立った。

 それから長いように思える時間が過ぎて、ほとんど真上に浮かび上がってきたように、イルスの姿が水面を割って、潜ったときと同じ場所から現れた。

 彼は苦しそうな荒い息をつきながら、水に浸かっている私の長靴を見た。

「シュレー、岸で待ってろ。お前まで落ちてくるなよな」

「そんなドジを踏むのはマイオスだけだ」

「水の中の石は滑るんだ。どうしても入るんなら裸足になれ」

 また潜るつもりなのか、イルスは深い呼吸をしていた。

「見つかりそうか」

 私が尋ねると、イルスは小さく首を横に振った。

「深すぎる。底まで行けなかった。お前の話じゃないけど、底があるような気がしない」

「無理をするな。助けに行ける者がいない」

「そうだな、お前は泳げないしな」

 からかうような声で言って、イルスはまた水の中に消えた。

 泳げたところで、イルスより深く潜れるわけがなかった。みるみる掻き消えていく彼の姿を水底に見て、私は軽い苛立ちを感じた。

 軽率だったのではないか。シェルが頼めと泣きわめくので、深く考えずにそうしたが、二度目に潜るときのイルス・フォルデスの顔は、落とし物を捜しているようには見えなかった。

 彼は竜の水リッツア・ドラグナの底まで行こうとしているだけなのではないか。シェルの額冠ティアラが底に沈んでいるというなら、同じことかもしれないが。

 額冠ティアラがどれだけ大事なものかは分からないが、ただの金属の環だ。シェルにはそっくり同じ物を作ってやればいいだけのことではないのか。

 もしイルスが水底からあがってこなくなったら、助けに行ける者はいない。彼の額冠ティアラだけが残る。

 それはいやな想像だった。

 また彼の名前を呼びかけたい衝動にかられたが、その必要はなかった。水しぶきをあげて、イルスが浮かび上がり、私の足元にある水中の断崖に取り付いた。彼は肩を揺らす荒い息をしていた。

「なにかいる」

 浅瀬に這い上がりながら、イルスはひどく驚いたように恐慌していた。

「魚か?」

「いや、ちがう。もっとでかいものだ。俺を見た」

 立ち上がろうとするイルスの腕を掴み、私は手を貸した。彼の体は冷え切っていた。

「そんな間近にいたのか」

「遠かった。音を投げてきたんだ」

 湖をふりかえって、イルスはそう言った。顔を伝い落ちる雫を、彼は拭いもしなかった。

 イルスの話が理解できず、私は無表情になった。

「剣貸してくれ、シュレー」

「持ってない。講義中だったから」

「俺もだよ。いっぺん戻って取ってきてくれ」

 イルスが水に戻ろうとしたので、私は彼の腕をつかんで引き留めた。

「やめろ。武器が必要だと思うようなところに行くな」

「でも、シェルの額冠ティアラは?」

「ただの装身具だろう。命を張るようなものか」

 私は忠告したが、彼は聞かなかった。腕を掴んでいる私の指を外させて、イルスは一歩水中に退いた。

「お前が探せって言ったんだぜ」

「もうやめていい」

「冥界の者かもな」

 悪戯っぽく、イルスは言った。

 水に体温を奪われた彼の顔色はひどく悪かったが、目は輝いていた。

「あと一回だけ」

 イルスは私に言い訳するように小声で言った。

「これでもし君が死んだら、墓碑銘は私が考えていいか」

 言うことをきかないイルスに腹を立てて、私はそう返事をした。どんなことを墓に刻むつもりか、イルスの目が私に尋ねていた。

「イルス・フォルデス・マルドゥーク、忠告をきかない者、溺れて死す」

「かっこわる」

 笑って答え、イルスはまた水中に消えた。



「やあ猊下」

 背後から呼びかけられ、私は心底驚いた。

 水の中を見るのに必死になっていたらしい。

 振り返ると、スィグル・レイラスが珍しく大荷物を持って立っていた。

 講義で居眠りしているはずじゃなかったのか。

「シェルが寝込んだよ」

 気味が良さそうに教えて、スィグルは荷物を足元に置いた。

「イルスは?」

「水の中だ。戻ってこない」

「大丈夫だって。ここでは死なないだろ、予言によれば」

 荷物の中から素焼きの酒瓶を取りだして、スィグルは私にそれを振って見せた。食堂の厨房からとってきた葡萄酒のようだった。

「飲んだら? 顔色真っ青だよ」

「水の中に何かいるから、剣が欲しいと言っていた」

 岸に立っているスィグルに、私は言った。

 それなのにあいつは潜ったと、私は言いたいらしかった。

「へえ。剣までは思いつかなかったな」

 私の告げ口を聞いて、スィグルは、それはけしからんと答えるような、芝居がかった眉のひそめかをした。

「シェルもそんなこと言ってたよ。水の中から何かが呼んでたんだって。悪いもんじゃないみたいだけど、とにかく、その呼び声でぼけっとなって、水に落ちたらしいよ」

 荷物の中から、外套を取りだして、水の中に立ったままの私に、スィグルはそれを放って寄越した。

「着なよ。ちゃんとあんたのだよ、部屋までとりにいった」

 秋の日は気ぜわしく傾き始めており、シャツ一枚では確かにあまりにも寒かった。私は大人しく、スィグルの好意を受け取った。

「遅いね、イルス。いつから潜ってるの」

「君が来る少し前からだ」

「ふぅん……」

 気のないような返事をして、スィグルは私の背後にある湖を眺めた。

「シェルが謝ってたよ。力を使って悪かったって。後で見舞いにいってやって」

「別にいい。持っている力を使うのは、結局彼の自由だ」

 不本意だが、シェルがその力を使って押し通そうとすることは、子供っぽい我が儘の類で、私の気分が悪いというほかには、これといった実害がなかった。

 今までは。

 私は上の空で答えていた。水面はまだ静まりかえったままだった。

 イルス・フォルデスは初め、頼まれて、いやだと答えた。

「あんたも他人の心配をするようになったんだ」

 きゅうにスィグルがそんなことを言うので、私は意表を突かれて彼のほうを振り返った。

「イルスのことだよ」

 スィグルは湖のほうを顎で示して、それから私の顔に目を戻した。

「それとも、それはシェルに操られて心配してるわけ?」

 もう陽が落ちるのではないかと、私は思った。スィグルの顔には濃い陰影が落ちていた。

「別にいいんだよ。ここにいる間は楽しくやっても。僕もそのほうが楽しいし、他にやることもないしさ。だけど時々疲れちゃうよね。シェルやイルスは確かにいいやつだけど、あいつらが猊下を骨抜きにしちゃうんじゃないかって、僕は心配なんだ」

 黄昏時の頼りない光の中で、スィグルは微笑みながら佇んでいる。

「ヤワなあんたが、この世界を壊したくなくなったら、僕はどうすりゃいいのさ?」

 軽口のように言うスィグルの顔は、私を責めていた。

 彼の目には、私はときどき、この学院での暮らしに浮かれているように映るらしかった。レイラスはいつも私のことを猊下と呼び、私に自分が誰なのか忘れさせないようにした。他の者がそう呼ぶのは皮肉であったり、敵意であったりしたが、彼のは祈りだった。

「約束しただろ。神殿と戦うんだろ。僕らはそのための駒なんだろ。イルスは死んでも代わりがいるよ。僕やシェルだってそうだ。そんな心配そうな顔すんなよ。もし僕らがいなくなったら、あんたどうするの」

 不安げな性急さで、スィグルは私に尋ねた。

「代わりをさがす」

 私は、彼が期待する答えを与えた。

 スィグルは安心したように、また微笑んだ。

「そうだね」

 外套をかき合わせて、スィグルは私から目をそらし、湖を見つめた。

「そのほうが天使らしいよね」

 レイラスは、私の野望に憎しみの薪をくべる炎の供給源で、私が幸福になるのを決して許さない。同盟の人質は偶然集められたはずだが、どうしてこんな奴がやってきたのかと、私はときどき不思議になる。

 もし、レイラスがいなくなったとして、彼の代わりがどこかで見つかるものだろうか。

 イルス・フォルデスの代わりが。

 シェル・マイオスの代用になるものが、ほかに見つかるだろうか。

 私は今、千載一遇の機会をとらえていて、奇跡的な偶然の中にいるのではないか。

 彼らといると、時々、ふとそういう気がした。それを話すと、たぶんレイラスは怒るだろうが。

 突然、待っていた水音を背後に聞いて、私は振り返った。

 イルスの疲労しきったような背が、水中の断崖にとりついていた。

「なにをやっていたんだ、死んだかと思った!」

 怒鳴りつけると、イルスはぜえぜえ息を吸いながら、返事もせずに水中から腕をあげ、私になにか差しだした。

 シェル・マイオスの額冠ティアラだった。

 金に緑の石で装飾された植物の文様が、夕日を浴びて鈍く輝いている。

「戻ろうとしたら、見つけたんだ。あと一回だけって約束したし、ちょっと無理した」

 苦しげな呼吸にまぎれて、説明するイルスの話は切れ切れだった。浅瀬に這いあがろうとして、彼は何度も失敗した。手伝ってやるべきかもしれないが、腹が立っていたので私は無視した。

「シュレー、ぼけっと見てないで手を貸せよ。寒いんだって」

 イルスは私の長靴を掴んで、泣き言を言った。長靴の革はすっかり水を吸っていて冷たく、不快だった。

「私は止めた。君が勝手に行ったんだ。自分でなんとかしろ」

「よくそんなこと言えるな」

 岸へ歩こうとする私をなじるイルスの声は恨みがましかった。

 ふん、とため息をついた私の片足を、イルスは思い切り水中に引いた。

 預かっていたイルスの額冠ティアラを落としかけて、私はそれを握りなおすのに気をとられた。青い石をつけた金属を両手で持ったまま、気がつくと私は水中に沈んでいた。

 竜の水は猛烈に冷たく、急激に冷やされた肌は、なにか鋭いもので刺されたように痛んだ。水面は薄明るい光の板だった。遠ざかるそれを見上げて、どうやって泳ぐのだろうかと、私は考えた。

 水面の光を乱して、粟を食ったようにイルス・フォルデスが水中に現れた。彼はあっと言う間にこちらに泳ぎ着き、私の腕を掴んで水面へと引き上げようとした。

 彼の額冠ティアラを落とさないように、私はそれだけをしっかり握っていた。彼らにとってこれは、命の次に大事なものらしいから。

 私を浅瀬に押し上げてから、イルスはまた一度潜り、それから死んだもののようにゆっくりと浮いてきた。仰向けになって竜の水に漂い、イルスはため息を吐いた。

「忘れてた。お前、ほんとに泳げないんだな」

 私は咳き込んでいて、返事ができなかった。だが内心では、この馬鹿野郎と思っていた。

「でも普通、泳げなくても藻掻くぐらいしないか?」

 そう言ってから、イルスはきゅうに可笑しくなってきたらしく、声をあげて笑い始めた。笑いと寒さで震えながら、水中の断崖にとりつき、イルスはゆっくりとそれを這い登り、それから私の帯をつかんで引っ張り上げた。

 岸へ行こうとして、イルスはやっと、スィグルが来ていたことに気付いたらしかった。

「スィグル」

 彼が呼びかけると、岸にいたスィグルは応えて軽く片手を挙げた。

 私を立たせて、イルスはいっしょに岸まで歩いた。

 スィグルはずぶ濡れの私たちを、心底あきれた顔で見返してきた。

「シェルの額冠ティアラは見つかったかい」

 尋ねられたイルスは、手に持っていた金色の環を、スィグルに投げ渡した。それから私の手にあった自分の額冠ティアラを奪い取り、身につけた。

 私たちは岸につくと、その場に座り込んだ。

 水に濡れていると、岸辺に吹いている風が冷たく、震えが止まらなかった。

「せっかく外套まで持ってきてやったのに、それごと水に落ちてどうするのさ」

 まるで私が自分で落ちでもしたように、スィグルは非難した。私は重たく濡れた外套を脱ぎ捨てた。

 スィグルに差し出された葡萄酒の瓶から、イルスは一気に呷っている。濡れた肌着を脱ぎ捨てて、イルスは私が岸に置いておいた彼のシャツを羽織った。そして自分の外套を、私に差しだした。

「学寮まで貸すから、濡れたのは脱げよ。寒いだろ」

「いいや、寒くない。他人の服を着るぐらいなら凍死したほうがましだ」

 私はきっぱりと断った。もちろん寒かった。

 今度はスィグルが、どこか堪えたような声で、腹を震わせて笑った。

「命のあるうちに歩いたら、二人とも」

 竜の水リッツア・ドラグナに夕闇が迫っていた。凍えた足で倒れ転びながら、私たちは立ち上がった。

 背を向けた私たちの背後で、湖から何か大きなものが飛び上がった。私たちが振り向いた時には、それは水面を打って竜の水に沈み込むところだった。

 巨大な尾びれのようなものを、私たちは見た。

 泡立つ波紋が、何度も岸辺まで押し寄せてきた。

 伝承によれば、あれは竜の水の奥底にすむ冥界の者で、私たちの足を水中へと引っ張りに来た。

「やべえ……生きててよかった」

 ぼんやりと、イルスが呟いた。

「君のせいで、私まで死ぬところだった」

 私の恨み言に、イルスはさも気味がよさそうに笑い声をあげた。

 学寮までの道のりは遠く、すっかり凍えた私たちは、それから何日も寝込むことになった。先に回復したシェル・マイオスが、平身低頭しながら私の病床に現れ、看病と称して、私が気絶するまで喋りつづけた。

 早く元気になって、また大陸史の講義をいっしょに受けましょうねと、彼は言った。

 たぶんその一言で、私の回復は、半日は遅れたのではないかと思う。


END


▼昔なつかしい掲示板を借りてきました。

http://www3.rocketbbs.com/731/teardrop.html

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